歴史上の人物名などを、小説の登場人物名として使う、という手法がある。剣豪の名前を「ムサシ・ミヤモト」などとしているファンタジー小説の数は、おそらく10や20ではきかないだろう。
この手法のなにが面白いのか、私にはわからない。
作者はラクだろう。ムサシ・ミヤモトと書けば読者は「剣豪だね」とわかってくれる。そして、その程度の理解で事足りるような作品は多い。
だが、面白くない。
この手法では、誤読が起こらない。読者が宮本武蔵を誤解していることはあるだろう。そのせいでムサシ・ミヤモトを誤解して、誤読へと導かれることもあるだろう。しかし作品自体が誤読のきっかけになることはない。
私は誤読したい。作者が書かなかったことを読みたい。そもそも、作者の書いたことだけを読むのなら、小説などおよそ読むに耐えない。作者という赤の他人が空想した個人的なことを、自分とは無関係なこととして読んでも、面白いわけがない。まったく価値なしとはいわないが、史実にくらべれば無価値に等しい。史実は、多くの人々が汗を流してぶつかりあった結果だが、小説はひとりの作者の空想にすぎない。意外性と説得力に優るのは、明らかに史実だ。
読者が、自分自身と関係の深いことが書かれているかのように誤読するからこそ、小説は面白い。ビジネス系の小説を褒めるときの紋切り型に、「自分の会社のことを書いてあるのかと思った」というパターンがあるが、あれだ。
そして小説は、嘘を書くがゆえに、誤読を許されている。小説に書かれた内容も、読者の誤読から生じた内容も、どちらも嘘なのだから、問題は起こらない。これに対して、現実の天下国家を論じる際には、誤読は大問題になりうる。そのためプラトンは、自分の思い描く理想国家から、詩人を追放した。
小説の一文字一文字はすべて、読者を誤読へと誘うチャンスなのだ。ラクをして「ムサシ・ミヤモト」などと書いては、そのチャンスを無駄にしてしまう。
さて蛇足である。
百合があると聞いて、ヤマグチノボル『ストライクウィッチーズ』(角川スニーカー文庫)を2巻まで読んだ。これが全編「ムサシ・ミヤモト」式だ(ただし人物名ではなく兵器名)。
百合は技術的に難しいものだが、こんなラクをしたがる作者の書く百合にみるべきところがあるはずもなく、紋切り型に終始している。回避をお勧めする。
原案からして兵器の萌え擬人化というコンセプトなので
名称に関しては著者の責によるところではないと思われます。
つまらないものを読まされたときには、手近な代表者らしき輩を罵倒することにしています。
「その人は代表者じゃない」という言い訳には耳を貸しません。「本当の代表者はこの人」と、個人名を挙げてください。団体名ではなく個人名を。
代表者がわからないという理由で黙ったり、あるいは個人でなく団体を罵倒するよりは、間違った代表者を罵倒するほうがマシだと考えています。そのほうが、面白いものが出てくる可能性が高まるので。
編集者批評が機能する世の中なら、もっと妥当な代表者に目星をつけられるとは思うのですが。