ザミャーチン『われら』のさわりには、こんな問答がある(うろ覚え)。
「あなたは数学者でしょう。教えて。最後の数はいくつ?」
「最後の数?」
「じゃあ、最大の数」
「最大の数なんてないよ。数は無限なんだ」
「それと同じ。最後の革命なんてない」
ウクライナのオレンジ革命も、最後の革命ではなかった。
繰上げ総選挙を視野=11日からゼネストも-ウクライナ首相
このままヤヌコビッチの勝利に終わり、ロシアに依存した経済発展が続いたとしたら、オレンジ革命は無駄だったということになるのだろうか。
そうではない。革命は、ゴールへと向かう過程ではない。それは人間の生の発露だ。
生の発露とはどういうことか? 猛烈に語弊のある、誤解を招きやすい、不適切な表現を、あえてしてみよう。
人間は、肉体的な生の発露を望むとき、スポーツをする。それと同じように、社会的な生の発露を望むとき、革命をする。スポーツをするとき人は、自分の肉体が単なる糞袋ではないことを実感する。革命をするとき人は、自分が社会にとって単なる歯車ではないことを実感する。
スポーツがただそれだけで喜ばしいように、革命はただそれだけで喜ばしい。
つい先日、「藤本ひとみの最高傑作はなにか」という会話をした。
私は、『聖戦ヴァンデ』を挙げた。フランス革命におけるヴァンデの反乱を、主に反革命側から描いた作品である。
この作品の面白いところは、反革命それ自体をひとつの革命として描いていることだ。こういうシチュエーションを扱った作品はたいてい、反革命を革命に従属させ、革命批判のための道具にしてしまう。反革命をまるで革命に対する脊髄反射であるかのように描いてしまう。この『聖戦ヴァンデ』はそうではない。反革命もまた革命であり、生の発露であることを描いている。その結末の痛ましさを見つめると同時に、革命が喜ばしいものであることを、しっかりと掴んでいる。
ジョージ・オーウェルの批判によれば、H. G. ウェルズは理性を崇拝して情熱を憎悪した。その態度を、オーウェルはこんな風にたとえている(うろ覚え)
『小さな子供が他愛ないことで駆けずりまわっているのを見ると、彼(ウェルズ)はイライラする。どうしてそんな他愛ないことに夢中になるのか、どうしてもっと行儀よく静かにしていられないのか、というわけだ。子供たちの身体のなかには熱い血がめぐっていて、じっとしてはいられないのだが、彼は自分自身のそういう頃を忘れてしまったのだ』
藤本ひとみは、私の知る最良の藤本ひとみは、この熱い血を描く作家だ。その藤本ひとみが、「敗北した反革命」という絶好の題材を採って生まれた傑作が、『聖戦ヴァンデ』だ。全人類に読ませたい。