参考:僕の考えた超人
「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々がいる――と書いただけですでに出オチだが強引に続けてみる。
このフレーズで重要なのは、「僕」のところだ。「俺」でも「私」でもない「僕」である。「自分のことを僕と言っていいのは大山のぶ代のドラえもんだけだ」という天下の大暴言に深く共感する私にいわせれば、「僕」という一人称には深い意味がこもっている。
「俺の考えた女の子」の「俺」は、タフな感じがする。「お前はバカか」とあきれてみせれば、「俺の考えた女の子」はあっさりと修正されるだろう。いや、修正させる必要もない。放っておいて、事実とぶつからせてやればいい。「俺」はそういう荒っぽい扱われ方を必要とする。
「私の考えた女の子」の「私」には、オープンな姿勢を感じる。「それはちがう」と指摘すれば、それがもっともらしい指摘なら――この「もっともらしさ」には権力的な欺瞞が潜んでいるわけだが、それはさておき――、「私の考えた女の子」は修正されるだろう。もし納得のいく修正がされなければ、その「私」は敵になる。敵に回すだけの内実を、「私」は備えている。
さて「僕」である。
「僕の考えた女の子」は修正不可能だ。「僕」はナイーブだ。荒っぽく扱えないし、反論を受け止めるオープンさもない。また、敵に回すだけの内実もない。そして、ここが重要なところだから強調するが、そういう「僕」的なナイーブで修正不可能なものを想定することが間違いだ。人をナイーブだと想定すれば、実際に人はナイーブになる。人が自分であれ他者であれ、そうなる。
「僕の考えた女の子」を想定してしまう方々に申し上げる。
「女の子」像に気を取られてはいけない。問題は「僕」のほうだ。これを「俺」に入れ替えれば、「俺の考えた女の子」は問題にならない。それができなければせめて、敵に回すだけの内実を備えた「私」を想定し、仮想敵としよう。
友でなければせめて敵になりたいと願う私の一人称は「私」である。