BLへの典型的な批判に、「ホモフォビックな世間を設定・利用した作品が多い」というものがある。
他人のことなどどうでもいいのが人間の常のはずなのに、わざわざ「同性愛なんて!」と嫌悪してくれる世間を描く作品が多い、という批判だ。これを「読者・作者が異性愛だから」と解釈する向きもあるが、賛成できない。いまの若い世代はともかく、それこそ『薔薇族』しかなかった時代には、ホモフォビックなホモも多かったらしい。本書にも、「当事者が一番ホモフォビックだった」との証言がある(ページ数不明)。さらに言えば、「同性愛者は非同性愛者よりホモフォビアに直面する機会がはるかに多いので、非同性愛者の目には異様に見えるほどホモフォビックな世間のほうがむしろ妥当に見える」という理屈も成り立つし、そうするとむしろ「読者・作者が同性愛だから」という結論が導かれる。
それはさておき。
「当事者だって社会のホモフォビアに囚われている→解放しなければ」、というのは道理ではあるが、さてそこで私は、森奈津子のある小説(タイトル失念)を思い出す。その作品で森は、「禁じられているからこそ、嫌悪されているからこそ、同性愛から快楽を得られるという人々はどうなるのか」と指摘していた。
この問題は泥沼になるようにできている。快楽の独善性が糾弾されるべきなのか? それとも、解放理念が擁護する「ライフスタイル」や「権利」がいかがわしいのか? こんな問題に結論が出るわけがない。これら2つの立場は別の次元にある。
この手の泥沼が積もり積もって558ページになったのが本書だ。
さて――こういう泥沼をすべて無視したところに成り立つのがBLであり百合である。
無視しているからダメだとか、倫理的に問題がある(当事者性がない、という奴だ)とかいう話は泥沼の続きだ。「無視しているから快楽主義→ポルノ」というのも泥沼の続きだ。もし真善美が快いものでなかったら、この世に学問などなかっただろう。
とはいえ、政治的問題とは別に作品のよしあしとして、BLや百合がホモフォビックな世間を設定・利用するのはうまくない。泥沼を前提にしない作者と読者のあいだで、そんな妙な世間を設定しても、薄っぺらで、いかがわしい。
受の身体にやおい穴があるように、やおい世間があってもいい、のだろうか? それはちがう。やおい穴は滑稽だが、薄っぺらではない。切実であり、いかがわしくはない。やおい世間には、薄っぺらな正常さと、いかがわしい退屈さしかない。
泥沼は、売文屋にとっては、ドラえもんの四次元ポケットになりうる。問題をいくらでも取り出してくることができる、便利なポケットだ。この態度が安易なので、「社会派」という言葉は今のようなニュアンスになった。泥沼を四次元ポケットとして使えば、やおい世間と五十歩百歩の、薄っぺらな正常さといかがわしい退屈さを作り出してしまう。
女性作家には「性を書け」というプレッシャーが強くかかるというが、BLはそのような「性」ではない。そのような「性」に要求されるのは私小説的なものだ。個人(それも女性)という辺境からエキゾチックな産物を輸出しろ、と要求されるのだ。
社会派の四次元ポケットを封印し、「性」を輸出することもなく、BLや百合は徒手空拳で戦う。ただひたすら「人間」という拳ひとつで戦う。
このストイシズム、理念への憧れが、BLや百合を語ることを難しくする。自由・平等・友愛によって成り立つ抽象的な「人間」を求めるこの魂は、現在の日本においては空気のように目に見えない。辺境から中央へと輸出された「性」や「方言」や「高貴な野蛮人」なら目に見えるが、中央のなかの中央である「人間」は目に見えない。
本書は『性という〈饗宴〉』と題されている。しかしおそらくは、「性」よりも「人間」を映した本として読めるはずである。ただそれは、現在の日本にどっぷりと浸かった身には、あまりにも難しい。現在の日本を遠く離れて、そういう読み方ができた暁には、BLもきっと別の顔を見せるだろう。
強引にまとめ:「人間」はまだ始まったばかりだ! 7andy