2007年06月28日

ニセ自伝文学

 母親とともにドライブインで男娼として働くトランスジェンダーの少年を描いた小説、『サラ』が出版されたのは2000年のこと。作者はJ.T.リロイと名乗る、10代の男娼とされていた。だが、実際にこの小説を書いたのはブルックリン出身、サンフランシスコ在住の子持ちの女性、ローラ・アルバート被告(41)。
 
 BLを自伝と偽ってはいけません、というのは当然として、この問題の周辺をあれこれと考えてみる。なお私はローラ・アルバートの作品を読んでいない。あしからず。

 笙野頼子『徹底抗戦! 文士の森』(河出書房新社)には、「自己省察こそ文学なり」という主張が強く押し出されている。作品を評価する際には作者の素性(年齢など)を気にかけ、それが作品の価値を大きく左右すると笙野は信じている。
 もっともな主張とは思うが、なにか釈然としないところも残る。
 東峰夫という作家がいる。『オキナワの少年』で芥川賞を受賞し、これは映画化までされたが、その後文壇から消えた。文学史的にみれば一発屋だ。私は東の作品を一文字も読んでおらず、文芸批評的な新聞記事をひとつ読んだことがあるだけだが、その新聞記事が印象的だった。その記事いわく、東は「賞を獲るなんて簡単だ、沖縄方言を書けばいい」と長らく信じていて、それを『オキナワの少年』で実行したら狙いどおり芥川賞、東は「やっぱりだ」と号泣したという。そして『オキナワの少年』のあと、東は二度と沖縄方言を書かず、そのため文芸誌から干されたという。もちろん東はウチナンチュ(沖縄人)だ。
 『オキナワの少年』の正反対には、『リトル・トリー』がある。
 『リトル・トリー』の作者フォレスト・カーターは人種差別活動家だった。白人至上主義テロ組織KKKの活動的メンバーであり、白人至上主義雑誌(The Southener)を編集・執筆していた。フォレストという筆名も、初期KKKの指導者ネイサン・フォレストから採ったものだという。そのカーターが、チェロキーの祖父母に育てられた経験(捏造)を騙ったのが『リトル・トリー』だ。素朴で、神秘的で、ファンタスティックで、癒しと安らぎを与えてくれる「高貴な野蛮人」を描いているという。なお私はこれも読んでいない。あしからず。
 「自己省察こそ文学なり」という主張がどこか釈然としないのは、東やカーターのような作家が存在するからだ。文学という制度に支えられた「自己省察」には、辺境(チェロキー、ウチナンチュ)から中央(白人、ヤマトンチュ)に輸出して利ざやを稼ぐ行為が、不可避的に含まれている。こういう行為には、「商業主義」という言葉が完全にぴったりとあてはまる。東は商業主義を1回かぎりで拒絶し、そのため文学という制度から放り出された。カーターは偽物を売ったが、辺境のエキゾチックな産物を求める(そして期待にそぐわない産物は無視する)中央の消費者を棚に上げてカーターだけを非難するなら、それは商道徳でしかない。
 
 とはいえ、「自己省察こそ文学なり」という主張には、説得力がある。
 自己言及は、ただそれだけで、魅力的な記述を生み出すことができる。自己言及に神業をみせる純文学作家は数多く、笙野もそのひとりだ。文学の価値をどう測るにせよ、記述の魅力だけは外せない。
 自己省察は、尽きせぬネタの源泉でもある。どんなに中身の乏しい人間でも、百冊の本を優に満たせるだろう。ただしその百冊を、文学という制度に乗せるには、記述に神業をみせるか、商業主義と消費者に従うかする必要がある。たいていの作家はその両方を併せ持つ。
 自己省察は文学を生み出す。文学の主流、王道だ。しかし文学の必要条件だろうか。
 
 自己言及を使うとパラドックスを作れる。「この文は偽である」のたぐいだ。矛盾した文には文学的な香りが漂う。「悠々として急げ」のたぐいだ。この二つを組み合わせれば、(いわゆる文学的に)書けないことなどないような気さえする。
 では、自己言及できない自己は?
 これは論理学上の遊びではない。BLを読んでいると、作品全体の出来にくらべて女性登場人物(特に端役)があまりにもひどい、というケースにときどき出くわす。ひどいというのは、
・一面的な理想化が著しい
・不条理なほど愚かだったり、精神疾患のような異様な印象を与えたりする
・登場人物としての機能から大きく逸脱した、あるいは矛盾した、過剰な記述を奢られている
 要するに、批判的なフィルターを通さない生の状態で、作者が抱いている自己像・女性像の歪みを見せられているような気がする。
 書くことは常に批判である。たとえ読むのが作者ただひとりであっても、批判として働く。自分の顔を鏡で見るようなものだ。ただし、顔は批判を受けてもそうそう変化しないが、自己像は変化する。自己言及は、批判に耐える自己、批判を経た自己しか書けない。
 批判に耐える自己、批判を経た自己――まさに氷山の一角だ。文学の水面下には、膨大な質と量の、無批判な自己が沈んでいる。
 だがもちろん、無批判な自己を垂れ流せばよいわけではない。BLの女性登場人物がひどい、という例は垂れ流しにすぎない。まともな作者なら、垂れ流しを中心に据えた作品など書かないし書けない。この例も、中心ではなく端役なので、時間に追われるなどしてうっかり垂れ流しをやってしまう、というだけだ。
 無批判な自己を、垂れ流しに堕さずに、文学の水面上に引き上げること。
 この作業はおそらく、自己省察と自己言及では行えない。
 
 自分自身とはかけ離れた架空の人物の自己省察を模倣する――『この私、クラウディウス』『ハドリアヌス帝の回想』など正統な作例も豊富な手法でもある。ただしこれらは、ローマ時代という原作の二次創作であり、人物造形や記述は厳しく制約されている。そこに取っ付きやすさと妙味もあるが、「無批判な自己を、垂れ流しに堕さずに、文学の水面上に引き上げること」という目的にはあまり適さない。
 カーターは原作としてチェロキーを選び、架空の人物(主人公とその祖父母)を好き勝手に造形した(『リトル・トリー』の内容はチェロキーの伝統をろくに反映していない)。それをさらに「自伝」と偽ったのだから悪質だ。だがこれは、「無批判な自己を、垂れ流しに堕さずに、文学の水面上に引き上げること」という目的には理想的な状況といえる。
 人種差別活動家としてのカーターは、公民権運動に敗れた。それでも白人至上主義にしがみつく彼の自己像は、およそ批判に耐えられないものだっただろう。酒びたりだったとの証言もある。彼が主人公をチェロキーに設定したのも、「自伝」と偽ったのも、商売上の狙いもあっただろうが、深いところでは、自己省察と自己言及のもたらす批判を避けるためだったのではないか。
 その結果が糞なら、そもそも私がこんな話を書くこともなかった。だがどうやら、カルト御用達と片付けるのはためらわれる程度の一般性は備えているらしい。
 
 カーターの例は極端でわかりやすい。公民権運動に敗れた人種差別活動家が、批判に耐える自己像を持てないことなど、当然と思える。黒人を否定した報いというわけだ。
 だが、そういったわかりやすい経歴のない平凡な女性が、批判に耐える自己像を持てない、と言ったら?
 自分自身とはかけ離れた架空の人物の自己省察を模倣する――『サラ』、そして一部の文学的なBLにも、これはあてはまる。
 
 今日の日本ではBLは、自伝と偽る必要もなく流通している。辺境から中央に輸出して利ざやを稼ぐ商業主義のいかがわしさもない。そこで流通する作品の多くは、火力主義の恋愛物で、自己省察とは縁がなさそうに見える。一部の文学的なBLはともかく、BLの主流は、批判に耐える自己像うんぬんとは無関係に見える。享楽で片付けられるように見える。
 すべてが平和に見える――作品全体の出来にくらべて女性登場人物(特に端役)があまりにもひどい、というケースに出くわすまでは。
 
 遠くを回りまわって、やはり「自己省察こそ文学なり」という主張は正しい、という結論に私は達しつつある。主人公を自分自身から遠ざけ、自伝と偽り、あるいはジャンルの壁を築き、ありとあらゆる手段で自己省察を避けてやっと可能になる、そんな自己省察もあるのだ。この遠くにある文学を、文学として読み、自己省察を見出すには、超人的な視力が必要だ。視力というより妄想力かもしれない。この一文全体が妄想力の発露でもある。なにしろ私は『サラ』も『オキナワの少年』も『リトル・トリー』も読まずに語っている。
 自己省察を避けることで可能になる自己省察としての文学を、審美的に評価するならば、正面きっての文学よりも一段劣ると言わざるをえない。だがそれでも、それはこの世に欠かすべからざるものだと私は信じている。それは人間の強くも美しくもない面に寄り添っている。公民権運動に敗れた酒びたりの人種差別活動家を、人間として抱きしめる文学が、この地上には必要だ。
 というわけで、「自己省察こそ文学なり」という主張は正しい。それは書くときの態度であるとともに、読むときの態度でもある。
 しかし笙野が、作者の素性を作品評価に結びつけるときのやりかたは、少々単純すぎる。
 もし『リトル・トリー』のテキストが、捏造としてではなく真正なものとして、つまりチェロキーと白人の混血である作者の手で体験の想起によって書かれていたなら、それはよくある記憶の捏造ということになり、思い出まで白人化・ニューエイジ化されてしまった作者の悲劇を証言したテキストということになる。もちろん自伝と偽るよりはマシだが、文学を読み取るべき作品といえるかどうか。
 もし真正な作者が、チェロキーの伝統を正しく反映した作品を、ただし「素朴で、神秘的で、ファンタスティックで、癒しと安らぎを与えてくれる「高貴な野蛮人」」を書いたのだったら、今度は『オキナワの少年』の商業主義と同じ問題を抱える。
 
 私は読者を無限に信頼している。その超人的な視力、妄想力を信頼している。作者の素性くらい、妄想力を駆使して、やすやすとデッチあげてくれるはずだと信じている。「この作品は自伝的だ」と妄想してくれると信じている。だから私が偽るまでもないはずだと。
 ナイーブな信頼だろうか。そうかもしれない。だが大人になってみたところで、『サラ』や『リトル・トリー』を書けるような気はまったくしないのだ。

Posted by hajime at 2007年06月28日 06:29
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