笙野頼子『幽界森娘異聞』(講談社文庫)を読んだ。森茉莉を(かなり忠実に)モデルにした作家・森娘のありようを笙野頼子が探求する、という話である。
本筋とは無関係に気になったこと:
・森茉莉の父親:森鴎外
・笙野頼子の父親:富裕な実業家
・栗本薫の父親:高度成長期の大企業の重役
・佐藤亜紀の父親:富裕な実業家
(栗本薫は途中で長々と引きあいに出される。佐藤亜紀は解説を書いている)
気になっただけで意味はない――と格好つけたかったが実はある。私の側に。
たったこれだけの共通点でもって、「同類どもめ」と思ってしまう人間がこの世には存在する。少なくともここに一人いる。「父の娘」の父でも娘でもないことを、喜びも悲しみもしない私だが、どういうわけか、そういうアングルでものを見てしまう。あまりにも無自覚な「父の娘」をひとり、長く身近に見てきたせいかもしれない。「父の娘」同士で乳繰りあってなにがわかるものか、と思ってしまう。
まだ文学者がスターだった頃、まだ太宰が生きていた頃、「インテリ男性同士で乳繰りあってなにがわかるものか」と思っていた人はたくさんいただろう。それはもちろん持たざる者のひがみにすぎないのだが、ひがみは逆恨みになり、見当違いの時と場所で噴出する。著者がかねて問題にしている純文学不要論は、そういう逆恨みの噴出のように思える。
だとすれば、いずれ「父の娘」の番もくるのだろう。そのときの自分が、逆恨みをぶちまける間抜けを演じていないことを祈る。