2008年02月15日

生きながらロリコンに葬られ

 笙野頼子論の切り口その2、「ロリコン」。

ロリコンロリコン子供をだーしに
ロリコンロリコン商売はんじょう
らりるれらりるれろーりこーん、みたこのて、き、だー。
『だいにっほん、おんたこめいわく史』75ページ、「ロリコンアワー」歌詞)

 笙野頼子の一部の作品では、「ロリコン」という言葉がキーワードになっている。このキーワードを理解するのが難しい。マスコミ的な日本語から遠く離れて、笙野流の独自の意味を強く帯びている。だからといって笙野作品を読めないのではもったいない。というわけで絵解きに挑戦してみる。
 「趣味ロリコンではなく商売ロリコン」(213ページ)という言葉がヒントになる。実例でいえば、村上隆とそのエピゴーネン、そして連中を支える欧米の美術界、ひとまとめにして言えば、HENTAIエウリアンだ。笙野作品の「ロリコン」は「HENTAI」と置換して読むとわかりやすい。昔GEISHA、今HENTAIだ。
 
 こう考えて読めば、笙野流ロリコンとその扱いは政治的に正しいものになる――わけではない。笙野作品は政治的な正しさを拒んでいるし、そもそも小説に政治的な正しさを求める態度がおかしいのだが、これに関して一言。
 上で引用した「ロリコンアワー」の歌詞に反して、HENTAIエウリアンが直接ダシにしているのは子供ではない。連中の商売のダシにされ、トーテム簒奪に憤っているのは、オタク文化を生き、オタク文化の少女表現におのれの魂を見出す人々だ。今風にいえば「萌えオタ」だ。しかしこの言葉にはやや狭いニュアンスがある。ここでは笙野流ロリコンと対比させて、「真のロリコン」と表現する。
 ここで整理しておこう。
笙野流ロリコン=HENTAIエウリアン=村上隆
真のロリコン=萌えオタや萌え絵師=都築真紀
 真のロリコンが笙野流ロリコンと戦うのなら、政治的に正しい。ただし、その正しさを成り立たせる枠組みは狭い。「実物の子供はどこへいった?」というツッコミにさえ耐えられない狭さだ。『おんたこめいわく史』でいうところの「正しいぼくたちの反権力闘争」だ。
 だからといってツッコミに耐えるよう枠組みを広げてゆけば、綺麗事の一般論にたどりつく。真のロリコンが「真」である所以の情熱、生々しさは消え失せてしまう。小説は一般論では成り立たない。
 偏狭な政治的正しさを投げ捨てて、自分や他人の迷妄と誤解をありったけぶちこみ、小説を生々しく立ち上がらせる。他者を代弁することのおこがましさを知るがゆえに、真のロリコンは作品世界には影としても登場させない。――これが笙野頼子の手法である。作品世界から排除されている真のロリコンは、読者として想定されている、と言っていいだろう。
 
 生きながらロリコンに葬られ、それでもなおどういうわけか地上をさまよっている真のロリコンのために、『だいにっほん、おんたこめいわく史』はある。
 こんな読み方に、作品内の笙野頼子は激怒するかもしれないが、その程度でひるむ腰抜けには「「近代文学」と称せられたアニメのノベライズ作品」(26ページ)がお似合いだ。

Posted by hajime at 2008年02月15日 02:27
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