ナシーム・ニコラス・タレブ『まぐれ』(ダイヤモンド社)を読んだ。
これは、私が最近十年間に読んだ本のなかで、一番役に立つ本だ。全人類に本書を強く勧める。
本書は、運不運に翻弄される人間の感情と認知について述べている。
著者はベテランの金融トレーダーであり、人間がいかにして運不運に翻弄されるかを(自分自身も含めて)よく観察している。また著者は行動経済学の専門家でもあり、人間の非合理性の特徴を、科学の言葉で把握している。そしてもちろん、ベテラントレーダーの強烈な個性がある。
とはいえ本書は論文ではなくエッセイなので、著者の専門外で気になった点がいくつかある。
つくりものの歴史について説明するとき、エセ思想家の始祖にどうしても触れずにはいられない。ヘーゲルだ。ヘーゲルは、パリ左岸のおしゃれなカフェや、現実の世界からとてもうまい具合に隔離してある大学の文学部の外ではまったく何の意味もないたわごとを書く人だ。このドイツの「哲学者」が書いた次の一節を読んでみるといい(この文章を発見して英語に訳し、罵倒したのはカール・ポパーだ)。
音は物体の諸部分の分離の特定の状態の変化であり、そうした状態の否定である。そうした意匠の、いわば抽象的または理念的な理念にすぎない。しかしながら、この変化は、したがって、それ自体直ちに物体の特定の実在の否定であり、したがって、特殊な重力と凝集力、すなわち熱の実在的理念である。音を発する物体の発熱は、打撃を加えられるかまたは摩擦された物体のそれと同様に、概念的には音とともに生じる熱が見られる。
(100ページより)
ヘーゲルが「大学の文学部の外ではまったく何の意味もないたわごと」なのは単純な事実だが、エセ思想家ではなくゴミ思想家だし、始祖ではなく大家だ。
エセではなくゴミだというのは、歴史的前提から離れては評価できない、という意味である。セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、元ネタの騎士道物語にまったく触れることなく、つまり歴史的前提から離れて読んでも、素晴らしい。しかしヘーゲルの著作を、西洋哲学史という前提抜きで読んで、なお素晴らしいと言えるか。逆立ちしても不可能だ。上の文章にみられるように、ヘーゲルのやっていることの大半は西洋哲学の言語ゲームの名人技だ。この名人技を評価するには、同じゲームに熟達するしかない。そしてこのゲームが実際にプレイ可能である以上、「エセ」とはいえない。たとえこのゲームがクロスワードパズルより優れたものとは思えなくても。
西洋哲学の言語ゲームの創始者は、ヘーゲルではなくプラトンだ。「善い」という形容詞から「善」という名詞、さらに「善のイデア」なるものを導いていいというルールなら、熱も重力も好きに使える。
もうひとつ、「法律というのは真実のためにあるのではなかったのか?」(250ページ)にはひっくりかえった。そんなわけがない。法律や司法は、係争を解決するための仕組みであり、時として真実よりも公正のほうを重んじる。真実と公正がぶつかる状況はたとえば最判2006年7月7日。