2008年05月05日

カーレド・ホッセイニ『君のためなら千回でも』(ハヤカワepi文庫)

 カーレド・ホッセイニ『君のためなら千回でも』(ハヤカワepi文庫)を読んだ。
 アフガニスタン出身のアメリカ人が書いた、自伝的な要素をこめた小説、という触れ込みである。
 しかし――パルプフィクションだ。ゴーストライターの介在を私は疑っている。

 
 多少の誠実さを持ち合わせた人間なら、現在のアフガニスタンから、ハリウッド的に単純化された語りを引き出すことはできない。歴史の皮肉がいっぱい、というより、皮肉でないものが見つからない。
 たとえば、英米によるムジャヒディン援助の位置づけ。「あとは野となれ山となれ」式のムジャヒディン援助が、ソ連撤退後10年にわたる内戦とタリバンの発生を招いた。戦犯はレーガン大統領だ。主人公の父親はレーガンの戦闘的な態度を支持していた、という記述が出てくる。なのに作品はその皮肉に触れない。
 なにより最大の皮肉は、アフガンで都市の富裕なリベラル(=主人公とその父親)にもっとも近い立場にあったのは、侵略者のソ連だった、という事実だ。この皮肉に触れないというのは、それ自体なにかの皮肉のつもりだろうか。
 
 著者はおよそ考えられるすべての誠実さを捨てて、ハリウッド的な単純化の要請に忠実に従っている。ゴーストライターの介在を私が疑う理由は、ひとつはこの忠実さだ。略歴によれば著者は医師であり、パルプフィクションを書く必要はない。
 もうひとつの理由は、腐女子くさいことだ。
 ストーリーも多少そうだが、語りが腐女子くさく、男らしさがない。たとえば、ある種の独断や飛躍、「俺の語りについてこい」という傲慢さには男らしさが宿るが、それがない。
 
 パルプフィクションとしての質を判定して「ウェルメイド」などと抜かす高尚な趣味はあいにく持ち合わせないが、売れているらしいのを見ると、そうなのだろう。そういう趣味のかたにだけお勧めする。

Posted by hajime at 2008年05月05日 01:24
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