唐沢俊一のガセビア
唐沢俊一のガセビアその2
唐沢俊一のガセビアその3
「新しい歴史教科書をつくる会」もようやく死に体になってきた。元スターリニストの組織力はあの程度らしい。
連中の誰かが、「昔の左翼の歴史教科書には物語的な気迫があって、そこは美点だった」と懐かしんでいたのを、どこかで読んだ。それを読んで私は深く納得した。その主張の当否に、ではない。昔の左翼の歴史教科書など読んだことがないので、その主張が正しいかどうか私には知るよしもない。
私が納得したのは、「だからお前はダメなんだ」ということだ。
「QWERTY配列という十字架を人類に背負わせたのは、20世紀初頭のアメリカのタイプライター・トラストなんだよ。トラストというのはね(後略)」
「秋葉原は昔はアキハノハラやアキバハラと読まれていたかもしれない。どの読み方が正式なのかもわからないし、そもそも正式な読み方といえるものがあったのかどうかもわからない」
こういう歴史はつまらない。「トラスト? なにそれ?」というところで引っかかると、膨大な政治経済的な説明が始まり、しかもそれは現在の生活とはほとんど無関係で、興味もわかない。それでも説明がつくだけまだマシなほうで、なにもかもが「わからない」で終わる話など、歴史でなければ許されない。
しかしこれこそが教育に値する歴史だ。
・昔のいろんなことがわからない
・昔は重要だったけれど今となっては無意味な概念がある
・現在の社会の枠組みを過去に当てはめても、ぴったりとは合わない
こうしたことに比べれば、どんな事件も人物もトリビアだ。そのトリビアを中心に据えるという発想そのものに、根本的な愚かさがある。
私は、トリビア的な歯切れのよさ、わかりやすさ、興味深さを一切廃した歴史教科書を待望する。過去のわからないことや、過去と現在の共約不可能性を、これでもかとばかりに見せ付ける、ヤマもオチもイミもない歴史教科書を。それは恐ろしくつまらないものになり、教育として強制されなければ到底身につかないだろうが、元スターリニストの夢見る娯楽読み物よりもずっとマシな人間を育てるだろう。
私の日記へのリンクありがとうございます。ただ、正直なところ、「トリビア的な歯切れのよさ、わかりやすさ、興味深さを一切廃した歴史教科書を待望する」ってのは、結構、耳が痛かったりします。というのも、今回の『キーボード配列 QWERTYの謎』は、技術史の教科書でありながら、やっぱり、わかりやすさとか興味深さをつい優先してしまってるもんですから…。
Posted by: 安岡孝一 at 2008年07月24日 16:58