映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』をDVDで見た。
脚本はほぼ原作どおりらしいのに、演出が、原作に対する批判意識(=悪意)に満ち満ちている。これこそ正しい映画化というものだ。
真の悪とは自分の周囲すべてに悪を見出す眼差しのことだ、という話がある。
清深は自分のまんが作品(第1作)によって、その「眼差し」を家族全員に共有させた。すなわち、「澄伽は悪鬼であり、ほかの家族は無辜の被害者である」という「物語」を、家族全員の共通前提として押し付け、成り立たせてしまった。
この物語は家族にとって、そもそも不要であり有害無益なものだった。
澄伽がわめきちらす「東京に出て女優になるから金をよこせ」という物語への対処として必要なのは、ただ「そんな金はない」と返事することだけであり、澄伽の物語を家族全員の共通前提とする必要はまったくない。澄伽はこの無理解の壁を相手にせずに金集めに励むが、それへの対処は「東京に出て女優になるから金をよこせ」という物語とは切り離される。
澄伽の物語を、家族全員の共通前提へと押し上げたのは、清深のまんが作品(第1作)である。
このことは、最初はほとんど気づかれないように、控えめに語られる。しかし話が進むにつれて、清深の「眼差し」の悪がしだいに強調されてゆく。
たとえば「覗き」の演出だ。澄伽の美人局行為や、宍道への脅迫を、清深は覗く。映画はこれをさらりとは演出しない。清深の印象的な眼鏡や、深いコミットメントを思わせるカメラワークにより、清深の覗きを、重いものとして、無辜ではありえないものとして演出する。
そしてクライマックス、澄伽が清深を刺そうとするときの演出にこめられた、あの悪意の深さときたら、もう言葉もない。清深が「眼差し」を押し付ける力によって優位に立とうとすることの悪、卑小さ、滑稽さが徹底的に表現されている。
「眼差し」の悪についてはこちらも参照のこと。
また、これは深読みのしすぎかもしれないが、「眼差し」の押し付けが成功してしまうことへの批判意識も感じた。
「前近代の小説の野放図な対話性をどう抑制し、社会のあらゆる階層に存在する筈の多様な読者から挙がるであろう多様な、時としては突飛な異論をコントロールし、読み手をして作者が意図したように笑い、意図したように泣き、意図したように学び、以て、当該作品が書かれている規範的な〈国語〉ないし〈母国語〉ないし〈母語〉の使用に対して画一的に反応するよう感受性から訓練し、同一言語の使用者として規格化し、国家に従属させることこそ近代文学の課題だった、というのは、ある面では、正しいのです」(佐藤亜紀『小説のストラテジー』142ページ)
この課題は、私の知るかぎり、現状ではあまり達成できていない。こういうコントロールが多少なりとも機能しているジャンルは、学校教育・萌え業界・ポルノ業界の3分野だけだ。
この3分野の外は、戦場だ。読者は、作者の命令に従う部下の兵士ではなく、むしろ敵の兵士に似ている。清深の「眼差し」の押し付けが成功するのは、同じ家族という強力な共通前提に恵まれたにしても、不条理だ。
清深のまんが作品(第1作)が掲載された雑誌を、近所の人々が読んでいるという被害妄想的なシーケンスには、「眼差し」の押し付けが成功することの不条理が演出されている――というのはさすがに深読みのしすぎか。
そういった構図がポルノや学校教育において動作しているのは分かりますが、萌え業界についてはどのような作品のどのような部分を言っているのかよくわかりません。
優秀な萌え作品(Baby Princessやidol masterなど)にはポリフォニックな語りや、図式的な判断を拒絶する構造などが必然的に導入されるものだと認識しておりますが。
それとも萌え作品の頂点ではなく、多数の中小同人ものについて言っているのでしょうか?
「学校教育・萌え業界・ポルノ業界」というのは作品ではなく、作品が置かれる環境です。したがって、個々の作品の評価とは直接の関係はありません。
作品の評価を通じても、「環境によって保護されなければ一顧だにされないであろう脆弱な作品が発生・存続している」というマイナスの影響を見て取ることはできますが、どんなジャンルであれ頑強な作品はもちろん存在します。