「美学」の喪失−−<芸術>の死後どこに行くのか?
美学の本を何冊読んでも意味がわからなかったが、これでようやくわかった。
私は永遠の反文化をひとつ知っている。それも、一発ギャグのような代物ではなく、作品といえる形式と技術と社会性を備えた手仕事だ。その不気味さ、醜さ、強さは、一流の芸術作品と呼ぶに値する。が、その作品をここで紹介して知名度を向上させても、メリットがあるのは作家本人ただひとりで、残りの全人類にとっては不愉快かつ有害なだけなので、紹介しない。
もし読者諸氏がその作品を求めるなら、この文章の読者としてではなく個人として、思わぬところで偶然に出くわさなければならない。私の知っている作品以外にも、そういう作品はきっとあるだろう。
人間の根源的な不愉快さ、有害さ、いたたまれなさ、不気味さ、場違い・見当違い・お門違い――そうしたもののなかには、永遠に「存在しない」ことにされつづけるしかないものがある。もしそれに出くわしてしまったら、その真実には深く打たれながらも、「これはなかったことに」と言うしかない、そういう作品がこの世には存在する。
そういう作品を、なんだかんだと理屈をつけて「巨大スーパー・マーケット」の商品にしようとする連中がときどき現れる。こういう連中が出てこられなくなるような「美学」を私は希望する。