加藤典洋『日本の無思想』(平凡社)を読んだ。254~255ページから:
僕もまた、あの社会的な考え方というのが、嫌いだったのです。いまも嫌いです。弱い人を助けましょう、という考え方が、「違う」と思うのです。
むろん僕は古代ギリシャ人ではありませんから、ただ弱い人間は強くなるべきだ、弱い人間に同情することは彼を侮蔑することになると、ただちには思いません。そうではなく、いま、「弱い人を助けましょう」というような言い方で語られることが、もう一度解体されて、そうではない言い方で語られ、聞かれるようにならない限り、ここにいわれようとする人間の願いは、普遍的なものにならないだろうと思うのです。
ではどうすれば普遍的になるか、という問いを提起し、ある程度まで答えたのが本書である。
著者の答えは、私情・私利私欲にもとづく公共性の再建である。
言論は、飲んだり食ったりセックスしたりと同じく、人間生活にとって根源的な生きる喜びであり、古代ギリシャのポリスでは自由市民はまさにそのように言論を堪能していた。しかし現在では、人間生活における「社会的なもの」があまりに大きくなり、言論が「社会的なもの」の物差しで計られる(=支配される)という事態が生じている。この支配を打ち破り、言論の根源的な喜びをこそ根底に据えた社会を築く必要がある。そのような言論は、根源的なものであるからには、私情・私利私欲にもとづくものになる。私情・私利私欲にもとづく言論が飛び交い、しかもそのような言論こそが社会を支えている状態、それが著者の目指す公共性である。
――と説明してみたら、「嫌儲」という言葉が頭に浮かんだ。
貨幣とその流れは、「社会的なもの」の最たるものだ。嫌儲という現象は、「社会的なもの」の支配に対する闘争なのではないか? 「社会的なもの」に植民地化されることを拒み、言論の根源的な喜びを根底に据えたコミュニティを維持するためのものなのではないか?
インターネットは言論の流通コストを極度に下げ、言論の流れと貨幣の流れを分離することを可能にした。この状況に対する反応として、嫌儲は当然の現象だろう。
しかし、嫌儲は革命には成長しない。いみじくも「嫌」の文字が示すとおり、「社会的なもの」への反発と逃避でしかない。
話を元に戻すと、著者は公共性のありかたを示すが、それを実現する革命へのロードマップは示さない。とはいえ、ロードマップを示しての革命はみな悲劇を生んできたので、適切な態度ではある。
著者の各論はともかく、公共性についての構想はまさに私の意見だ。ぜひこの革命を起こしたいのだが、とりあえず私に今できるのは、ヒャハハハハハと笑いながら愉快なことを書くことだけだ。というわけで、ヒャハハハハハと笑うたびに「また一歩革命に近づいた」と信じることにしよう。