岡本太郎『今日の芸術』(光文社)を読んだ。1954年に書かれた、古い本だ。
古いということは、時として、わかりやすいということを意味する。本書の主張も、おそらく五十年前にはわかりにくかったのだろうが、今ではずいぶんわかりやすい。本書の主張のうち私が同意できる点について、ビデオゲームを例にとって紹介してみる。
・芸術はここちよくあってはならない
ゲームをプレイするということは、たいてい、緊張するということだ。少なくとも、慣れていないアクション物をプレイするときには、のんべんだらりとはしない。また、たとえ一本道のADVであっても、緊張感なくプレイさせるゲームは、なにかしらゲームとしていびつであるように思える。
また、アクション物の多くは、自機がやられてゲームオーバーという不愉快な結末を迎える。アクション物をやるプレイヤーは、丁重にここちよく扱われて満足するためではなく、緊張したあげくに不愉快な結末を迎えるために、ゲームをプレイする。
・芸術はいやったらしい
スーパーマリオはいやったらしい仕掛けに満ち満ちている。蹴ったあと壁に跳ねかえって戻ってくるカメ。とらえにくい動きで飛び回るパタパタ。空からトゲゾーの卵をばらまくジュゲム。
プレイヤーに緊張を強いる、いやったらしい仕掛けの数々こそが、アクション物を面白くする。
・芸術は「きれい」であってはならない
ゲームのプレイ動画を、観戦者として手に汗握って見る場合と、TVのCMに目をやるようにぼんやりと見る場合とに分けて考えてみる。
後者の目を意識し、後者に受けるように作られたゲーム画面は、目の肥えたゲーマーにとっては、クソゲーの予感を漂わせるものでしかない。
・芸術は「うまく」あってはいけない
テトリス登場時のことを考えよう。当時はまだSTGのシェアが大きく、さかんに新作が出ていた。それらの多くは、ノウハウの蓄積にもとづいて洗練された、完成度の高い、「うまい」ものだった。
だが、そうした完成度の高いSTGの数々はその後、どんな運命をたどったか。今でも人々は携帯でテトリスをプレイしているが、テトリスと同時代のSTGを携帯でプレイしている人など、どこにいるのだろう。
いかがだろうか。
ゲームをこのように捉えることで、美術鑑賞の方法も理解しやすくなる。
美術作品は、パズルアクション物のプレイ動画と思えばいい。鑑賞者はそのゲームをやったことがないのだが、プレイ動画をしばらく見れば、だいたいのルールはわかる。そうしたら、TVのCMに目をやるようにぼんやりとではなく、観戦者としてのめりこんで、プレイ動画を見るのだ。
プレイヤーが上手か下手かは、すぐに見当がつく。下手糞のプレイ動画は見ていられない、と立ち去ることもあるだろう。たいていは上手なプレイヤーのほうが見ていて面白いが、下手なプレイにも下手ゆえに手に汗握るものがあるかもしれない。
見ていて、そのゲームをプレイしてみたくなるか? つまり、ルールとステージは面白そうか? 「ルールは面白そうだけれどステージがいまいち」という場合や、「面白いかどうか見当がつかないけれど、とにかくいっぺんプレイしてみたい」という場合もあるだろう。
さらに、これはもっとも根本的な問題だが、そのゲームのルールは気になるか? 既存のゲームからの類推ですっかり判明してしまう程度のものだったり、あるいは、あまりにもデタラメに見えて解明する気力がわかなかったりはしないか? 「意表を突いているがただそれだけ」とか、「ルール自体が一発ネタで、ゲームとしての面白さは無視」という場合もある(現代美術によくあるパターン)。
「様式」「作風」がゲームのルールに、「描いてあるもの(果物、人物、街角など)」がステージに、「技術」がプレイの上手下手に、それぞれ相当する。
スーパーマリオのステージは現実の風景をモデルにしているが、写実とは程遠い。それと同様、裸婦の絵はそのモデルに似ていないことがある。
もしスーパーマリオのつもりでスペランカーのプレイ動画を見たら、「なぜ高くジャンプしないのか」と思い、プレイヤーがひどく下手糞だと決めつけるかもしれない。ゲームのルールがわからなければ、プレイの上手下手もわからない。
たいていのパズルアクション物にはステージがあるが、テトリス等にはない。美術でも同様に、「描いてあるもの」が存在しない、あるいは「様式」「作風」との区別が曖昧な場合がある。たとえば『ブロードウェイ・ブギウギ』のような抽象画がこれにあたる。
抽象美術をうさんくさく思っておられるかたも多いだろうが、それはいわばプレイの上手下手と関係する。1.「プレイ動画を見てもルールがわからず、そのためプレイの上手下手もわからない」。2.「プレイの上手下手がプレイ動画にあまり反映されないようなルールで、そのため緊張感をもってのめりこむことができない」。3.「リアルタイム要素のない単なるパズル物であることが明白で、プレイの上手下手がそもそも存在しない」。4.「ルールが一目瞭然に馬鹿馬鹿しく、プレイの上手下手に意味がない」。まともに作品を擁護できるのは1だけで、2と3はどう言い繕ってもやはりうさんくさく、4は、現代美術セミナーにぶちこんで洗脳するしかない。
著者の主張のうち私が同意できない点は、今日の現代美術の状況と関係する。
「人間生活の現実」や「新しい形式の創造」に芸術の根拠を求める著者の態度は、善意にあふれているのだが、地獄への道は善意で敷き詰められている。現代美術の惨状をもたらしたのは、おそらく、こうした態度だ。
著者の芸術論に、私がひとつ付け加えるとしたら、こうなる:
・芸術は芸術であってはならない
「いわゆる芸術」などという留保はないし、「芸術」などとカギカッコもつけない。留保やカギカッコをつけたりしたら現代美術になる。
芸術は存在するのではなく、非存在でもない。まともな大人が超能力や陰謀論の話に取り合わないのと同じく、芸術は問題ではない。それを問題とすること自体に、言葉遊びの空しい誤りがある。
さて、芸術を問題にしないとして、それで芸術は消えてなくなるだろうか。否。
ときどき誰かが不意に、とてつもない作品をこの世にもたらす。それを見ると、言語の手の届かないところにも何かがある――この「何か」や「ある」という表現も言葉遊びの誤りを犯しているのだが――ということを確信させられる。そのとき人は言葉遊びに走るのだ、たとえそれが空しい誤りだとわかっていても。それだけが私の愛せる芸術である。