2009年04月28日

『悪童日記』と『GUNSLINGER GIRL』

 こういうものは最初に言ったもん勝ちなので、未整理だが急いで書き留めておく。
 アゴタ・クリストフ『悪童日記』相田裕『GUNSLINGER GIRL』は同じ問題を抱えている。

 『悪童日記』の主人公たちの純粋さと、『GUNSLINGER GIRL』の少女たちの純粋さは、その背景をみるならば対照的だ。前者は歴史の知識をみずから求めて手に入れるが、後者は自分自身の記憶さえ求めない。前者は不正確なもの(特に感情)を排した世界に執着し、後者はほとんどなにひとつ執着を持たずに己の感情を見つめる。しかしどちらも、社会の価値観を超越する純粋さという点で共通している。また、純粋さの主体として子供を配する点でも共通している。
 第一の問題は、「社会の価値観を超越する純粋さ」を、社会の価値観にがんじがらめにされているはずの存在である作者が描く、という構造だ。たとえば、もしフランス革命直前の世界に生きる作者が「社会の価値観を超越する純粋さ」を描いたとしたら、ほぼ確実に、無神論者のアナーキストになるだろう。マルキ・ド・サドの描く悪人たちがいい例だ。彼らの「純粋さ」は時代の鏡像にすぎず、ちっとも「超越」していない。
 もちろん、どんな作品も時代の刻印を受ける。初期の鉄腕アトムは真空管で動いていたが、だからといって作品の価値が損なわれることはない。マルキ・ド・サドの描く悪人たちも、そういうものだと思って読めばさほど問題ない。といっても、作者が描きたかったであろう悪の暗さは、まるで三頭身キャラのように小さくかわいらしくなってしまったが、それはすべての作品がたどる運命だ。
 第一の問題だけなら三頭身キャラ化で済む(もちろんこれも作者としては避けたい事態ではある)。しかし、「純粋さの主体として子供を配する」ことによって第二の問題が生まれ、胡散臭さが臭うようになる。
 マルキ・ド・サドの悪人たちは中年や老人だ。中年が純粋さの主体になる作品はすでに書かれており、2世紀にわたってそれなりの評価を得ているわけだ。しかし、もし『悪童日記』や『GUNSLINGER GIRL』が純粋さの主体として子供のかわりに中年を配したら、なにが起こるだろう。
 第二の問題――子供を配するという手口が、「社会の価値観を超越する純粋さ」とは正反対の、社会の価値観(=子供は純粋)によりかかったものであること。作品の内部と、作品を成立させる仕掛けとのあいだで、一種のダブルスタンダードをやっている。これは「癒し」や「エモ」と同じ種類の胡散臭さだ。
 ……こんな問題に気づくから私は世界的ベストセラーが書けないんだよ!(←負け惜しみ)

Posted by hajime at 2009年04月28日 02:10
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