2009年06月03日

ホント言論は地獄だぜ

差別? そんな言葉で諸氏が想像なさるようなぬるいもんじゃないですよ、我々が日々直面してるのは。たとえばハッテンバに迷い込んだら男だって強姦される(されないって。彼らには君らと違って分別がある)、だから女も外をうろつく以上(電車に乗って会社行って帰って来るだけですが何か?)強姦されるリスクを呑め、と書く奴(そう考えている奴も幾らでもいるだろう)が顕にしているのは、理不尽な、ほとんど呆然とするしかない憎悪だ。

 
 呆然とするしかない――佐藤氏ほどのお人でさえそうなのか、と感じ入った。
 こういう輩に対面はまだしも(世の中には、学校給食を食わされたことのないお嬢様というのが、本当に存在する)、目撃したことさえないという方は、私が頭をかち割って差し上げたい。
 
 ついでにはいおく氏に一言。「レイプされても次第に喜ぶようになる」のは、日本の伝統ですね。かつてはそれを「夜這い」と呼んでいましたけど。/つまり、男根主義というより、「前近代性」が「近代性」から攻撃を受けている事例と捉えるべきです。はあまりに不用意な発言かと。もしこのコメントが本当にご本人のものであるなら、今後のお付き合いについて一考させていただきたい。参考文献として笙野頼子の「だいにっほん」三部作(1 2 3)をどうぞ。
 
p.s.
 はいおく氏の上記コメントのようにご都合主義的に歴史(家父長制や前近代)を持ち出すやりかたは、上記の佐藤氏のエントリでも軽く批判されていますし、笙野頼子の「だいにっほん」三部作はそれがメインモチーフのひとつになっています。これは、「おたく」ならぬ「おんたこ」が現代思想をご都合主義的に持ち出して権力的に振舞うやりかたが、徹底的にカリカチュアライズされて描かれている小説です。
 
 なぜ、はいおく氏の上記コメントがご都合主義的なのか。
 
 第一に、陵辱ゲームにおいて被害者は、ほぼ常に、まったく近代的な個として加害者の前に現れるキャラだからです。
 こういう現れ方の一例として、「通勤電車の中で居合わせる見知らぬ他人」を挙げることができるでしょう。通勤電車は、前近代的共同体の日常生活空間にはありえない、すぐれて近代的な空間です。前近代的共同体では、氏素性の知れない相手と日常的に顔を合わせることはありません。
 逆、つまり前近代的な関係の一例は、くらもちふさこ『天然コケッコー』のシゲと主人公です。シゲは前近代的共同体(といっても舞台は現代ですから、マスメディア等の影響を受けて衰弱しきったものですが)にどっぷり漬かり、主人公と自分のあいだの過去の出来事をしばしば話題にします、というか口を開けばそればかりです。そういう前近代的な関係に対して、主人公は嫌悪感を覚えますが、その感情に対してシゲは反応しません。過去の既成事実の蓄積に比べれば、現在の一時的であいまいな感情は取るに足らない、という前近代的共同体の価値観が反映された振舞いです。
 「通勤電車の中で居合わせる見知らぬ他人」を強姦する陵辱ゲームは作例多数ですが、『天然コケッコー』のシゲが主人公に夜這いするような陵辱ゲームはごく稀で、少なくとも私は見たことがありません。
 また、前近代的共同体の夜這いにとっては、被害者が加害者や強姦を嫌がっても、それは現在のあいまいな感情にすぎず、取るに足りません。しかし、被害者の抵抗や嫌悪に無関心な陵辱ゲームなど、私は見たこともなければ想像もつきません。
 
 第二に、陵辱ゲームから「強姦」という一個の概念だけを抽出して議論しようとするやりかたが問題です。
 陵辱ゲームというそれなりに複雑な総体と、前近代的共同体というかなり複雑な総体から、「強姦」という一個の概念だけを抽出し、それをもって「通勤電車の中で居合わせる見知らぬ他人」を強姦することと『天然コケッコー』のシゲが主人公に夜這いすることを同じ枠に入れようとする操作には、無邪気とはいえないものがあります。
 この操作も、現在噂されている「ソフ倫の新基準では刑法に触れる行為がアウト」の馬鹿らしさを批判するためなら、ありでしょう(そういう馬鹿らしい基準のほうがゲーム制作のうえでは都合がいいのではないか、とも思いますが)。しかし上記コメントはそんな局地戦の文脈にはありません。
 もっと広い文脈でこの操作をもっともらしくするには、状況証拠を積み重ねる必要があるでしょう。
 たとえば、エロゲーを制作するのがどんな人で、享受するのがどんな人か。衰弱しきった前近代的共同体にしがみつき、「俺はずっとこうやって生きてきたのに、世の中が俺を追い詰めている」という怒りをたぎらせた人々が制作・享受しているなら、前近代を持ち出すのが妥当だという状況証拠になります。しかし陵辱ゲームの実態はこれとはかけ離れています。(とはいえ佐藤氏の日記にあるような、女へのルサンチマンをたぎらせた人々、というのも違うのではないかと思うのですが)
 私が検討したかぎり、はいおく氏の上記コメントを補強するような状況証拠はひとつも見つかりません。反証ばかりが見つかります。第一の理由として上で検討したのは、もっとも強力な反証です。
 
 もし慎重に検討すれば、上に述べたような問題はすぐに見えたでしょう。はいおく氏が上記コメントを書いたときにはそういう慎重な検討がなかったのであろうと推測して私は「あまりに不用意」と書きました。
 この非常時にっ、慎重な検討など必要ないっ、とはいおく氏がおっしゃるのであれば、今後のお付き合いを考えさせていただきます。
 
p.p.s.
 慎重な検討の必要は認めてくださるようで何よりです。が、やはり、上記コメントはあまりに不用意、との考えは変わりません。
 
 歴史上の前近代とのわかりやすい連続性を欠いた、「滅菌済みのはずのところに細菌(=前近代的感覚)が繁殖」とでもいうべき現象があり、そういう自然発生的な前近代的感覚が、陵辱ゲームの関係者(制作・流通・享受の)にみられた、ということでしょうか。
 そのように把握しうる現象が起こっていることについては私も同意しますが、それを現象把握の文脈への参照もなく単に「前近代性」と呼ぶのは、きわめて誤解を招きやすい表現でしょう。自然発生的な前近代的感覚と、歴史上の前近代は、一部が似ているにすぎず、どの部分が似ているかを示す手がかりは「前近代性」という表現の中にはありません。
 
 上記コメントのなかの誤解を招きやすい表現としてさらに、「伝統」を指摘します。
 「伝統」という表現は、単に古い(とされている or ということにしたい)習俗や価値観という以上に、誰かがその積極的な担い手であることを示します。積極的に担うわけですから、その担い手にとっては、なんらかの意味でプラスの価値を持つものです。誰も積極的に担おうとはしないが絶滅もしていない習俗や価値観を「伝統」と呼ぶのは、首をかしげる言葉の使い方です。
 「××にとっては」や「××に言わせれば」といった、担い手を示すような限定を設けず、無限定に「日本の伝統」という表現を使った場合、「××」に入るのは発言者自身の名前、ということにはなりませんか。
 自然発生的な前近代的感覚を持った陵辱ゲームの関係者が、自分たちなりの「日本の伝統」を作って担うというのは、ありそうな話です。そういう人々に限らず多くの人々が、自分なりの「日本の伝統」を作り担っているわけですし。私は陵辱ゲームの関係者をあまり詳しく知らないので、そういう人々が「レイプされても次第に喜ぶようになる」という筋書きを「日本の伝統」のなかに作っているのかどうか、私にはわかりませんが。
 
 きわめて誤解を招きやすい表現が二つ並び、先に述べたような解釈を招いてしまうとなればこれは、あまりに不用意、というわけです。
 
p.p.p.s.
 社会学において確実と認められている説だからといって、無条件に今この場において私が確実と認めるわけにはいきません。今この場において私は、社会学にほとんど関心がなくコメントも残さない通りすがりの声も演じているからです。もちろん、そんな通りすがりがこんな風に語るわけがないので、あくまで「も」なのですが。
 
 名前さえない現象を把握しようとするとき、いっぺんに緻密な専門用語と説明体系が出てくるはずもなく、手近だが誤解を招きやすい言葉を組み合わせた荒削りな説明にならざるをえません。ガリレオが望遠鏡で土星を観察したとき、その輪のことを「耳のようなもの」と書いたように。
 しかしいつまでもその段階にとどまっていては教条主義です。現象把握への第一歩に際して求められる言葉と、(その分野において)かなり確実と認められる説を組み立てるときに求められる言葉は、要求水準が異なります。
 「伝統」という言葉は、後者の要求水準に達していないように思われます。宮台真司がそちらの引用文中で「伝統的態度」にカギカッコをつけたのは、後者の要求水準に達していないことを補うためではないでしょうか。
 
 以下ははいおく氏への所説とはあまり関係のない社会学への感想です。
 こういう現象を把握するために前近代の影響をひっぱりだしてくるやりかたには、限界を感じます。第一歩としてはとっつきがいいけれど、そこからせいぜい二、三歩が限界ではないかと。BLや少女まんがの強姦シーンの現象把握として説得力を持つには、五、六歩ほど前進する必要がある、というのが私のカンです。陵辱ゲーム界隈はさらに遠いでしょう。確かに、同根の現象という感じはするのですが。

Posted by hajime at 2009年06月03日 23:22
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