マイルールは理不尽なものと決まっている。もし理不尽でなければ、マイルールなどと限定せず、グローバルルールにしてしまうからだ。
だからといって他人の定めたグローバルルールに従うのかといえば、そんなはずもない。「俺のルールはお前のもの、お前のルールはお前のもの」、ルールについての逆ジャイアニズムを発揮する。この逆ジャイアニズムが人間の本性であることを発見し、これを利用して遊ぼうと提案したのが、かのイマニュエル・カントである(大嘘)。
さて、私のマイルール――「良い子はエヴァの話なんかしちゃいけません」。
ドストエフスキーの作品をメロドラマ呼ばわりしたら罰が当たると思う人がいるかもしれませんが、心配はいりません。間違いなく、メロドラマです。(中略)
何故罰が当たると思うのか、同時に、何故心配いらないと断言できるのか――それこそが実は、ドストエフスキーの作品の最大の秘密です。罰が当たると思った方、たぶん、ドストエフスキーは何か崇高なものを書いたと考えておられるでしょう。確かにその通りです。「思想」という一点に着目し、作品全体がそのために存在すると考え、登場人物があの思想やこの思想を口にすれば鉛筆で線を引いてページを真っ黒にするくらいのめり込む。それこそが、かつてのドストエフスキーを読むという経験だったようですし、今でもそうする人はいるでしょう。(中略)
従って、ドストエフスキー当人が何を考えていたか、ということは大した問題ではありません(問題にするという行為自体があまりにもしばしばメロドラマですし)。ドストエフスキーの「思想」が作中でどうメロドラマを作り出し、それがどう記述されるかだけが問題になります。
(佐藤亜紀『小説のストラテジー』67-70pより)
『問題にするという行為自体があまりにもしばしばメロドラマですし』。制作者(特に監督)の心境をあれこれ推し量ってB級のメロドラマを二次創作するB級の有象無象どもとつきあって時間を無駄にしたくないという処世術が、「良い子はエヴァの話なんかしちゃいけません」というマイルールになっている。
ではなぜ私は今、このマイルールを破っているのか。
『破』があまりにも素晴らしかったからだ。「庵野すごい」とか「スタジオカラーすごい」とかいうレベルではなく、「人類すごい」のレベルに達している。人類にこんな映画が作れるとは、現物を見るまでは信じられない。
見るまでは信じられない、だから見るしかない。そのほかになにも言えない。