伊藤整『日本文壇史』第1巻を読んでいたら、西周が当時(1870年ごろ)のヨーロッパでもっとも偉大な古典とされた作品を列挙しているのにぶつかった。現在なじみのある表記で以下に転記する。
・インドのヴェーダ4編
・旧約聖書の詩篇
・ホメロスの叙事詩2編
・ウェルギリウス『アエネイス』
・ダンテ『神曲』
・タッソ『エルサレム解放』
・シェークスピア『夏の夜の夢』
・ミルトン『失楽園』
・ラシーヌ『フェードル』
・ヴォルテール(作品名なし)
近年の、まだ評価の浅い作として、
・ゲーテ『ファウスト』
今日の私の目でこのリストを眺めると、2点に違和感を覚える。
・ラシーヌはそこまで偉大か
・タッソって誰。セルバンテスを外して入れるほどの名前なのか
千年前に「古典」とされた作品の多くは、今日では忘れられている。たとえば日本の平安時代、漢詩は教養の中心であり、日本製の「古典」も少なくなかったと思うが、今日ではそのタイトルさえ聞かない。少なくとも私は聞いたことがない。
千年で大きく変わるのは当然として、百年ではどうか。西周のリストは、最近140年というスパンでの変化を垣間見せてくれる。
ラシーヌの評価は微妙なところなのでさておき、問題はタッソだ。調べてみたところ、シェークスピアやセルバンテスの同時代人でイタリア生まれ。上のリストにあるとおり叙事詩『エルサレム解放』が代表作とされる。1870年にはすでに300年の時に耐え、同時代の『ドン・キホーテ』を押しのけたこの古典は、なぜ400年目にして沈んだのか。
おそらく、『エルサレム解放』が第一次十字軍の話だからだ。
アリオスト『狂えるオルランド』は今日でも有名だが、これはイスラム軍がスペインからフランスへと侵攻したのを迎え撃つ話であり、十字軍ほど政治的に不穏ではない。ここで差がついたのではないか。
ピアノ曲『乙女の祈り』は、作曲者のご当地ポーランドではほとんど知られていないという。それは「祈り」という言葉がマルクス・レーニン主義と相容れなかったからだという(いささか怪しい話だが)。もし本当なら唖然とするような話だが、もしあの世のタッソが現世での自作の運命を聞いたら、まったく同じように唖然とするだろう。
未来における予想不可能な政治的攻撃を、たまたま運よく回避したり耐えたりすること――これは、古典の成立において運不運が果たす役割のうち、もっともわかりやすいものだろう。