2010年08月27日

倫理学といえば

 『ハーバード白熱授業』のおかげで倫理学が盛りあがっているらしい。
 倫理学には詳しくないが、というより詳しくないせいで、前から気になっていることがひとつある。
 人間が因果関係や事実を認識するときには、価値判断がその前提にある。言い換えれば、価値判断と無関係な因果関係や事実がたとえあるとしても、それは人間には認識できない。「大人は質問に答えない」だ。
 このことの極端な例は、犯罪事件の報道で使われる紋切り型のひとつ、「犯人はわけのわからないことを言っている」だ。犯人が意図してわけのわからない(わからせない)言葉を発しているケースは稀だろう。多くのケースでは、発語した瞬間の当人にとっては、まったき必然性に満ちた真剣な言葉だろう。ただその必然性が、報道という行為の前提にある社会的な関心や価値の外にあるにすぎない。薬物が見せる幻覚についての一般論ならまだしも、個々の患者が見た個々の幻覚の詳細になど、誰も構ってはいられない。幻覚を見ている真っ最中の患者本人だけが例外だ。
 さて本題。
 こちらでサンデルの著書が一部無料公開されている。そのなかに、倫理学の思考実験が紹介されている(トロッコ問題)。こうすればああなる、という因果関係だけでは人間の行動は割り切れず、因果関係以外の状況に左右されることを示している。
 しかし、そもそも因果関係の認識が価値判断を前提とするのなら、因果関係の認識が天下り式に与えられた状態での行動に、一体どれだけの意味があるのか?
 事実や因果関係が認識され組織化され単純化される前の混沌とした世界に、倫理学はアプローチできるのか?
 哲学者は問題を解くのではなく作るのが仕事なので、私と同じ問題を作った人はすでにいるにちがいない。この問題は業界ではどんな名前で呼ばれていて、どんな議論があるのだろう。

Posted by hajime at 2010年08月27日 04:31
Comments

ヒューム、及びカント。
ヒュームは「因果関係」自体を否定し、「正義」を情念や利に基づく「人工的」なものと断じた。「功利主義」という問題系。ベンサムなどさらに素敵。
カント『実践理性批判』は精読必須。カントによれば、事実があって倫理が生じるのではなく、倫理があるからこそ事実の認識が可能になる。ドイツ観念論によるコペルニクス的転回。因果関係を認識するのは「純粋理性」だが、それと明確に区別される「実践理性」が倫理にとって決定的。

Posted by: はいおく at 2010年08月27日 20:34

スコットランド学派が鍛えた「共感」概念、あるいは孟子の「惻隠の情」概念は、因果関係以前のカオスへのアプローチに関して可能性はありそうだ。

Posted by: はいおく at 2010年08月27日 20:48

 アプリオリな総合的判断はありえないとしか思えないので、どうもカントが読めません。時間がアプリオリだというのはわかるのですが、感性・悟性とか言い出すと、学者を食わせるためのネタを提供してるのかって感じです。ありえないという立場から、それでも残る有効な部分を取り出した批判的紹介、なんてのはないものでしょうか。
 実験心理学からのアプローチは可能かと考えてみましたが、被験者と実験者を区別できないのでは、という懸念があります。原理的になにか足りない感じなので、哲学の仕事ではないかと思うのですが。

Posted by: 中里一 at 2010年08月28日 17:48