前に「ラシーヌはそこまで偉大か」と書いたが、まだ読んだことがなかったので、『フェードル アンドロマック』(岩波文庫)を読んでみた。
「アンドロマック」:
TVアニメの『けいおん!』のような作品。
悲劇が『けいおん!』とは尋常ではないようだが、以下の共通点がある。
・技術的にはよく練れているが、ありえないような手はまったく見当たらない
・主な登場人物の世界観が全員ほとんど同じ
まず技術について。
『けいおん!』が技術的によく練れている、という点についてはあまり異論はないだろう。同様に、「アンドロマック」のフランス語は大変優れたものらしい。
「アンドロマック」の原作たるギリシア悲劇には、デウス・エクス・マキーナという手がよく出てくる。大詰めで神に力を揮わせて、それまでの話の必然性をぶった切りにしてしまい、不可能な和解を取ってつける。フィクションの一般原則から見れば明白な反則なのだが(そのためアリストテレスはデウス・エクス・マキーナを非難した)、この手でしか表現できないような深い絶望がある。私のいう「ありえないような手」とは、こういう手だ。
「アンドロマック」も『けいおん!』も、こういう「ありえないような手」を使わない。この世のフィクションのほとんどは、効果の成否はともかく、ありえないような手をどこかでポロッとやってしまっている。それがない「アンドロマック」と『けいおん!』には、大きな共通点がある。
登場人物の世界観について。
世界観が全員ほとんど同じ、というのは、「誰も自分の立場をわきまえない」と言い換えてもいいだろう。『けいおん!』のさわ子には、この問題が端的に表れている。軽音部員たちは社会的にはみな似たような立場(同じ学校に通う高校生)なので、広い目で見れば、全員同じ世界観でもそうおかしくはない。だが、教師であるさわ子までそこに含まれるので、露骨に違和感がある(だからこその真田アサミなのだろう)。軽音部員同士の違いよりもずっと大きな違いがあるべきなのに、そうなっていない。パースが狂っているような違和感がある。
(とはいえ逆に、もしさわ子が適切な距離感のある大人だったら、「現代の若者を描く」的な軽薄さがにじみ出ただろう)
主要な人物に限って広い目で見れば大丈夫な『けいおん!』に比べて、「アンドロマック」は全然大丈夫ではない。主な人物はみな年齢も過去も政治的派閥もまったく異なる王や王妃(過去または未来の、だが)だというのに、全員が熱狂的で破滅的な恋に焦がれており、しかも片思いの相手がつれないというので相手を責めるような下衆(全員が、だ)のうえに、臣下の誰ひとり主人の愚かさをスルーしたりツッコミを入れたりせずに大真面目で相手をする。「これ中学生が書いたの?」と言いたくなる。
というわけで、「アンドロマック」は『けいおん!』のような作品だが、『けいおん!』のほうがマシだ。
「フェードル」:
初期の一条ゆかり(『デザイナー』など)のような作品。
どのへんが一条ゆかり風かというと、イポリット(ヒッポリュトス)に恋人を配置したところだ。
原作では恋愛感情は、アプロディーテの仕業として、外部から注入されるものとして、人間個人の自律性・完結性への侵犯として、扱われる。そのような注入を受けないし望まない、自律し完結した個人としてのヒッポリュトスは、アプロディーテの手で自律をあえなく壊されたパイドラーと対比され、互いに神話的な色彩を帯びる。
一条ゆかりの作劇術には、神話的な対比・対立を容れる余地はない。恋愛は、重力のように遍在する原理として扱われる。重力から自由な物体がないように、恋愛から自由な若者がない。ラシーヌも、「アンドロマック」の総狂態ぶりを見るにつけ、一条ゆかり式の作劇をする人だったらしい。
遍在する原理としての恋愛――誰の発明だか知らないが、つまらないことを考えたものだと思う。気楽で、生ぬるい。この生ぬるさに嫌気がさしてBLや百合を手がける作者も多いのではないか。
作品に沿った感想はこれくらいにして、2作品の全体を通しての感想も述べておく。
狭苦しく、息苦しい。
原作にあった神話的な対比・対立をなくしたから、だけではない。誰ひとり自分の立場をわきまえないのも、恋愛が原理として遍在するのも、世界を狭くする方向へと働いている。
初期の一条ゆかりには、当時の世相がよく映し出されている。おそらく『けいおん!』もそうなるだろう。ラシーヌも、おそらくは17世紀フランスの貴族社会を映しているのだろう。きわめて洗練され、非の打ちどころはまったくないが、狭苦しく、息苦しい。
今から30年後に『けいおん!』を見る人々は、2010年の日本という世界をどう思うのだろう。