このページの『論語』を読んで、初めて孔子が面白いと思った。
『論語』になにが書いてあるのか、という問題をまともに議論しようとすると、おそらく万巻の書を読破しなければならない。読者諸氏の理解もてんでばらばらだろう。だから、どういう理解が妥当かという議論はせずに、私の理解だけを書いておく。
中国の春秋戦国時代、貧しい出自から出世して政治指導者に成り上がったものの、国の最上層部との政争に敗れて不遇な晩年を過ごした一人の男がいた。『論語』とは、この人物の人となりを偲ぶために編纂された言行録である。
この人物はいわゆる信念の人だった。「国政はいかにあるべきか」「政治指導者はいかにあるべきか」という問題を常に意識し主張していた。だから『論語』も、この人物の主張を伝えるために書かれたと、一般には思われているかもしれない。少なくとも以前の私はそう思っていた。だが今の私の理解では、そうではない。『論語』では、本人の主張は相対化されている。「あの人はこういう人だから、こういうことを言った」という具合に読めるように書いてある。
この読み方をすると、孔子は面白い。
「面白い」であって「正しい」ではない。孔子は単なる学者ではなく、国政に携わる政治指導者であり、政争に敗れて終わった。株に失敗して破産した人の言う「株はこうやるべし」、我が子がグレた挙句に自殺した人の言う「子供の教育はこうすべし」、などなどの主張が正しいと考える人は少ないだろう。孔子の「政治指導者はかくあるべし」という主張は、少なくとも破産した株屋程度のものだ。
儒教における理想の政治指導者、君子。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(子路篇)などと言われると、なんだか「僕の考えた超人」めいた絵空事のように聞こえる。破産した株屋の言うことならなおさらだ。だがそれは、あまりにも真に受けすぎた、つまらない解釈だ。孔子はもっと面白い。それこそ、「僕の考えた超人」を描いた投稿ハガキのように。
たとえば、『論語』衛霊公篇にはこんな投稿ハガキが寄せられている。
孔子は弟子を連れての旅の途中で戦災に遭い、食べるものがなくなって、弟子たちは立てないほどに飢えた。そのとき弟子のひとりが怒って孔子に尋ねた。
「君子でも困窮することがあるのですか」
忌憚なく言い換えれば、「孔子よお前は、お前がいつも口で言っている超人強度1000万パワーの政治指導者とは似ても似つかない、食い物さえ満足に持ってこられないような間抜け野郎だ」くらいか。
孔子は答えて曰く、
「君子でも困窮することは当然ある。困窮したとき、小人はうろたえる」
忌憚なく言い換えれば、「君子がどんなものかなんて俺が決めるんだ、俺がルールだ、わかったか。わかったら、その泣き事しか出てこない役立たずの口を閉じていやがれ」くらいか。
もし言い換えバージョンで会話したら売り言葉に買い言葉だが、元のバージョンでは、嫌味に対して減らず口で答えた格好になっている。売り言葉に買い言葉よりはまだ君子らしいとは言えるが、さて、孔子の考えるような超人強度1000万パワーの政治指導者なら、こんな減らず口を叩くものかどうか。
『論語』の編纂者は、こういう言行を外すには惜しいと考えた。であるからには、孔子の主張を真に受けさせるよりも、孔子の人となりを伝えたかったのだろう。