2011年09月08日

杉田かおる『杉田』(小学館)

 「信頼できない語り手」というが、そもそも信頼できる語り手がフィクション以外にいるとしたら、その人はアカシックレコードかなにかを見ているにちがいない。また、そんな話が対機説法より楽しいとも思えない。
 とはいえやはり信頼度の高低はあるわけで、杉田かおる『杉田』(小学館)の信頼度の低さには驚愕した。
 たとえ言っていることが1行ごとに矛盾していても、その矛盾する姿そのものが真実、という自伝もありうる。お役所の報告書のように理路整然とした自伝は、「そんなに筋の通った人間がいるものか」という疑いを免れないだろうが、反証しやすいぶん信頼度は高い(反証されるまでは)。ほとんどの自伝はどちらの極端でもなく、流行りの物語に実名を入れただけのドリーム小説もどきのパッチワークで大部分が埋まっており、埋めきれない隙間にときどき真実が顔をのぞかせる。
 さて本書のどこがどう驚愕なのか。7ページ:

 生涯の伴侶となった彼との出会いは、本書にも登場する二十四時間マラソンでトレーナーを務めてくださった方の、結婚披露パーティーだった。その席上、彼とたまたま隣り合い、話す機会を得て、話が弾んだ。それが二〇〇四年十月三十一日のことで、純粋な感性、つきない話題、奥深い人間性、確固たる個性、スマートな話し方を強く印象づけられて、忘れられない人となった。

 仮にも自分の夫(結婚から7か月後、本書の出版から5か月後に離婚)を表現するにあたって、まるで結婚披露宴の司会のような社交用の紋切型を並べるとは、いったいどういうことか。また「生涯の伴侶となった」もおかしい。本書を書いた(ゴーストライターを介してではあるが)ときすでに離婚を決めていてこう書いたのだろうか。どちらも高度なギャグだと思いたかったが、本書を読み進めるうちに、著者は本当にこういう言葉で語り考える人間だと認めないのは難しくなった。
 8~9ページ:

 彼もわたしも、ともに「ひらめき」の結婚だった。お互いの生きてきた人生、そして、今を理解するのに長い時間はまったく必要がなかった。たったの二か月でしかない短い時間の中でも、わたしたちは十分に理解しあい、お互いを思いやることができ、愛を育むことができた。
 そのなかで、いちばん大切なものは心なのだということも、あらためて確認した。感動する心、他者を思いやる心、優しさを分かち合う心、よりそう心、受容する広い心、その心を共有できたからこそ、わたしは彼のプロポーズを即座に素直に受け入れた。

 著者は「心ぉ? なにそれAV女優の名前?」というニヒリストで、このくだりを爆笑しながら書いている、と想像したかった(せめてゴーストライターはそうであってほしい)。しかし、幼少からの日蓮正宗の信者で、破門前の創価学会で広告塔として献身的に活動し、さらに破門後は学会とのしがらみを断ち切って日蓮正宗についたほどの篤信の人と知ると、そんなニヒリストとは考えづらくなった。
 著者は父のことを「詐欺師」「しかも、悪いことに、本人には詐欺をしているつもりがないらしい。本人の意思で詐欺をしているわけではなく、口が勝手に動き、人を騙しているらしいのだ。つまり天才的な詐欺師なのだった」(17ページ)と書く。著者自身も26歳のときにひどく泣かされ、たまりかねて著者の母(著者の幼いときに離婚)に、「あのお父さんは、本当にわたしのお父さんなの?」と尋ねると、「あのお父さんは、本当のお父さんじゃないのよ。血のつながりなんか全然ないのよ。安心しなさい」(37ページ)と言われる。
 著者の母なりの思いやりかもしれない、と疑うところだ。著者の母にしてみれば、夫とは離婚して久しく、娘はもう26歳であり、今さら血縁関係ごときで嘘をついても大した罪ではない、と考えてもおかしくない。が、本書の書きぶりは、こんな疑いの念を毛ほどもうかがわせない。疑いの念を隠しているのか、あるいは本当に疑いが浮かばなかったのか、いずれにしろ語り手の信頼度は底抜けに低い。
 自分の夫と「生涯の伴侶となった」と称する神経と、「血のつながりなんか全然ないのよ」を疑わない感覚は、見事に通底しており、抗いがたい説得力をもって一個の世界観を描き出している。もしこれが一から十までゴーストライターの創作であり著者とは無関係だとしたら、圧倒的な筆力とはこのことだ。ぜひ創作であってほしいと強く願うが、しかし著者の実生活を見ると、本書の描き出す世界観とあまりにも一致しているように見える。
 著者が恋人に振るう暴力の話も、やはり通底している。131ページ:

 いずれにしても、相手の優しさがほんものなのか、それを確かめようとして究極の暴力になるのだった。これでも、わたしのことを嫌わないで、優しくしてくれるの? とそんな気持ちを暴力としてぶつけてしまうのだった。(中略)
 優しい彼であればあるほど、殴ったり、蹴ったり、言葉の暴力を浴びせたり、無理難題を押しつけたりした。相手の貯金が底をつくほど、金を使わせたこともある。

 著者の書きぶりには、自分のしていることが父にそっくりだと気づいているような気配はない。
 こういう具合に本書は、驚異的なまでの一貫性をもって、語り手の世界観――せめてカリカチュアであってほしいが――を打ち出している。その結果、語り手の世界観以外の一切、つまり語られている内容が、まるで信頼できない。
 嘘をついていたり矛盾したりしている、というのではない。語り手が嘘をつき矛盾する瞬間は、語り手の物語が事実と衝突し摩擦を生じている瞬間である。語り手の物語とはほとんどの場合、流行りの物語に実名を入れただけのドリーム小説であり、事実と衝突して摩擦を生じる瞬間がなければ、元のドリーム小説と選ぶところがない。語り手はいったいどんな顔で、事実との摩擦をやりすごすのか――ほとんどの自伝とドリーム小説のあいだの決定的な違いはここにある。
 しかし著者は事実との摩擦をやりすごすことはない。著者の世界観には、事実との衝突が存在しない。「生涯の伴侶となった」と語るとき、「離婚することもありうる」という考えが浮かばないか無視する。『血のつながりなんか全然ないのよ』と言われたことを語るとき、「嘘かもしれない」という考えが浮かばないか無視する。こういう語り手にとって、いったい事実なるものは存在するのだろうか。事実を世界観に容れないのだから、語り手の信頼度は限りなくゼロに近い。
 著者にとって風景に類することは、事実をそれなりに反映しているかもしれない。潮出版社や聖教新聞社の広告には毎月のように、池田大作が名誉博士号をもらったという見出しが載る。あれはいったいどういうつもりなのかと常々首をかしげていた私だが、本書の106~108ページで語られる池田の人物像を見ると、もしかしたら池田は本気で名誉博士号のコレクションを自慢しているのかもしれない、と思える。とはいえ、こういうことはジャーナリズムの役割であり、自伝としての価値はそこにはない。
 
 本書に『杉田』というタイトルをつけた人は慧眼だ。本書には著者の世界観だけがあり、その外がない。

Posted by hajime at 2011年09月08日 00:15
Comments

杉田かおる「杉田」のアマゾンへのリンクが「非常民の民俗境界」になってます。

このコメントは不要と思えば削除してください。
しょうもないコメントで申し訳ありません・・・・

Posted by: garbagememo at 2011年09月23日 22:42

修正しました。ありがとうございます。

Posted by: 中里一 at 2011年09月28日 18:51