2012年11月16日

受精卵に思い入れる価値観

 「全てのことには、わけがある」とはTVアニメ『絶園のテンペスト』第5話のサブタイトルだが、物事が重要になればなるほど、その理由はアホらしく理不尽になる。
 たとえば、なぜ不公平はよくないのか。答え:おそらく人間の遺伝子がそうなっているから。
 サルは不公平を理解する。もし十分な技術があれば、人間の遺伝子を書き換えて、不公平な扱いを受けてもなんの苦痛も感じないようにすることができるだろう。どんな差別を受けても、デモどころかモチベーション低下さえ起こさない、理想的な労働者を作り出せるわけだ。
 さて、それは望ましいことか。

 もし答えがNOだとしたら、根拠はなんなのか。遺伝子の定めたことを、神の命令のように有難がるのか。もしYESだとしたら、技術の使い道としてそれは適切なのか。持続可能性のきわめて怪しいこの産業文明の発展に尽くすよりは、出アフリカ以前の暮らしに無限の幸せを感じられるように遺伝子を書き換えるほうがよくはないか。
 私の見るところ、どちらの見解も同じくらいアホらしい。私の見解はNOだが、これには「気分」以外の理由はなにもない。アホらしく理不尽な理由だ。とにかく私はそうさせてもらう。
 
 さて本題に入る。
 「その受精卵と私の娘たちに、どれだけ大きな違いがあるのかという思いが芽生えた」
 この記事の信憑性はさておき、筆者の受精卵への思い入れは疑いづらい。少なくとも筆者は、「これほど受精卵に思い入れる価値観が冗談とは受け取られない」という前提に立っているように見える。私の目には、女性器切除への思い入れと同じくらい悪い冗談と映るのだが、同じくらい現実に広く存在する価値観であることも知っている(「本当か?」という一抹の疑いを今でも捨てきれないが)。
 受精卵に思い入れること自体は別に悪くはない。が、悪いことの兆候である、と私は考える。
 
 社会を形成する動物にとって、「仲間の命を尊重する」という行為はきわめて基本的なものだ。不公平と同様に、おそらく人間の遺伝子はそうなっている。そして不公平と同様に、人間の社会は、遺伝子の定めに逆らうだけの強制力を備えている。
 遺伝子の定めるままの振る舞いが理想や正義かといえば、もちろんそんなことはない。遺伝子の定めるままの振る舞いとはたとえば、「アフリカの内戦で何万人死んでも気にならないが、近所の猫殺しには逆上する」ということだ。人間が猫に仲間意識を覚えるのは当然だし、遠い相手より近い相手に仲間意識を覚えるのも当然だ。だから私は、近所の猫殺しに逆上するのは是とする。人間はそういう動物だ。が、アフリカの内戦で何万人死んでも気にならないのは、どうか。「仲間意識を覚えないから当然」と是として恥じないのでは、「人間それでいいのか」と思わざるをえない。しかし、だからといって、気にしない人々の非をがなりたてるのは、なにか間違っている。
 どこがどう間違っているのか。
 人間が人間の命を尊重する理由のつまるところを、どこに求めるべきか(「人権」では答えになっていない。「人権」を尊重する理由のつまるところはどこか、という問題になるだけだ)。私はそれを、仲間意識に求める。そうである以上、「仲間意識を覚えない」という事実には目をつぶれない。気にしない人々の非をがなりたてるのは、「仲間意識とは無関係に人命を尊重しろ」と要求するのに等しい。
 そして、受精卵に思い入れる価値観は、仲間意識とは無関係に人命を尊重するもののように思える。
 
 仲間意識とは無関係に人命を尊重する価値観は、遺伝子の定めに逆らうものだ。個人の気まぐれで逆らうのなら、なにも悪いことはない。が、この場合には、社会の強制力が働いているように見える。
 遺伝子と違って、社会は容易に態度を変える。たとえばローマカトリックが「受精したら人」を「着床したら人」に変えたら、その日から上の記事は悪い冗談になる。「人命を尊重する」というきわめて基本的な行為が、悪い冗談と紙一重――そんな社会には私は安心して暮らせない。
 言い換えれば――「人命を尊重する」というきわめて基本的な行為に対してまで強制力を及ぼす社会は、個人の気分・意識・感情を軽んじるものではないか。
 
 以前にも引用したが、再掲する。ジョージ・オーウェル『気の向くままに』(彩流社)262ページより。
 「私は人々の頭上に爆弾を落とすことよりも、彼らを「フン族」呼ばわりすることの方がより大きな害をもたらすように思う。もし避けることができるならば、誰だって人を殺傷したくないことは明らかだが、単に人を殺すことだけが最大の重大事だとは私には感じられない。われわれはみんな百年以上は生きないのだし、また、たいていは「自然死」と呼ばれる、みじめでぞっとする形で死ぬ。最も悪いことは、平和な生活を不可能にするような行動をとることである。戦争が文明の骨組みを破壊するのは、それがもたらす物理的破壊によってではなく(戦争の結果は、最終的には世界全体の生産能力を増大することにさえなるかもしれない)、また人間の殺戮によってでさえもなく、憎しみと不誠実をはびこらせることになるからである。あなたの敵に銃弾を撃ち込むことによってあなたは敵にもっともひどい害を加えるのではない。そうではなく、敵を憎み、その敵についての嘘を作り出し、その嘘を信じるように子供たちを育てることによって、もっともひどい害を加えるのだ。それにまた、再度の戦争を避けがたくするような不当な講和条件をやかましく要求することによって、いずれ滅び去る一世代の人間に対してだけではなく、人類そのものに打撃を与えているのである。」
 個人の気分・意識・感情を軽んじる社会は、軽々しく敵を「フン族」呼ばわりするのではないか。「そんなものは社会の基盤ではないから気にしない」といって。
 
 個人の気分・意識・感情は、社会にとってはアホらしく理不尽なものだ。だから社会は強制力を発動して、筋の通ったものにしたくなるのかもしれない。その行き着く先は「理想的な労働者」作りだろう。社会の社会による社会のための社会にふさわしい構成分子、というわけだ。
 私はそういう社会の独善と戦う。理由はもちろん、気分だ。

Posted by hajime at 2012年11月16日 02:14
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