2013年01月06日

百合だからコラム百本 第1回 はじめに

 百合が流行ったり廃れたりする今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしでしょうか。ずっと廃れっぱなしの日々が長かった身としては、流行り廃りも悪くないものです。
 私は最近、きらら系四コマの隆盛を追いかけるべく、きらら系まんが誌を全部読むという挑戦をしています。挑戦です。「間違ってさえいない」というのは疑似科学に対する批判ですが、この伝で言えば、「駄作でさえない」作品があまりにも多いように思えます。私が根本的にわかっていないのではないかという恐れが強いので、こまごまとした感想などはまだ言えません。
 そんな私が今日から始めるのが、この連載コラムです。『百合だからコラム百本』。毎週日曜日、百合のあれこれについて考察します。二年ほどかけて百本書く予定ですが、ネタ切れの際にはなにとぞご容赦ください。

 
 社会性。
 「そういう感情は一過性のもので大人になれば」というあのお馴染みのセリフ。
 「家庭を持って子供を育てて」というあのお馴染みのプレッシャーを感じる主人公。
 障害克服展開には必ずといっていいほど出てくる、これらのセリフやプレッシャーは、社会性がその根源にあります。「異性愛強制社会」とその筋では言います。
 しかし、社会をよくする・批判するというのは、百合の興味ではありません。
 そもそも、「フィクションにおけるこういう言説は異性愛強制を維持・強化している」という見方だって成り立ちます。「『子供のときは社会のプレッシャーに弱かったから、異性愛強制社会を翼賛していた』という反省のセリフこそお馴染みになるべきだ」と言われたら、それは政治的には正しいでしょう。
 しかし、政治的に正義であることは、百合の役割ではありません。
 「天使を描いた絵はよい。悪魔を描いた絵は悪い」という世界には、百合の居場所はありません。利害や善悪は、百合を計る物差しではありません。
 (「天使を描いた絵はよい。悪魔を描いた絵は悪い」という価値観はお伽噺の世界のように思えるかもしれませんが、「悪魔」を「悪徳」に置き換えれば、現在の日本でもこの価値観は生きています。たとえば都条例の「不健全図書」)
 では百合は、すべてをモチーフとして、ネタとして、絵の具として使うだけなのか。
 もし百合が、モチーフを自ら探し出そうとせず、「ありもの」ばかりで済ませるとしたら、答えは「そのとおり」となるでしょう。もちろん、市販の絵の具だけで描かれた絵にも傑作はいくらでもあります。しかしそうした作品は、百合の可能性を百パーセント感じさせるものではありません。
 この世には、百合だけがモチーフとして、ネタとして、絵の具として使えるものが、たくさんあります。百合という眼鏡を通して見るのでなければ、その存在に気づくことさえできないものです。そういうものを、どこから探し出すのか――社会性です。
 (間違っても「社会」から探そうとしてはいけません。社会はありものの寄せ集めです。最大のありものは貨幣である、と言えばわかるでしょうか)
 というわけで、『百合だからコラム百本』の第一のテーマは、「社会性」です。
 
 美。
 人が日常生活を送る、いやそれどころか「立派な人」と認められるには、利害と善悪を扱えれば足ります。そしてもちろん百合は、「立派な人」が関わるべきものではありません。しかし百合は存在します。
 なぜ全人類は年中無休で二十四時間、「立派な人」を目指さないのか。「立派な人」だけの世界がディストピアとしか思えないのは、なぜなのか。
 この世には、百合が存在すべき理由があります。仮にここではそれを「美」と呼んでおきます。『百合だからコラム百本』の第二のテーマは、こういう「美」です。
 
 次回のテーマは、「成長」です。『紅茶ボタン』『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。

Posted by hajime at 2013年01月06日 19:13
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