篠原千絵に『海の闇、月の影』という作品があります。あらすじを一行にまとめれば、「双子の姉妹が愛憎の超能力バトルを繰り広げるアクションサスペンス」。
もう少し詳しく説明しましょう。
非常に仲のいい双子の姉妹(主人公と敵役)が、同じ男(彼氏役)を好きになり、彼氏役は主人公を選ぶ。その直後、天変地異の影響で、姉妹はバトル系の超能力を得る。同時に敵役は性格が一変して、支配を好み殺人をためらわないようになる。主人公の性格は変わらなかったのに敵役だけがこうなったのは、敵役が彼氏役に選ばれなかったことが影響している。敵役は多くのものを支配しようとするが、とりわけ彼氏役に執着し、そのために主人公を殺そうとする。敵役を止められるのは主人公だけであり、主人公は超能力バトルで敵役の行動を阻む。しかし主人公は敵役を殺そうとはしない。敵役が天変地異の前に戻り、再び仲良くなれることを主人公は望んでいる。
読者諸氏はこのあらすじから、どんな作品をご想像なさったでしょうか。
実はこのあらすじには、作品の核心ともいうべき、あるモチーフが欠けています。それは、主人公と敵役のあいだの幼児的原初的一体感です。「生まれる前から一緒」「二人でひとり、一心同体」という、自他の境界線が曖昧な感覚です。
この感覚は楽園体験として頻繁に回想されます。その際、二人の容姿が同じであることにより、絵としても強く明確なインパクトをもって打ち出されています。おそらく作者はこれが狙いで、主人公と敵役を双子に設定したのでしょう。
このモチーフをあらすじに加えましょう。
主人公と敵役のあいだの幼児的原初的一体感は、彼氏役の選択によって失われる。主人公と敵役は二人とも、この感覚を取り戻したいと願う。しかし敵役のほうは、取り戻したいと願いつつ、絶望している。なぜなら、自分は彼氏役に選ばれなかったから。敵役が彼氏役に執着するのはそのためである。敵役が主人公を超能力バトルに引きずり出すのも、失われた一体感を求めるがゆえのあがきである。
どうやら百合らしくなってきました。
あらすじの説明はこれくらいにして、ここで問題です。この『海の闇、月の影』という作品は、彼氏役が女性でも成立するでしょうか?
私は、成立しないと思います。
どうしてか。双子の姉妹の幼児的原初的一体感というモチーフが、読者の目に説得力をもって映るには、「彼氏ができる」という「成長」とのコントラストが欠かせない、と感じるからです。
未分化の混沌から、整然とした分節化へ。
言い換えると、無限定な「好き」から、「家族愛」「友情」「恋愛」へ。
成長というモチーフは、このような動きを、どうしても含んでいるように思います。
百合はこのような動きを、どう扱うでしょうか。CCさくらの有名なセリフ、「きっとさくらちゃんとは違う意味の『好き』ですけど」は、このあたりの機微をよく伝えるものです。無限定な「好き」にはとどまらないが、整然とした分節化、すなわち「お付き合い」へとまっすぐ進むこともできない――この宙吊り感は、百合の大きな魅力のひとつです。この宙吊り感を、「成長をめぐるサスペンス」と、仮に呼んでおきましょう。
成長をめぐるサスペンスのなかでは、未分化の混沌も、厳しい吟味の目にさらされます。幼児的原初的一体感を、無邪気で純粋な楽園体験として描き出すことはできません。だから『海の闇、月の影』という作品は、彼氏役が女性では成立しない、と私は感じます。
しかし、『海の闇、月の影』は、百合的に素晴らしい作品なのです。無邪気で純粋な楽園体験への強い思い入れ――これは、けっして忘れてはいけない百合の重要なモチーフです。
成長をめぐるサスペンスは、百合の大きな魅力のひとつです。が、必須ではありません。
双子の姉妹がかつての幼児的原初的一体感を回想し、取り戻したいと願う姿は、間違いなく百合の大きな魅力を放っています。しかしこの魅力は、成長をめぐるサスペンスとは両立しません。「彼氏ができる」という「成長」によって楽園を追放されたがゆえに、回想のなかの楽園が楽園として光り輝く、という仕組みになっているのです。
百合はしばしば、成長をめぐるサスペンスを展開します。しかし、型にはまった成長(=彼氏ができる)も、退けるべきではありません。それを使わずには描けないような百合の魅力もあるからです。もちろん、型にはまった成長を型どおりに寿ぐような作品は論外ですが。
「主人公に彼氏ができる百合」の話をしたところで、次回のテーマは「男」です。なお『紅茶ボタン』と『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。