姉妹という関係は、人類の理想を託すのに最適――そんな思想が、この世にはあるようです。
この思想は、特に20世紀前半に盛んだったようです。たとえば、小杉天外『魔風恋風』。主人公の初野(女学生)は軽薄な陰謀家で、ほとんど誠実さを感じさせませんが、唯一、妹に対してだけは深い情愛を見せます。また、吉屋信子の家庭小説。姉妹の仲がいい、を通り越して、天国にしかありえないような理想的な人間関係として描かれている作品を散見します。
戦前の女学校における「エス」関係では、しばしば年上の相手を「お姉様」と呼んだとされます。事実がどうだかは知るよしもありませんが、呼んだと「される」のには、それなりの理由があるはずです。
姉妹という関係は、批判的な検討を免れる特権的な関係であり、姉と妹はまるで天使のような汚れのない無条件の愛を互いに抱く――そんな思想が、この世にはあるようです。
この思想のことを、「姉妹天上愛思想」と仮に呼ぶことにします。
まるで天使のような汚れのない無条件の愛。それはそれで百合的に素晴らしいのですが、この思想が大きな存在であるがゆえに失われるものもあります。
具体的には、姉妹間の恋愛をメインに据えて傑作になったシリアスな作品を、私は見たことがありません。
コメディなら『Candy boy』があり、恋愛でなければ『海の闇、月の影』があります。が、恋愛とシリアスの組み合わせは、どうも難しいようです。
シリアスな恋愛物は、一種の聖杯探索物語です。主人公は愛という名の聖杯を求めてさまようわけです。
日常生活のなかに「はいこれ聖杯。探索終わり」と聖杯を出したらコメディなので、聖杯を出せる特殊な空間を用意しなければなりません。たとえば、『ベルサイユのばら』のオスカルとアンドレは見事な解です。
聖杯探索物語のクライマックスは、聖杯を出せる空間に入ることです。そこで聖杯を手にするか、あるいは失敗するかして、空間の外へと立ち去る――これがシリアスな恋愛物の大筋です。
ところが、姉妹天上愛思想においては、この聖杯が日常生活のなかに「はいこれ聖杯」という勢いで存在します。姉妹という関係が「聖杯を出せる空間」になっている、とも言えます。
姉妹天上愛思想を無視して書くことも、理論上は可能です。これほど大きなおいしいモチーフを外してまで書くべき「姉妹」があるのなら、ぜひ見てみたいものです。しかしとりあえずここでは、姉妹天上愛思想を取り入れるものとします。
「はいこれ聖杯」というレベルで聖杯が現にあるのに、聖杯を探索するとは、どういうことか――姉妹間の恋愛をメインに据えるシリアスな作品は、この問題に解を与えなければなりません。
姉妹の片方が「私は姉妹天上愛思想を信じない、その聖杯は偽物だ」と主張する、というのは一案かと思います。しかし、なにを根拠や動機にして「その聖杯は偽物だ」と主張するのかと考えると、なかなか難しいものがあります。
もっとも安易に考えると、「性欲や性行為がないから偽物」となります。しかしこの主張をシリアスで押し通すのは、かなり難しいでしょう。
「恋人と排他的ではないから偽物」「生涯添い遂げないから偽物」等々――全部まとめて、「ヘテロの恋愛結婚カップルがそんなに偉いのか?」の一言で退けられます。
姉妹天上愛思想によれば、姉妹という関係は人類の理想そのものです。理想そのものであるがゆえに、そこからはなんの動きも生じない、と言えるでしょう。悟りの境地とは、こういうものかもしれません。
次回のテーマは、「セクシュアリティ」です。なお『紅茶ボタン』と『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。