「ポリガミー」という言葉があります。原義は「多重婚」ですが、「一夫多妻・一妻多夫」のほうが訳として適切のようです。重婚というと、既婚を隠して別に婚姻することになりますので。
一夫多妻というと現代日本では、「本妻と愛人」かポルノか、ということになります。いずれにしろ基本的には「一夫」で、一妻多夫となると、人間が犬に噛み付いたような出来事と思えます。
(「人間が犬に噛み付いた」的なエピソードの持ち主として、アイン・ランドをご紹介しておきましょう。妻妾同居ならぬ夫間夫同居をしていた人物として有名です)
さて、「一婦多妻」。本妻と愛人か、ポルノか、人間が犬に噛み付いたような出来事か、はたまた一部のイスラム圏か。これに今風の恋愛を掛けあわせれば、『サザエさん』と『デビルマン』を掛けあわせたようなカオスが出現することでしょう。
もちろん、『サザエさん』と『デビルマン』を掛けあわせたような作品など、めったにお目にかかれるものではありません(ちなみに私の知るかぎり、これにもっとも近い作品は『兵士シュヴェイクの冒険』です)。賢明なる読者諸氏におかれましても、「どうすればそんな掛けあわせができるのか、想像もつかない、わけがわからない」というのが正直なところではないでしょうか。
想像もつかない、わけがわからない――そういう作品はやはり、「わけがわからない」ものになりがちです。しかし、「想像がつく」「わけがわかる」という方向に振り切った作品は、わざわざ作品という形に仕立てるまでもないでしょう。「かくかくしかじかです」と説明するだけで十分ですし、実際、そういう作品もあります(デュシャン『泉』など)。
「わけがわからない」と「作品として仕立てるまでもない」、どちらに振り切るでもなく舵取りをしてゆくのが作者と読者の技ですが、一婦多妻は「わけがわからない」方向へと引きずられやすいモチーフではないかと思います。以下では、舵取りのお役に立てるよう、いくつかの示唆を並べてみます。
ポルノ。
キリスト教神学の天使論の一説によれば、熾天使は常に神の玉座の周囲を回りながら、神を讃える歌を歌っているとのことです。なにやら、一夫多妻のポルノに登場する「妻」たちに似てはいませんか。
この天使論を唱えた人がなにを思っていたのかは知りませんが、己を讃える天使をはべらせる神の姿は、あまり感心できたものではないように思えます。
この批判をそのままコメディにするか、あるいは大真面目に護教論を展開するか、はたまた崇高と下劣の一石二鳥を狙うか。いずれにしろ、百合というフィルターはきっと役に立つでしょう。
本妻と愛人。
現在の日本では、もっとも身近なポリガミーでしょう。読者諸氏のなかには、ご自身の体験から思うところがあるかたも、少なからずおられると思います。ある方々にとっては、平和なものとして。別の方々にとっては、平和なふりをしなければならないものとして。
それらの体験(もちろん想像でもかまいません)を構成する要素は、そのまま百合に引き写せるものではありません。ある種の「見立て」が発生することになります。こういう見立てを経ることで、もともとは本妻と愛人の話だったものが、この世界全体を映し出す小さな鏡になるでしょう。こういう鏡を「寓話」といいます。
一部のイスラム圏。
「太陽は東から昇る」のような話で恐縮ですが、日常生活における一夫多妻同居は、たいてい、不幸なものとされています。
イランかどこかの笑い話に、「妻が怠け者なことに困った夫が、二人目の妻をもらってきたら、第一夫人が飛び起きて猛烈に働きはじめた」というのがあります。昔のエジプト(昔から一夫多妻は稀な地域です)の女性の墓には、「彼女の夫は彼女のほかに妻を持たなかったので、彼女は幸せだった」という決まり文句がよく見られるそうです。
この不幸を、今風の恋愛と掛けあわせると、シンプルで優雅な悲劇になりそうです。
次回のテーマは「性行為の侵襲性」です。なお(略)