相変わらず前回の続きです。
「様式・流儀・ジャンルを、疎遠で動かしがたいものと見なし、鋏ではなく法律と見なすと、その創造は、創造的ではなくなる」。
これとは逆に法律を、自分の手のなかにある親しいものとして、いじろうと思えばいじれるものとして、「狭い意味では確かに合法だが、市民の期待には間違いなく反している」という結果を導ける道具として、扱うこともできます。こういうことは企業の会計でよく行われており、「創造的会計」と呼ばれます。また、エジプト政府がピラミッドに著作権を設けようとしたという話は、著作権を創造的に扱った例といえます。(ただしこの話自体は、政府高官のぼやき(文化財保護の財源が欲しい)が誇張されて報じられた誤報のようです)
創造的会計よりは穏やかなものとして、スポーツのルールがあります。スキーのジャンプ競技のV字ジャンプは、いいのか悪いのか(発明当初は飛型点を引かれました)。性転換した元男性が女子プロテニスプレイヤーとして活動するのは、いいのか悪いのか。どんな議論をしても、どんな投票をしても、万人を承服させるような答えは出せないでしょう。
「狭い意味では確かに合法だが、市民の期待には間違いなく反している」「万人を承服させるような答えは出せない」。私はこういうものが大好物で、ほとんど四六時中そればかり追い求めている人間ですが、もちろん、すべての人が四六時中こんなものばかり求めて暮らしているわけではないことは承知しています。
上の絵は『初めての説教』、下は『二度目の説教』という題です。
結構な技で描かれています。罪のない微笑みを誘う社交的な絵です。社会の期待によく応えて機能する、立派な絵だと言えるでしょう。
装飾的、という形容を、私はこれらの絵に与えたいと思います。
次回に続きます。なお(略)