中世や現代の美術に接する生活を送っていないかぎり、遠近法に従わない絵を見る機会は稀だろうと思います。遠近法に従わないコマを多用するまんがは、それだけで前衛的と見なされるはずです。
その一方で、大多数のまんがの大多数のコマは、遠近法以前の西洋絵画のルールにも従っています――重要な人物ほど大きく描く、というルールです。このルールも、遠近法ほど絶対ではないにしろ、従わない絵を見る機会は多くありません。
こうした制約は、絵を「理解する」作業を容易にしてくれるので、まんがにとっては欠かせないものでしょう。たとえば、まんが版『風の谷のナウシカ』は、特に前半では、こうした制約をしばしば無視しており、理解に手間取るものになっています。
現代日本で美術と縁のない日常生活を送るかぎり、遠近法も、「重要な人物ほど大きく描く」ことも、ルール、制約として感じられます。富士山といえば八の字のように描くべし、三日月といえばトルコ国旗のように描くべし、双眼鏡の視野といえば民主党のマークのように描くべし、のような。
しかし、西洋絵画が遠近法を見出したときには、事態は違っていたように思われます。下の絵をご覧ください。
少々やりすぎ、とは思いませんか。
こういう、やりすぎ感あふれる遠近法の使い方は、15~16世紀にはよく見られるものです。当時の画家は、レオナルド・ダ・ヴィンチのような偏屈者もいますが、基本的には芸人です。ケレン味が過剰になるのもしょうがない、という理解も妥当でしょう。しかし現在の日本では、遠近法でケレン味を大盛りにした絵を見る機会といえば、ほぼ、騙し絵のたぐいに限定されます。(もっとも、3D CGが一般的になったので、今後は様子が変わるかもしれません)
当時と現在では、あまりにも多くのものが違うので、なにを言っても乱暴になりますが、それでもあえて言うことにします――当時の人々は遠近法を使っており、現在の人々は遠近法に従っている、と。
遠近法を使うことと、遠近法に従うことは、どう違うのか。
国会議員でも官僚でも法曹でもない一般人が法律を動かす方法といえば、最高裁判決の当事者になるしかなく、原告・被告・被告人のどれをとっても人生の一大事です。そこまで踏み切らない一般人は、法律に一方的に従うだけです。善かれ悪しかれ、夜空の星のようにはるか遠く、自分の手の届かないところにある――これが一般人にとっての法律です。
使う、とは、たとえば鋏です。鋏を店で選んで買う。ブリスターパックを開けるときに、鋏を使うべきかどうか考える。切り絵をして遊ぶこともある。もっといい鋏が欲しい、と思うこともある。「もっといい鋏が欲しい」とは別に思っていなかったけれど、実際にもっといい鋏を使うと感動する。「もっといい鋏が欲しい」と思うのだけれど、それがどんな鋏かは具体的にはわからない。自分の使う鋏にまったく無関心な人もいれば、研ぐ人、さらには自作する人さえいる。
西洋美術が遠近法を見出したとき、それは鋏でした。今では、法律へと近づいています。
さて今日の本題です。
様式・流儀・ジャンルは、鋏でしょうか。法律でしょうか。
私の考えはこうです――様式・流儀・ジャンルを、疎遠で動かしがたいものと見なし、鋏ではなく法律と見なすと、その創造は、創造的ではなくなる。
次回に続きます。なお(略)