本書には大きな違和感を覚えたので、途中で読むのをやめた。
著者はあまりにもしばしば、自分の「感覚」「体感」のみを根拠として、その自分の「感覚」「体感」を書いている。人間のすることはみなどこかで必ず本人の「感覚」「体感」につながっているが、それ以外の根拠を持たない行為はたいていが個人的なものだし、公の行為としては胡散臭い。著者の主張が間違っているとも的外れとも思わないが、なにしろ根拠がしばしば本人の「感覚」「体感」だけなので、「それは間違ってさえいない」という次第である。
というわけで以下は私の「感覚」「体感」を書く。
「子ども」の出生に関しても、またその養育に関しても、徹底した自己決定権が行使可能だとすれば、「産まれてきた子ども」もまた、両親の意志と決断の産物として、「親に属す者」とされざるを得ないからである。眼前にいるこの「子ども」は、自分たちが産むことを決断し、産まれるべく行為した結果として、いまここに存在している。こうした前提が、意図せざる意図として親たちの意識の底に流れているとしたら、巷間に非難の高い「親のエゴイズム」も、それなりに当然と肯定せざるを得まい。(61ページ)
ここでいう「親のエゴイズム」は、たとえばDQNネームとして現れる。「公共空間ではなく親子の親密空間のために子供の名前があるのだから、親にとってキラキラと輝くような名前でないと、子育てが楽しくなくなってしまう」。もちろんこういう心理は今に始まった話ではないし、DQNに限った話でもない。たとえば森茉莉という名前が当時どれほど「親(=森鴎外)にとってキラキラと輝くような名前」だったか、そして森茉莉にとって「パッパ」がどんな存在だったか。
ここからが本題。
この自己決定権は、親にはエゴイズムを、社会には「親の責任」をもたらす。
自由のあるところには責任が生じる、とされる(「される」? しているのは誰か?)。「産まない自由」がある以上は「産んだ責任」がある、となる。
この責任は、住宅ローンの数倍は厄介だ。住宅ローンが払えなくなった人には、自己破産という道がある。親の責任には、少なくとも現在の日本では、自己破産に相当する道がない。親の責任を住宅ローンと同列に論じるのは悲しい話だが、DQNネームに象徴されるような親のエゴイズムが当然のものとして受け止められる一方で、親の責任がロマンティックなものでありつづけると期待するのは難しい。
ロマンティックなものとしての親の責任とはどんなものか。たとえばーーあるシングルマザーが、男についてゆくために、幼い我が子を捨てる。そのシングルマザーが男に捨てられて、「母性」に目覚めて舞い戻ってくる。幼子の世話を押し付けられた人々は、のこのこ戻ってきたシングルマザーを非難することもなければ養育費を請求することもなく、それどころか聖書の放蕩息子の物語のように歓迎パーティーを開いて喜ぶーーというようなものだ。なお、この物語において「幼子の世話を押し付けられた人々」とは納税者であり、あなたもその一員だ。
親の責任にも自己破産に相当する道を用意すべきだ、という議論は現実的ではある。しかし、これほど乱暴な手段が、住宅ローンの自己破産よりも盛んに行われるとは思えない。あったほうがいいが、ほとんどのケースでは役に立たないだろう。
いったいどこで間違ってしまったのか。
私の答えーー「自由のあるところには責任が生じる」というルールを、不適切な領域にまで適用してしまっている。
成文法と裁判、貨幣、選挙、これらはみな人為的なルールであり、ある種のゲームと見なせる。人為的なルールであるからには、別のルールがありうるし、現行のものより優れたルールもありうる。英米法は今でも成文法と判例を同等に扱う。かつては貨幣といえば金貨と交換できるはずのものだった。選挙は通常、複数の立候補者や政党のうちひとつを選んで投票用紙に書く(択一投票)というルールでなされているが、有権者各人がすべての立候補者や政党を5段階で採点する(採点投票)というルールもあり、こちらのほうが多くの面で優れているものの、既存の国会議員(全員が択一投票で当選した)にとっては不都合だという致命的な欠点がある。
「自由のあるところには責任が生じる」というルールも、人為的なルールであり、ゲームの中にしか適用できない。そのゲームの範囲は、上に列挙した領域すべてを合わせたよりも広く、公の領域全体とほぼ等しい。
そして、出産と養育は、このルールが適用されない領域に属する。あるいは、属するべきである。
DQNネームのような親のエゴイズムは、すべての心ある人々に、痛ましさーー出奔中の放蕩息子が父親にもたらすような痛ましさをもって受け止められるべきである。納税者は、捨てられた幼子の養育費ばかりか、舞い戻ったシングルマザーを歓迎するパーティーの費用をも、有人宇宙開発への支出と同じように喜んで担うべきである。どちらも経済的なリターンを期待しない、人間のロマンティックな性質を満たすための支出なのだから。
壮大な夢想ではある。だが不可能とは思わない。