2016年07月29日

これから五輪に起こること

1. 状況は見た目より悪い

 最初が一番辛い。だから、こちらに来て、我々からのハグを受け、座ってほしい。我々自転車界は今から、大切なことを君に伝えよう。

 これは氷山の一角だ。

Seven things track and field can learn from cycling

 これまでのあらすじ:ロシアは国家の総力を挙げて、アスリートへのドーピングとその隠蔽を行っていた。問題の発覚を受けてWADAは、リオ五輪におけるロシア選手団の排除をIOCに勧告した。しかしIOCは勧告を受け入れず、「各競技団体が問題なしと判断した選手は出場可」「ただし、過去にドーピングで処分されたことのある元ロシア代表選手は不可」という決定を下し、全世界(ロシアを除く)に非難されている。

 上に引用した記事は、2016年1月、問題がまだロシア陸上界にとどまっていたときに書かれた。半年という期間は、予言の当たり外れを云々するには短いが、とりあえず今のところ事態は上の記事のとおりに進んでいる。予言のとおり、ロシア陸上は氷山の一角だった。ロシアの少なくとも30競技が、国家による組織的なドーピング隠蔽を受けていた。

 これで氷山が全貌を現したと思うなら、早とちりか、夢の見すぎか、でなければポジショントークに騙されている。「WADAによれば、ロシアは国家の支援と保護のもと猛烈なドーピングを行っていたが、それでもなお、ロシアのアスリートは、良好という程度だった――圧倒的ではなかった。あとはわかるな?」同前

 「よろしい、わかった、ロシアは氷山の一角だ。何をどうすべきかもわかったし、IOCはすべきでないことをしたとわかった(でもそれは知ってたよ)。それで、これから物事はどうなっていくんだ?」

 

 自転車ロードレース界でドーピング問題が深刻になったのは、1990年代のことだった。1990年にEPO(エリスロポエチン)の大量生産が始まったのが原因だ。EPOの効果は、それまでのドーピングとは桁違いで、平凡なプロ選手をツール・ド・フランスの表彰台へと押し上げることができた。EPOの蔓延により、それまでツール・ド・フランスの表彰台にいた選手は、平凡なプロ選手へと押し下げられた。グレッグ・レモンは、「1990年代に入ってから、多くの選手が異常にパワーアップした」と述べている。

 EPO時代が始まる直前、1989年のツール・ド・フランス出場チームの、自転車界以外の冠スポンサー(チーム名に出るスポンサー)を以下に挙げる。

☆Reynolds アメリカでシェア第2位、世界で第3位のアルミ企業

☆Philips Dupont Magnetics 電機・家電メーカーのフィリップスと化学メーカーのデュポンの合弁企業(PDM)

Kelme スペインのスポーツアパレルメーカー

☆Helvetia Insurance スイスの保険会社。チューリッヒの1/6程度の規模

Systeme U フランスのスーパーマーケットチェーン(Super U)。カルフールの1/5程度の規模

☆Fiat

○コロンビアコーヒー生産者連合会

Groupe Zannier 子供服メーカー(Z)

☆Peugeot

☆パナソニック

WANDER AG スイスの食品メーカー

☆日立

☆7-Eleven

☆American Airlines

Paternina スペインのワイン商社

Marcos Eguizabal スペインのワイン商社

Carrera Jeans イタリアのアパレルメーカー

Fagor スペインの家電メーカー。従業員6,000人

Chateau d'Ax イタリアの家具メーカー

☆東芝

Superconfex ベルギーの衣料品店チェーン

☆Opel

TVM オランダの保険会社

 ☆は、経営陣の株主に対する説明責任が厳しく問われるであろう大企業。○は、ナショナリズムや政府色の強いスポンサー。

 今年、2016年はどうか。

☆AG2R La Mondiale フランスの保険会社。チューリッヒの1/7程度の規模

○Samruk-Kazyna カザフスタンの国有企業の連合体

Drapac Capital Partners アメリカの投資会社

○☆Dimension Data Holdings 南アフリカのIT企業。従業員26,000人

Omega Pharma ベルギーの医薬品メーカー(Etixx)

UNILIN ベルギーの床材メーカー(Quick-Step)

○Francaise des Jeux フランスの宝くじ会社。半国有、日本で言うところの第三セクター

IAM-Independent Asset Management SA スイスの投資会社

Lampre イタリアの鉄鋼メーカー

○ベルギー宝くじ公社

Soudal ベルギーの化学メーカー

○Movistar スペインの携帯電話キャリア。日本のNTTドコモに相当

○☆Orica Limited オーストラリアの採鉱機械メーカー。従業員12,500人

Dr. Wolff-Gruppe GmbH ドイツの医薬化粧品メーカー(Alpecin)

○Russian Global Cycling Project foundation ロシアの国営企業の共同出資

○オランダ国営宝くじ

Van Eerd Group オランダのスーパーマーケットチェーン(Jumbo)

Sky UK Limited イギリスの衛星放送事業者

Tinkoff Bank ロシアの銀行。主な事業はクレジットカード

Massimo Zanetti Beverage Group イタリアのコーヒー会社(Segafredo)

BORA GmbH ドイツの台所機器メーカー

Cofidis フランスの消費者金融会社

Direct Energie フランスの新興電力会社

Fortuneo フランスの銀行

Vital Concept フランスの健康食品会社

 1989年と2016年を比較すると、☆の数が11から3に減り、○の数が1から8に増えた。○と重ならない☆は1つしかない。

 ☆の数の減少は、チームのスポンサーとなる企業の経営陣が、「なぜそんなことのために会社の金を使うのか?」という株主の疑問に答えられなくなったことを示す(オーナー社長ならそんな疑問を突きつけられることもないので、相変わらず好きなようにスポンサーをしている)。EPO時代とランス・アームストロング時代のドーピング問題が影を落としている。「自転車ロードレースを支援することは社会のためになり我が社のためになる」という説明が受け入れられなくなったのだ。

 五輪のこれからを占う上では、○の数が増えたことのほうが重要かもしれない。フランス、スペイン、ベルギー、オランダ、これらはいずれも伝説的な名選手を多数輩出してきた自転車ロードレース大国である。伝統文化を保護するために、公金に近い金を出さざるを得なくなっている状況が読み取れる。南アフリカとオーストラリアはおそらく、1989年のコロンビアと同様、自国の選手をツール・ド・フランスに送り込むことを、「国のためになり我が社のためになる」と説明して受け入れられる状況にある。そして、カザフスタンとロシア。ロシアにとって五輪が「参加することに意義がある」ものでないことは、明らかになったばかりだ。国情がロシアに近いカザフスタンで、事情が大きく異なるとは考えにくい。

 五輪でも、☆の減少と○の増加が起こるだろう。五輪というイベントと、五輪を頂点とする競技はこれから、現役の経済活動ではなくなり、保護されるべき伝統文化となるだろう。株主のような存在から隔離された、公金に近い金への依存度を高めるだろう。1989年の自転車ロードレースは、現在の五輪よりもはるかに経済的に自立していた。五輪なら、公金への依存度が90%を超えてもおかしくない。柔道も体操も水泳も、企業スポンサーが皆無となり、すべて公金で賄われる世界だ。

 「柔道も体操も水泳もすべて公金で賄うだなんて、少なくとも日本でそんなことがありうるのか?」と疑問に思うことだろう。ここでも自転車ロードレースの経験が参考になる。先に述べたとおり、フランス、スペイン、ベルギー、オランダは伝統文化を保護するために、公金に近い金を出している。しかし、これらの国々にも勝る伝統を有しながら、そういう金を出していない国がひとつある。イタリアだ。伝統国だからといって必ずしも、伝統文化を保護するための金を出すわけではない。日本もおそらく多くの場面で、イタリアと同じ選択をせざるを得ないだろう。

 「五輪を支援することは社会のためになり我が社のためになる」という説明が受け入れられなくなり、公金への依存度が高まり、しかし多くの国が支出を渋るとき、頼りになるのはどんな国か? 五輪のことを、保護すべき伝統文化、「参加することに意義がある」ものだと考えている国ではない。利用価値があるもの、そのために国家が総力を挙げる価値のあるものだと考えている国――ロシア。

 五輪の価値を破壊した国に五輪が依存する、とは吐き気のするような話だが、自転車界には経験がある。アンディ・リースだ。BMCとフォナック(現在のSonova)のオーナーであるアンディ・リースのことを、元トップ選手2人(タイラー・ハミルトンとフロイド・ランディス)が宣誓供述で、「リースは自分のドーピングのことを知っていた」と述べている。これに対する自転車界の反応は? 完全無視だ。アンディ・リースは現在もツール・ド・フランス出場チームのスポンサーであり、自転車界から追放されるどころか、自転車界のセレブでありつづけている。

 まとめ その1:

・五輪というイベントと、五輪を頂点とする競技は、企業スポンサーを失い、公金への依存度を高める

・企業スポンサーが抜けた穴を公金が100%埋めることはできず、そのため元凶のロシアがかえって影響力を強める

 

 将来像が見えたところで、次は時間軸について。

 今、状況はとても悪いように見える。これより悪くなることはありえない、と思うかもしれない。だが、まだ底を打ってはいない、それどころか大爆発はこれから起こる、というのが自転車界の経験だ。

 1996年、自転車ロードレース界の状況はとても悪いように見えた。EPOの蔓延の結果、レースは命がけのチキンレースとなった。多くの選手が、致死量ぎりぎりまでEPOを増やすか、それとも平凡な選手として終わるかの選択を迫られていた。致死量を越えて死亡したとみられるケースが、少なくとも10件あると報告されている。1997年、UCIはヘマトクリット値を規制し、チキンレースは終わった。しかしすでに多くの大企業が、ドーピング問題のリスクを把握して手を引いていた。

 1998年、ドーピング問題のリスクが爆発した。フェスティナ事件である。

 昔のツール・ド・フランスは景気が良く、大量のお土産が取材陣に渡された。大会受付会場に行くとまずはフィアットの大きなバッグが渡されるのだが、各スポンサーのブースでTシャツやら酒やら、お土産やらが与えられ、あっというまにバッグが膨れ上がったものだ。

 しかし、1998年にフェスティナのドーピング事件が起き、それを境にお土産がいっさいなくなった。1年後の1999年大会では、ボールペン1本だけになったという衝撃的なスポンサーの撤退ぶりを今でもはっきりと覚えている。

“大バカ大賞”だった2000年のツール取材 とっさのトラブル対応もプロの技量

 1999年、ランス・アームストロングという新たな英雄が誕生した。ドーピング問題はフェスティナ事件で底を打ったかに見えた。しかし2006年にはオペラシオン・プエルトがあった。2012年にはランス・アームストロングがドーピングを認めざるを得なくなった。

 五輪の現在の状況を、自転車ロードレースの歴史になぞらえるなら、1996年あたりに相当する。EPOの蔓延と危険が広く認識されるようになった頃だ。フェスティナ事件に相当するような大爆発は、これから起こる。それはおそらく、2020年、東京五輪で起こるだろう。その大爆発は、「東京事件」と呼ばれるようになるだろう。その後、多くの関係者が東京事件からのV字回復を期待し、また一瞬はV字回復したかのように見えるだろうが、結局は失望に終わるだろう。

 結果が出るまで最短で4年も待たせるような予言は、作者がノストラダムスでもなければ誰も覚えていないので、数ヶ月以内に起こることも予言しておく。

 フェスティナ事件のあった1998年までに、多くの大企業、さきほどのリストで☆をつけたような大企業が、自転車ロードレースから手を引いていた。彼らは用心深いので、爆発が起こるまで寝ぼけていたりはしない。同様に、これから数ヶ月のあいだに、多くの大企業が五輪から手を引くだろう。イベントからも、競技からも。IOCの決定が非難を浴びている現状は、体よく逃げ出すための絶好のチャンスでもある。

 違約金を払ってでも東京五輪から名前を消す企業も現れるだろう。2013年、オランダの銀行Rabobankは、自身がスポンサーをしているチームから、Rabobankという名前を消させた。チーム内での組織的ドーピングが疑われたものの、スポンサー契約が複数年契約だったので、支出をただちに打ち切ることができなかったための措置だった。

 まとめ その2:

・フェスティナ事件に相当するような大爆発は、これから起こる。おそらくは東京五輪で

・用心深い大企業の多くは、これから数ヶ月以内に五輪から手を引く

 

 五輪というイベント、および五輪を頂点とする競技の関係者の皆様、ようこそ地獄へ。

Posted by hajime at 2016年07月29日 19:52