最近、1980年代から2001年の休刊までの『bit』誌を手にする機会があったので、キーボード関係の記事を探してコピーした。なかでも「キーボード談議」という連載が面白かったので、私が関心を惹かれた点を以下に紹介する。事の性質上、キーボード通でなければ大半は意味不明であることをお断りしておく。
1990年6月号
竹内郁雄「キーボード・カオス」
計算機とデバイスが能力向上するなか、キーボードのみ低下している
ユーザの不満の声がメーカーに届いていないせいではないか
キーボードの質が生産性に与える影響は些細だろうが、それが呼び起こす好悪の感情には絶大なものがある
Apple IIのキーボードはDとKにバンプ(触感でホームポジションを得るための突起)があった
Model Mのように基板が湾曲したキーボードは高くつく
ASR 33や初期DEC-writerの記号類は現在のJIS配列と同じだったが、後期DEC-writerからASCII配列になった
VT100のReturnは今で言うところのbig ass enterに近いが、著者の周囲にあるサンプルを調べたところ、上半分はほとんど押された形跡がない
Escの位置をVT100風にしたキートロニックのPC用キーボードは純正品よりも売れた
J-3100のキーボードはEscが1の左上にあるのが気に入らない
VT100はCaps Lockが優遇され、Ctrlが追いやられているのが気に入らない
現存するキーボードのなかではSun Type3の配列がベスト
Space-cadetキーボードのRub Out(PCで言うところのDel)はAの左にあって、経験者は全員これを気に入っている
キーボード・フリークの意見を総合すると、
1.ホームポジションから手をあまり動かさずに必要なコードが打てること
2.シフト、Ctrl、Returnなど小指で打つ使用頻度の高い制御的なキーは逆台形に配置すべきである
VT200のキーボードは左下がISO風になっている。これは著者の周囲で怒りの嵐を招き、新品のVT200端末が廊下に放置されるほどだった。これはIBMのシナジェティクス(現在で言うところのエルゴノミクスか?)の成果を取り入れてデザインしたものだという
1990年7月号
川村知行「芸術を描く筆キーボード」
学生にタッチタイピングを習得させるには、無刻印キーボードの効果は絶大
ReturnをCtrl-M、BackspaceをCtrl-H等々で打つことで手の負担を減らしてきたが、98のソフトでこれが効かないものが現れて困っている
1990年8月号
大岩元「タッチ・タイピングを普及させるには」
キーボードに関する迷信
1.タッチタイピングは必要でない
2.タッチタイピングは習得が困難
3.タッチタイピングを覚えてもすぐ忘れてしまう
4.キータッチ数は少ないほどよい
5.高度な変換技術ほど使いやすい
6.かな漢字変換は創作に適している
7.いずれは自動変換が可能になる
8.2ストローク(TUTコード)はプロ向き
9.2ストロークコードは覚えるのが大変
10.2ストロークは若者しか覚えられない
11.2ストロークは不自然な入力法
12.漢字を何千字も使う
13.音声認識装置こそ究極の入力方式
14.今のキーボードは日本人には大きすぎる
15.究極のキーボードが決まったら練習しよう
1990年9月
高嶋孝明「作り勝手と自分勝手」
著者は日本IBMでキーボードを担当
オリンピックの表彰台のような形のキーキャップ(Model FのCtrlやAltやEnterなど)は、スタビライザを省略してコストを下げるため。不評だったのでModel Mではなくなった
2色成型のキーキャップは込み入った文字が作れない。昇華転写(Model M)はコストが高く、黒地に白で印刷できない。パッド印刷は文字がテカったりして安っぽい
2015年現在のAppleのJISキーボードのように、キートップの文字をダイヤモンド型に配置するのは、2色成型の制約の名残り。これでは文字に使える有効面積が狭くなる。IBMの昇華転写キーキャップでは四隅に配置してある
社内の実験レポートでは「タイピングパフォーマンスにおいては、キータッチの違いによる有意な差は生じない。好悪の感情ははっきりと二分化し、同一の理由で好きあるいは嫌いという評価を被験者が下す。その理由は、それまでに使ってきたものに近いかどうかによっている」との結果をよく見る
最近のワープロ(おそらく専用機)は、機能キーの使い方が下手だったり、機能キーを増やしたりしている
ある論文では「英文ワープロ専用機(Displaywriter)の各機能をユーザがどのような関連性、組み合わせで理解しているかを調べたところ、『システムに関係する機能 or ワープロ固有の機能』と『新しく文字を生成する機能 or すでにある文字を修正する機能』という大きな2次元の枠のなかで理解していることが明らかになった」
あいうえお順を碁盤目に配列すると、「あかさたな」と「あいうえお」を順に検索することになり、順序が後ろの文字を入力するのが遅くなる
1990年10月
冨樫雅文「怒りの構図」
「花配列」(新JIS配列と同じ思想で、前置シフトキーをDとKに配置)と「風」(かな漢字変換)の紹介
1990年11月
龍岡博「半世紀のユーザからの提案」
著者は速記タイピングのベテラン
ラインプットはコード方式のなかでは今でもユーザ数が最多ではないか
山田尚勇によれば、タッチメソッドでうまく使えるキーは3段、30個前後
「mykey配列」(M式に近い思想で、M式のショートカット的なキーのかわりに機能キーを逐次2ストローク化して配置)の紹介
OASYSのタイピングコンテストでの成績は、配列の優秀性ではなく、コード入力によるもの。しかし、かな漢字変換では使いこなせるコードの数は頑張っても500〜700、普通は50〜60(この部分はよくわからない。OASYSには単語をショートカットで出す方法があった?)
キーボードの斜め格子は特に左手に負担をかける。垂直が望ましい
1990年12月
坂村健「CAC:コンピュータ支援作文」
測定によれば、日本人女性にはキーピッチ19mmは大きすぎる。TRONキーボードは16mm
ドイツの工業規格DINがエルゴノミクスの観点からキーボードの薄型化を要求したところ、多くのメーカーがこれに追随し、キータッチに悪影響を与えた。しかし薄型化のかわりにパームレストでいけない理由はない
TRONキーボードでは親指にシフトキーを配置している。文字キーを打つ指にシフトキーも任せると、同時打鍵の運指に難があるので前置シフトが必要となり、キータッチ数が増える
プロのワープロオペレータは自分専用・特定文脈用にチューニングした辞書を、学習機能をオフにして使っている
Caps Lockはタイプライターの名残りであり、計算機では不要なキーの代表
1991年1月
後藤滋樹「キーボード心理学」
UIは「その気にさせる」ことが重要
機械式タイプライター時代の教本では、手のひらは宙に浮いているはずで、パームレストを使う余地がない。腕は指で支えるものだった
配列は大別してJIS型とASCII型がある。JIS型ではEscは常に1の左にある。ASCII型ではModel Mの影響でファンクションキー列に上げられていることが多い。ワープロ文化ではEscは離しておくほうが安全だが、Unix文化ではEscはCtrlと同格であり、Ctrlの近くがいい
『bit』誌には1997年5月号から「続キーボード談議」という連載もあるが、Happy Hacking Keyboardの開発経緯などの「オレ流」報告が多いので、紹介するとしても別の機会としたい。
何事であれ25年も経てば、いろいろと決着がつく。たとえば、もはやCtrl+MにEnterを望むことはできない。「当時はまだ決着していなかったのだ」と感慨にふけりつつも、今でもまだ決着していないと思う点について、以下に述べる。
・Ctrlの位置
そう、この問題は永久に決着しない。私は、Aの左はDelがもっとも優れていると考える。Ctrlは最下段だ。
Space-cadetキーボードはEmacsのキーバインドの揺籃の地である。あれほどCtrlを多用したキーバインドを生み出したキーボードのCtrlは、最下段にある。この事実は重く受け止めるべきだろう。
・メインエリア四隅の地位
メインエリア四隅(OADG配列では、半角全角、Backspace、左右Ctrl)はホームポジションと同様、特別な地位にある、と私は考える。打つ際の負担は大きいが、タイプミスが少ない。
左右Ctrlは逆台形説に沿って大きくてよいが、ASCII配列のBackspaceの大きさは合理性に欠ける。四隅にあることでタイプミスしにくくなっているのだから、通常のキーと同じ大きさでよい。そして、ASCII配列のグレーブアクセント(バッククォート)も合理性に欠ける。特別な地位を与えるのは制御キーのほうがいい。OADG配列もそう捨てたものではない。
・ブレイクで作動するキーバインド
計算機の世界にも、無名の偉人がいる。たとえば、マウスのボタンを、押し込んだとき(キーボードでいえばメイク)ではなく離したとき(ブレイク)に作動するようにした人。エンゲルバートだろうか。これはマウス自体の発明よりも賞賛されるべきことだ。マウスボタンがメイクで作動する世界はありえたし、いったんそうなってしまえば、ブレイクで動作する世界へと移行することは不可能だっただろう。ぞっとする。
お気づきだろうが、キーボードはほとんどの場合、ブレイクではなくメイクで作動する。全部のキーとは言わないが、もし、修飾キーのメイクから始まるストロークだけでも、ブレイクで作動する世界だったら? そのような世界はありうるし、実はすでに、あるところで始まっている。Chrome OSのかな漢字変換のオンオフは、デフォルトでは、Shift + Altからの最初のブレイクで作動する。これは私の知るかぎり、ASCII配列でもっとも優れたキーバインドだ。惜しむらくは、これを他のOSで設定する方法がない。この世界はまだ、ブレイクで作動する世界ではない。しかしGoogleの力には期待できる。
・キーピッチは正方でよいのか
初期Macintoshのキーピッチは縦長だという。これはおそらく美的な理由からだろうが、根本的な問題提起でもある。キーピッチは正方でよいのか? タブレット用のキーボードが百花繚乱の今日、この問題はまだ決着していない。
私が使っているChromebookのキーボードは、初期Macintoshとは逆に、微妙に横長のキーピッチになっている。左右両端のキー幅を少しケチったキーボードなので、単純に縦を詰めた結果ではない。
キーボード上の距離は、横よりも縦のほうがつらい。数字段の遠さに比べて、Enterがどれだけ近いか、誰でも知っている(OADG配列だとさすがに少し遠いが、それでも数字段より近い)。キーピッチは横長のほうがいいのではないか。しかし、初期Macintoshのキーピッチが縦長なのは、おそらく、そのほうが美しいからだ。Model F以来、デスクトップ用のキーボードのキートップは縦長だ。醜いが数字段の楽なキーボードと、美しいが数字段の遠いキーボードの、二者択一を迫られているのかもしれない。
私としては、数字段の遠さをあきらめて、美しいキーボードを取りたい。数字段を目で見て「よっこいしょ」と打つほうが、醜いキーボードと向き合うよりもマシだ。究極的には、iOSのスクリーンキーボードのように、数字段のないキーボードさえありうる。
・美しさ
過去のキーボード論議で、美しさを問題にした論を見た覚えがない。しかし私がRealforceを捨てたのは、10年以上前のある日、キーキャップの刻印があまりにも醜いことに気づいたからだ。この刻印は今もそのまま製造されつづけている。この問題は、決着していないどころか、まだ始まってもいない。
Appleが90年代の窮地から復活できたのは、ジョブズの功績だけではない。美しさを専売特許にしていたからでもある。経営者にさしたる定見もなかった時代のAppleが、美しさを専売特許として守り通せたのは、当時のハッカー世界に、美しさを軽蔑する文化があったからだ。
この文化は今も続いている。たとえば、久夛良木健の有名な発言、「世界で一番美しい物を作った。著名建築家が書いた図面に対して門の位置がおかしいと難癖をつける人はいない」は、美しさを軽蔑する文化の粋を集めたものだ。美しさの対義語は醜さではなく慣習である。権威という名の大便を持ってきて、「これは味噌なのでおいしいに決まっている」と言ってのけることを可能にする文化が、この世界には存在する。
文化闘争を始めなければならない。美しさが何であり、どこから生じてくるのかを、この世界は知らなければならない。
美しさとは、慣習という名の暴君を探し出して打ち倒そうとする本能から生まれ、「こいつは暴君ではないのか?」という徹底的な検証に耐えている状態である。「こいつは暴君ではないのか?」という検証は、評論家の無駄口ではなく、革命家の蜂起、すなわち実物の出荷によってのみ行われる(Real artists ship!)。もちろん蜂起のほとんどは失敗する。無数の車裂きが演じられたあと、ある日突然、Helveticaが生まれる。そして、そのHelveticaに対して今日も、「こいつは暴君ではないのか?」という検証が盛んに行われている。近年の有力な蜂起はFF Metaだ。
キーボードは、場合によっては、建築よりも高くつく。TRONキーボードは永遠の憧れだが、もしゼロから製造しようとすれば、イニシャルコストは1千万円ではすまないだろう。しかもこれには、TRONキーボードのデザイン(エルゴノミクスのデータ収集と試行錯誤、製造工程やコストとのすり合わせ)やソフトウェアにかかった費用は含まれない。建築は、少々ダメな点があっても手直ししつつ使うこともできるが、売れないキーボードのイニシャルコストは丸損になる。TRONキーボードのような根本的な蜂起は、現実の武力蜂起と同じくらい難しい。
そのため現在のキーボードは、慣習という名の暴君、権威という名の大便が猛威を振るっている。たとえば、近年のキーボードは、ファンクションキー列を細くするのが流行っている。Microsoftに至っては、エルゴノミクスキーボードまでファンクションキー列を細くした。なぜか? Appleがそうしていたからだ。今年、Appleはキーボードのデザインを変えて、ファンクションキー列を普通の太さにした。来年の後半からは、新製品のファンクションキー列は普通の太さになるだろう。権威という名の大便を口に押し込まれ、下痢便のようなキーボードをひり出しているのが、今日のキーボードメーカーである。慣習という名の暴君については多言を要さない。
文化闘争を始めなければならない。「革命とは、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなお上品でおっとりとした雅やかなものではない」(毛沢東)。革命とは出荷である。