中里一日記: 2011年11月 Archives

2011年11月10日

人は読まない、人は学ばない、人は変わらない

 このところ辛いことが続いて、さすがの私もぐったりしている。外聞がよくてわかりやすい件だけ言うと、交通事故に遭って全治6か月、左腕がまったく上がらないし、普通のベッドに横たわると自分ひとりでは起き上がれない。
 そんなわけで、『兵士シュヴェイクの冒険』を日々読み返しては心を慰めている。私もシュヴェイクのような謙虚な人間になりたい。ああいう謙虚な人間なら、今の私のこの状況も、赤子のような澄んだ目でやりすごせるだろう。自分がどちらかといえばヘロストラトスの側の人間である――「どちらかといえば」どころか「どこからどう見ても」と言うべきか――ことはよくわかっているのだが。
 このぐったりした気分にふさわしく、今日は恐ろしく無駄なことを書こうと思う。私はどうやってもシュヴェイクにはなれないのだから。
 

 昔、男の子がいた。大きくなったら「偉大な」作家になりたいというのがその子の望みだった。
 「偉大な」とはどういうことかと尋ねられて、その子はこう答えた。
 「世界中の人が読むようなもの、読んだ人が本当に心の底から反応するようなもの、みんなを叫ばせ、泣かせ、嘆き、苦痛や絶望、怒りに悲鳴を上げるようなものを書きたいんだ。」
 
 彼は今、マイクロソフトでエラー・メッセージを書いている。

 さて、人ははたしてエラーメッセージを読むだろうか。
 ブルースクリーンに表示される正真正銘の呪文は数に入れないものとしよう。ネットワーク関係の難解なものも外すとしよう。それでも、エラーメッセージが表示されたとき、それを読む人は何%いるだろうか。せいぜい5%、というところか。これも過大評価かもしれない。かく言う私にしたところで、エラーメッセージが出たら読まずにぐぐるだけのことが多い。
 人は読まない。人間の言葉は、犬の吠える声と大差ない。不意にエラーメッセージが表示されたとき、平均的なユーザがどう振舞うものか、想像してみていただきたい。それはきっと、散歩を邪魔されたときの犬にそっくりだろう。
 何年か前のこと、大手新聞社の広告に、「私たちは言葉の力を信じる」というようなコピーが使われていた。初めて見たときから違和感のあるコピーだったが、その違和感の正体が今ならよくわかる。「人は読まない」ということを知覚しない鈍感さと、数百万だか数千万だかの数を頼みにする傲慢さが、このコピーには端的に表れている。ほかの犬より大きな声で遠吠えすることの、どこがどう「信じる」に値するものか。
 
 コンピュータは、人間を模倣することは上手くない。また、たとえ上手くできたとしても、大した意味はないだろう。魚を模倣して泳ぐ船、馬を模倣して歩く自動車、鳥を模倣してはばたく飛行機、どれも技術的には興味深いが、地表の全面を塗り替えるような革命はもたらしそうにない。人間を模倣して思い考えるコンピュータも同じことだろう。
 とはいえ技術的には興味深い。魚を模倣して泳ぐ機械を作るには、魚の泳ぎをよく知る必要がある。人間の思考を模倣する試み――人工知能――も、人間の思考について多くを明らかにした。フレーム問題は、「人はなぜ学ばないのか」という問題をうまく説明している。
 私は幼いころ、さんざん母の意向に背いては殴られたが、私は「テロには屈しない」とばかりに適当にやりすごしつつ、「殴っても無駄だということを学んでくれないかな」と期待していた。もちろん母は学ばなかったし、また私のほうも、母の意向に従うことを学ばなかった。

狂気:同じことを何度も何度も繰り返して、違う結果を期待すること。

 母のフレームには、「殴るという手段は無効かもしれない」という問題は入っていなかった。人間がフレーム問題を解決していないことの例証だ。
 かくして私は、「人は学ばない」ということを学んだかもしれないが、はたしてどの程度学んだのかは怪しい。状況によっては頭から消える(まさにフレーム問題!)可能性はきわめて高い。まさしく「人は学ばない」のだ。
 人を教える立場の人間も、やはり学ばない。アホな指導をすれば人が死ぬということを学ばない。人は学ぶ動物ではなく、信仰する動物である。人は「シゴキ」や「根性」や「精神」や「体罰」を信仰し、その効果を「実感」する。信仰であるからには検証を受け付けない。
 信仰がすべて間違っているとは思わない。物理的限界に縛られた存在にはフレーム問題は解決できないので、なにも信仰しない人間はただ座り込んでいることしかできない。しかし信仰にもよしあしがある。自分では学ばない人間が、他人に学べと要求して暴力を振るう光景は、残酷を通り越して笑うしかない。
 かく言う私も、信仰しているのだろう。検討すべき副次的な問題は事実上無限にあるはずなのに、現にこうして行動しているからには、ほとんどの問題を無視しているはずであり、無視した問題については母と同じように、同じことを何度も何度も繰り返して、何一つ学ばないはずだ。
 
 信仰とはなにか。
 なぜ私は今こうして、「人は学ばない」などというわかりきったことを繰り返しているのか。「太陽は東から昇る」とか「物は上から下へと落ちる」とは言わないのに、同じくらい当然の「人は学ばない」は繰り返している。
 おそらくそれは、人が学ぶことへの信仰が私のなかにあるからだ。そして読むことへの信仰も。
 これは信仰であり、どこがどうとは指摘できないほど巨大なスケールで馬鹿げており(これもフレーム問題)、この日記を書くなどという無駄なこともそれゆえに生じる。信仰としてのよしあしは、自分ではわからない。もしかすると「シゴキ」や「体罰」への信仰と同じくらいひどいのかもしれないが、だとしても私にはどうしようもない。もしそうだとすると私は、ただ座り込んでいるだけのほうがマシ、ということになるだろう。
 けれど私は、どうしても、ただ座り込んでいるだけではいられない。どういうわけか、前に進まずにはいられない。たとえそれが、歴史に名を残したいがために神殿に火を放つような真似かもしれない、と知っていても。

Posted by hajime at 19:24 | Comments (1)