一応、「ポンジ・スキーム」という言葉はある。
数ある投資詐欺のうち、一番シンプルなのが、このポンジ・スキームだ。どういうものか。詐欺師は高利回りを約束して金を集める。詐欺師は最初のうちは、分配金や払戻金を約束どおりに払うが、それは集めた金の一部を当てているだけで、金儲けのたぐいは一切しない。金が約束どおりに支払われるというので、詐欺師の信用と知名度は高まり、高利回りに引き寄せられて、どんどん金が集まる。金の集まるスピードが、約束した利率よりも高いうちは、分配金や払戻金を払うことで、詐欺師の儲けは増えていく。
つまり、安愚楽牧場やMRIインターナショナルだ。
安愚楽牧場事件やMRIインターナショナル事件の報道の際に、ポンジ・スキームという言葉を使えれば、どんなに話が簡単になったことか。欧米ではポンジ・スキームという言葉は、日本での「ネズミ講」という言葉なみに通じる言葉らしいが、日本ではそうではないので、報道では使えないらしい。これは明らかに、日本語に足りない言葉だ。
日本語に足りない、と最近感じた言葉が、もうひとつある。
A:「nliundpを発見しました」
B:「そのnliundpというのは、どんなものですか?」
A:「多能性幹細胞です。水道水を冷凍庫で凍らせたときにできるのですが、水道水ではなく南アルプスの天然水かもしれませんし、エビアンかもしれませんし、それ以外の水かもしれません」
B:「nliundpを発見したという証拠は?」
A:「ありません。以前はありましたが、全部覆されました」
Aの主張には、なにか呼び名があってしかるべきだ。
Aの主張は科学の命題ではない。とはいえ、非科学的というのとは何か違う。妄想というには、病気の症状らしくない。「病的科学」とは研究者の行動を示す言葉で、主張を示すものではない。「徳川埋蔵金」はnliundpを示す言葉で、糸井重里の「あるとしか言えない」というセリフを示すものではない。
捏造が絡まなくても、こういう主張は生じる。最初は科学の命題だったものが、反証可能性のない主張へと変質する、という現象はありふれている。
私ごときが名前をつけてもどうしようもないので、ノーベル賞受賞者の誰かにやってほしい。「病的科学」はラングミュア、「カーゴ・カルト・サイエンス」はファインマンが名づけた。こういう仕事は、科学上の業績と同じくらい、科学の発展に寄与するはずだ。
ジョン・ロンスン『実録・アメリカ超能力部隊』(文春文庫)を読んだ。
超能力研究は馬鹿げた行為だが、戦争ほどではない。「我々には戦争ができるのだから、超能力研究もできるだろう」と軍が考えるのは、ある意味では理にかなっている。
超能力研究も戦争も、昔はまだ、今ほど馬鹿げてはいなかった。ユリウス・カエサルはガリアでの戦争に勝ちまくって財を成した。16世紀に至っても、コンキスタドールはアメリカ大陸で同じことをした。19世紀の医学・生物学は、感染症なるものをついに人類に理解させ、地上の全面を塗り替えた。感染症のように単純かつ重大なことを、どういうわけか人類がずっと理解しないでいたのなら、心霊や超能力をいまだに理解しないでいる、ということもありうるのではないか――と、1900年の人々は考えただろう。
感染症は、おそらく人類にとって最後の、でかい一発だ。
地上には今や数千万人の大卒者があふれている。過去半世紀の通算で「使える」大卒者が百万人だったとしても、5000万人年という量はおそらく、古代から1900年までの量よりも10倍は大きい。地上の全面を塗り替える大発見も、数多くなされた。にもかかわらず、感染症以降の百数十年間、自然科学の分野には、「どういうわけか人類がそれまでずっと理解しないでいた単純かつ重大なこと」は見つかっていない。原子核反応、公開鍵暗号、iPS細胞、どれも高度な科学技術なしには発見できないか、意味をなさない。
そして1900年以降の戦争はほぼすべて、略奪よりはポトラッチに似た結末を迎えている。
1900年の人々にとっては、「感染症は人類にとって最後のでかい一発になる」と考えるほうが馬鹿げていただろう。では、1979年なら? 本書によれば、米陸軍の何人かは、「次のでかい一発」に賭けることにした――少なくとも、そう装うことにした。
「次のでかい一発」に賭けるようにと説得して成功した人物は、しかし、そんなものを信じてはいなかった。
この人物はベトナムの戦場で傷つき、ひとつの教訓を得た。「われわれはずる賢くなれなかったために、ベトナムで痛い目にあった。われわれは自分たちの正義をただふりかざし、ケツを吹き飛ばされた」(43ページ)。彼は米軍をずる賢くする方法を探すための旅に出た。行き先はどういうわけか、当時のアメリカ西海岸の、ニューエイジ文化の世界だった。旅から戻ってきた彼は、米軍がぜひ身につけるべきずる賢さを、さっそく自ら実践してみせた。ニューエイジと「次のでかい一発」を売り込むことによって。
この人物の名は、ジム・チャノンという。チャノンは、本書のメインテーマ「第一地球大隊」の大隊長だった。
「次のでかい一発」に本気で賭けた、と語る将軍は、自ら超能力で壁抜けをしようと試みた、とも語っている。もしかすると将軍は、チャノンの求めるようなずる賢さを発揮して、嘘をついたのかもしれない。あるいは、なんの裏もないのかもしれない。この将軍も、ベトナム戦争という奇怪なポトラッチを経験している。米軍があれほどの血を流した末に敗れるなどということがあったのだから、「次のでかい一発」もあってよさそうではないか――と将軍が感じたとしても不思議ではない。
1979年、チャノンは売り込みに成功し、第一地球大隊の大隊長に任じられて、自分の方法を試した。しかし、後継者は得られなかったように見える。米軍をずる賢くするという目標、および、ニューエイジと「次のでかい一発」を教材にするという方法は、結局のところ、放棄されたらしい。
「次のでかい一発」は、米軍をずる賢くするための教材ではなく、ごく小さな現実的な発明へと歪曲・矮小化された。テザー銃などの非殺傷兵器の研究・採用の多くは、チャノンに源流を求められるという。米軍は今でも、かの名高い「サブリミナル」や音楽を心理戦や拷問に用いる研究(と実戦使用)を続けているが、これもチャノンの売り込みから始まっているらしい。
「ずる賢い軍隊」と書くと、なにやら不吉な響きがある。だが「愚直な軍隊」はどうなのか。
「軍情報部隊について忘れてならないのは、彼らが「学校のおたくタイプの連中」であるということだった。「ほら、社会になじめない連中さ。そういった状況をうぬぼれと〈司令官の許可により〉と書いた壁のポスターと組み合わせれば、突然、自分たちが世界を動かしていると勘違いする連中が現われるというわけだ。これは連中の一人がわたしにいった言葉だ。『われわれは世界を動かしている』」」(208ページ)。その彼らを取り囲むのも二流の体育会系であり(一流の体育会系なら将校になっている)、政治家や商人は少ない。
グアンタナモとアブグレイブを作り出したのは、こうした愚直な人々だった。ベトナムで「自分たちの正義をただふりかざし、ケツを吹き飛ばされた」ときから、米軍はなにも変わっていない。
この世で一番の紋切り型といえば、「戦争は悲惨だ」だろう。これにもう少し知恵がつくと、「戦争は奇怪なポトラッチであり馬鹿げている」に進化する。
その馬鹿げたことを、少なくともアメリカは、これからも何度でもやるだろうし、政府も国民も覚悟を決めている。その米軍が、「ずる賢くなる」という方向性を一度は発見しておきながら放棄し、オタクと体育会系が相も変わらず愚直に働いて、グアンタナモとアブグレイブを作り出すのに任せている――しかもそこでは、かつては米軍をずる賢くするための教材だったものが、グロテスクなまでに矮小化されて用いられている。
おそらく、これが戦争なのだろう。「馬鹿げている」という本質がすべてに先立つ。少なくともアメリカにとって戦争は、ディオニュソスかなにかの神を讃える祭りであり、他の何事かのためにする手段ではない。
戦争という宗教を解毒するには、第一地球大隊は力不足だった。「我々には戦争ができるのだから、超能力研究もできるだろう」と今でも米軍は考えているかもしれない。ただしそれは、戦争が馬鹿げていることを映すネタとしてではなく、マジで、グアンタナモで人体実験をしているのだ。