次の短篇は「血と教室」から「血と部室」に変更した。教室は最後に回す。
寮の部屋・図書室・保健室・部室・教室。なんとも美しい羅列である。
jside.comという企業が、ダサさだけを主張するTVCMを大量に流している。無名の企業がどうやってあんなに大量のCMを打つ資金を得たのかと思って調べてみると、光通信なる携帯電話屋(一台1円で携帯電話を売ってバックマージンで稼ぐ商売である)が、400億円・1.70%の無担保社債を発行して得た金であるらしいとわかった。
携帯電話屋・1.7%の無担保社債・ドットコム企業のダサいCM。しかもコンセプトがおよそ最悪の「コミュニティ」ときた(君はいったいどうやって… いや、言うのも虚しい)。近来稀に見る激ヤバ物件である。
クリックを稼がせてしまうと、ふっ飛ぶまでの時間が延びてしまってつまらないので、jside.comには行っていない。読者諸氏もjside.comに行かないようお願いする。
実物のボク女が、美術系の中学・高校に集中しているとの情報を入手した。それも上流階級(ブルジョア(中産階級)ではない、言葉の本来の意味での上流階級)の娘に多いという。
上流階級では、家庭などでの反ボク女圧力は比較的小さいことが予想される。学校が美術系でしかも上流階級のたまり場なら、学校でも反ボク女圧力を受けることは少ないだろう。
やあみんな! 僕がジョニーさ、夜露死苦!
などと現実逃避してみる。うむ。
私が「大菩薩峠」を読んだのは中学生のときだったので、よく言われる国家論的・社会論的なところはまるで理解できなかった。そのかわり、とにかく印象に残ったのが、キャラである。
私のお気に入りは弁信とお銀だった。弁信というのは、よくしゃべる坊主である。1ページや2ページ、平気でしゃべる。私の長回しのセリフへのあこがれはここから来ている。お銀というのは金持ちのお嬢で、気分で行動する変人である。いろいろ変なことをするのだが、なんといっても「悪女塚」は忘れがたい。
「大菩薩峠」は、最初の7巻だけを褒めるのが当時の風向きだったようだが、私は後半を推す。最初の7巻など、ただの小説だ。これが勧善懲悪にならず(神尾主膳や机龍之介はけっこう幸せそうだ)ハッピーエンドにならず(エンディングがないのだから当たり前だが)、暴走してゆくところに「大菩薩峠」の凄みがある。
キャラ萌えの研究のためには『大菩薩峠』を再読せねばなるまい、という結論を得た。
『大菩薩峠』をご存じない読者諸氏のために説明しておくと、これは日本文学の偉大な金字塔である。どのへんが偉大なのかというと、
・説教しない
・勧善懲悪でない
・ハッピーエンドでない
ここまでなら珍しくもないが、次が凄い。
・大ベストセラー
ここはひとつ、「がちょーん」と叫んでいただきたいところだ。ほとんどこの世のものとも思えない、まさに奇跡のような小説である。
この奇跡を現実にしたのが、作者・中里介山の流麗な文章、そしてキャラ萌えだった。私が文章とキャラの優越を信じるのは、『大菩薩峠』の影響である。
千号作戦は現在136枚、予定の3分の1強を消化した。これからいよいよ作戦意図をさらけだしてアストラハンへと突進するのである。
今回は、かなり早い段階で作戦意図のほとんどを明示している。「奇襲はコストパフォーマンスが悪い」という戦訓をさっそく活かしてみたわけだが、さて、どうなるか。
企画意図に悪意はないと信じる(信じたい)ので、一応話題にはしておく。
…「チューリップ革命」どうよ?
…と思ったら、べつに百合ではないらしい。不覚。
遥洋子の「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」」を読んでいる。
シャルル・ドゥ・アルディは文系のイメージだということを発見した。理系にはリアルタイムのハッタリ勝負は基本的に要らないので、シャルルのように見栄えのする丁々発止はイメージにないのだ。
後学のために、文系の学者のハッタリ勝負をこの目で見てみたいものである。上野ゼミの一般公開の日をチェックしておこう。
今日のギャ会の討論で、「マルチのコスプレをするビア樽体型の男」の感情移入システムが話題になった。
私的にはこれは、人間やオタクというより、未知の生物である。とりあえず生態を知りたいものだが資料がない。もしかしたら本人がホームページを開いていて日記をつけているかもしれないと思い、gooで「女装コスプレ マルチ」で検索してみた。1件もかからないだろうと思っていたら、12件ヒット。
5cmほど人生が嫌になった。
今日のヒント:
百合における焦点の一つは、攻をどう動機づけるかだ。私の話はたいてい、これが軸になって回っている。百合の話を思いつかないという向きは、攻の動機づけから考えてみるとよい。
コミュニケーション・ノートへのツキモリ氏の書き込みをきっかけに、「やおい幻論」評や「タナトスの子供たち」評をたぐってみたら、どうも世の中的にはセクシュアリティが問題らしい。
もう20世紀もあと残すところ1年足らず、フロイトが性のことを言い出してから100年になろうという時代、性同一性障害者が芥川賞をもらえるこのご時世になってもまだ「セクシュアリティ」を真に受けるとは、君たちはバカかね、と言いたいところだが、少しだけかまっておくことにする。
断言しよう。人間の魂には、セクシュアリティなどない。セクシュアリティという概念は、「民族」や「国家」と同じく、政治の道具だ。
政治的な戦いの場では、思うさま使えばいい。投票で真実は決められないように、真実では票を動かせない場合がままある。まして、理解する必要などない真実とあっては。しかし銃剣で畑は耕せない。戦っていないあいだは、セクシュアリティという(かなり古ぼけた)武器を置き、鋤と鍬を手にしなければならない。
「やおい幻論」は、戦術上の馬鹿馬鹿しいほどの幼稚さ(生得主義・FTMゲイ路線はあまりにも苦しい)はありながらも、JUNE・やおい・ボーイズラブ業界内での内ゲバという目的で首尾一貫していた点では評価に値する。このような政治的戦闘性は、従来のJUNE・やおい・ボーイズラブの評論にはなかったものだ。この政治的戦闘性が、小規模な内ゲバにとどまらず激しく燃え広がってゆけば、セクシュアリティという武器を火縄銃にしてしまうような武器の進歩が生じるかもしれない。
が、百合はまだ戦う相手もない段階なので、私はよい鋤と鍬を求めてギャル理論を研究するばかりである。
なんとなく人生にリーチなので予言でもしてみよう。
・日経平均株価は9月までに2万4千円台に達する。それから12月までのあいだのある時点で、急激に1万9千円台まで下げ、そこから急反発する。
上げの根拠は、バブル合衆国からの資金流出である。バブル崩壊は9月から12月までのあいだに起こり、そのショックで急激に下げるが、資金の行き場は限られているため、日本株を買わざるをえない。
煙草の広告を見るたびに思う。「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」という文章は、PL法への公然たる挑戦状ではないかと。もしこの伝でPL法をクリアできるのなら、「あなたの健康と財産を損なうおそれがありますので不適切な使用に注意しましょう」が万能の一文になってもよさそうだ。
第一に、「吸いすぎ」は完全な嘘、と言って悪ければ、なにひとつ意味していない。
「あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう」という文章から取り出せる因果関係は、「吸いすぎる→健康を損なうおそれがある」だけだ。そして、いったいどれくらいの量が「吸いすぎ」なのか示されていない。理論上、煙草会社は「年に一本でも『吸いすぎ』だ」と言い抜けることができる。
第二に、「あなたの健康を損なう」は嘘、ないし不適切・不十分な表現である。「あなたの」喫煙で生じた煙を吸いこまされた他人の健康も損なわれる。
というわけで、誰かPL法で煙草会社を訴えないものか。まともに考えたら100%勝てる。
眠いよジョニー…
私の求めるエロゲーの条件を考えてみたところ、以下の4点に集約されることがわかった。
1. 絵が好み
2.
主人公の動機が、恋人(対象)への情熱(執着)
3. 主人公と恋人(対象)の関係が一対一
4. 女同士と考えても成立する話
1は説明を要しない。2は、金目当てや仕事で行動する主人公はアウト、という意味である。すべての行動は主人公の情熱から発しなければならない。これはもっとも重要な条件であり、これを外しているものにはためらいなく没の烙印を押す。たとえば「殻の中の小鳥」は地獄送りだ。また、いわゆる鬼畜系では、対象自体への情熱(執着)が動機でなければならない。だから「夜勤病棟」はアナテマである。
3は、複数同時を前提としたものはアウト、という意味である。主人公のすべての情熱と資源は、一人の恋人(対象)に向けられねばならない。「同級生」は非常に人気があったが、私は認めない。
4は、社会的なもの(制度・道徳・常識その他)に寄りかかった話ではいけない、というくらいの意味である。だからといって女同士でアンチ社会的な話も嫌なので誤解なきよう。
さて、これを全部満たすゲームが、「Natural
~身も心も~」と「デアボリカ」と「Deep Purple」だけなのはなぜだろう。うーむ。
「金目当てや仕事で行動する主人公はアウト」については、感情移入システムの観点からギャル理論的に分析することができる。
感情移入システムに第一層の自己同一化を採用すると、ユーザは主人公の行動を肯定しなければならない。肯定できないような行動(動機)である場合、拒否反応が生じる。たとえば私は、きのした黎の「平成にんふらばぁ」においてこの現象を体験した(昨年7月31日と8月1日の日記を参照)。
エロゲー制作者が「金目当てや仕事で行動する主人公」を採用するのは、この拒否反応を根拠としていると思われる。だが、これはエロゲーの感情移入システムに対する理解不足からくるものだ。(ほぼ一本道のものを除いて)エロゲーの感情移入システムは、基本的に、自己同一化とは異なる。なぜなら、ユーザ自身が行動を決定する場合、ユーザは主人公の行動(動機)を肯定する必要がないからである。
ただしこの場合、他の(おそらくは消極的な)選択肢が、十分ありうるものとして用意されていなければならない。「悪夢95」で、誘拐してきた生徒を解放するという選択肢は、ストーリー上ありうべからざるものであり、攻略上の意味しかない。逆に「Natural」では、純愛エンドと称される、十分ありうる選択肢が用意されている。
とはいえ、あらすじや冒頭でユーザが「入れる」かどうかを問題にするときには、自己同一化を想定しなければならない。たとえば「好き好き大好き!」の主人公などは「どうよ?(反語)」だ。かといって「殻の中の小鳥」の主人公は許されない。では、どうすればいいか。答は、第二層の自己同一化である。第二層の自己同一化では、ユーザが主人公の行動(動機)を肯定する必要がない。
結論を言おう。ユーザが肯定できないような行動(動機)を避けようとするときには、主人公とユーザの心理的距離を近く設定する(第一層の自己同一化を引き起こす)のは間違った選択だ。遠く設定して、第二層の自己同一化を引き起こし、「入れる」かどうかのポイントを切り抜けるべきだ。つまり、鬼畜系では主人公を女性に設定すべきなのである。
というわけで、エロゲー制作者には吉原理恵子の「間の楔」の女同士バージョンを希望する、と主張して筆を置く。
プレステ用片手コントローラと、SMART JOYPAD
II for USBを手に入れた。
が、この片手コントローラで同時打鍵は高速には無理だ。二つのキーを連続で押すことで一つのキー入力を生成するしかない。また、親指に負担が偏る。30分も打てば手が痛くなるだろう。膝上用に片手キーボードも持ち歩かねばなるまい。
アキバに行ったついでにエロゲーを買おうと思った。
そう、私に不足していたのは、エロゲー購入のエキサイティングな期待感だったのだ。ちょっとギャンブルな感じのパッケージに不安と期待をこめて数千円を投じ、家に帰るまであれこれと案じ、プレイして30分で「ダメだったよジョニー…」と力なくつぶやいて終了し、この日記で怒りをこめてけなし倒し、一ヶ月かけてなんだかんだ言いつつ終わらせる、この完璧に美しいサイクルに身を投じなければ! アニキ、俺は買うぜ!
…と思ったら、エキサイティングな期待感をかきたててくれるパッケージが見つからなかった(ストーリーが最悪に嫌いな「夜勤病棟」を除く)。なぜだ… なぜ私が好きなタイプの絵はどこにもない… きゅう。
壊れつつあるモバイルギアIIを使いながら、片手入力デバイスとPalm-size
PCをくっつけて片手で文章入力というビジョンのサイバー感にうっとりしている最近の私である。右手に入力デバイス、左手にPalm-size
PCと考えるからいけないので、二つをくっつけて左手だけで完結させてしまえばいいわけだ。
プレステのコントローラの出力を受ける回路の記事くらい探せばあるに違いないので、PICを使ってシリアルに変換してPalm-size
PCに入れる。とりあえず片手コントローラと、プレステのコントローラをUSBでつなげる装置を買ってきて、入力の実用性を試してみたい。
プレステのコントローラをUSBでつなげる装置の性能はどうなのだろう。プレステとUSBの変換で反応速度がいやーんな感じだと嫌だが、反応速度を調べるのはなかなか難しい。もちろん、ちゃんと作ってあれば問題のあろうはずもないが、ちゃんと作ってあると決めてかかると馬鹿を見るのがこの世界である。
もしまともに使えるなら、かなりすごい製品である。なにしろ4000円もしない。パッドとジョイスティックをつなげば元が取れる。
モバイルギアII(MC-R300)が壊れつつあるので、やむをえず後継機種の選定に入った。
たかだか2年で壊れるようなヤワな代物には5万円も出せないので、MC-R300と同じ構造設計を使った機種は避けたい。カラー液晶はバッテリ駆動時間の面で論外だ。A-60だか55だかはしばしば半フリーズ状態に陥ると聞くので却下である。…ない? たったこれだけの条件を満たす機種が?
片手入力デバイスとPalm-size PCというのもサイバーでいい感じなのだが、ATOK
Pocketが対応していない。WZ Editorは対応しているというのに。これでは経営が傾くわけだ。Palm-size
PCは手書き入力だから、などと考えているのだろうが、それが甘い。現場の人間はどんな使い方を見つけ出すかわからないのである。
Palmはなぜあんなにも高いのだろう。
よく考えてみてほしい。カシオのPalm-size PC(モノクロ版)は、CPU速度・メモリ量・画面表示力のすべてで、最速のPalmに倍以上も優り、実売価格は同程度である。いったいPalmの価格はなにを意味しているのか? ブランド価格なのか? 私が納得できるPalmの価格は、せいぜい1万4千円である。
Palmの能力はあまりにも小さい。PalmにはATOKのサブセットさえ動かせないだろう。メモリ量が少なすぎて、まともな辞書が置けないからだ。ThinkPad
220でも動作するATOK8を「肥大したアプリ」と切り捨てる人は、コンピュータの能力がどんなペースで拡大するか、そしてOSのような技術的基盤がどれほど置き換えにくいものか、まるで理解していない人である。
Palm OSは、ATOKのサブセットさえ動かせないマシンのためだけに作られた。もしPalm
OSが普及すれば、世界は新たな爆弾マーク(Macの)を、コンベンショナルメモリ(Windows9xの)を持つことになるだろう。だからPalmを普及させてはいけない――これが私の信念である。
マニアのおもちゃとして終わるのなら、私はPalmを愛したかもしれない。だが世界は、おもちゃの上に巨大な情報産業を乗せようとしている。この愚行のために支払われる莫大な機会損失は、全世界への見えざる請求書であり、万人の財布から平等に奪い取ってゆくため、逆に誰も気にしようとしない。
もし読者諸氏がPalmに魅力を感じたなら、こう自問してほしい。Palmはなぜあんなにも高いのだろう? ATOKのサブセットさえ動かせない、その貧弱な能力を考えてほしい。その貧弱な能力という鋳型に、10年先、20年先の携帯コンピュータがはめこまれようとしていることを想像してみてほしい。
それでも、Palmが十分安ければ、手が伸びるかもしれない。だからこう自問してほしい――Palmはなぜあんなにも高いのだろう?
野球理論における代打のありかたを考えている。
突然出てきて一振り場外、というのは本当の代打ではない。本当の代打は、ベンチにいるときにその真の力を発揮する。たとえば星矢の連載時には、常に一輝の存在が全シーンの背後に感じられた。
このような本当の代打を作り出すには、どこかでその存在を強烈にアピールしなければならない。星矢は、第1部を使って一輝の強さをアピールした。星矢は、強さを大ゴマと顔(車田正美の法則:美形ほど強い
by
魔氏)でアピールすればよかったが、ギャル作品においては、なにをどうやってアピールすればよいのか。
…と思ったら、まさにギャル作品における代打がいた。「With
You」の乃絵美だ。
乃絵美は、実の妹というポジションを用いて、保護欲系の魅力を強烈にアピールした。これを「Sister
Princess」に応用すれば、代打・千影ひとりが実の妹であとは義理その他、ということになる。「千影=代打=実の妹」――まさに完璧、これこそ最適化というものだ。
星矢本の主流が一輝だったように、「With You」本の主流は乃絵美である。そして星矢も「With
You」も代打のおかげで大ヒットした。ギャル理論が代打に注目する必要があるのは明らかだ。
サターンの最後を調べていたら、懐かしい名前に出会った。その名前とは、多部田俊雄である。
そう――私は月マ(月刊マイコン)の読者だった。あのいい加減なノリの文章は、現在の私にも少なからぬ影響を与えているはずだ。
現在、多部田氏は「センチメンタル・グラフィティ2」の総監督をしているという。それはいいとして(私とセングラは永久に無関係だろう)、ゲーム制作者としての多部田氏は悪評紛々たる人物であると知り、「ははあ」と思わされた。この「ははあ」は、「そういうものか」と「やっぱり」の混合物である。優秀な制作進行管理者とは緻密かつ能天気なものだと思うが、あの文章からは緻密さも能天気さも見て取ることができなかった。
私は12歳のとき、将来ゲームプログラマになりたかった。なぜかといえば、ソフトを出荷してしまえばそれでもう終わりで、どんなにバグだらけのものを出しても責任を追及されることがない、と信じていたからだ。そういう無責任な仕事が、私の願いだった。
多部田氏の評判および経歴を見るかぎりでは、ゲーム制作者とは実際そのようなものらしい。12歳の私は、もしかしたら、今の私より賢かったのかもしれない。
嘘の歴史を書くのは楽しい。ありもしないことを当然の前提であるかのごとく語るのが、これほど楽しいとは知らなかった。
今、「1999年春に発売された百合の恋愛シミュレーションがオタク方面で大ヒット」という設定で、1999年の回顧を書いている。ハードはセガサターンで、「流通が不良在庫を恐れたために極度の品不足が続き、ブームにいっそう拍車をかけた」という設定だ。
設定資料の身長の数字でカップリング情勢がひっくりかえったことに憤ったり、世間に広まってゆくころに熱が冷めたり、欠点とされる部分を擁護したり、日本ゲームを日本映画になぞらえて「職人官僚主義」を批判したり、とにかくネタが尽きない。あと、資料をたぐる手間がないのもいい。
唯一の問題は、セガサターン最後の新作ソフトの発売がいつかということだ。セガのサイトによれば、「フレンズ
~青春の輝き~」だが、これはフェアリーテールの「同窓会」の移植なので、純粋な新作ではない。ということは3月18日の「KISSより…」が最後か(ちなみに私はこの「KISSより…」のワンダースワン版を持っていて、会話で好感度を上げるシステムが嫌な感じなので放ってある)。
さらによく調べてみたところ、移植なら99年7月の「With
You」が最後らしい。なんともサターンらしい最後と言おうか。
少コミ・イデオロギーを分析した。
イデオロギー的サイクル
1.
労働者(主人公)のところに指導者(相手の男)がやってきて、労働運動(恋愛)を指導する。
2.
資本家の走狗(邪魔者)が現れて、労働者と指導者の結束にひびを入れる。
3.
指導者は超人的な働きによって資本家の走狗をしりぞけ、労働者との結束を取り戻す。
4. 2に戻る。
イデオロギー的前提
・労働者には労働運動が必要であり、労働運動には指導者が必要である。
・真の指導者はたった一人であり、ほかは指導者を自称する詐欺師、資本家の走狗である。
・労働者と指導者の結束を築き守るのは指導者の仕事である。
・指導者は、労働者と労働運動のためなら、あらゆる犠牲を払い超人的な能力を発揮できる。
・指導者は、労働運動を指導することが無上の喜びであり、また常に正しく指導する。
・労働者は指導者に疑問を持たず、常に賛意を表明しつつその指導に従う。
・労働者と指導者の結束を破壊するために、資本家の走狗が必ずやってくる。
・資本家の走狗は強力ではあるが、指導者はさらに強力である。
今日の結論:
「Sister Princessの千影」=「星矢の一輝」=「代打」
星矢の一輝のごとく、いつもはグラウンド上に姿を現さず、ベンチで存在感を漂わせる。時々いいところで出てきて鳳凰の羽ばたきを一つくれれば、人気ナンバーワンは千影に決まり、というわけだ。
マルチギャル構造の長期連載では、代打はきわめて重要であると考えられる。「巨人の星」から「聖闘士星矢」までに起こった、もっとも重要なマルチギャル構造の進歩ではあるまいか。
ギャ会の面々に「Sister Princess」の誌面を見せたところ、千影が人気ナンバーワンとは誰一人見抜けなかった。魔氏の事後分析によれば、「ほかはみな兄に過大な期待を抱いていて、プレッシャーがかかったり面倒くさそうだったりするのに対し、千影は一人だけプレッシャーをかけないし面倒くさくないから」だという。
結論:感情移入システムに第一層の自己同一化を用いる場合、ギャルが主人公にかけるプレッシャーに注意
「Sister Princess」の各キャラの人気ランキングを全文検索で調査したところ、千影が優勢と出た。予想どおりだ。
が、千影に四番を打たせるのは勇気がいる。なるほど、これが原主義の原理か。
しかし超ハの四番が地味かといえば、派手もいいところなのはなぜだろう。統合運用問題を解く鍵は、このへんにあるかもしれない。
先頃のインド機ハイジャック事件は、ひさびさに犯人側の完全勝利に終わった。頭脳と統率と地の利があれば、ハイジャックのような不可能に近い犯罪さえ成功させられるということを、見事に証明している。
日本で成功率の低い犯罪の代表といえば、身代金誘拐である。身代金誘拐事件が起こるたびに私は、「世に馬鹿の種はつきまじ」と思わされる。成功率では銀行強盗のほうが10倍以上高いはずなのに、なぜか挑戦する馬鹿が絶えない。あの馬鹿どもは、リスクとリターンを取り違えているらしい。
ハイジャックのネックは、特殊部隊の突入に脆弱なことだ。どれくらい犠牲が出ようと、機内に突入したら話はそれきりで、「お前たちが裏切ったから人質を10人殺した。では交渉を続けよう」というわけにはいかない。これは、特殊部隊が入りこめない地点に人質と犯人を移動させることで回避できる。80年代以降の犯人側が勝利したハイジャック事件はすべてこの方法である。
身代金誘拐のなにがネックなのか。投資の少なさからくる、身代金の受け渡しの困難である。莫大な投資をしていいのならいくらでも手段はあるが、ここは現実に即して、徒手空拳、死傷者ゼロで挑むと考えよう。
ATM等は警察側が用意万端と考えられるので、物理的に現金を受け渡す方法を考える。焦点は、現金に注がれている警察の監視を切ることだ。これには二つの方法がある。第一に、監視能力を超えるところに現金を移動させる。第二に、監視に穴を生じさせる。現実にはこの両者を組み合わせて使うことになるだろう。
ここから先のことは、馬鹿どもに任せたい。私が考えた末の結論は、「どのように狡知を凝らしても、十分な投資を欠く身代金誘拐は99.9%失敗する」である。
参考までに、大金星を勝ち取ったハイジャック犯がどのように「特殊部隊が入りこめない地点に人質と犯人を移動させる」を具体化したかの一例をあげておく。ハイジャックを起こした組織の根拠地となっている市街に、人質を分散させたのである。ハイジャックは機内で完結するものという、無意識のうちの固定観念を覆す発想の転換である。まさにコロンブスの卵だ。
これからしばらくのあいだマスコミには、20世紀を回顧する企画があふれるだろう。
歴史とはすべてマイ歴史である。マスコミの語る20世紀はマスコミの20世紀でしかない。そこでこの日記も、マイ20世紀を考えてみる。
まず、20世紀最大の発明はなにか。
マスコミ的には核兵器に決まっている。アカデミックには精神分析か。私的には、自動小銃である。それもAK47だ。
ドイツ陸軍の兵器をソ連が真似して改良し、AK47として世界中にばらまいたこの兵器は、世界の戦略バランスを核兵器よりも致命的に変化させた。AK47はソ連の最大の戦略兵器であり、唯一の希望だったさえと言えるだろう。
現代ゲリラ戦を可能にしたのがAK47だった。AK47は、近代的な大量生産・大量輸送と、プロパガンダ以外のすべてを欠乏しているゲリラ兵士とを結びつける、理想的な鎖の輪である。その単純で生産しやすい設計は、近代的生産、いや近代そのもののシンボルだ。もしAK47がM16のように複雑で高価だったら、現代ゲリラ戦ははるかに困難になるだろう。その扱いやすさと信頼性の高さは、後方支援、精神的余裕、頭数、教育、なにもかもが不足しているゲリラ兵士には欠かせないものだ。
近代のシンボルは、近代的あるいはアンチ近代的な理想をその銃弾に乗せて、いまも誰かを殺している。近代が終わる日とは、AK47が火を吹くことをやめる日だ。
ギャ会総帥・魔氏から、「マーケティングリサーチの強化」という訓令がくだったので、電撃G'sマガジンを読んだ。
「Sister Princess」と「HAPPY LESSON」の企画には少々驚かされたものの、総合型の行き詰まりが特化型への期待を生んでいると考えれば、そう突飛な話でもない。列車砲のようなものだ。しかし「Sister
Princess」の妹はいいとして、「HAPPY LESSON」のあれはどうよ?(反語) なお、「あれ」の内容は読者諸氏が自分の目で確かめられたい。
雑誌全体を見た感触として、ロングヘア率が高すぎるように感じた。タイトルごとに数えてみると、ロングヘア率は40%が標準であり、ギャル数が少ないほど率が高くなる傾向にあることが判明した。
ギャル数が少ないほどロングヘア率が上がる現象は、ポニーテールの重要性によって生じている。ギャル数3以上ではポニーテールが欠かせないので、ストレートロングとあわせて2議席はロングヘア側に約束されている。ギャル数5にしてようやくショート側が過半数を得る可能性が出てくるわけで、ギャル数が少ないほどロングヘア率が上がるのは道理である。かくして、各タイトルでは最適化されていても、まとめて雑誌にするとロングヘア過多になるというわけだ。
紹介されている各タイトルをそれぞれ検討したところ、あいかわらず統合運用の問題が手つかずであるとわかった。ゲームは統合運用を避けて通れるのが利点ではあるが、あえてこれに挑戦しようという気概の持ち主は見当たらなかった。
そして、なにより重要なことに、百合のタイトルがない。どうやら彼らの目玉はビー玉らしい。
ワンダースワンのCCさくらのセーブデータが消えた。しかも、こんな短期間に二回も。
ゲームのセーブデータが消えるのは、「ふっかつのじゅもん」時代で終わりかと思っていた。本当に来年は21世紀なのだろうか。
「火曜サイエンス劇場」の世界のシミュレーションがほぼ固まった。
題して、「5%に支配されようとしている95%の世界」である。赤軍のヨーロッパ制圧後、北米大陸に篭城したアメリカ(とカナダ・メキシコ)は驚異的な経済発展を続ける。2000年の時点で、北米大陸に暮らす3億人、世界人口の5%が、世界の総生産の50%を作り出すようになり、しかもこの比率は過去30年間にわたって年々拡大しつづけている。一方、クレムリンの支配下に入った世界の95%は、日本を除いて経済的な停滞を続ける。すべての努力は北米大陸との技術開発競争に注ぎ込まれ、それも90年代に入ってからは離される一方となる。世界の95%とクレムリンにはもはや打つ手もなく、資本主義とアメリカが全世界を掌握する日をただ待つだけになっていると知りながら、パレードと形容詞で空威張りを続けている。
この破滅しつつある世界と党のために、秘密特命党員が悪のキリスト教秘密結社と戦うわけだ。チームは「細胞」、戦闘呪文はマルエンとレーニン、禁呪はトロツキーである。
問題はなんといっても知識量で、なまじっかな調査ではとても書けない。「あなたにもアジビラが書ける! マルエン・レーニン・トロツキー名文句集」はどこかにないものか。
新しい片手入力デバイスを発見した。PS用の片手コントローラだ。
PS用コントローラをパソコンのゲームポートに接続するコンバータを使ってパソコンにつなぎ、さらにジョイスティックの入力をキー入力に変換するソフト(ditkというのがある)を使ってキー入力を作る。PSのコントローラは10キー+方向キー、多少なりとも同時打鍵を使えれば、かなり使いでがありそうだ。ただ、片手コントローラを使うことに意味のある表示デバイスがHMDくらいなので、実用性はあまりない。
あけましておめでとうございます。
正月ということで、去年と同じく、やや上品でない話である。今年は、STUDIOねこぱんちの「Deep
Purple ~深紫~」というエロゲーを題材にとって、女同士物のエロの書き方を指導する。
「Deep Purple
~深紫~」は、登場キャラが女性のみ、絡みも女同士のみという、エロゲーとしてはかなり珍しい作品である。女同士物のエロにはよいお手本が少なく、ものがわかっていない人間に作らせると、本当に箸にも棒にもかからないような代物がいとも簡単に出てくる。が、「Deep
Purple」のストーリーを考えた人間は、ものが多少はわかっていたと見えて、「惜しい、あと一息」という水準に達している。
箸にも棒にもかからない代物をあれこれ言ってもはじまらないが、「Deep
Purple」はあれこれ言うだけの値打ちがある。そこでこの作品の一シーンを取り上げて、どこが惜しいのか、なぜ惜しいのか、どう直せばよくなるのかを指摘してゆく。これが読者諸氏の百合力向上の一助となれば幸いである。
問題のシーンを説明しよう。
まずは設定から。登場するキャラは全員、『魔女』と呼ばれる超越的存在である。姿形は若い女性だが、死ぬことも餓えることも老いることもない。このような存在でありながら、彼女たちの心性は姿形と同じく、若い女性に似ている。彼女たちは人界から遠く離れたところにコミュニティを作っており、貨幣経済に近いものが営まれている。
登場するキャラは三人、一人目は名をチョッチーといい、憎まれ口を叩くことに命を賭けるわがまま娘である。二人目はバルハラといい、チョッチーの憎まれ口の叩かれ役を引き受けている。三人目はテルスタといい、ものわかりのいい金持ちである。
絡みに至るまでの経過は以下のとおり。チョッチーはテルスタから金を借りていたが、あるとき債務不履行に陥った。チョッチーは債権者のテルスタから逃げ回ったものの、それは最初から見込みのない逃走だった。はたして数日後、バルハラの仕掛けた罠にかかって眠らされ、テルスタに捕獲される。債権回収は困難と知っているテルスタは、チョッチーに体で支払うよう求めることした。
絡みの内容は以下のとおり。テルスタはバルハラとともに、眠らせてあるチョッチーを自宅に運び込み、ボンデージ衣装に着せ替えた。テルスタは自分もボンデージ衣装に着替え、チョッチーが目を覚ますと、体で支払うよう求めた。チョッチーは拘束具で口をふさがれていたが、うなずいて同意を示した。
(…ジョニー、僕、ちょっと後悔してるよ… 一体なにをしているのだ私は)
ボンデージ衣装の登場でおわかりのとおり、展開はSM(レディコミ流ハード級、美少女系エロまんが風)になる。ここで小道具に、痛みを和らげて快感に変える薬(このへんが美少女系エロまんが風)なるものが出てきて、テルスタがチョッチーに飲ませる。以下、説明したい部分がまだあるのだが、あまりにも辛くなってきたのでもうやめる。
さて、まずは褒めてみる。このシーンの、どこがどう優れているのか。
チョッチーが債権者から逃げ回る、これが第一のポイントだ。債権者のテルスタから逃げ切れる可能性はまったくない。逃げ回るチョッチー自身、口では逃げ切れると言っているが、本当は不可能だとわかっている(と読めるように設定・描写されている)。チョッチーの逃走は、債務に罪悪感を上乗せするだけの行為である。この罪悪感の上乗せが、体での支払いを求めることの無理を減らしている。もし債務不履行が生じた時点でただちに債務問題の話し合いをしていたら、テルスタは金銭とセックスを交換するよう求めることになる。この交換の感情的な困難はいうまでもない。罪悪感を上乗せするというステップを踏むことで、この困難を回避しているわけだ。
回避したといっても、そのために別のところに歪みが出ているようでは、あまり褒められない。たとえば、チョッチーの無益な逃走に、動機がなくては困る。いったいなぜチョッチーは、不可能な逃走にあえて挑戦したのか。これには二通りの説明(読み)が可能であるように書かれている。一つは、チョッチーに自傷傾向がある、という説明である。
まわりじゅうの人間から見捨てられるまでギャンブル等にのめりこむ人々がいる。このような人々は、自分自身を社会的に傷つけることに魂を奪われており、これ以上傷つけようがなくなるまで止むことがない。これほど極端でない、ささやかな自傷傾向の表れと見なせるものはどこにでもある。たとえばチョッチーの憎まれ口がそれだ。
もう一つの説明は、債務問題を感情の次元に持ち込むチャンスを作ることを狙った、というものだ。債務問題はそれ単体ではすでに処置なしであり、敗北を認めるしか道がない。これを嫌ったチョッチーは、債務問題に罪悪感を上乗せすることで感情の次元へと持ち込み、敗北にならない形での解決を可能にしようとした。
二つの説明を組み合わせると、チョッチーの行動は、「負けのこんだ勝負に追加の賭け金をつぎこむこと」と説明される。負けのこんだ勝負を続けることは、ささやかな自傷傾向の表れと見なしうる。
こうしてみると、「憎まれ口」「無益な逃走」「体での支払いの要求」の三つの要素が、綺麗に統合されていることがわかる。感情的な困難の回避が、小手先ではなく、より大きな構成のなかに自然に実現されている。これは、もののわかった人間の手になる仕事だ。
ここまでは実によくできている。惜しい部分はここからだ。
チョッチーの無益な逃走は、負けのこんだ勝負に追加の賭け金をつぎこむことだった。だが、賭け金の追加が、なぜ一度で終わってしまうのか? 追加の賭け金を二度三度とつぎこむことで、「賭け金の追加」をチョッチーの行動パターンとして示せれば、よりわかりやすく説得力のある構成になったはずだ。そして、掛け金を追加するチャンスは二度あった。
一度目が、債務を体で支払うよう求められたときだ。このときすでに、債務問題が感情の次元に移っていることに注意されたい。ここでチョッチーが目指すべきは、テルスタを感情の次元でへこませることである。テルスタをやりこめたり気後れさせたりすればそれはチョッチーの得点であり、それまでの負けを全部チャラにできる。たとえ結局は体で支払うとしてもだ。体で支払うよう求められて、おとなしくうなずくのでは、勝負を負けのこんだまま清算することになる。
そこで私は、チョッチーがおとなしくうなずくかわりに、次のように展開すべきだと考える。
体で支払うよう求められたとき、チョッチーは首を縦にも横にも振らず、拘束具をはめられた口でなにごとかを訴える。バルハラが口の拘束具を外してやると、チョッチーはテルスタに、もし自分の足をなめて綺麗にしたら体での支払いに同意する、と告げる。テルスタはこの挑戦を受け、チョッチーの足を申し分なく綺麗になめる。チョッチーは同意のしるしに、テルスタの差し出した口の拘束具を、自分の意思で口を開けて受け入れる。
この改良案のメリットは、「賭け金の追加」だけではない。テルスタに足をなめさせたことが感情の次元での負債に上乗せされ、無駄に逃げ回ったことへの罪悪感だけのときよりさらに、体での支払いが自然なものになる。トップ(S役)がボトム(M役)の足をなめたり、拘束具を自分の意思でくわえたりと、おいしい展開も追加できる。
二度目もあるのだが――もういいかい…? 僕が馬鹿だったよ… もう許してくれるね、ジョニー…?