中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2000年5月

5月30日

 今日のフレーズ:
 「協力とは、強いることのできない人間関係の一つです」
 ――W・パウンドストーン「囚人のジレンマ」198ページ

5月28日

 L作戦のデバッグをしながら、柴田ヨクサルの「エアマスター」を読んでいる。
 こ、この絵は一体… なにか、凄いような気が。

 サターンのゲームの「NIGHTS」を手に入れた。面白い(というより画面が気持ちいい)のだが、攻略情報がないので辛い。うーむ。

5月27日

 L作戦、アルファ版のための最小限のコードはコンパイラを通った。
 そして、デバッグという名の地獄が始まる。

5月26日

 「大戦略」シリーズと対極の方向性を持つ図上演習系ゲームを考えたところ、首都圏の鉄道網を使うのが一番簡単、という結論が出た。これは私が以前から暖めている考えなのだが、作る必要がないため作れないでいる。
 首都圏の鉄道網と時刻表に沿って、駅駐留の部隊を移動させる。補給路になっている駅を奪われれば、そこを通って補給を受けている部隊はカラータイマーが点滅し、制限時間内に補給を受けないと潰れる。距離的にはすぐそばの駅でも、時刻表次第でははるかに遠くなる、という効果が地形の役割を果たす。敵の占領する駅に部隊を乗せた電車が入れば戦闘開始、開始から一定時間内により多くの部隊を投入したほうが勝利する。
 前線と後方、補給線、兵力集中原則と補給問題、内線有利といった重要な要素はとりあえずカバーできる。手でプレーしようとすると、それこそちょっとした図上演習なみの手間がかかるが、コンピュータなら簡単だ。
 ただ、このゲームは、コンピュータにプレーさせるのがあまりにも難しい。大局観をまるで持たないものにしかなりそうにない。

5月25日

 ウィリアム・パウンドストーンの「囚人のジレンマ」を手に入れた。この本、拙作「旧世界秩序」のネタ本の一つなのだが、いままで手に入れる機会がなかった。
 60ページにある、「審判だけに見える3枚のチェス盤でプレーされる」種類のクリークシュピール(図上演習)とは、どんなものなのだろう。はじめて聞くゲームだが、ランド研究所では「昼休みの娯楽として人気」だったという。
 それにしても、地図さえ使わない図上演習とは、「大戦略」シリーズの対極にあるようで興味深い。

 …と思って調べてみたら、プレイヤーには自分の駒しか見えないチェス(だから審判が要る)というだけの話だった。いったいこれのどこが図上演習なのだねパウンドストーン君?

5月24日

 今日のフレーズ:
 「万国の民族主義者よ団結せよ」

 団結するまでもなく利害が一致している民族主義者と、まず団結しなければ事が運ばない労働者では、はじめから勝負にならないわけだ。

 JavaScriptを悪用した不愉快な広告が増える今日このごろ、IE5の「制限付きサイト」を自動配信するサービスをやれば儲かるかもしれない、と思いついた。
 最大の問題は、広告でお手軽に稼ぐわけにはいかないという点である。なにしろ広告を妨害するのだから。が、アンチ広告サービスは将来性のある分野だと思うので、ぜひ誰かに挑戦してほしい。

5月23日

 L作戦で、メモリキャッシュの存在を忘れていたことに気づいた。きゅう。

5月22日

 今日の「どうよ」:
 近日発売のエロゲー「Natural2」の服装、どうよ?
 なにかこう、とてつもなくセンスが悪いような気が。

 事故のためL作戦は今月中に第3段階には到達できないことが明らかになった。うーむ。

5月21日

 今月のウルトラジャンプの、花見沢Q太郎の連載が百合だった。といっても注目する必要はない。

 L作戦はじりじりと前進している。とりあえず心臓部のコーディングは終わった。コーディングだけは。
 24日までに全コーディングを完了、27日までに実働状態に達して第2段階を完了する予定。そして今月中に第3段階を終える…のは少し苦しいか。

5月20日

 榛野なな恵の「ピエタ」2巻の増ページ分に期待を抱いていた我々だが、期待したような大展開はなかった。残念。

 MSのサイトに新しいWinDbgが載っていた。プレリリース版ではあるが、DDK付属のWinDbgのバグっぷりの、どこがどう製品版なのか説明してほしいものだ。

5月19日

 アキバのエロゲー屋をうろついたら、「さくらんぼステーション」なるエロゲーのパッケージを見て、あまりのクソゲー感に目からビームが出た。
 「クソゲーのパッケージはかくあるべし」という、エロゲーにおけるクソゲー・イデアを実体化したがごとき、純粋無比のクソゲー感である。手抜きや下手といった不純な要素をまじえることなく、人間の想像しうる限界をはるかに超えて完全無欠な「クソ」を表現している。もし私がクソゲーマニアなら、見る聞くなしで即ゲット、いや発売前から予約済みだろう。
 このパッケージの感動は、たとえば、電車に乗っていたら「純粋な悪」なるものが隣の席に座ったとか、買い物をしていたら「官僚主義」なるものが売っていたとか、そういう感動である。熱力学の理想気体のごとく、クラウゼヴィッツのいう純粋戦争のごとく、理念として考えることは可能でも現実には純粋な形で出会うことなどできない、いわば形而上の世界の住人が、手に触れられる形而下の世界に現れてきたという感動。もしかしたらそれはマルチとの再会に似ているかもしれない。
 全文検索で調べてみると、期待にたがわぬ高レベルなクソゲーであることが判明した。しかも、「開発スタッフの全員が女性」という、これ以上ないほどクソゲーにふさわしい売り文句まで出てきた。これはもしかして、エロゲー史上最高のクソゲーを作ろうというプロジェクトなのだろうか。

 「かえるの絵本 ~なくした記憶を求めて~」というプレステのゲームは主人公の性別が選択可能だと聞いて、私は、Sister Princessのゲームのことを連想した。
 主人公が兄でなく姉なら、これほど面白そうなゲームもないというのに。ううう。

5月18日

 今月のアスキーの大森望のコラムにはあきれた。以前から馬鹿だと知ってはいたが、馬鹿さ加減を再認識させられた。
 誹謗や脅迫的言辞は「温度差」で片付けられる問題ではない。これは、学校内での恐喝事件を「当事者間の認識の食い違い」で片付けるのに等しい。現金と同様に、書かれた言葉はきわめて現実的なものだ。現実的というよりは、現実を構成する元素と言うべきか。
 書かれた言葉が、現実を構成する元素としての立場を失うかもしれない(あるいは失いつつある)と認識するなら、それもまた「温度差」ではない。革命だ。デジタル情報の著作権は現実的な基盤(著作権を守らせるに足る強制力)を失いつつあるから、デジタル情報には著作権がなくなるかもしれない、というのと同じくらいの革命だ。
 ふざけてアメリカ大統領に脅迫メールを出す馬鹿が、毎年のように現れてはシークレットサービスに捕まる。少なくともシークレットサービスにとっては、ビットで書かれた言葉は、捜査するに足る現実である。

 東芝のノートPC用MPEG2ハードウェアエンコーダ+TVチューナがアキバに出回ってからずいぶん経ったので、全文検索をかけてみたら、個人の使用レポート類は一切なかった。誰が使っているのだろう。うーむ。

5月17日

 小説が書きたいよアニキ… ドキュメントとコードはもう嫌だよ…

 L作戦の複雑さに眩暈がしてきた。本当に動くのだろうか。それもあと10日で。

5月16日

 なぜ「ぴたテン」に百合電波を感じたのかと考えてみると、主人公が男でなくても100%成立する話だから、という結論が出た。
 そういえば、マルチに転げまわったときにも、「主人公が男でなくてもいい話ですからね」と言われたのだった。どうやら私の百合魂も、かなりのところに達しているらしい。

5月15日

 コゲどんぼの「ぴたテン」1巻を読んだ。
 うひゃあ。(百武ホシオ風に)
 凄い。なにがどう凄いのかよくわからないけれどとにかく凄い。くっくっくっくっ(鳩の鳴き真似にあらず)、と、こう、電波が、百合な電波が。百合なところはほとんどないのに。
 とりあえず今日から笑い声は「てひひひひー」ッスよ。てひひひひー。

5月14日

 Windows2000でi810の内蔵ビデオが落ちまくるのに耐えかねて、ビデオカード(FireGL1000Pro)を買った。これをデュアルマシンにつけ、デュアルマシンにつけていたSavage4をメインマシンに移した。はたして予想どおり、今までのところ不測のハングアップは起きていない。
 本日の赤字、3000円。累計額68386円。

5月13日

 直感と論理に導かれて高河ゆんの「クロニクル」1巻を読んだら、巻末のおまけが百合だった。
 私は高河ゆんには百合を期待したことはないし、実物も予期にたがわず、百合的にはさほどレベルは高くない。が、時代が動きつつあることを示す指標ではあるかもしれない。
 なぜ高河ゆんに百合を期待したことがないのかと考えてみると、野性的なふてぶてしさ、という答えが出た。
 百合にはどうしても、よく言えばハードボイルド的なところ、悪く言えば自己陶酔的なところ、マルクス主義的に言えばヘーゲル流に逆立ちしたところが要る。ひとつの信念が総合的な損得勘定に、観念が物質に優越すると信じないかぎり、百合はその本来の可能性を発揮できない。百合には、物質的な基盤を持たないことを誇るメンタリティが必要とされる。なぜなら物質的な基盤を求める人々はやおいやショタやふたなりに陥るからだ…というのは私の邪推かもしれないが。

5月12日

 今日のソ連:
 クリストファー・アンドルー/オレク・ゴルジエフスキーの「KGBの内幕」
 情報機関では、いわゆる「空想と現実の区別がつかない」という現象が観測されやすい。なにしろ、金を出すのは政府であって真実ではないので、都合の悪い現実は耳ざわりのいい空想に席を譲る。情報機関と偉ぶってみても、このへんの事情はマスコミと少しも変わらない。この構造的な問題に、マルクス・レーニン主義イデオロギーが加われば、KGBの出来上がりだ。
 …と思っていたが、それほどひどいわけでもない。最大の理由はシギント、つまり通信傍受活動である。刻々と流れ込んでくる大量の暗号電文を無視するには、強固な妄想力が必要とされる。
 ところで「disinformation」を「逆情報」と訳すのは、決まった訳ではあるものの、なにか変な気が。

 L作戦は第1段階を完了し、現在は第2段階に取り組んでいる。いける、いけるよアニキ!

5月11日

 今度の停戦が終われば、タリバーンはかねて公言していた攻勢にかかるのだろう。事が始まる前に、今年の成り行きを予想しておきたい。
 問題は前線ではない。タジキスタンである。
 タジキスタンの無政府状態は、マスードの最後の生命線になっている。この無政府状態のゆえに、マスードは麻薬を輸出し武器を輸入することができる。無政府状態を収拾する動きが生じれば、マスード派崩壊のきっかけになるだろう。しかし、無政府状態が収拾される見込みは当分ない。麻薬ビジネスと民族主義――20世紀最悪のコンビ――は、治安を確立しようとする力よりはるかに大きい。
 このため、たとえタリバーンがアフガニスタン全土を掌握しても、マスードは手兵が残っているかぎりタジキスタン領内から戦いつづけることができる。よってタリバーンとしては、「マスードは無力であり、彼のもとで戦っても無意味だ」というイメージを作り上げることでしか勝利は得られない。タリバーンが破竹の勢いで進撃していた頃ならともかく、今となっては、これは息の長い戦いである。大攻勢と気焔を上げても、実際には消耗を強いる戦いが中心になり、新たな重要拠点の陥落はないだろう(タロカンなどの一時的奪還はありうる)。
 パキスタン、サウジアラビア、UAE(そしておそらくアメリカも)としては、長々とやられたのでは困るので、この方面から動きがあるかもしれない。しかし彼らとてタジキスタン情勢はいかんともしがたい。一休さんの頓知の「屏風の虎を追い出してください」のようなものだ。
 かくしてマスード派は、疲弊しながらも今年も生き延び、パキスタンの風向きが変わるのをじっと待ちつづけるだろう。もっとも、風向きがどう変わろうと、いまさらパキスタンがマスードをかつぐことはありえないだろうが。マスードは、かつぐにはあまりにも英雄的すぎる神輿である。

 Windows2000のドライバ開発、名づけて「L作戦」の完了予定日を、5月末と決定した。

5月10日

 陰謀論的世界観の持ち主は、ありもしない陰謀を騒ぎ立てるだけで、実在の陰謀を見抜くことはできない。1941年6月22日、スターリンとソ連はこのことを劇的に証明した。今日の私たちが、陰謀論的世界観をこれほどためらいなく笑い者にできるのは、彼らのおかげによるところが大きい。
 が、同じくらいに有害無益でありながら、いまだに勢力を保っている世界観がある。名づけて、厳罰論的世界観である。
 「この世に犯罪がはびこるのは、刑罰が甘いからだ」――こう主張すれば、失笑を買わずにすむわけがない。だが「犯罪」を「少年犯罪」に、「刑罰」を「少年法」に置き換えるだけで、まるで魔法のように賛同者が出てくるのはなぜか。
 同様のことは陰謀論的世界観にも言える。「秘密組織が世界を支配している」と主張すれば笑われるより先に正気を疑われるが、「秘密組織」を「ユダヤ」に、「世界」を「世界経済」に置き換えるだけで、どこからともなく支持者が現れる。
 きっと私たちは、ゲッベルスの法則に支配されているのだろう。すなわち、「嘘も百回繰り返せば本当になる」。とはいえ、嘘を嘘と見抜いたところで肩をすくめるほかないのは、ソ連の人々が体験してきたとおりである。

5月9日

 今年の17歳は当たり年だという評判があがっている。
 確率を学べばわかるとおり、こういうものは集中して現れることが多い。たとえば、飛行機事故が起きた日の翌日は、飛行機事故が起こるのにもっとも適した日である。なぜなら飛行機事故の起きる確率は常に一定であり、前回の事故から1年後も1日後も、どちらも同じように「もっとも適した日」だからだ。
 このような危険を承知のうえで、今年の17歳がどんな世界を見て育ってきた人々かを考えてみる。
 世界が回転した年、1989年には6歳だった。日本が没落しはじめた1991年には8歳だった。オウム事件の1995年には12歳だった。
 彼らは、回転する世界を見なかった。彼らはおそらく、世界が回転することの意味も知らなければ、世界が回転しうるものだという実感も持っていない。
 おそらく彼らはバブルの馬鹿騒ぎを知らない。彼らにとって世界とは、二日酔いの頭痛である。
 12歳にして彼らは、大人になることが、ある意味でオウム信者になることだと知ったかもしれない。夜9時からの2時間TVドラマの大半が、オウムの制作したアニメと大差ないということに気がついたときには、どんな気持ちがしただろう。
 合理的な人間であれば、絶望を結論してもおかしくない。イデオロギーに酔っぱらったり、世界が回転した感触に酔っぱらったり(私のことだ)したまま生きることは、彼らには難しい。
 そろそろ、若い人々のための酒を用意すべきだ。また、彼らがしこたま酔っているのを見ても、眉をしかめるべきではない。なにしろ私たちはみな、自分が素面だと思いたがる種類の酔っぱらいにすぎない。嘘だと思うなら、今月の標語をよく読み直してみることだ。
 百合と香織派の活動が、若い人々に歓迎される酒を用意できれば幸いである。

5月8日

 今日のソ連:
 寺谷弘壬の「ソ連の読み方 クレムリンでいま!?」(1983年8月)。
 零細出版社から出たソ連本といえば反共イデオロギーと相場が決まっているが、これは珍しくまともな本である。著者略歴から察するに、有名なソ連研究者であるらしい。
 ソ連の文化統制について書いたくだりで、「検閲される出版物は、よしんばそれがよいものであっても、悪い。しかし自由な出版物は、たとえそれが悪いものであってもよい」とマルクスから引用しているのを見て、格好よさにしびれた。こういう真似がすらすらとできるようになれば、火曜サイエンス劇場の世界も書けるようになるのだが。

5月7日

 衆院選が6月25日と決まったようなので、今日から落選運動を始めた。
 といっても主目標は議員ではない。最高裁裁判官だ。焦点は「一票の格差」である。
 周知のとおり、現在のところ一票の格差は3倍まで認められている。何が認めたのかといえば最高裁だ。が、この憲法判断は、それほどの大差で支持されているわけではない。去年11月10日の判決では、最高裁裁判官の14人中5人が違憲と判断した。
 率にして64%、頭数で9。2人が寝返れば拮抗する。いきなり崩すのは無理でも、つつけば揺らせる。
 さて、6月25日に国民審査にかけられる連中の名前と、その憲法判断を以下に掲げる。

山口 繁 合憲
金谷 利弘 合憲
北川 弘治 合憲
亀山 継夫 合憲
奥田 昌道 合憲
元原 利文 違憲
梶谷 玄 違憲

 読者諸氏におかれては、この表をあちこちに広めていただきたい。

 ちなみに副目標は日本共産党、議員の名前はこれから調べる。焦点は、児童ポルノ禁止法案の審議における態度である。なんと、「絵も禁止」という原案をそのまま通そうとしたのだ。どうやら彼らの頭の中はいまだにソ連であるらしい(ソ連ではポルノは禁止されていた)。

5月6日

 今日のソ連:
 「赤の国星」
 主人公の姿が8歳の女の子に描いてある、ファンタジックで残酷なスターリン伝。

 プロバイダのftpサーバが落ちていたので、4日5日の日記はない。あしからず。

5月3日

 業務連絡:
 コミティア52 5月5日 東京ビッグサイト東4ホール V15b 西在家香織派

 今日のソ連:
 那須聖の「ソ連崩壊が迫る」(1987年6月)
 こんな奴らを勝たせたのかと思うと怒りのあまりソ連シンパになってしまいそうな、レベルの低い反共イデオロギーのプロパガンダ本である。「カプール」ってどこだ「カプール」って。
 だがこれも冷戦の重要な真実なのだと、認めないわけにはいかない。宮川匡代の「ONE」が、少女まんがの重要な作品であると認めないわけにはいかないように。キッシンジャーだけが冷戦ではないのと同様に、吉野朔実だけが少女まんがではないのだ。

5月2日

 DbgPrintの出力を見るためだけに半日を潰す。
 Windows2000の「検索」がUnicode対応でないということに気づくためだけに残り半日を潰す。
 まさに「月曜日にお風呂に入り」の世界だ。

5月1日

 百合物件情報:
 今月の「きみとぼく」に載っている、藤田貴美の「温室舞踏会」という短篇が百合である。「きみとぼく」編集部はようやく真実に目覚めつつあるのだろうか。

 今日の教訓:
 ドライバのデバッグをデバッガなしでするのは無謀である。

 

今月の標語:

こんな噺がある。
何かの建築物を作っている人々のところへ
旅人がやってきて、
いったい何をしているのかと
一人ひとりに聞いてまわった。
ある者が腹だたしげに答えた。
「見てのとおり、朝から晩まで、こういうつまらん石を運んでいるだけですよ」
ほかの者が立ち上がり胸を張って誇らしげに言った。
「ほら、私らは神殿を建てているんですよ!」

 緑の丘に立つ輝く神殿という
高邁な目標を思い描くことができる者にとっては、
どんなに重い石も軽くなるし、
どんなに激しい労働も喜びになるのだ。

――ミハイル・ゴルバチョフ『ペレストロイカ』より


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