今日のソ連:
川上恭正の「離婚大国 ソ連の女性に何が起きたか」、1984年2月発行。
要するにいつもの、「コネがないのは首がないのとおんなじや」という話である。ソ連くらい精神衛生に悪そうな社会はざらにはない。不断にコネを維持拡張しておかないと、どんなに金があってもなにひとつ手に入らないのだ。
ただ、ソ連の男女平等ぶりを褒め称えるところで、ソ連の主要な政治家に女性は皆無、という点に触れていないのは疑問だ。ジャーナリストが「外国」を使う手口が透けて見える。
次の三者の関連を考えている。
・イデオロギーの変質
(たとえば、森茉莉から24年組・やおいを経てボーイズラブに至る道)
・輸送力の比較優位の喪失
(小説→まんが、演劇→映画)
・市場のゼロサム化
(TVの普及率が限界に達した時期と、TVの辺境化がはじまった時期はほぼ重なっている。また、ボーイズラブ市場のゼロ成長状態が辺境化圧力の原因になっているとの観察がある)
輸送力の比較劣位は明らかに辺境化を招く。が、比較劣位による辺境化圧力と、イデオロギーの変質や市場のゼロサム化の因果関係はどうなのか。
市場のゼロサム化は、TVでは、日本の人口という天井をそのまま反映して生じた。ではボーイズラブに関しては、人口という天井はどの程度働いているのか。レディコミ市場は急成長の時期からすでに辺境だった(そして辺境の運命として、わずかな経済的条件の変動によってすぐさま代替され荒廃した。規格品の大量生産の危険は、バナナ共和国の危険である)。市場のゼロサム化と辺境化の相関関係・因果関係を、どう考えるべきなのか。
これらの客観的諸条件と、香織派にとっての中心課題であるイデオロギー問題は、どのようにつながるのか。
この問題を考えるうえでの困難のひとつは、メディアの辺境化を定量的に示す指標が存在しないことである。それぞれのメディアにおいては辺境化の過程を示す指標を探し出すことができるが、異なるメディアを統一的に扱える指標がない。うーむ。
村上真紀の「グラビテーション」1巻を読んだ。
この作者はおそらく、少コミ・イデオロギーでも、りぼん・イデオロギーでも、同じように人気が出るだろう。イデオロギー分析の鋭さは認めざるをえない。たぶん、イデオロギー以外のものがないというだけで、売れるには十分なのだと思う。
多くの読者は、作者のことを知りたいなどと、ひとかけらも思っていない。自分の好きなイデオロギー――マル経風に「死んだ感性」とでも言おうか――を読みたいだけなのだ。作者の「生きた感性」は、往々にして不愉快なノイズにすぎない。
作品に「死んだ感性」以外のものを表現せずにすませるのには、かなり特殊な才能を要する。私自身がかつてそういう作品を目指していただけに、どうも軽々しく村上真紀を否定する気持ちにはなれない。
人の命は牛毛よりも軽く泰山よりも重い、という中国の諺がある。これにならって言えば、気高さは光通信株より安くマイクロソフト株より高い。
誇りや節操というのは一種の贅沢品なので、貧乏人――もちろん収入の問題ではなく階級的意識の問題である――は持っていない。もし貧乏人がそんな分不相応な贅沢品を持っていたら、仲間に背伸びを嘲笑われるだろう。これは善悪の問題ではない。私たちプチブルが貴族的なものに通俗の泥を塗るのと同じく、階級的に妥当な振る舞いである。
節操を購うのは、簡単といえば簡単だ。損害を恐れなければいい。が、貧乏人にとってはこれは、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というのに等しい。貧乏人は、鋭い階級的意識によって、「金持ちは葉巻を吸うからといって、葉巻を吸っても金持ちにはなれない」という真理をつかんでいる。
気高さは、貧乏人以外――ギャングとプチブルと貴族――の特権である。だが、気高さに耐える支払い能力を、これらの階級に属する全員が持っているわけではない。
もし債務不履行に陥れば、そのツケはどこにくるのか。かつての私は漠然と、どこかで適当にごまかされているのではないかと思っていた。いまの私は、どうもそうではないらしいと考えている。ツケがまわってきたと思われる時と相手に、会ってしまったからだ。
以前に人から言われた言葉を、その発言のコンテクストから切り離して、自分の都合のいいコンテクストに置き換え、そのコンテクストに基づいて人をなじる。そんな傾向が強い性格だと、昔から思っていた。――もちろん、コンテクストの置き換えをしているのは自分かもしれない。だから、ツケがまわってきたのは私なのか彼女なのかは、タイムマシンでもなければ永遠にわからない。だが、どちらかにはまわってきた。
それまでは、言葉の向きを90°曲げるくらいだった。意識的にやっているのかもしれないとも思えた。だがそのとき相手は、言葉の向きを180°曲げて、それを心の底から信じ込んでいた。誤解というレベルではなく、記憶の捏造だった。――再三言うとおり、捏造しているのは私のほうかもしれないのだが。
おかげで私は二つのことを知った。ひとつは、記憶は捏造されうるものであること。もうひとつは、債務不履行のツケはまわってくるということ。
記憶の捏造と、節操のなさと、どちらがましか。もし選べるものなら選びたいが、それは階級的に規定されていて、選びようがない。そして、自分の財務状況を知る手だてはない。債務不履行が生じていても、自分ではけっしてわからないのだ。
自分の持ち合わせが足りていることを祈りながら、今日も私はプチブルとして生きている。
百合の母―娘イデオロギーといえば、森茉莉は父―娘のコンプレックスから父―息子イデオロギーになっていた人だったと思い出した。
現在のボーイズラブは、森茉莉のイデオロギーからはるか遠くにきている。百合も発展するにつれて脱イデオロギー化するのだろう。私も脱イデオロギーの方法について考えなければ――と思ったが、聞くところによれば私はどうやら、イデオロギーより煩悩の人らしい。いいのか悪いのか、うーむ。
あずまきよひこの「あずまんが大王」2巻を読んだ。
読者諸氏は、自分の天然ボケに自信がおありだろうか。私はある。
…というようなことを思った。
百合の主要なイデオロギーには、姉―妹イデオロギーと母―娘イデオロギーの2種類があるのではないか、と考えている。
吉屋信子が姉―妹イデオロギーだったのでこちらが有名だが、母―娘イデオロギーも脈々と絶えることなく存在しつづけている。たとえば樹村みのりの百合は母―娘イデオロギーだった。
ペトログラード・ソヴィエトによれば、「秋子×名雪」なるカップリングを書いている人が実在するらしい。この話を聞いたとき、私はイデオロギーの力を痛感した。自分と異なるイデオロギーが、いかに理解しがたいものか。
「真デスクリムゾン2・クソゲーは生きていた」こと「高2→将軍」をやっている。
とりあえず名将軍EDを見た。スタッフの名前に、某氏と某氏と某氏を発見したが、某氏がわからない。
いままでの印象では、どうもクソゲー的に不完全に思える。ジャマイカと十六連射というネタが普通すぎるのだ(このネタが普通に思える程度のクソゲーレベルはある)。旧東側ネタで埋め尽くすくらいの理解不能度を誇れば、もう一つ上が狙えた。クイズは、たとえばこんな感じだ――「シベリア抑留者がソ連から持ち帰り、日本にすっかり定着したロシア語はどれ。1.
デブ 2. ノルマ 3. 粛清」。
EDリストを見ると、名将軍EDより上のEDがあるようなので、もしかして朝鮮(後略)
「私たちはみな多かれ少なかれイデオロギッシュである」(23日の日記を参照)といえば、吉屋信子も姉―妹イデオロギーな人だったと思い出した。なにかといえば仲の良すぎる姉妹が出てくるのだ。
吉屋信子はいったいどこで姉―妹イデオロギーに感染したのだろう。もし初代イデオローグだとしたら、その偉大さにあらためて敬服する。
L作戦。
ようやくAAHDDが安定してきた。次の次のバージョンあたりでコードを固められる模様。
上野千鶴子の「発情装置」を読んだ。
学者の文章はかくあるべし、という見本のような、示唆と思索に富む本である。
「発情装置」の125ページ、「ジェンダーレス・ワールドの〈愛〉の実験」に、ギャル理論でいうところの「自己同一化の第一層・第二層」に近い認識がある。以下、140ページから引用する。
だが読者の少女はジルベールが「異性」であることで、彼に同一化する苦痛を味わうことなしに、性的な身体の受苦を、外から観察することができる。これは特権的な視線である。
引用した文章は1989年に書かれた。扱われているのはボーイズラブではなく、「風と樹の詩」などの二十四年組の手になる少年愛の作品である。
ここで言われている現象が、「自己同一化の第二層」である。が、ある点で、上野と私の認識は異なっている。『彼に同一化する苦痛』を味わわずにすませるには必ずしも『外から観察する』『特権的な視線』の立場は必要でない、というのが私の認識である。
読者はたしかに『特権的』な立場にいる。ヤクザ映画の観客のように高倉健になりきって、彼の苦しみを我が身に感じ、彼の行動に心の底から共感する、という立場とはかけ離れている。しかし、だからといって、読者は『外から観察する』立場にいるわけではない。
これは、B級ホラー映画の殺され役を例にとるとわかりやすい。
B級ホラー映画の観客は、ヤクザ映画の観客のようには同一化しない。顔の見えない殺人鬼も、無残に殺される殺され役も、およそ同一化したいような相手ではない。だが、とすると観客は、『外から観察する』『特権的な視線』になっているのだろうか。殺され役の恐怖を『観察する』のがB級ホラー映画なのか。
おそらく、そうではない。観客は、殺され役に(ヤクザ映画的に)同一化する苦痛――もし同一化するなら、あまりにも不当で過酷な運命に対してブーイングをあげることになるだろう――なしに、彼の恐怖を共有するのである。恐怖に歪む表情をカメラが写すのは、恐怖を共有するためであり、恐怖を観察するためではない。
同じことが、ジルベールと読者のあいだにもいえる。
ジルベールに『同一化する苦痛』とは、あまりにも不当で過酷な運命に対する怒りとブーイングのことである。ジルベールが異性であるという障壁は、怒りとブーイングなしに『性的な身体の受苦』を共有することを可能にするためのものだ。
ヤクザ映画的な同一化だけを自己同一化と考えるなら、これは自己同一化ではない。といって、『視線』でもない。だから私は、ヤクザ映画的な同一化を「自己同一化の第一層」、B級ホラー映画的な同一化を「自己同一化の第二層」と名づけたのである。
あと感想を書き留めておくと、
・フーコーはやっぱり敵
・自称トランスセクシャルと自称トランスヴェスタイトはやっぱり敵
・カミングアウトの戦略はやっぱり気に食わない
・私の貴島望はやっぱり傑作
「オーディオ・ドラマ 源氏」を聞いた。
克己が、9年前よりもさらに幼く思えて、涙した。もちろん克己が幼くなるわけがない。私が9年分、歳を取ったのだ。
そういえば先日、古いアーケードゲームの話をしていたとき、「ギャラガ
'88」と言いかけて――まさかと思った。あれが1988年、12年も前のことだとは、なかなか信じることができなかった。ギャラガが発表されてからギャラガ
'88が発表されるまでの時間より、ギャラガ '88が発表されてから現在までの時間のほうが長い――まさかと思った。
私が12歳のときだ。成田空港に着いたとき、「おめおめと生き延びた」と思った。なんの理由もないのに生き延びたのだ、と。愉快だった。理由もなく死ぬのが最低なら、理由もなく生き延びるのが最高だ。
それから14年が経った。おめおめと生き延びるのも、どうやら、それほど愉快なことではないらしい。
マスード派が戦線を立て直し、タロカン奪還まであと一息のところに来た。もし今年中の奪還に失敗すれば、来年中にマスード派はアフガニスタンから叩き出されるだろう。
L作戦。
AAHDDの修正とHalfDisk 0.2を平行して進めている。HalfDisk
0.2はコーディングを90%完了した。
今後の予定は、HalfDisk 0.2のデバッグとリリース、そしてAAHDDのGUI化である。
今日の疑問:
魔氏の作品を読むと、自分の原稿を読み上げている魔氏の姿が目に浮かぶのはなぜ。原稿に目を落として、真剣な顔で「むーむーむー」と言っている魔氏の姿は、この世でもっとも心なごむ光景のひとつだろう。
今日の結論:
私たちはみな多かれ少なかれイデオロギッシュである。たとえば魔氏は妹―お兄ちゃんイデオロギーに、私は姉―妹イデオロギーに侵されている。
ギャルゲー・ディプロマシーの可能性について考えている。
すなわち、ユーザ+ギャルキャラ6人で行うディプロマシーである。NPCは麻雀よろしくコンピュータが受け持つ。一日一ターンで、集合時間以外は他のキャラと交渉したり、様子を探ったりする。
これだけならただのディプロマシーだ。私の構想の違うところは、「1プレイ中に繰り返してディプロマシーをプレイする」という点である。ディプロマシーのプレイの履歴が、すべてに関わってくる。プレイヤーキャラが他のキャラを裏切れば、相手によっては好感度は0に下がる、と言えばわかりやすいだろうか。
この好感度の法則は、全キャラ間に適用される。NPC間にも好感度その他があり、裏切りやプレイ結果によって変わってくる。そしてさらに、ディプロマシーのプレイの仕方そのものも、好感度その他のパラメータに影響される。
そろそろ、この構想の複雑さが見えてきただろうか。たとえば裏切りを嫌うキャラばかりの場合、前半に裏切りをうまく使ってよい結果を収めていたキャラが、後半では他のキャラに嫌われたせいで勝てなくなる、という寸法である(もちろん、裏切りを嫌うキャラばかりでは多様性を欠くので、実際に作る場合にはそんなバランスにはしない)。
話はまだまだ複雑になる。好感度その他のパラメータを、不完全な情報にしておけば、どうなるか。
各キャラ(プレイヤーキャラも)は他のキャラのパラメータを、その行動や、受けた仕打ちから推測する。推測から描いたパラメータを使って、他のキャラのプレイの仕方を予測するのである。
自分のプレイの仕方を正しく予測されては不利になるので、各キャラは自分のパラメータを隠そうとする。本当は蹴飛ばしたくてたまらない相手でも、仲が良さそうに見せかけて、他のキャラが自分のパラメータを正しく推測するのを妨害するのだ。
裏切りを一般的に嫌うかどうか、他人を裏切るのはよくても自分が裏切られたら好感度0になるのか、といったところでキャラの性格づけがなされる。さらに、他のキャラのパラメータと性格を推測する際の重み付け(受けた仕打ちか、日頃の言動か、プレイの仕方か)、戦略思想(先制攻撃か、確証破壊か)、学習曲線(自分のパラメータを隠す方法や、プレイの仕方)などもキャラの性格づけになる。
そんなものが作れるのか、とお思いだろうか。数学的には可能なはずだ。プログラムはかなり複雑になるが、その複雑さに比して、ユーザが直面する事態の複雑さはきわめて大きい。事態の複雑さは完全な理解――育成ゲームのパラメータ一覧を見るような理解――を不可能にするが、生じる出来事が人間関係そのものであるため、直感的にはきわめて理解しやすい。
この構想のなかでもっとも重要なのは、全キャラが自分のパラメータを隠しながら他のキャラのパラメータを推測する、という点である。というのも、私がやりたいゲームは、相手の利得表を推測しつつ行うゲームだからだ。
利得表が公開されている、あるいは前提条件にされているゲームは、本質的にナンセンスでさえあるかもしれない、と思う。現実のゲームはしばしば、利得表の隠蔽と推測をめぐるものである。
こんなことを思いついたのは、鵜殿氏の「ディプロマシー原論」(月猫通り2066号)の冒頭、
(2)プレイヤーは常に最善を尽くすこと
負けが見えたからといって自滅を招くような作戦をとることは、ゲームを台無しにする最善の方法である。ディプロマシーのゲームバランスは「各プレイヤーが常にトップを狙っていること」を前提として成立する。(後略)
を読んだときに端を発する。
6年前、この文章を読んだ瞬間、私は強い違和感を覚えた。きわめて不利な形勢からトップを目指す――そんな愚行が、「最善」でありうるものなのか。同時に、「最善」とは何なのか、という問題が私の心をとらえた。
その結論がギャルゲー・ディプロマシーである。私にはとても作れないが、ぜひプレイしてみたい。最初は鈍い奴としてしか振舞えなかった(他のキャラの性格を知らないため)のが、最後には、人の気持ちのわかる奴になれるのだから素晴らしい。
昨日の続き。
ギャル作品が、コミュニケーション世界の変容と原理主義を「エヴリシング・オーケー」で媒介するものであることは先月の日記に書いた。そして昨日、理想化された世界を絶望なしに描くのはプロパガンダ的であると論じた。
ここに難しい問題が現れてくる――その絶望は、最適化の観点からはどう評価されるのか?
最適化は、人間的な価値判断とは別の基準である。より最適であることが、価値観からして受け入れがたいことであっても、なんの矛盾もない。
考えてみれば、「エヴリシング・オーケー」の世界と絶望は、おのずと仲良く共存するような性質のものではない。少なくとも、「強姦されてハッピーエンド」の世界と絶望よりは共存させにくいものだ。本気で「強姦されてハッピーエンド」の世界を生きたいと望む人間などいないので、それに対する絶望は受け入れやすい。が、「エヴリシング・オーケー」の世界を望まない人間はいない。絶望はきわめて苦いものになる。
私の見るところでは、残念ながら、絶望が支持されているとは言いがたい。つまり遊人が、おそらくは村上真紀が、ギャル理論的にはより最適なのだ。
もし話がこれだけで終わるのなら、こんな論を始めたりはしない。
美少女系エロまんがの読者には、遊人を支持する人はきわめて少ない。やおい・ボーイズラブについて熱心に論じる人々はしばしば「アホアホ」を忌み嫌う。彼らと同じほどの熱意をもって遊人やアホアホを擁護する人は、めったにいない。
だが、遊人やアホアホは現に支持を受けている。我らが親愛なる資本主義の最終決裁者、金を集めているのだ。
つまり世の中には二種類の人間がいることになる。遊人やアホアホを買いながら沈黙している多数派と、声の大きい少数派である。
サイレント・マジョリティに従え――と思うなら、あなたはこの日記を読むべき人間ではない。ひとつだけ指摘しておくなら、サイレント・マジョリティも変わりつづけている。かつてサイレント・マジョリティの絶大な支持を受けながら、一世代で消滅したものはいくらでもある。母子物というジャンルを読者諸氏はご存じだろうか。
だからといって、声の大きい少数派がすなわち先進的とはいえない。世界はあまりにもしばしば、彼らの唱える方向には変わらず、彼らを歴史のくずかごに放り込んできた。
JUNE・やおいはかつて、声の大きい人々が多数を占めていた。なぜならJUNE・やおいに触れるには、即売会への参加などの高いコストを支払う必要があり、強い動機がなければそんなコストは払えないからだ。強い動機は声の大きさにほぼ等しい。
が、JUNEが商業誌に進出してボーイズラブになったとき、サイレント・マジョリティが多数を占めるようになった。彼らは低いコストでアホアホを買い、沈黙している。
以上の話をまとめれば、次の2つの法則になる。
・市場スケールが小さい=アクセスに要するコストが高い=強い動機がある=声の大きい少数派
・市場スケールの拡大は、相対的に声の小さい人々を増やし、サイレント・マジョリティの比率を高めてゆく
同じ発展モデルが、百合にも適用できるだろう。
百合の市場スケールが、一夜にしてアホアホのボーイズラブのような規模になることはありえない。最初は小さな規模の、声の大きい人々が多数を構成するものになる。この段階では百合は、声の大きい少数派を満足させるものでなければならない。
市場スケールの拡大にともなって、サイレント・マジョリティの比率が高まる。逆にいえば、サイレント・マジョリティを満足させるものが提供されるようになる。もしサイレント・マジョリティを満足させるものが提供されなければ、百合は小さな規模のままにとどまるだろう。
長い長い話になったが、ようやく結論である。
遊人やアホアホが最適というのは、サイレント・マジョリティが文字どおりに多数派である場合のことだ。現在、百合を扱うという前提のもとでは、絶望をあわせ持つ「エヴリシング・オーケー」の世界が最適でありうる。
だが香織派の目標である、コミケのジャンルコード獲得を達成するには、サイレント・マジョリティを満足させるものも必要とされるだろう。
後者に関してはそれほど問題ない。「エヴリシング・オーケー」の世界はアホアホと相性がいい。私がなにもしなくても、市場スケールの拡大とともに、おのずから現れてくるだろう。問題は、前者である。
現在、百合を扱うという前提のもとでは、絶望をあわせ持つ「エヴリシング・オーケー」の世界が最適でありうる――しかしそれは、声の大きい少数派にとって、十分に最適なのか?
JUNE・やおいの草創期は、強姦物ばかりだったという。甘々が目立ちはじめたのは、市場スケールがかなり拡大してからのことだ。
百合の「エヴリシング・オーケー」が、ボーイズラブの甘々にくらべて有利でありうるからといって、それはJUNE・やおいの強姦物と同じくらいに、声の大きい少数派にとって最適でありうるのか?
これには、自信がない。現段階で答えを出すなら、否定的なものにならざるをえない。
だが、この障壁さえ越えれば、市場スケールとその蓄積ノウハウが臨界量に達しさえすれば、あとは「エヴリシング・オーケー」の一本槍で進めるはずなのだ。現在の同人界の規模なら、JUNE・やおいの草創期にくらべれば、臨界量を集めるのははるかにたやすい。JUNE・やおいの強姦物に相当するなにかが、ありうるのではないか。
同志よ努力せよ。私も努力している。
なぜ遊人はああまでカーストが低いのかと考えてみたところ、プロパガンダ的でしかも馬鹿だから、という結論が出た。
読者諸氏は、旧東側の国内向けプロパガンダフィルムをご覧になったことがあるだろうか。出来のよいものもあるのだろうが、10秒以上は見ていられないような代物もある。あまりにも馬鹿なのだ。
人間はどんなに愚かでも、真理を見分ける能力がどれほど欠如していても、馬鹿なものを見分ける能力だけはなぜか発達している。その誰でも持っている能力に、通常ではありえないほどの強い刺激を与えてくれるのが、旧東側のプロパガンダフィルムであり、遊人の作品である。
馬鹿だからといって一概に悪いわけではない。アルジャーノンや相田みつをのように、馬鹿なものは時として心を和ませてくれる。が、その馬鹿さ加減が、なんらかの意図を持っているとなれば話は別だ。
馬鹿なもので人を動かそうとするのは、「あんた馬鹿だからこれでいいんでしょ?」と呼びかけるのに等しい。こういうことを言われたら、まず最初にすべきことは、相手をぶん殴ることだ。意図の正邪など関係ない。人間としての原則の問題である。
さて、ここでプロパガンダについて少々述べたい。まず、芸術とプロパガンダの違いはなにか。
「サボリを追放して精を出して働き、ノルマを超過達成しよう」と呼びかけるとき、「それができたらいいのに」という絶望をあわせ持っているのが芸術であり、持っていないのがプロパガンダである。絶望は問題設定そのものへの批判的な視点を内在させ、どこに真の問題――よりメタレベルの高い問題――があるのかを暗示する。プロパガンダにはそれはできない。プロパガンダは、「問題はサボリだ」としか言わない。
(だからといって芸術が常にプロパガンダより良いものだったり真実だったりするわけではない。芸術はしばしば「皇帝が悪い」のレベルで問題を止め、「もっといい皇帝が現れればいいのに」で終わる。「たとえ今いい皇帝が現れても、いずれ悪い皇帝がまた現れる。悪い皇帝の専横を許す制度が悪いのだ」と主張するプロパガンダは、「もっといい皇帝が現れればいいのに」と絶望する芸術より良く、また真実を突いている)
プロパガンダは馬鹿であってはならない。よくできたプロパガンダはかならず、馬鹿にできないもの、すなわち美や真実を含んでいる。
差別や選民思想は近代的人間の暗い真実であり、ヒトラーはそれが特に力を得る時期に生きていた。「サボリを追放して精を出して働き、ノルマを超過達成しよう」という呼びかけも、もし美や真実を含んでいれば、それなりに見られるものになる。が、もし含んでいなければ、観客は制作者をぶん殴る必要がある。
横道にそれたが、遊人のカーストの低さに話を戻す。
一見すると遊人に似た作品を描く作家もいる。が、それらは実は芸術であり、絶望をあわせ持っている(例外もあるだろうが)。
いわゆる「エッチなまんが」は、わずらわしい権力闘争のない理想的な空間に、社会で大手を振って通れるような理想化された性愛のイメージを置くものだ。そこでは登場人物はしばしば戯画的に単純であり、ストーリーは戯画そのものになる。(この理想化と単純さのゆえに、時として「エッチなまんが」はイデオロギッシュになる。例:克・亜紀の「ふたりエッチ」)
現実がこのように理想的でないことに対する絶望を、遊人は持っていない。だから遊人はプロパガンダ的なのだ。そして、理想的で単純で使い古されたものしか扱わないために、美も真実もそこには現れてこない。
もしはじめて「エッチなまんが」を読むのなら、遊人にもなんとか美や真実を見ることができるかもしれない。が、それは水戸黄門のように使い古されたものであることに、いずれ気づくだろう。水戸黄門ほどの絶望もない遊人は、プロパガンダ的でしかも馬鹿という、最低のカーストに属する作家であることにも同時に気づくだろう。
(さらに言えば、プロパガンダ的ではあってもプロパガンダではない、ということもまた遊人のカーストを落としているかもしれない。遊人には、人を動かそうとする意図はないと思われるからだ)
ずいぶん長々と書いてきたが、「遊人はカーストが低い」などというわかりきったことを説明するために書いたわけではない。話はここからギャル理論につながるのだが、今日は疲れたので続きはまた今度。
信頼できる情報筋によれば、村上真紀の「グラビテーション」は、「バカエロオリジュネの極地」であるらしい。ボーイズ版の遊人といったところだろうか。
最近、「アメリカの奴隷制は南北戦争の前から経済的に引き合わなくなっており、南北戦争がなくてもじきに崩壊していただろう」という意見を、複数の方面で目にした。
結論から言えばこれは、ユダヤ陰謀説と同じく、まともな人間はけっして取り合わない種類の妄説である。
証明はごくやさしい。競売市場における奴隷の価格と、奴隷を養うのに要する費用の推移だ。南北戦争勃発当時においても、それまでの数十年間とまったく変わらず、奴隷制は経済的に引き合うものだった。
「だがその利益は、アメリカ経済全体の不利益のもとに得られたものだ」――では、煙草会社は今後数十年間のうちに地上から消え去るというのだろうか。核廃絶を目指す夢想家あるいは詐欺師でさえ、煙草廃絶の夢を笑うだろう。
L作戦。
AAHDDの0.0.2をベクターに登録するよう手続き中。が、いきなりバグが見つかって0.0.3に差し替える必要が生じた。ううう。
バージョンアップついでに転送レート―メディア位置の表示も、HDD容量から独立なものに置き換えることに決定。あとパーティション位置も出さなければ。もともとベンチマーク用に作ったわけではないコードを流用しているだけなので、次々にボロが出る。
Natural2のDuo編をやったら、「お姉さま」というセリフをたくさん聞けたので、今日は幸せだ。
世の「ご主人様」「お兄ちゃん」に喜ぶ人々の気持ちがよくわかった。あれはいいものだ…
ときに読者諸氏は、エロゲーの顔の見えない主人公にどんな顔を想定しておられるだろうか。
Natural2の主人公はかなりの色男で、元バイオリニスト(ただの音大卒だが)で、可愛げのあるタイプのようなので、西炯子描くところの悠季のような涼やかな女顔を想定していたら、Duo編で裏切られてダメージを受けた。あとでちょっとでも顔を出すなら、最初にちらっと顔見せしてほしい。
それにしても、あの田舎臭い顔でご主人様はいくらなんでもだ。
ボーイズラブの人々はどうして男キャラに女性声優を当てるのを嫌がるのだろう、甘々な学園物のショタ入った受(性別=受)に男性声優をあてるんじゃない、生身の男が性別=受をやっても気色悪いだけだ――と思っていたら、「グラビテーション」のTVアニメでは折笠愛が男役をやっていると知った。見てみなければ。
ときにこのTVアニメ、サウンドプロデュースが大ちゃん(浅倉大介)なので、某大物氏はご覧になっていると思うが如何。
千号作戦の細部の整合性が微妙に気になる。特に最後は時間に追われたので自信がない。
中三の冬休みなのに碧はなぜ余裕をかましているのだろう、というような些細な問題は無視するとして、望と夏実の口頭対決に不整合や書き残しがあるような気が。何ラウンドもやるのではなかったと、やや後悔している。
水城せとなの「アレグロ・アジタート」を読んだ。
やはり刺したか、と思った。美卯は重い形なので、一見面白い変化がありそうに見えて、実は難しい。百合は作品例が少ないせいか、形の重い軽いの判断にはかなり経験が要るらしく、初心者はうっかり重い形にして苦しくするケースがよくある。
この形だと硝子を刺すのが本筋(硝子を守る→自分にとっての硝子を守る→硝子が汚れていくのを止めさせる→硝子を刺す)だと思うが、これは外してきた。が、あまり有力な変化とは思えない。
千号作戦を完了した。
出来については――『貴様の命日は今日、死因は「萌え死に」だ』と言っておく。多重包囲でネズミ一匹残さず殲滅である。
とはいえ要は900枚という物量で殴り倒しているだけなので、萌え死にさせたところで自慢にはならない。
ギャル作品における物量の問題を考えている。
もしかしてビジュアルノベルという形式は、小説では困難な大物量の文章を可能にするという点に大きな意味があるのかもしれない。小説は1000枚でも500KBに達しないが、ビジュアルノベルは通常1MB、ときに2MBを超える。そして単一の作戦としては、小説の1000枚・500KBはほぼ上限に近い。
物量の多寡は常に決定的である。だが策源地に大量の物資とそれを用いる決意があっても、それを投入できるとはかぎらない。物資は、運ばなければならないのだ。戦場へ――読者の頭のなかへと。
輸送という観点から、ビジュアルノベルの大物量が説明できる。
第一に、分岐があるため単一のストーリーとしては短くなる。第二に、絵が理解を助けるという安心感のため、文章を読解することへのプレッシャーが小さい。第三に、各ストーリーが統合されているため相互支援の効果がある。第四に、複数のストーリーを持つためリスクがヘッジされている。第五に、ビジュアルノベルは本ではないので厚くない。
これらの条件が、まるで荷馬車と鉄道のような輸送力の差を、小説とビジュアルノベルのあいだに作り出している。この差はあまりにも大きく、勝負にならない、というのが私の感触だ。小説は新たな大量輸送手段を発明しないかぎり、映画普及後の演劇と同じ道をたどるだろう。
ゲームの「××をつくろう!」シリーズで、××になにを入れたら一番面白いかと考えたところ、「イスラエルをつくろう!」(後略)
ジョニー、今日は木曜日だね… 月猫の印刷開始まであと60時間。
世界最強――そう、私は世界最強を目指すのだ。範馬勇次郎の渾身の右拳をイメージしつつ千号作戦を遂行中。
L作戦が成功したら、まずは「グラップラー刃牙」と「ワイルド7」全巻を揃えたい。
千号作戦の迅速な進展を図るため、「Natural2
-DUO-」を手に入れた。
オープニングからいきなり納得不能の嵐に遭遇した。おかげで千号作戦ははかどっている。予想どおりだ。
それにしても、音声の圧縮コーデックとビットレートは一体。これよりマシなSpeech
Compressionがあるはず、と思って探してみたところ、どれもこれも10kbps以下だった。どうやらSpeech
Compressionの基本原理は80年代から進歩していないらしい。
吹き替えの声優の声をハンフリー・ボガートにするのもいいけれど(この技術も面白い。エロゲーでの実用化は当分先だろうが、その暁には、長崎みなみが榊原良子の声でしゃべったりできるようになるわけだ)、高ビットレートのSpeech
Compressionもなんとかしてほしい。
実は私は以前から、シンクロニシティは存在するのではないかと疑っている。今日もまた、この疑いをかきたてるような事実をNatural2に発見した。毛をひっこ抜くって、それは私が千号作戦の前半で編み出して使った手ではないか。
もし時間的にどちらかがずっと先なら、なにかの形でめぐりめぐって、ということも考えられる。が、時間的にほぼ同時(こちらは今年3月に書き、4月に月猫で発表した。あちらは1~6月に書いたと推定される)なので、第三の共通のネタ元があるか、シンクロニシティとしか考えられない。そして私のほうは、第三のネタ元がないことはほぼ断言できるのだ。
だが、私のシンクロニシティ実在説には、重大な反証がある。すなわち、百合はいまだに勃興していない。きゅう。
Highway Internetのダイヤルアップ接続の回線品質の悪さに、悪意を感じるのは私だけか。ZZZのQ2なら50,000bpsで接続するのに、Highway
Internetでは46,000bpsがいいところで、しかも回線が切れて切れて切れまくる。
56Kのプロバイダ側はデジタル(ISDN)でつながっているはずなので、普通に考えたら、いくらなんでもこんなに違うわけがない。Highway
Internetは56Kモデムをアナログ回線につないでいるに500ペリカ。
本宮ひろ志が週刊東洋経済のインタビューで、「いまのまんが産業はオタク界にばかり目が向いている」と言っていたのを読んだ。
この問題提起に対して一言で答えるなら、「レディコミの歴史を学べ」である。全国数千万人の主婦を対象にしたこのビジネスは、いっときは瞠目すべき市場を形成したが、現在はご覧のとおりだ。「数千万人を相手にする」といえば聞こえはいいが、数は必ずしも安定や利益や予測可能性を意味しない。
長々と答えるなら、個人芸と工業的生産システムの問題、文化産業における中央と辺境、グローバルな平凡とローカルな優位の関係などなどについて論じることになるが、月猫の締切が過ぎているので今日はやめておく。
L作戦の大衆向け広告塔、AAHDDの威力の一端をお目にかけよう。以下は、現在出荷中の15GBプラッタのHDD、IBMのDTLA-307030(最内周14GB)をAAHDDで測定した結果の一部である。
Global seek-time : Distance : 2 MB Seek-time (micro-second) : 1092 Distance : 4 MB Seek-time (micro-second) : 1134 Distance : 8 MB Seek-time (micro-second) : 1551 Distance : 16 MB Seek-time (micro-second) : 2126 Distance : 32 MB Seek-time (micro-second) : 2467 Distance : 64 MB Seek-time (micro-second) : 2847 Distance : 128 MB Seek-time (micro-second) : 2963 Distance : 256 MB Seek-time (micro-second) : 3611 Distance : 512 MB Seek-time (micro-second) : 3957 Distance : 1 GB Seek-time (micro-second) : 4314 Distance : 2 GB Seek-time (micro-second) : 5106 Distance : 4 GB Seek-time (micro-second) : 6447
「平均シークタイム」――歴史のくずかごに叩き込むべき値である。
シークタイムは、容量で表記された距離を移動する際に要する時間として表現されねばならない。そうでなければ、容量の異なるHDDのシークタイムを比較できない。平均シークタイムは、少なくとも同一容量でなければ無意味な値だ。
また、近くへのシーク性能と遠くへのシーク性能はそれぞれ異なる。前者はヘッドの位置決め性能を、後者はアームの運動性能をより大きく反映する。平均シークタイムはほとんど後者しか示さない。
AAHDDを安定化・GUI化し、ベンチマーカーに動員をかけ、HalfDiskの知名度を上げる。これがL作戦の当面の戦術である。
少なくとも10万円を回収するまでは、撃ちてし止まむ。
L作戦。
ベンチマークがとりあえず完成した。ここからダウンロードできる。Windows2000専用なので注意されたい。
L作戦。
MaxtorのHDD(90845D4)の見かけ上のスキュー(トラックが切り替わる前後の位相差)は0.7ms。実際のスキュー(トラック先頭同士の位相差)は1.5ms。その差0.8msはいったいどこから、どういう理由でひねり出されているのか。
こんな怪しいHDDが作られているとなると、L作戦の基本的前提(比較的簡単なベンチマークによって、ディスク上におけるセクタの物理的位置を知ることができる)が崩壊しかねないが、深く考えないことにする。
最近、営団地下鉄の南北線の飯田橋駅が、なぜかジエチルエーテル臭い。
L作戦。
MaxtorのHDD(90845D4)の怪しさが楽しい。公称のtrack-to-trackシークタイム0.9msというのは絶対に嘘だ。実測では2.5msかかっている。トラック終端がトラック先頭より位相が進んでいるように見えるのは、見かけのスキューを小さくしてシークタイムを短く見せるためではないか。
スキュー(トラック先頭同士の位相差を測定)はトラックごとにバラバラで、平均値は1.5msである。スキューがバラバラな理由はわからない。
すぎ恵美子の「げっちゅー」の5巻を読んだ。
作者はそろそろ40代だったか。さすがに「AOI・こと・したい」の頃よりはドリーム力(どりーむ・ぢから)が衰えているものの、十分に強い。ドリーム力は強さを構成する一要素にすぎないのだ。
ドリーム力といえば、山浦弘靖の老いてなお盛んなドリーム力はどこから湧いているのだろう。
L作戦。
Maxtorのひねくれたキャッシュアルゴリズムへの対応を終えた。たいていのアルゴリズムにはこれで対処できる…とは思えないあたりが辛い。たとえば、セクタ長1のアクセスを別扱いにされている場合はアウトだ。
各種のHDDが20台もあればキャッシュアルゴリズムは調査し尽くせるのだが、そんな金があるわけもない。うーむ。
「グラップラー刃牙」には忘れがたいシーンが数多い。なかでも、子供はみなケンカの世界最強を目指すというくだりは、強く印象に残った。
子供はみなケンカの世界最強を目指す。だが大半のものは、年長者の拳骨に負かされたとき、あるいは自分より絶対的に強い相手に出会ったとき、世界最強の夢を捨てる。
年長者の暴力に遭っても意思を曲げず、けっして勝てないと思える相手にも出会わず育つものもいる。より強くなることを目指して、あるものは柔道を志し、あるものは空手で己を鍛えるだろう。ほとんどのものは柔道場で、あるいは空手の試合で、自分より強い相手に出会う。
もしそこでも自分より強い相手に出会うことがなければ、彼はその競技で一流の選手になるだろう。世界チャンピオンになるかもしれない。そして、夢はそこで終わる。ケンカの世界最強になるためには、ケンカをしなければならない。しかしそのとき彼はすでに、ケンカの許されない身になっているのだ。
実のところ、私はケンカの世界最強を目指したことはない。が、世界最強を目指す心情は、まさに自分のこととして理解できる。強い相手に出会った瞬間の昂ぶりは、私を前に進ませる力だ。
私は今日、電撃G'sマガジンに、世界最強を目指す魂を見た。
電撃G'sマガジン11月号169ページ、HAPPY LESSONのページである。その冒頭の一節を、今月の標語に記した。
強い――その一語に尽きる。
L作戦。
MaxtorのHDDはキャッシュのアルゴリズムが凝っている。その裏をかくべく努力する私から見ると、なんとも底意地の悪いアルゴリズムである。
あと、トラック終端がトラック先頭より位相が進んでいるように見えるのは何故。なにか、とてつもなく変な小細工をしているような気配がする。こんな複雑怪奇なHDDを作るからトラブルが起こるわけだ。