「源平討魔伝」というゲームがある。80年代後半の一時期、「デカキャラ」そして「まじんは ひまじん」といった謎の暗号によって一世を風靡したナムコのアーケードゲームだ。当時の私ははなはだしく貧乏だったので、自分でやったことはなかったが、知ってはいた。
しばらく前、久しぶりにこのゲームを見たら、そのクソゲー臭さに驚いた。なぜこんなにクソゲー臭いのかと考えてみたところ、源平討魔伝を真似したクソゲーが大量生産され、それらの総体的イメージが原典に逆流してクソゲー臭をもたらした、となった。
時間というのは恐ろしいものだ。
藤村真理の「1/2ハート」について。
熱い波紋オーヴァードライブを脳裏に描く、少女まんが界の「デスクリムゾン」である。私はこれから作者のことを藤村・エコール・真理と呼ぶことにした。
「旧世界秩序」の表紙はOHPシートになった。指紋がつくといやーんな感じだが、並べたときの見栄えで勝負である。図柄は1986年当時のICBM世界地図。オリジナルで描きなおす暇がないので完全なコピーなのは秘密だ。
やはりソ連軍のほうは赤で刷りたいが、カラーコピーは最低でも1枚30円(コンビニのコピー機でOHPシートは使えるのだろうか?)するのでやめておく。
コバルト・ノベル大賞、ではなく、集英社ノベル大賞用の原稿を書き始めた。95枚以上105枚以下という制限が厳しいので今まで避けてきたが、枚数狙撃能力にいくらか自信がついたので挑戦している。ちなみに百合ではない。
この賞は応募総数が3000以上、おそらく日本一である。江戸川乱歩賞やサントリー・ミステリー大賞と同じくらい取るのが難しいと思われる。我ながら時間を無駄にするものだ。
藤村真理の「1/2ハート」を途中まで読んだ。
これ、マジかいジョニー… どう考えても、どおおおお考えても、昔より絵が70%くらいヘタになって、話が80%くらいつまらなくなっているような気が。しかも、「考えすぎてバランス崩れて」的なヘタりかたではなく、明らかに疲労または手抜きとしか思えないヘタりかたのような気が。これで本誌連載作家? マジかいジョニー?
とにかく、あまりのことに途中で読むのをやめてしまった。とりあえず、どんでん返し(もしここから決まったら、まんが史に残る作品になるだろう)がないとも限らないので、最後まで読んでから再評価したい。
「旧世界秩序」に注釈をつけている。
読者の取りうる反応を徹底的に制限し、また頭から決めてかかるシュリーフェン計画式の作品なので、読者にポイントを一つでも誤読されると、かなりのところがすっぽ抜ける。それでも一撃や二撃は入る予定だが、やや弱い。そこで、各ポイントの正しい読みを注釈で示し、作戦がツボにはまったときの脳天唐竹割りを想像してもらう、というわけだ。
といいつつ、本編の注釈マークを見たら注釈の内容も知りたくてたまらなくなるだろうから儲かるだろう(注釈・解説は原価100円を500円で売る予定。本編は原価300円、売値も同じ)という、我ながら天才的に汚い魂胆である。この手口はそのうち注釈商法として広まり、即売会で取り締まりの対象になるかもしれない。
DVDのウテナを見た。
(「巨人の星」のごとく涙を流しつつ)兄貴、バッチリだ! ナデシコのひどい画質とは大違い、これこそDVD、これこそウテナ。画像のビットレートは、ナデシコが5Mbps、ウテナが9.8Mbps。この世界にも正義が行われているのだと確信させてくれる出来事であった。なにがなんでも買わねば。
超ハは現在、「いままでのあらすじ」を書いている。
とても380枚とは思えないほど複雑な話であることに気がついて驚いた。普通の読者はキャラの名前(これだけでも8つ以上ある)と配置を覚えるだけで精一杯のような気が。うーむ。
児童虐待ホームページのミラーを見た。
確信犯(事実にしろフィクションにしろ)を見にいったつもりが、出てきたのは、ひどい悪臭だった。鈍感さと思考停止の臭いだ。内容よりもこの臭いのほうが辛い。が、これが世界の実相なのかもしれないとも思う。佐藤亜紀の「戦争の法」言うところの「悪逆の哲学者」は、深く静かに身を隠しているのか、それとも、まんが家にでもなっているのか。
なお、児童虐待という現象については、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉で説明しつくされているような気がする。
松原香織の「LOVE ME?」(まんが愛!姫12月号)を読んだら、ボク女が出てきた。
よくチューンしてあるものの、ベースは1世代前のボク女である。「ボク女=脱出志向=不適応」という図式は、ギャル作品の進歩にともない、もはや旧世代のものになった。「ボク女=コージー志向=半適応」という図式こそ現在のボク女だ。
人にまぎれて身を隠すような適応は、ある種の人々には居心地が悪い。一人称「ボク」は、そういう種類の人々であることを示すマーカーである。これは旧世代でも現世代でも変わらない。が、その居心地の悪さにどう反応するかが問題だ。
「ボク女=脱出志向=不適応」という図式では、「ボク」という一人称は今の世界に対する拒否宣言となっている。ボクはこんな世界は認めない、せめて一人称だけでもこの世界から脱出する、というわけだ。
「ボク女=コージー志向=半適応」という図式の「コージー志向」とは、自分のまわりに居心地のいい空間を形成してそこに安住しようという志向性である。これ自体は、それなりに適応した普通人と同じ志向性だが、「居心地のいい空間」の内容が普通人とは違う。「居心地のいい空間」の構成要件の一つに、「自分をボクと呼ぶこと」があるのだ。
フルタイムのボク女は、ボク女であることから生じるさまざまな摩擦をかわしながら暮らすことになる(現実の東京ではこの摩擦が激しすぎて、フルタイムのボク女は一万人に一人しかいないが、そこはフィクションの便利さである)。そうした摩擦は、彼女の「居心地のいい空間」の存在と、その風変わりなことを強調するライトとして働く。
現世代のボク女の旧世代に対するアドバンテージはむろん、「居心地のいい空間」である。「居心地のいい空間」のイメージは常に人を惹きつける。旧世代のボク女の、世界に対する拒否宣言は共感を呼ぶが、その無力さはすでに知れ渡ってしまった。誰もが世界に対する拒否宣言を出しつづけ、それでも、世界がましになる見込みは一向にない。
なお、他のボク女図式には、「ボク女=男まさり」などがあるが、これはおそらく勘違いのたぐいなので、ギャル的には重要ではない。
読者の情報処理能力について考えている。
わざわざ和室と決まっている部屋があれば、その家は洋風建築と決まっている。が、超ハの読者に誤解があったのを発見して驚いた。
世には、家屋敷が出てくるたびにいちいちその間取りを書く作家がいるらしい。これは故のないことではなさそうだ。私は無駄な文章が大嫌いなので、そういう小説はまったく読まない。読書自体が空しい暇つぶしなのに、空しい暇つぶしのために無駄な文章を読んだら、それはまるっきりの馬鹿またはポモ的行為である。
マルチ越え作戦は失敗した。モスクワは陥ちなかった。
ハインリヒ、すまない。
というわけで現在、アルハンゲリスクをあきらめてコーカサスを押さえるべく今後の作戦を練り直している。ムルマン鉄道なんか怖くないぞ(意味不明)。
TVアニメのCCさくらは第2期から、知世が原作どおり、さくらへの愛を積極的に表現するようになっている、との情報がトランスヴァール政府筋から伝わってきた。
ぜひ見なければと思いつつも、予約録画する情熱がわかない。うーむ。
今月6日の日記で、実の姉妹(除く双子)の百合という話題を振ってそのままにしていたが、どうにも続きが思いつかない。
なにを言うにも、作品例が皆無なのだ。実の兄妹・姉弟の話は世に掃いて捨てるほどあるというのに、実の姉妹(除く双子)はなぜないのか。どう考えてみても、うまい説明を思いつけない。
とりあえず、昔自分で書いた話(双子ではあるけれど二卵性)を読み返してみる…のは絶対に嫌なので、作品例を引き続き探すことにする。
百合について考えているのに、現実の女性同性愛者を引き合いに出すのは本意ではないが、ヒントになることもあるので考えてみる。
姉妹が一人いる女性同性愛者には、姉と妹、どちらが多いのだろう。
私のカンでは、姉だ。後付け式に理屈をつけると、女性同性愛者は母親との関係においてなんらかの欠落(ただし客観的にそれと認められるものではなく、きわめて主観的な)を感じているケースがある。母親に対して純粋に娘ではあれず、母親の役割の一部を引き受けることを求められる姉というポジションに置かれることは、そのような欠落の原因たりうる。
母親との関係における欠落が、妹へと横すべり的に転嫁され、妹というポジションへの憧れを生み出す。この回路は、妹がいない場合にも、文化的に伝達されることで作用する。私的には不可解な「お姉様」という呼称は、呼ぶ側(=自分)を妹というポジションに位置付けるがゆえに魅力的である。…そろそろトンデモになってきたような気が。
話を百合に戻そう。
ギャル作品における妹の重要性については、今月2日の日記に書いた。百合では、ギャルに妹(ギャル作品における妹)を配置すると、主人公は必然的に姉に位置づけられてしまう。だが、お姉様回路が上述の原理で動いているとすれば、第二層の自己同一化の対象としてふさわしいのは、「お姉様」と呼ぶ側の妹である。
ギャル作品としての百合は、ダブルバインドにはまりこんだのか? 妹萌えとお姉様回路は両立しえないのか?
心配はいらない。私はこのダブルバインドを解決する方法を発見した。
姉と妹を併置し、さらに妹の妹を設けるのである。「姉→主人公→妹→妹の妹」。このように配置することで、主人公と妹は姉―妹関係において等価となり、妹萌えとお姉様回路は両立する。
こうして考えてみると、「マリア様がみてる」の姉妹システムはよくできている。ただ問題点は、山百合会が高校だけなので四世代を同時に含められないことだろう。あれが中学まで含められていれば完璧だった。
どこかの品性下劣な愚か者が、核抑止どうのこうのと発言したことが話題になっている。
発言内容そのものは、恵まれない中年男たちが赤提灯で夜ごと交わす会話と同レベルの、つまり論じるようなものではないのでおくとして、核抑止という概念の複雑さについて少し書いておきたい。
私の理解によれば、核戦略とは一種の神学であり、複雑さと理解しがたさを張り巡らせることで目的(持続可能なスタンドオフ状態)を達成するための枠組みである。核抑止という概念は、このような複雑さと理解しがたさの一部をなしており、それ自体もまた複雑で理解しがたい。核抑止という概念のすべてを説明することは、私のような素人の及ぶところではないので、それが複雑で理解しがたいことだけを指摘するにとどめる。
本題に入る前に、核兵器についての基本的知識を欠く読者のために少し予備知識を説明しておく。
核兵器には大きく分けて二種類ある。戦略核兵器と、戦術核兵器である。
戦略核兵器とは、サイロに入っていたり、原潜に入っていたりする、ICBMと呼ばれるあれのことだ。敵国の首都や主要工業地帯を破壊し、戦争を続ける能力(継戦能力)を失わせることを目的とする。
戦術核兵器とは、砲から撃ったり、F16から落としたりする、比較的目立たない種類の核兵器である。敵の部隊・物資の集まっている地点や、通常兵器では容易に破壊できない目標に対して用い、敵軍の戦闘能力を失わせることを目的とする。
核抑止とは、この二つのうち主に戦略核兵器について言われる概念である。戦術核兵器の使用が戦略核兵器の存在によって抑止されているという話もあるが、これは脇の話だ。
では本題に入る。
報復する能力があるから相手は手を出せない――これが一般的な核抑止の受けとめられかただと思う。世界がこれくらい単純なら、恒久平和はとっくに実現されていることだろう。
政治の第1法則は、目的と手段の釣り合いである。価値の乏しい目的を達成するために莫大な犠牲を払ってはならない。たとえば、およそ正気の人間なら、種の多様性を損なうからといって天然痘ウィルスの絶滅に反対することはない。
さて、核攻撃に対する報復とは、どれくらいの価値のある目的を持ち、どれくらいの犠牲を伴う行動だろうか。
目的は数多い。まず、報復のためなら無辜の市民を大量虐殺することもためらわない国であると、世界中に信じさせることができる。国民の命を惜しむ国は、このような国に核攻撃を仕掛けようとはけっして思わなくなるだろう。次に、敵国の継戦能力を著しく弱めることができる。もし自国に残されている継戦能力が敵国のそれよりも十分に大きければ、戦争に勝利することができるだろう。
犠牲は莫大だ。死体の山と廃墟の海を、敵国のものと考えることは愚かである。それは、戦争に勝利した暁には自国の利益になるように使うことができたはずの人々と工場のなれの果てだ。
このような目的と手段に、釣り合いを見出すことは可能なのか。冷戦という環境のもとで、西側と東側のあいだには可能である、というのが核の神学の結論である。その学問的な詳細はここには書かないが、とにかく、この場合には報復(神学用語では「確証破壊」と呼ぶ)が合理的だったらしい。
この「合理的」とはどのようなものか。「博士の異常な愛情」という映画はフォン・ノイマンをヒントにして作られたという。だがノイマンは完全に「合理的」だった。
米ソのあいだで、核攻撃が疑いなく先手必勝、すなわち先制核攻撃によって敵の報復能力をほぼ完全に失わせることができた時代、アメリカはただちにソ連を先制核攻撃すべきだとノイマンは確信していた。それが唯一、「合理的」な行動だからだ。もしアメリカがこのような「合理的」な行動を取れない国であれば、米ソの両方が「合理的」に行動すると仮定した理論はすべて無意味になる。たとえアメリカが先制核攻撃に対する報復能力を得たとしても、いざ先制核攻撃を受けて報復すべきか否かの瀬戸際に立たされたとき、アメリカが「合理的」な行動を取ることができるのかどうか、疑わしい。そのような均衡状態(核抑止)には信憑性がなく、気まぐれや希望的観測の入りこむ余地が常にある。だからアメリカは「合理的」に行動すべきであり、先制核攻撃がその行動である――きわめて「合理的」な話であり、反論しがたい。
核抑止は一見すると単純そうな話だが、よく見れば、核の神学という「合理的」な話で塗り固めてやっと成立する話である。私は、核の神学よりは、人間の気高さを信じたい。核の神学自体、人間の気高さのひねくれた形での発露だと思うのである。
マルチ越え作戦に続いて、新たな作戦を開始した。
作戦を構想するにあたり、小説におけるマルチギャル構造の新たな問題点が明らかになった。6人以上ものキャラを統合して運用するために必要な設計コストが膨大であること、また、読者の把握能力の限界を超える可能性が高いことである。
統合運用の問題は特に重大である。解決策としては、
・長篇を避け、統合運用の必要がない連作短篇の構成をとる
具体例は「天地無用」など。もっとも一般的な解決策であり、最善と思われる。
・統合運用をあきらめ、「おいおい」な部分には知らん顔をする
昔の高×ゆんが愛用した手法である。私は勧めない。たとえ読者は見逃してくれても、自分は見逃してくれない。
・パラレルワールド分岐
つまりADV形式のエロゲーである。印刷された本を媒体にするには適さない。
など。
松井茂の「世界軍事学講座」という本を読んだら、旧日本陸軍の下士官で終戦時にラオスに残り、現地で大佐になって重要な戦いを指揮して名を上げた人物の話が紹介されていた。
私は以前、こういう人物が必ずいるはずだと予想して、まさにこういうキャラの出てくる話を書いたことがある。予想が当たって嬉しい。
どうも最近、「モーニング娘。」の重要性を私に印象づけようという陰謀が進行中のような気がする。いつのまにか「モーニング娘。=重要」という図式が頭のなかにインプットされていた。
が、私は人間の顔と名前を一致させるのがなにより苦手なので、あの手のアイドルグループは個体識別ができない。あとTVを見ないのでアイドルも見ない。うーむ。
あかほり派首魁・堀内氏の推測によれば、マルチ越え作戦はモスクワを陥とせない可能性が高いという。××をもっとメカメカしくないと食いついてこないというのだ。うーむ。でも「A×と×」はそんなにメカメカしくなかったような気が。
Win版サクラ大戦をさくらでクリアした。
戦闘シーンがあまりにも面倒なので2度はやらない。もし無敵化パッチがあればあと2回(アイリスとすみれ)はやりたい。
CreativeのES1373(オンボード専用サウンドチップ)のドライバはDirectSound周りの実装が手抜きらしく、MAME32を五分間以上使っていると突然動作が重くなる。YMF724ではこのような現象は起こらない。また、MIDIでBGMを演奏するゲームでは、YMF724のほうが明らかに軽い。
というわけで、ベンチマークではES1373のほうが負荷が軽いのだが、実際にはあらゆる面でYMF724のほうが上だ。もしかしてLive!のベンチマークの好結果もこれと同じ伝なのだろうか。どうにもCreativeが信用できなくなった。
マルチ越え作戦で、12月1日早朝の東京西部に雪を降らせたが、12月の東京には雪はまず降らないということに今更ながら気がついた。
調べてみると、12月1日の初雪は百年に一度レベルらしい。ぎりぎりセーフのような、アウトのような。が、実際モスクワ正面では、60年に一度の雪が降ったのだ。(これを言いはじめるとダンケルクが御都合主義のレッテルを貼られてしまうのだが。事実は小説よりも御都合主義的なのである)
ジョンベネちゃん事件の犯人が事実上逃げ切った。以前ここに書いた、母親が逮捕されたという情報は誤報だったらしい。
半密室状況での殺人、見るからにヤバげな両親、まるでわざと残したような手がかりの数々。これをすべてすりぬけて逃げ切るのだから運というのは恐ろしい。運ではなく必然かもしれないが。
そして、新井英樹の「The World Is Mine」の感想:
10年前、モンに出会えなかったトシは、今田勇子になった。
「リトル・ウィッチ レネット」のかわりにWin版「サクラ大戦」を買ってしまった。閉店寸前とおぼしき中古ソフト屋で投げ売りしていたからである。
服くらいは毎回着替えさせたほうがいいような気がする。原画の人が描く必要はないのだから。ゲームの服については疑問に思う人がやはり多いらしく、「美しき獲物たちの学園」というエロゲーではキャラが毎日着替えるという。
あとマリア、なぜに赤軍、とお馴染みのツッコミをしておく。…ボルシェビキじゃなくて社会主義か無政府主義?(政党名失念) だとしたら凝った設定だが、その目的が不明。うーむ。
ギャル的に重要な少女まんが家は幾人か数えられるが、なかでも松苗あけみは上位にくるだろう。
マルチギャル構造の難点、「なぜ主人公はそんなにもてるのか」に対する解決策が、「山田君と佐藤さん」に示されている。すなわち、主人公を奪い合うことこそがギャルにとって重要であり、主人公それ自体はギャルにとってはどうでもいい、という手だ。
奪い合いが主人公自体よりも重要という構造は珍しいものではなく、篠原千絵の「海の闇、月の影」にも出てくる。が、純ギャル作品では、この手を使っている作品は少ない。「終わらない日常」を指向するなら非常に使いやすい手なのだが。
細かいところを忘れないうちに「小春日和情報」のギャル理論的解説をいくつかしておく。
一番・お銀と二番・高見沢が、まさに「奪い合いが主人公自体よりも重要」というパターンである。この化け物コンビは、ライバル関係になることでお互いに無聊を慰めあう暇人コンビである。視点の問題ではっきりとは描かれていないし今後も描く予定がないので説明してしまうと、この二人にとっては、主人公の奪い合いは暇つぶしの材料である。もちろん遊びは本気でなければ面白くないので二人とも本気は本気なものの、そのモチベーションは結局のところ、暇つぶしである。
さらにいえば、お銀のモチベーションにはもう1段階の仕掛けが用意してあるのだが作戦上の機密保持のため秘密。ストーリーは超ハ級でも仕掛けは盛りだくさんである。クリーンナップのモチベーションについても今後の作戦上の機密保持のため秘密。簡単な仕掛けでアルハンゲリスクが陥せるとは思っていない。ギャル小説作戦の芸術をお目にかける所存である。書けばだが。
超ハ級長篇百合小説は、どこにも投稿するあてがないことに気がついて愕然とした。380枚、超がつく特殊ジャンル、しかも完結していない。…どうすりゃいいんだいジョニー?
とりあえずマーケティングリサーチ用に小説道場に送る… 50枚やそこらならともかく、あからさまに商売に無関係な原稿を400枚近く送りつけるのは、さすがに気がとがめる。うーむ。
しかし、道場に百合を送って評とあらすじが載る人物が私以外に皆無である現状を鑑みるに、門番の皆様には申し訳なくても投稿するのが世のため百合のためかもしれない。…後ろのほうに名前だけ、になったらどうしよう。
マルチ越え作戦で少々強まりすぎたらしく、短篇のストーリーを考えると、強まりすぎて使えない話ばかり思いつく。
とりあえず、図書室、保健室ときたので、「今度は教室だ!」の線を追っている。
ソフ倫が近親姦のストーリーを全面禁止にしたとの情報が伝わってきた。
現実の人間が近親者をパートナーにしてはいけない理由はすぐに思いつくが、近親姦のストーリーで商売していけない理由は思いつかない。悪いことをするストーリーが禁止だというなら、強姦のストーリーは間違いなく全面禁止にすべきだが、ソフ倫にはこれはできないだろう。強姦はポルノではきわめて強力な要素である。これを禁止すれば、ソフ倫からの大量脱退と第二ソフ倫の設立が起こり、ソフ倫は支配力を失う。強姦が野放しで近親姦が禁止されるのは、近親姦禁止が手頃だからにすぎない。
この規制はいったい、正当性もなければ有益でもなく、誰におもねったものなのかさえも定かでない。が、こういう規制は厳しくするより緩めるほうがはるかに難しい。ソフ倫に強姦禁止を呑ませようという運動があれば、ぜひ協力したいと思う。
ちなみに、現実の人間が近親者をパートナーにしてはいけない理由というのは、
・世間と面倒を起こすのはやめよう
当人たちの面倒は当人たちの問題だが、世間のほうは面倒を避けたいため、ここに闘争が発生する。同様の闘争は同性愛で大規模に戦われており、現在は同性愛側が調子づいている。
・一方からのなんらかの強制にもとづく関係であることが多い
家庭とは熾烈な権力闘争の場であるため、強制が強制とは(強制する・される当人にさえ)見えにくい。が、必ずしも強制にもとづく関係と限ったものでもない。
など。
なお、「優生学的にどうのこうの」は私的には認めない。
「カムナビ」というタイトルの小説がある。これが「神ナビ」と読めるのは私だけだろうか。ナビとはもちろん「俺たちは天使だ!」のナビとダーツではなくてカーナビのナビである。
ナデシコは10話まで見たかぎりでは、ミナト×ルリが正義らしいとわかった。このあとルリとアキトの線が急浮上することは知っているのだが。
ギャル作品におけるメイドさんの研究のため、ぢたま某・中山文十郎の「まほろまてぃっく」を読んだ。
天然な強まりを感じない。無理に強まろうとする努力ばかりが目立つ。この程度のことは最初からできていて、その上でなにをするかが問題である。強まるだけで終わってはいけない。
メイドさんの研究と平行して、家庭教師の研究も進めている。が、こちらはサンプルが見当たらない。ストレートロングの対はショートカット、妹の対は姉、そしてメイドさんの対は家庭教師である。超ハ級長篇百合小説は、属性対による相補的な設計を目指しているので、メイドさんを出すなら家庭教師は欠かせないのだ。
それにしても、ギャル作品の読者のうち、「家庭教師=住み込み」というイメージを持てる人はどれくらいいるのだろう。
とりあえずモスクワは陥ちたと仮定し、アルハンゲリスクとアストラハンの攻略作戦を練っている。
なにか仕掛けが必要のような気がする。マルチ越え作戦は上位打線中心の作戦だったので、今度は下位打線を活用することになるだろう。
本日午前6時、マルチ越え作戦が完了した。
ヨハン、教えてくれ。モスクワは陥ちたのか? このトラックは、モスクワ行きなのか? それとも僕らは撤退しているところなのか? …ヨハン!
6ヶ月もかけておいていまさらだが、超ハ級長篇百合小説はどうも駄作のような気が微妙にする。長篇が苦手だからそう思えるのかもしれない。
が、作品としての出来不出来はどうでもいい。問題はマルチ越え作戦だ。これさえ成功していれば万事OKである。
それにしても月猫誌上では、悪いところで前編と後編を分けてしまった。もともと分割掲載するようには設計していないので、うまく切れるところなどないのだが、せめてもう少しあとのほうがよかった。うーむ。
動作報告:「あやかし忍伝くの一番」は、bleem! v1.4デモ版で見たかぎりでは、CD-ROMアクセスで微妙に動作がもたつく以外には特に支障なく動く。が、この「微妙」が実はかなり大きいので、ISOイメージをマウントする方法でもないと実用にはなりにくい。もしかすると角速度一定のドライブなら大丈夫かもしれない。
先日はギャル作品における妹について論じた。が、妹はすでに十分に研究開発されつくした感がある。今後開拓すべきフロンティアは、姉だ。
姉は、妹と並び称される存在であるはずなのに、ギャル作品では妹よりはるかに小さな重要性しか認められていない。姉のなにが妹よりもそんなに劣るというのか。これは百合ではことに重要な問題である。百合では、妹がいれば、その対として姉が必要なのだ。
ここで、私がこのごろ追及している、実の姉妹(除く双子)の百合という話につながってくるわけだが以下後日に続く。
ラジオの声優番組(アニラジと言うらしい)録音プロジェクトの実現にあたって、重大な障害がひとつあることに気がついた。韓国の電波だ。
ラジオで文化放送(1134kHz)を聞いたことがあるかたなら誰でもご存じのとおり、文化放送には常に韓国語が混信している。気持ちよく声優番組を聞くためには、これをなんとかせねばならない。
悪いことに、私のアジトはソウルと東京を結ぶ直線のそばにあるため、アンテナで混信を除くのは容易ではない。有線放送は高価すぎる。来年夏からサービスを開始するという、ソフトバンクと東電のインターネット接続事業が始まるまでは、混信に耐えるほかないような気がする。
ソフトバンクと東電のインターネット接続事業は、「来年夏からサービス開始」「家庭でも数Mbps」「月額5000円程度」などなどの野心的な目標を掲げている。が、どうせファイアーウォールなのだろうとか、だったらプロクシがいやーんな感じ(盗聴法&ログ)だろうとか、あまり期待を持たないようにしている。それに数Mbpsでは、VODをやるにはいまひとつ細い。ワーストケースで5Mbpsが出るならともかく、500kbpsくらいしか出ないだろう。
私の悪い予想を全部裏切ってくれたら、今の日本の実業界にも偉大さが存在するのだと認めよう。一万円賭けてもいいくらい絶対に無理だが。
マシンの熱暴走問題は、CPUにつながっているチップにヒートシンクをつけてみたところ、見事におさまった、ような気がする。とはいえもちろんまだ状況は予断を許さない。
冷却ファンの駆動電圧を上げても熱暴走が直らない。うーむ。
ビデオチップに温度計をつけてみたら、一番発熱させるソフトはIE5だとわかった。マシンの性能を極限まで引き出して熱暴走させてくれるとは、さすがは天下のIEだ。
月猫の締切が近い。強まり加減をもう1段階ブーストするために、天風光成の「弾丸天使ビュレティエル」を読んだ。
覚悟完了の強まり加減に触れて、大いに強まることができた。この本に比べれば、私が超ハ級などと言ったところで児戯に等しい。マルチ越え作戦の大詰めへと向けて、ますます強まってゆかなければ。
冷却ファンの駆動電圧を下げたところ、ビデオカードが熱暴走するようになった。やはりヒートシンク交換か。
「悪夢95」というエロゲーをやってみた。
つまらない。
女子校の修学旅行かなにかのバスを悪党(主人公)が襲って生徒を監禁して、次から次へと、というまことに単純な趣向である。この単純さゆえに、私は想像を膨らませた。重い麻薬中毒で、ヘロインが切れると死んでしまう生徒。幼い頃から父親に強姦されつづけていて、頭のネジが少しゆるんでいる生徒。主人公のことを愛していると嘘をついて動揺させ、解放されようと企む生徒。
が、そんなものはまったく出てこなかった。全員まとも(とは思えないキャラも数名いるが、あの世界ではあれでまともとして通用するらしい)で、全員ただ単に嫌がるだけだった。
結論:「マイ悪夢」のほうが百倍面白い。
新月ギャルの会における共通認識に、「妹=重要」という図式がある。むろんこれもボク女と同じく、実物の妹はまったく問題にならない。
感情移入システムに第一層を用いた男性向けギャル作品では、どういうわけか、「実の妹とできてしまうのはヤバい」という謎の合意がある。そこで、「実の妹ではない妹」を作り出すために、さまざまな手法が考案されてきた。
・義理の妹
もっとも古くから知られ、もっともよく使われる手法である。この手法の欠点は、「血がつながってなきゃいいのか、遺伝子がそんなに重要か」という疑問を呼んでしまう、作為的すぎる、代用品感が高い、現実の兄妹のカップルに無用なプレッシャーを与える、などである。
ギャル作品市場の拡大に伴い、これらの欠点を克服すべく、第2世代の妹が登場してきた。
・家族関係はないが、主人公を「お兄ちゃん」と呼ぶ
単純な手だが使いやすい。欠点は、妹という要素から得られるメリットが少ない、作為的になりがち、など。
・主人公ではない別の誰かの妹
有名な例は「Natural
~身も心も~」の千歳で、これは主人公の昔の恋人の妹である。親友の妹というのも使えそうな手だ。欠点は、登場させるのに必要なコストが大きい、ストーリーを大幅に制約する、など。
・鑑賞専用の妹
読んで字の如し。「With You」の乃絵美が有名。欠点は、鑑賞専用であること。
・性格が妹
主人公を男と思わないような態度を取る、理不尽なことを平気で言う、主人公に対してだけ(「だけ」がポイント)わがままで甘ったれ、といった妹的な性格によって、事実上の妹を作り出す。欠点は、たくさん登場させないと妹ぶりを発揮できない、妹的な性格についての共通認識が必要、など。
第2世代の妹は、これらの手法を複数組み合わせることで設計される。
そしてギャル理論研究は第3世代の妹を模索する…と言いたいところだが、第2世代がかなり完成度の高い妹なので、これを越えるのは容易ではない。「実の妹オッケー」の世界観くらいしかないような気がするが、これをやるとハードな妹マニアしかついてこれなくなるという気もする。うーむ。
百合の古き良き伝統、「お姉様」という呼称はもしかして、妹という視点から分析することでその魅力を解明できるのかもしれない。今後、理論と実践の両面から研究を進めてゆく予定である。
ナデシコのDVDの第1巻を見た。
絶望的な画質である。解像度といい色といい、VHSから起こしたのかと思うほどだ(色のにじみがないので違うが)。TV録画をGCチューナ+ハードウェアMPEG2エンコーダで録画したほうがまだマシかもしれない。私はレンタルだからまだ救われるが、買ってしまった人は救われまい。
まさかウテナのDVDもこの調子なのだろうか。買うときはレンタルで確かめてからにしよう。
mp3のタイマー録音が可能になったので、さっそく声優番組を全録音しようとしたら、AMラジオがない。うーむ。