昨日の続き。
ブルーノの「繋縛」とギャル作品の「萌え」を類似したものと見ることで、いくつかのことが言える。
まず、ギャル作品においては、ゲーム>アニメ>まんが>小説であることが(ここでもまた)導かれる。接触、音、図像のすべてを備えるゲームと、すべてを欠く小説。差があることは常識でもわかるが、こう言われると、機関銃と竹槍ほどの差を感じる。竹槍は機関銃より安上がりだが、コストパフォーマンスでは機関銃に劣る。
次に、ユーザの側の信頼が重要であることが指摘される。信頼なくしては、「いかなる操作者でも何ごとも為しえない」。これは香織派にとっては特に重要な指摘である。百合は一般に、男女物に比べて、ユーザの信頼を欠くのだ。ジャンルとしての、また個々の作品における信頼醸成の手法は、いままで見逃されてきた分野である。
第三に、
人は聖なればなるほど、(人を)繋縛する力は強し(同上、六五一頁)
から、ギャルを聖性という観点から評価すべきであることが言える。たとえばマルチやみさきには、ある種の聖性が感じられるではないか。「無口」や「天才」という属性もまた聖性の一種だろう。もちろん、聖性がすべてに優越するわけではないことは、咲耶やあかり(To Heart)が証明するとおりである。
L作戦。
時としてIRPは行方不明になって戻ってこない。タイムアウトでロックを解放してやる必要がある。
ヨアン・P・クリスチアーノの「ルネサンスのエロスと魔術」を読んでいる。
イデオロギーのがらくたをばらまく習慣は、ソ連の発明ではないことがよくわかる。頭にくる相手に悪罵を浴びせる習慣も同じく。マスコミや研究者が、その罵詈雑言の詳細を紹介しない習慣も同じく(なぜ彼らはいつまでたっても罵詈雑言の重要性を理解しないのだろう。21世紀に必要になる新しい学問領域のひとつは、罵倒学だ)。やはり人類はなかなか進歩しないものらしい。
この本は20世紀作戦のために読んでいるのだが、偶然にも、ギャル理論に関する示唆を得た。ブルーノのいう「繋縛」は、ギャル作品における「萌え」に似ているのではないか。
魔術的な行為は直接間接の[virtualem seu potentialem]接触、視覚や聴覚に力を及ぼす音や図像によって生ずる。(『魔術論題集』 Thesis de Magia 一五、第三書、四六六頁)
もしブルーノがギャルゲーを見たら、理想的な魔術の道具だと思うだろう。
選択とは接触であり――実際、ユーザの手はマウスやパッドに接触している――、BGMその他のあらゆる音が駆使され、ユーザの目は常に画面上の図像に向けられている。
被操作者においてあらかじめの信頼なくしては、魔術師、医師、預言者のいずれであれ、いかなる操作者でも何ごとも為しえない。(『魔術論』、第三書、四五二頁)
ユーザがギャル作品を信頼しないために萌えなかったものが、いったん信頼を吹き込まれるや猛烈に萌えはじめる、という現象はしばしば目にするところである。「××萌え~」という発言は、他人に信頼を吹き込んで同志を増やすための魔術的な操作なのだ。
愛するものの愛は受動的である。それは「絆」である。能動的な愛とは、これとは別のものである。それは事物に潜む能動的な力であり、絆を生じさせるのはこれである。[est ille qui vincit](同上、六四九頁)
ブルーノは、この「絆」を意図的に作り出して相手を操るのに利用することが魔術(の一部)だという。「絆」を作り出すのは「愛するもの」=ユーザではなく――ユーザの愛は「受動的」なのだ――、「事物に潜む能動的な力」=ギャルである。
個人はそれぞれ異なった価値基準によって操作されねばならない。ソクラテスを虜にした美はプラトンを捕らえることはなかったし、大衆の好みはエリートのそれとはちがうし、男女も嗜好が異り、処女が好きな男もあれば、自堕落女が好みという男もいる。(同上、六三九頁)
マルチギャル構造の必然性を見事に表現した一文ではないか。
クリスチアーノによれば、ブルーノは魔術師たるもの、
自分が誘惑されるのを慎重に避け、自己愛をも含めて自分のうちのいかなる愛の残滓も根絶せねばならぬ。その一方では彼は情熱に免疫をもつわけではない。(中略)自分の獲物のなかに生み出そうとする情念を自分自身のうちに試みるのでなければ、他人を呪縛する方法はないからである。(「ルネサンスのエロスと魔術」170ページ)
と考えているという。これは、ギャル作品の作者への訓令そのものだ。
どうやらここでも私たちは、16世紀ヨーロッパからあまり進歩していないらしい。相変わらず私たちは萌えたがっているし、萌えさせたいと望んでいる。
中山可穂の「サグラダ・ファミリア」を読んだ。
なんと下手糞で、なんと弱々しく、なんと卑怯な。
卑怯なところだけは学びたい。
ネタの出所がすべてあがったので、20世紀作戦を開始した。
バーチャルスター発生学とスーダラ節と「嵐を呼ぶ男」(ドラマーのあれ)の歌詞を使いたいが、同人誌ではどれくらいの規模までJASRACは大丈夫なのだろうか。ディズニーは幼稚園の発表会からでも金を取るという。うーむ。
未確認ながら、某方面への短篇2つの投入は失敗に終わったらしい。きゅう。
L作戦。
To Do:
・ドライバがインストールされていても、正しくインストールされているとは限らない。SCMを叩いてみる必要がある。
ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」を見た。
ナックルかフォークか直球しか投げようのないネタだと思ったら、カーブが来た、という印象である。背後に国ひとつがくっついている、しかも一応はカトリックの聖人がネタなので、監督が窮屈そうだと思ったのは私だけか。
後半の異端審問の、ジャンヌのセリフの選択がやや不満だ。この異端審問の記録には、印象的な名文句がいくつもあって、ジャンヌの頭のよさを垣間見ることができる。これがあるのでジャンヌ・ダルク物ではカーブは投げにくいのだが、ベッソンはかなり無視してきた。
ちなみに私のジャンヌ像は、いつも耳の穴でもほじりながら仏頂面で次の手を考えている、勘と度胸と反射神経に優れた筋金入りの農民女である。
中山可穂の「サグラダ・ファミリア」を読もうとしたら、まったく上手くなっていないのに驚いた。
かつて「猫背の王子」を読んだとき、作者の下手さ加減にはうんざりさせられた。が、下手でなければできない芸になっていた(でなければあの下手さが許容されるわけがない)。それは一度きりの芸だと思い、私はかなり好感を持ったのだが――まだ同じ芸を使っているとは。
下手だからこそできる芸は、一度きり、それもブンガクでしか使えないと思っている私は、もしかしたら老人なのだろうか。
紺野キタの「ひみつのドミトリー 乙女は祈る」を読んだところ、百合が一編入っていた。
思想的には賛同しがたい部分もあるが(「お姉さま」を男のオルタナティブとして扱うのは、体制―反体制イデオロギーにとらわれた思想のように思える)、香織派の力強い味方であることは間違いない。
今日のソ連:
アレク・ノーヴの「スターリンからブレジネフまで」、1983年4月。底本は1975年。
おおよそ妥当なソ連史である、としか言えない。
この種の概説的なものでは、スターリン型の計画経済と党の指導性の実態がほとんど見えてこない。おそらく東側の人々も、資本主義経済の実態など、ほとんど見えていなかっただろう。体制は、その中にいる人間にとっては目に見えないものだし、その外にいる人間にとってはよくわからないものだ。
が、私たちはいまなら、ソ連の体制を生き生きと描き出すことができるはずだ。計画経済はひとつの経済圏全体にわたる膨大な記録を残した。フルシチョフの時代の人々はいまも存命中で、たくさんの記憶と逸話をためこんでいるだろう。そしてなにより私たちは、それらすべてを、資本主義経済という外側から眺めることができる。
もしかすると、ソ連学とでも呼ぶべき研究が、すでにどこかで始まっているかもしれない。だとすれば、おそらく私の生きているあいだに、その成果を目にすることができるだろう。なんとも楽しみだ。
松原香織のサイン会にゆけなかった。いったい何年ファンをやっているのだ私は。一生の不覚だ。きゅう…
紺野キタの「ひみつのドミトリー 乙女は祈る」を手に入れた。「ひみつの階段」の続きである。
特に百合というわけではないが、読んでおきたい物件である。
しばらくぶりにNatural2をやって、幼児空エンド3つを見た。
堅いことを言うと、あの手の記憶喪失はヒステリー性のものなので、よほど好都合な環境でないかぎり長続きしないらしい。
ヒステリー性の精神障害はいわゆる多重人格が有名だが、これは多重人格でいることが好都合な環境のせいで長続きする。多重人格なら、記憶の欠落というデメリットを補えるほど大きなメリットを得られる場合もあるが、記憶喪失のメリットはあまりに小さいうえ、それさえもたいていは一時的なものだ。
それはともかくとして、りぼんイデオロギーの影響を受けたかと思われる思想が納得できなかった。私はりぼんイデオロギーの、「友達の彼氏を奪ってはいけない(でも結局は奪う)」というテーゼがまったく受け入れられないのである。
L作戦。
インストーラの高速化を完了した。トラック2万本当たり2時間半。目標には届かなかったものの、おそらく理論限界に近い。
ドライバに戻って、
・シークタイムを最適化する機能
・シークタイム検索の最適化
・イネーブラ/CHKDSKに対応、トラックグループロックを廃止
を行う。
明日は松原香織のサイン会である。午後2時にアキバの某店にゆくと、きっと私(または影武者)がいるだろう。
「高2→将軍」関係者各位:
今週のマガジンをチェックされたい。
…………Aの情報源は一体? クソゲーマニア? ペトログラード・ソヴィエト? いずれにしても、戦国時代にタイムスリップするよりは、熊本で幻獣と戦いそうなものだ。
――まさか、内通者か?
20世紀作戦。
ロイヒリン研究の論文のコピーを注文してしまった。あわせて40ページもの英語論文、どうせろくに読みもしない(読めもしない、というほうが正しいか)というのに。
この世界のことを調べようとすると、英語しかできないのが辛い。柘植一也が外国語に堪能なわけがよくわかる。
L作戦。
トラック2万本当たり、トラック検出と位相測定に2時間、シークタイム測定に10時間。
シークタイム測定に10時間は明らかにおかしいので、ここを30分に縮めればほぼ目標達成である。
五百香ノエルの「KISSと海賊」を最終巻まで読んだ。
どうでもいい話だった。「くだらない」とは断言できない程度にはくだらなくない、というくらいどうでもいい。とはいえ、水上ルイと比べてどっちがマシかと問われれば、断然こちらだ。
千号作戦のギャル理論的解説を書くべきかどうか考えている。
戦略レベルの決定はすべてマルチ越え作戦でなされているため、ギャル理論的解説を書くとしたら戦術論が中心になってしまう。戦術論は作者個人の資質と切り離せないので、論じる価値があまりない。
L作戦。
インストーラは現在トラック1万本当たり1.5時間以上。縮める方法とて思いつかない。
今月の「電撃大王」もまた百合だった。「ココロ図書館」の単行本が待ち遠しい。
いまの「電撃大王」に足りないのは、百合が本筋の連載だけといえる。作家は大塚ぽてとがいい。…というより他にいないような気も。うーむ。
20世紀作戦。
18世紀半ばより前(クール・ド・ジェブランの「原始世界」発行以前)に作られたイタリアのタロットで、「魔術師」が「靴修理職人」(IL
BAGATTELあるいはIL BAGATTO。それにしてもこの2つ、どう違うのやら)になっているものを探している。全文検索では1845年製まで見つかったが、それより古いものは出てこなかった。うーむ。
以下メモとして引用する。「カバラとその象徴的表現」184ページから。
それは、言うまでもなく一八世紀ポーランド・ハシディズム文学にあるものではなく、一三世紀ドイツ・ハシディズム圏に由来する逸話である。その古い伝承によれば、神によって連れ去られ、天使メタトロンに変えられた族長エノクは、靴屋であったという。彼は目打ちを突き刺しては甲革を靴底に縫いつけたばかりではなく、あらゆる上のものをあらゆる下のものに結びつけた。このようにしてエノクは彼の手仕事の一部始終に絶えず瞑想を伴わせ、この瞑想によって流出物の流れを上から下へとみちびき(このようにして世俗的な行為は儀礼的行為に変えられた)、ついには彼自身地上のエノクから彼の瞑想の対象たる超地上的なメタトロンに変えられるにいたった。(中略)ところで、これと酷似した伝承物語がインド・チベットのあるタントラ経典『八四人の魔法使いの話』のなかにあるのは、たいへん興味深い。ここにおいてもエノクの場合と同様に、神秘的なヤーコプ・ベーメとも言うべき導師カマラ(この名は靴匠を意味している)もまたあるヨガ行者から、革と目打ちと紐にかんする教えを受け、おのれの製靴業について一二年間昼も夜も瞑想し、ついに完全なる智慧の域に達して空高く運ばれてゆくのである。
L作戦。
現在の平均I/O Response Timeは11.0ms、CPU使用率は1.1%。スループットは11.3MB/s(通常パーティションから8%の損失)。プロファイルをみると、処理時間は40μs以下なので、せいぜい20μsの改善がいいところだ。
ではドライバは当面これくらいにして、インストーラにいこう。
To Doリスト:
・スキューを詰めてスループットを稼ぐ(目標:損失5%)
・トラックギャップ検出の最小単位をクラスタにしてインストールの高速化をはかる
・フェーズ測定をまとめることで高速化
インストールの所要時間の目標は、トラック1万本当たり1時間。
20世紀作戦は現在、セリグマンの「魔法」を読んでいる。
なにもかも忘れている自分の忘却力に驚かされる。いまのうちにメモしておかなければ。プロティノス→ポルフュリオス→イアムブリコス。
書き忘れていたが、冬コミの配置は2日目西そ13bである。
L作戦。
現在の平均I/O Response Timeは11.06ms。グローバルシークのレゾリューションはたいして効かなかった。これから劇的に最適化できる見込みもない。うーむ。
Iometerの擬似乱数に影響されないスルーモードでは13.16ms。あと0.1ms… 無理だ。
というわけで以後はコードの最適化に注力する(現在のCPU使用率は1.3%。通常のパーティションは1.0%)。その次はインストールの所要時間短縮と安定化、トラックグループロックの廃止とCHKDSKの作成、GUI化、運用時のシーク距離の統計と続く。書類も書き換えなければ。きゅう。
香織派が冬コミに通った。
千号作戦の単行本を作らなければ。新しい百合情報本も作りたい。あとテーブルクロスその他も。きゅう。
児童ポルノ法や、小学校の運動会の撮影制限の話を聞くたびに、暗澹たる気持ちになるのは私だけではないはずだ。
猥褻物は常に隠されている。これを、「猥褻だから隠す」と考える人々に災いあれ。隠されているものが猥褻になるのだ。もしかしたら50年後、猥褻物になりはてた子供たちは、チャドルをかぶって学校にゆくようになるかもしれない。
チャドルをはねのけるだけの権力を、子供が手にするのはいつだろう。「子供」にかかわる一切はまだ、ポストモダンからはるかに遠い。
月猫のファンタジーノベル大賞特集を読んでいたら、ふと、「理想の読者・批評家とはなにか」と考えた。
面倒くさいので途中を飛ばして結論だけ言うと、「批判に注意を払ってはならない。無視することさえしてはならない」となる。理想の読者・批評家がいてもいなくても、作者にはなんの関係もない。
フィクションは科学や政治ではない。理屈は常にすれ違い、投票ではなにも決められない。だから私は読む気にもなるし、書く気にもなる。誤読こそすべてだ。
「世界を変えたトンデモ本」という企画を思いついた。
「バーヒル」、「人間不平等起源論」、「精神分析入門」の3冊は確実に入る。ルソーは「エミール」も捨てがたい。「資本論」を入れるかどうかは微妙なところだが、もし入れるなら「国家と革命」(レーニン)も入れるべきだろう。
そういえば、カバラと精神分析はよく似ている。
カバラの操作原理にはアナグラムがある。これは、民衆向けの魔術のレベルでは、ヘブライ語の「シリア」は1ステップで「ロシア」にアナグラムできるから、ナチスドイツはシリアではなくロシアに攻め込むだろう、という話になる。思想家向けには、メシア時代には「トーラー」はアナグラムされて真の姿を現し、メシア時代にふさわしく禁令のないものになるだろう、となる。
精神分析における夢の解釈は、カバラのアナグラムによく似ている。京極夏彦が京極堂シリーズのどれかで、フロイトがユダヤ人であることを強調していたのはこのためか。
五百香ノエルの「KISSと海賊」2巻を読んだ。
どうでもよくチープな感じが、いいのか悪いのか。
「トリコロール・クライシス」は「興味津々」から「模様眺め」に移った。読者諸氏からの情報提供を待つ。
20世紀作戦。
kensaku.orgで検索してみたところ、すごいページが見つかった。うーむ。
20世紀作戦。
ゲルショム・ショーレムの「カバラとその象徴的表現」を読んでいる。これが終わったら、次はセリグマンの「魔法」を再読である。…L作戦と平行しては、20世紀中に終わらないような気が。
それにしても、本を再読せざるをえないときには、フォン・ノイマンのような記憶力がつくづくうらやましい(フォン・ノイマンは、読んだ本はすべて一字一句まで覚えていたという)。
「カバラとその象徴的表現」から引用する。122ページから。
一一八〇年頃、南フランスにカバラ主義者たちの最初の著作、『バーヒル』の書が現れた。それがどのようにして、どこから現れたかは、あまりつまびらかではない。ただそれが、もっとも信じがたい、とは言わないまでも、もっとも驚嘆すべき中世ヘブライ語文書であることはまちがいない。そこにおさめられているのは、想像を絶するほどひどい杜撰な編集の神智学的格言集で、大部分は、タルムード時代まがいの大家にめかしこませた者たちの述べる『聖書』釈義といった形をとっている。ほんの三〇頁から四〇頁ほどのごくささやかな書物である。
(中略)このように、『バーヒル』の書には、カバラ的神智学の基本目録がしばしば逆説的な形で陸続と連なり合っていて、大部分がまだ我々にはまるで不可解だとはいえ、読むたびに驚嘆させられる。そのような『バーヒル』の謎めいた目録のなかには比喩で説明されているものが多々あるが、その比喩というのが、説明するはずの当の対象よりもはるかに理解しにくい代物なのである。あるいはむしろ、この書のなかでは理念が敷衍展開されているというより、いわば理念が無断闖入してくるといったほうがよく、比喩は、説明の対象とする命題を明らかにするというよりは、もっと唐突なやり方でそういった理念の孕む神話的な性格をむきだしてみせる。こういった点が、なにかと躓くところの多いこの文典中の少なからぬ躓の石のひとつになっているわけだ。もっとも、この点に関してはこのくらいでやめておこう。ここで、『バーヒル』のきわめて豊富な神話的内容にたちいって専門的な分析をするのは、私の意図するところではない。ここで重要なのは、この『バーヒル』の書において、神話の残滓がもはや詩的に使われているのでもなければ寓意に変えられた形で用いられているのでもないということ、むしろそこには、ユダヤ教そのもののなかから生じた神話層の返り咲きが見られるのだということであって、この点を具体的に示す例としては、これら二、三の引用文で十分かと思う。
ラビ的ユダヤ教においては、神概念の純粋さを求める動きが神話の廃絶につながり、宗教的象徴を失った神概念は生彩を欠き形骸化したが、カバラはユダヤ教にふたたび宗教的象徴を導入し神の生彩を取り戻した、とショーレムはいう。
だが私としては、「想像を絶するほどひどい」というその内容――後世の膨大な知的営為とまったく切り離して、中学生の落書きや現代のオカルト本と同等のものとして読むときの――が気になる。そんな落書きが、いわばイデオロギーの爆縮とでもいうべき巨大な連鎖反応を引き起こしたという、厳粛で滑稽な真実をありありと感じて、肩をすくめてみたい。
L作戦。
どう計算しても、1アクセスごとに0.2msも使っていないような気が。Iometerの擬似乱数のせいかもしれない。プロファイルを取ってみなければ。
L作戦。
HalfDiskが1アクセスごとに0.2ms近く使っていることが判明した(PentiumII
266MHz)。今はデバッグコード等でキャッシュをミスヒットしまくっているのでこんな値になる。5000クロックにまで縮めれば、それだけで0.1ms以上稼げる。あと0.5ms。
トラックグループの対向性その他を調べたところ、最大2.5msの改善が限界らしいことがわかった。ということは、限界の96%を実現すればいいわけだ(2.4ms)。簡単簡単…なわけがない。だいたい遠距離のシークは50%オーバーラン(50%の確率で間に合うシークタイム)と25%オーバーランでおよそ0.15ms違うのだから、もうこの時点で最大2.25msになってしまうではないか。実際には2.2msがいいところだ。通常のパーティションとの比較で1.6msの改善、率にして14%… ヤバイっすよアニキ!
結論:現実の運用時の、HDDのシーク距離に関する情報を採取して、「実際には30%くらい縮まる」と主張する。
さて現在は、グローバルシークの測定の改良で0.1ms縮んで11.1ms。グローバルシークの測定レゾリューションを上げれば0.1msは縮まりそうな気配がする。最適化でさらに0.1ms縮めれば、ドライバ側は一丁あがりだ。
それにしても、Iometerのランダムシークに使われている擬似乱数は手抜きのような気が。
五百香ノエルの「KISSと海賊」1巻を読んだ。
自己同一化の第二層の理論と「強姦されてハッピーエンド」そのものである。どうやらボーイズラブ・イデオロギーは、この4年ほどは変化がないらしい。
ときに、ボーイズラブ・イデオロギーを全部裏返すと、エロゲーの「好き好き大好き!」(というタイトルの作品がある)になるような気が。
眠い。きゅう。
L作戦。
平均I/O Response Timeは11.2ms。元のパーティション(利用可能容量3GB)にくらべて1.8msの短縮なので(理論上の最大値は2.7ms)、あと0.6msくらい縮んでもおかしくない。というか縮まないと困る。というか縮める。
20世紀作戦。
ベリーショートのロリキャラを、どこかで見た覚えがあると思って考えた末、「雫」の月島瑠璃子を思い出した。キャラがかぶらないようにしなければ。
最新のボーイズラブ・イデオロギーを知るべく、五百香ノエルの「KISSと海賊」を読み始めた。
文章が辛い。たとえば1巻16ページ、「帝国の武力に下った」って一体。ううう。
尾鮭あさみの「六月のシュールな薔薇」を再読した。
ファーザー戸木田が、平野耕太の「進め! 聖学」に出てくる神父の顔に見えるのは私だけではないはずだ。
L作戦。
HalfDisk 0.2が動いた。
IntelのIometerで平均I/O Response Timeが11.4ms(利用可能容量1.5GB、5400rpm)。同じ条件で通常のパーティションは12.4ms。
対向トラックグループが二重対向トラックより対向性が悪いのは知っていたが… いくらなんでも1.8msは改善されないと話にならない。レイテンシ予測はほぼ完璧なので、トラックグループ配置のアルゴリズムだ。CPU使用率の高さも見逃せない(これから最適化する)。
……しかし冷静に考えて、トラックグループ配置のアルゴリズムだけで80%改善は… AAHDDの結果のグローバルシークをよく見ると、シーク距離512MBから2GBまで1.5msくらいのステップで増えてるし… うう…
…などと嘆くうちに、改善可能なところを思い出した。このHDD(IBM-DTTA-351010)は、シーク距離256MBから512MBにかけて、シーク距離が増大するにつれてシーク時間は減少するという謎の性質があるのだが、インストーラはこれを考慮に入れていない。ここをうまくすれば0.3msくらいは稼げるだろう。
あと0.5ms… このHDDだと原理的に無理かも。だいたいHalfDiskは、もっと低回転数で、もっとスキューが少なくて、もっとシークタイムの短いHDDのためのものなのだ。と言って通じればいいね… きゅう。
20世紀作戦を構想している。今度の受はベリーショートのロリータだ。
L作戦。
あまりに書き込みが遅いので、トラックグループ単位でロックをかけるのはやめることにした。が、CHKDSKを作るのが面倒なので後回しである。バージョン0.2.3くらいで実現予定。
WinDbg 1.0.0006.0は、ブロック先頭で定義したローカル変数を認識しない。きゅう。
新作戦を「20世紀作戦」と命名した。
中学1年か、それとも高校1年か、それが問題だ。
L作戦。
HalfDisk 0.2をデバッグしている。予想どおり書き込みが遅い。ううう。
新作戦の構想をはじめた。
1月31日の日記で予告していた「血と部室」である。ただし短篇ではなく100枚にする予定。投入先はコバルト・ノベル大賞、ではなく小Jの小説道場である。百合魂のこもったあらすじ400字で、人々を百合にリクルートするのだ。リクルートされたと思しき人を見かけたことはないが、それくらいでくじけるなら今までに100万回はくじけているだろう。
L作戦。
AAHDD 0.0.3がVectorに出た。
0.0.2はダウンロード数351だったらしい。この351人のなかで、ちゃんと最後まで測定できた人は何人いたのだろう。マニュアルどおりにやれば、たぶん50%程度の確率でうまく測定できるはずだが、ベンチマーカーの95%(推定)はマニュアルなど一文字たりとも読まない。
現在のバージョン(0.0.3)では、エラーメッセージが出ないバグの修正と区画防御構造のおかげで、最後まで測定できる確率は80%以上になっている。もっとも、ベンチマーカーの95%(推定)にとっては無意味な話だが。