女同士物として見るべきものがあるとの情報を入手したので、「ブルマー2000」をやっている。
ネタの阿呆らしさのほうが注目に値する。「ホームズ直伝のバリツ」と言われてわかる人間が、いったいユーザのなかに何人いるのか。
20世紀作戦メモ。
「フーコーの振り子」によれば、「バーヒル」のラテン語訳はフラヴィウス・ミトリダテス訳だけでなく、ギョーム・ポステル訳もあるという。
ピコが依拠したのは当然ミトリダテス訳だが、ポステル訳の影響力はどんなものか。ポステルのヘブライ語学者としての評判は聞いたことがないので、ミトリダテス訳以上のトンデモ訳のような気がする。
業界人には言うまでもないことだが、トンデモの歴史は誤訳と切っても切れない関係にあり、トンデモのかなりの部分は、誤訳に依拠して組み立てられている。私が「フーコーの振り子」にまったく感心しないのは、このあたりの泥臭い事情を多少知っているせいかもしれない。
プロバイダのサーバがまた落ちている。
そろそろ独自ドメインを取得して、もっとまともなサーバに乗り換えるべきだが、そうなるとサイトを再構築することになって面倒くさい。うーむ。
冬コミを終えた。
個人的にいくつかの勝利を記録したが、あいにく、その記録のほとんどは香織派の機密コードに抵触するため公表できない。あしからず。
お買い上げくださった読者諸氏に感謝する。百合のいっそうの繁栄をもってご愛顧に報いたい。
冬コミを終えた現在、「旧世界秩序」は残部僅少となっている。重版は現在のところ予定していない。おそらく夏コミまでは残部があると見込まれるが、確実に入手したいと希望される向きには、速やかに通販を申し込まれるようお勧めする。
また、「香織すと」は近刊予定の「百合すと2」で代替されるため、次のコミティア55が最終販売となる可能性が高い。コミティア55に参加される予定がない場合には、これまた通販をお勧めする。
昨日のことになるが、私はアキバにおいても勝利を記録した。
IOI TechnologyのIOI-141なる代物を読者諸氏はご存じだろうか。これは、聞いて驚くなかれ、UltraWide
SCSIバスとUltra2 SCSIバス(LVD)を相互に接続するアダプタなのである。しかもだ、私はこれを3000円足らずで手に入れた。
これを、IDE-UltraWide変換アダプタと組み合わせて使えば、3万円弱で50GB級のUltra2
SCSI HDDが手に入るというわけだ。転送速度は40MB/s以下に制限されるし、コマンドレイテンシも長くなる(ぜひAAHDDで測定してみたい)が、とにかくLVDでつながる。
なにゆえLVDか? ケーブルを延ばせる(最大10m以上)からだ。なぜIEEE1394ではいけないのか? AT互換機ではIEEE1394
HDDからはブートできないからだ(Macではできる)。なぜケーブルを延ばしたいのか? HDDをマシン本体と分離して、隣室に設置したいからだ。なぜHDDを隣室に設置したいのか? ――完全無音マシンが可能になるからだ。
古くからの読者はご存じだろう、24時間運転の完全無音マシン、それは私の見果てぬ夢だ。いまや夢が、もう手の届くところ、ほんの目の前にある。具体的には、Ultra160
SCSIカード(無名メーカ製、2万円)、LVD対応SCSIケーブル(2m、1万3千円)、IDE
HDD(1万5千円)、IDE-UltraWide変換アダプタ(8千円)、DVD-ROM用に5インチベイのSCSIストレージケース(7千円)、合計6万3千円で手に入る。SCSIストレージケースをジャンクで調達すれば5万6千円。
液晶モニタも、HDD録画も、ファンレスで動作可能なマシン本体もすでにある。あとほんの一息だ。
WinTV PVR for PCIに、S-VHSデッキからの出力を入れてキャプチャしてみた。
画質の面では、文句を言うべき点は見当たらない。が、音がおかしいような気がする。また、1時間ほど連続してキャプチャしたところ、音が完全におかしくなった。原因は不明。
眠い。きゅう。
「小春日和計画」の単行本がトランスヴァール共和国から届いた。冬コミで初売りする予定である。
20世紀作戦は相変わらず「フーコーの振り子」を読んでいる。
側面が脆弱すぎる。「おまじないコミック」に夢中の女子中学生のような阿呆なおしゃべりで引っ張るのはいいとしても、それが明白に突出していて、側面ががら空きになっている。あとで戦線がつながって大包囲を完成するのだろうが、大半の読者はそんなものを待たず、側面に蹴りをひとつくれて読むのをやめてしまうだろう。私も、20世紀作戦のためでなければ、とっくに読むのをやめている。
エーコの文学講義は好きだが、作品はいただけない。エーコの分析・再構成の方法論が、実戦感覚を捉えていないことがよくわかる。極端に言えば、エーコのやっていることは、ナポレオン以前に流行した幾何学的戦術論、およびそれを用いた仮想戦記のようなものではないかとさえ思えてくる。
世紀末特別企画。
読者諸氏は、妄想の力がどんなものか、ご存じだろうか。もしご存じでなければ、これをご覧になるといい。マルチ越え作戦こと、「小春日和情報」。少々長いので8分割でお届けする。
(公開を終了した)
いうまでもなく、これが妄想の力のすべてなどではない。世には、私以上の妄想族など、掃いて捨てるほどいる。なんの誇張もなく、文字どおりに「掃いて捨てるほど」だ。それに関しては、もしかすると読者諸氏のほうがよくご存じかもしれないが。
「小春日和情報」は冬コミ2日目、西そ13bにて絶賛頒布予定。完結編の「小春日和計画」とあわせてご愛顧いただければ幸いである。
エスケイネットのWinTV PVR for PCIを手に入れた。
チューナーのY/C分離が少々甘いように感じる。ライン間やフレーム間の相関をみる高度なY/C分離など望むべくもないのだから当たり前だが。S-VHSデッキからS端子で入力して試してみたい。
メリークリスマス。
20世紀作戦は現在、ウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」を読んでいる。
どうも、40過ぎの男がまるで女子中学生のように右往左往する話らしい。私は男にはなんの興味もないので、女子中学生が右往左往する話のほうがはるかに嬉しい。
今日は眠いので、クリスマス特別企画はやめて、世紀末特別企画にした。乞うご期待。
フランセス・イェイツの「魔術的ルネサンス」を読んだ。
キリスト教的カバラの影響力に対するイェイツの評価は、やや過大に思える。キリスト教的カバラは、魔術的操作から悪霊を遠ざけるための護符として広まった。それはあくまで護符としてであって、哲学的宇宙論としてのキリスト教的カバラは、ほとんど影響力を持ち得なかったのではないか。
さらに、キリスト教的カバラの護符としての力の多くは、守護聖人たるピコの名声、および本家のカバラの権威による、いわば虎の威を借りる狐のようなものではないのか。その哲学的宇宙論の内実は、いったいどの程度まで寄与していたのか。
土星的性格とメランコリアの再評価は、現在に至るまで巨大な影響を及ぼしている。キリスト教的カバラの結論はいったい、どんな影響をもたらしたのか。この本を読んだかぎりでは、護符の意匠として以外の影響は、ほとんど見えてこない。Blauの憂鬱な見解のほうが、私には納得がいく。
20世紀の終わりを祝って、クリスマス特別企画を検討している。乞うご期待。
「グロリア 禁断の血族」というエロゲーを少しやった。
一般的にいって、よほどの自信がないかぎり、学のあるキャラを出すのは避けたほうがよさそうだ。でないと、このゲームのように、「綺羅」を「トゥインクルトゥインクル」などと説明するミスを犯したとき、こうやって人に指摘される羽目に陥る。
「天才」はよく見る属性だが、「教養」はあまり見ない。考えてみれば、人を感心させるほどの天才は一万人に一人くらいいるが、同じくらい印象深い教養を備えた人間は日本に10人くらいしかいないような気がする。
千号作戦の単行本を準備している。
ウェーブレット圧縮のことは「月猫通り」掲載時のままでゆくことにした。加筆等は一切ないので、「月猫通り」をお持ちのかたにはあまり意味がない。
20世紀作戦もそうだが、実にどうでもいい些細なところでリアリティを追求するのが私の流儀である。事実の嫌味ったらしい平凡さと、のっぺらぼうでつかみどころのない奇怪さは、些細なところによく発揮される。むしろ、そうした平凡さと奇怪さを帯びているからこそ些細なことになる、というべきか。
L作戦。
ThinkPad 240XでHalfDisk 0.2を動かしてみたが、ベンチマークでは効かない(別プロセスとしてピンボール(優先度:低)をフォアグラウンドにして測定)。ヘッド位相の推測がまったく働いていないらしい。原因は不明。
20世紀作戦は現在、J. L. Blauの「THE CHRISTIAN
INTERPRETATION ON THE CABALA IN THE RENAISSANCE」を読んでいる。
気の滅入る話である。スクレはもう少し違う見方をしているのだろうか。
映画の「Show me Love」をレンタルDVDで見た。
制作者の立場がわからないので百合とは断言できないが(もしかしたら「Go
Fish」のように由緒正しいレズビアン映画かもしれない)、そういう映画である。お国(スウェーデン)では大ヒットしたらしい。
映画としてはかなり出来が粗い。思想的には「中学生日記」と五十歩百歩だ。が、主役のアグネスは一見の価値がある。それと、キスシーンはかなり見られる。
フランス語の翻訳に挑戦するべく某所にて深く静かに潜行したところ、小説のばらまきを発見した。スティーブン・キングやマイケル・クライトンなどの作品(英語)で、本をスキャンしてOCRにかけたものらしい。
革命はすでに始まっている。
ドリキャスとWindowsで、「Fragrance Tale」なるボーイズラブゲームが出るらしい。詳細はこちら。
主人公(ショタ)の声が南央美なのはいいとして、どうも微妙に詰めが甘い。ダブル関と井上和彦を入れれば売れると思ったら大間違いだ、と忠告しておこう。
ボーイズラブを調査していると、彼らの蓄積しているテンプレートの量はたかが知れているのではないか、と思えてきた。支配的イデオロギー(男女物)に敵わないのは当然として、それにしてもこれが20年の成果か、と。
考えるに、彼らのイデオロギーの強力さが、地力を養う機会を奪ってしまったのかもしれない。強力なイデオロギーにもそれなりの問題がある、というわけか。
「アトラク=ナクア」のエンディングを見た。
エロゲーは凶器攻撃が必然かつ正義なのかもしれない、と思わされた。さもなければ思想上の優越か。この作品にはどちらもない。
それにしても「業社テスト」はダイナミックな誤植というか、もしかして本当に業界ではこういう表記をするのかもしれないと思わせてくれる。「業者」が登録されていないFEPなどこの世に存在しないだろう。
20世紀作戦。
「フーコーの振り子」とネタがかぶっていたら恥ずかしいのでチェックしなければならないと気がついたが、もう文献はうんざりだという気がしてきた。英語文献が200ページばかり積んであるというのに(フランス語もドイツ語もできない私だが、だからといって英語が得意なわけではない)、日本語文献も1000ページくらいありそうだというのに、さらに1000ページ以上も上積みとは。
あと、モーゼルM712(「ジオブリーダーズ」で梅崎真紀が使っているあれ)のモデルガンも欲しい。マルシンからABS製が出ていて、実売価格7000円。長らく絶版(というのだろうか)だったのが、ジオブリの影響で出てきたらしい。今を逃すと入手困難になるかもしれないので手に入れておきたいが、コミケ前のこの時期に7000円は厳しい。
今月のヤングユー、「Papa told me」!
知世、羽リュック!
昨日の続き。
問題はいよいよ、百合にとって何が必要で、香織派はなにをすべきか、である。
百合が一般に、ユーザからあまり信頼されていないことはすでに述べた(この「ユーザの信頼」という要素こそ、私がブルーノに教えられたことである)。そしてもう一つ、百合にとって不利なユーザ側の事情が指摘できる――百合は萌えのテンプレートの蓄積を欠く。
「信頼」と「テンプレート」。百合が発展するためには、ユーザにこの2つを与えなければならない。
20年前のJUNE・やおいも、現在の百合と同様、信頼とテンプレートを欠いていた。しかし彼らは黄金パターン、「強姦されてハッピーエンド」の旗の下に団結していた。彼らの情熱はあらゆる困難を克服した。テンプレートを開発・蓄積し、次世代のイデオロギー「甘々」を涵養する土壌を準備した。
百合と香織派は現在のところ、「強姦されてハッピーエンド」のような強力なイデオロギーを見出せていない。これは20年前のJUNE・やおいに比べて非常に不利な点である。が、有利な点もある。オタク文化の基盤は、現在のほうがはるかに整備されている。また、キャラのテンプレートの蓄積でも優っている。
信頼を得るという面で、百合は当面のあいだ、あまり多くのことを望めないだろう。大半の百合の作者は、多くのユーザにとって信頼するに足るだけのものを提供できない。テンプレートの蓄積に欠けるからだ。
それに対して、テンプレートの開発・蓄積のほうは望みが持てる。男女物やボーイズラブにも利用できるテンプレートは、現状のオタク文化にも浸透しうる。当然、百合専用のテンプレートを百合ジャンル内部で共有・更新してゆく必要もある。(このようなテンプレート共有・更新のシステムとしての「ジャンル」は、現在のところあまりよく機能していない。ジャンルの旗印という意味で、コミケのジャンルコードは強く求められるところだ)
どちらの場合も、テンプレートの開発と蓄積が強く求められていることを強調しておきたい。含み戦略に則ってインデックスをひょいひょいと放り込む、そんな方針ではそもそもギャル作品として成立しえない(ユーザの信頼がなく、使えるテンプレートの量も少なすぎる)し、百合の未来を切り拓く力にもなりえない。
結論である――百合にとって、一般ユーザの信頼という目標はまだ遠い。そのため含み戦略は不合理かつ無益である。いまは百合のテンプレートを開発し、ジャンル内のみならず一般ユーザにも配達して、テンプレートの原始蓄積を行わなければならない。テンプレートの原始蓄積は、ジャンル内部だけでなく一般ユーザをも対象にできるし、すべきである。百合専用のテンプレートの原始蓄積を効率よく行うために、コミケのジャンルコードが必要である。
こうして目標を並べてみると、なんとも気の長い話に思える。
が、現在の百合が利用できるオタク文化の基盤は、20年前とは比較にならないほど整備されていることを忘れてはならない。物質には、イデオロギー以上のことができるはずだ。
話は、ブルーノの魔術理論とギャル理論に戻る。
ブルーノによれば魔術(の一部)は、人を繋縛してから操作することであるという。ギャル作品に置き換えれば、ユーザを萌えさせてから金を取る、ということになる。
特撮戦隊物のビジネスモデルは、まさにこのとおりである。番組スポンサーのおもちゃ会社は、まず視聴者の子供を繋縛し、次におもちゃを売りつけて金を取る。
が、ギャル作品のビジネスモデルは一般的に、特撮戦隊物ほどには「萌えさせる→金を取る」方法を重視していない。関連グッズで儲かるのは大ヒットした作品だけで、特撮戦隊物のおもちゃのように確実なものではない。少なくとも制作費の回収は、作品自体の売り上げに頼っている。
もし「萌えさせる→金を取る」の経路が「大ヒット」しかありえないのなら、よい作品で強く萌えさせようが、そこそこの作品でそこそこ萌えさせようが、作者の稼ぎは同じということになる。このため、大ヒットを狙うか、そこそこでゆくか、二通りしかないということになる。大ヒットを狙うために大掛かりな宣伝を打つ(サクラ大戦)、いや宣伝で萌えさせて本編より先にグッズを売りつける(セングラ)。どんな道を行っても、ギャル作品自体は空洞化する。
明示的なビジネスモデル内での「萌えさせる→金を取る」の経路の不十分さを補うのが、ユーザの放つ「××萌え」という呪文である。
ギャル作品がそれほど「面白い」ものである必要がないことは、萌えのメカニズムの解説で解き明かした。ユーザは自分の脳内に展開された理想の作品を楽しんでいるのであり、現実のギャル作品そのものは、ユーザの信頼を失わずにすむ程度の出来でいい。
だからユーザは、人にギャル作品のことを話すにあたって、「面白い」という言葉を使うのをためらう。
自分の脳内に展開された理想の作品は、面白いに決まっている。それは夢にみた話と同じで、面白いのが当たり前だから、わざわざ言うようなことではない。では現実の作品のほうはどうかといえば、「面白い」と強く主張するのは難しい代物だ。が、「面白い」とはいえなくても、この作品には確かに大きな価値がある、信頼に値するのだ――
――そうして呪文が出てくる、「××萌え」、と。
「××萌え」と主張するユーザは、「自分は現象としての「萌え」を体験した」とだけ主張しているのではない。同時に、「この作品(キャラ)は萌えるぞ、君もこの作品(キャラ)を信頼したまえ」とも主張しているのである。
なぜそんなことを主張するのか? その話の相手も、萌えたがっているからだ。萌えたがっているなら勝手に萌えればいいではないか? 残念ながら、萌えるのには信頼が要る。深い信頼をゼロから得られるほどよくできたギャル作品はきわめて稀だし、ユーザも「よくできた」「面白い」ギャル作品を求めているわけではない。ギャル作品のユーザは、萌えたいだけなのだ。人に信頼を吹き込んでもらうのが、手っ取り早くて合理的ではないか。
この経路を通じて、信頼の再生産が起こる。一人を萌えさせれば、10人の信頼を得ることができるというわけだ。もしこの10人のうち2人以上を萌えさせることができれば、連鎖反応的に信頼が拡大再生産してゆく。
(この拡大再生産サイクルそれ自体はあまり売り上げ増加につながらない(貸借、CD-R、中古)のが現在のギャル作品市場の弱みでもあり、強みでもある。作品を入手することへの敷居が低いため、信頼の拡大再生産サイクルは効率よく回転し、そこそこ以上のギャル作品に対してよく働く。もし信頼の拡大再生産サイクルの効率が低ければ、大ヒット級の作品に対してしか働かず、ビジネスモデル的にはあってもなくても同じということになる)
かくして、「萌えさせる→金を取る」の経路は、「萌えさせる→信頼を得る→金を取る」という形でつながる。「××萌え」という呪文は、現在のギャル作品市場のビジネスモデルの欠点を補い、よりよいギャル作品を生み出す原動力のひとつになっているのである。
(「信頼を得る→金を取る」はどうつながるのか? 続編、あるいは「雫→痕→To
Heart」、「ONE→Kanon→AIR」だ)
L作戦。
変な小細工をしなくても、クロック変動の監視をしないだけでいいことに気がついた。3msだけスリープしてディスクアクセスしにゆく、そんな変なアプリがあるわけがない。
L作戦。
ディスクアクセスしているあいだCPUを止められるのは、別プロセス(おそらくスレッドでもいい)で空ループを回せば避けられることがわかった。どうやら、実行中の全プロセスがアイドルになったのを見てCPUを止めるらしい。
問題は、ドライバレベルでどうやってこれを避けるかだ。AAHDDならアプリで空ループを回してもいいが、HalfDiskはそうはいかない。
もし、ドライバスレッドがイベント待ちを始めたのを見てアイドルになったと判断するのなら、イベント待ちをやめてポーリングループを回すという手をとりあえず思いつく。が、CPU利用率は跳ね上がるし、バッテリを食う。うーむ。
というわけで、ジョニーと相談しながら解決法を考えた。
タイムスタンプカウンタが信用できない環境では、連続したランダムアクセスの間隔は一定と仮定する、という結論が出た。数msおきに一つずつランダムアクセスするような場合を切り捨てて(この場合は、予測が常に裏目に出て悲惨なパフォーマンスになる)、アクセスが連続する場合だけを考えるわけだ。インストール時にはアプリ側で空ループを走らせる。
シャルルならとてつもなく気の利いた解決法を思いつくのかもしれないが、私とジョニーではこれ以上の方法は思いつかない。
ところで、ThinkPad 240XのHDDにAAHDDをかけた結果は次のとおり。
(私の環境では、11GBのHDDを、外周側4GB、内周側7GBにパーティションを切って使っている。以下に示すのは、外周側4GBのパーティションについてのものである)
AAHDD - All About Hard Disk Drive Version 0.0.4 Nishizaike Kaori-ha(C) 2000 Device Infomation : Product ID : IBM-DARA-212000 Vendor ID : N/A Product revision : AR4OA51A Serial number : Performance : Partition size (KB) : 4160803 Rotational speed (RPM) : 4210 Rotational latency (micro-second) : 7125 Command latency (micro-second) : 236 Cache data rate (MB/s) : 29.5 Cache size (KB) : 128 Head, Cylinder and Local seek-time: Head : 1 or unknown Track-to-track seek-time (micro-second) : 1824 Size per track (KB) : 225 Global seek-time : Distance : 256 KB Seek-time (micro-second) : 1604 Distance : 512 KB Seek-time (micro-second) : 1868 Distance : 1 MB Seek-time (micro-second) : 2556 Distance : 2 MB Seek-time (micro-second) : 3047 Distance : 4 MB Seek-time (micro-second) : 4208 Distance : 8 MB Seek-time (micro-second) : 4458 Distance : 16 MB Seek-time (micro-second) : 4890 Distance : 32 MB Seek-time (micro-second) : 3937 Distance : 64 MB Seek-time (micro-second) : 5271 Distance : 128 MB Seek-time (micro-second) : 6057 Distance : 256 MB Seek-time (micro-second) : 6521 Distance : 512 MB Seek-time (micro-second) : 7205 Distance : 1 GB Seek-time (micro-second) : 8504 Distance : 2 GB Seek-time (micro-second) : 10152 Media position and Throughput : Media position (MB) : 0 Size per track (KB) : 224 Sustained data rate (MB/s) : 13.2 Media position (MB) : 64 Size per track (KB) : 225 Sustained data rate (MB/s) : 13.2 (中略) Media position (MB) : 3904 Size per track (KB) : 195 Sustained data rate (MB/s) : 11.4 Media position (MB) : 3968 Size per track (KB) : 195 Sustained data rate (MB/s) : 11.4
距離32MBのシークタイムが周囲から突出して短くなっているが、たいした意味はない。たぶん。
見たところ、スキューが小さくて回転が遅い。HalfDiskがよく効きそうなHDDだ。
ThinkPad 240Xについて、私は仮説を立てた。
ディスクアクセスしているあいだ、CPUを止めているのではないか?
そして試してみた。
実測で4秒経過しているものを、870msとぬかす。計測中にトラックポイントを動かすと増える。やはりCPUが止まっているのだ。
かくして問題は解決した。が――
HalfDiskの重要な前提条件、「きわめて高速に参照できるマイクロセカンド単位の時計」を、CPUのタイムスタンプカウンタ以外のどこで調達すればいいのか。
timeGetTime()の実装がどうなっているのかを調べてみて、もしQueryPerformanceCounter()と同じ仕組みなら(これは参照に要する時間が途方もなく長く、しかも参照に行っているあいだは一切の割り込みを受け付けなくなるという非常識な副作用まである)、L作戦の構想全体を再検討しなければならない。
以下は20世紀作戦用のメモである。C・H・ハスキンズの「十二世紀ルネサンス」、57ページから。
Explicit, Deo gratias.
終わり。神に感謝。
ThinkPad 240XでAAHDDを試した。
通らない。きゅう。
それにしてもこのひねくれきった特性は一体。キャッシュアルゴリズムがまったくわからない。とりあえずプリロードをしていないに一票。
複数ヘッドが同時に読み込んでいるのではないかとか、人工知能でベンチマークを見分けているのではないかとか、あらゆる妄想が脳裏をかけめぐる。ううう。
「アトラク=ナクア」をやっている。
「二回」の二がカタカナのニになっているのはなんとかしてほしい。いったい誰も気がつかなかったのか。
今日のソ連:
小室直樹の「ソビエト帝国の最期」、1984年7月発行。
特にどうということのない、トンデモ本式のソ連本である。ただ、当時にしてもネタが古い。いまどきマックス・ウェーバーもないだろう。
ソ連の東欧への膨張を、スターリンの得点、ルーズベルトの失点とみなしているあたりも古臭い。東欧への膨張は、アフガン侵攻とならんで、ソ連の命取りになった。もしユーゴスラビアをギリシャ同様に西側に与え、ルーマニア・ハンガリー・スロバキア・ポーランドを「フィンランド化」するにとどめていれば、今日もソ連は存続していただろう。東欧は、ソ連の資源を吸い上げながら、ソ連体制の動揺を増幅する共鳴箱でしかなかった。ルーズベルトは、結果として、正しかったのだ。
(ではルーズベルトはチャーチルとスターリン以上の狸で、安全保障を偏執狂的に追い求めるスターリンにつけこみ、一方チャーチルには馬鹿のふりをしてみせて「敵を欺くにはまず味方から」を実践したのか。それは永遠の謎だが、おそらくは違う。たぶんルーズベルトは、たいした考えもなしに、ソ連に東欧を与えた。運命はかくのごとく人知を嘲笑う)
佐藤亜紀のエッセイ集「でも私は幽霊が怖い」に収録の、「自由を我等に!」と「疇昔の美姫の賦」を読んだら、ロロ・フェラーリのことを思い出した。
読者諸氏はロロ・フェラーリなる名前をご存じだろうか。今年自殺した、有名なポルノ女優である。享年30歳(公称)。
ここまでは珍しくもなんともない。彼女を特別にしているのは、その異形である。
まずはこちらをご覧いただきたい。
――あれはSFXではない。皮膚の下にはシリコン製の水袋が入っている。撮影が終わったあとも取り外すことはできない。その重さ、不便さ、身体への悪影響の数々は想像を絶するだろう。ただ起き上がっていることさえ苦痛にちがいない。あれは現在の世界記録だという。あれほどの苦痛に耐えようとした人間は、彼女ひとりというわけだ。
彼女はすべてを知りながらその苦痛を選び(一度の手術でああなったのではなく、何度も手術を重ねた末だという)、それでも幸せになれなかった。
馬鹿、まさに馬鹿だ。が、同じ馬鹿者として私は、彼女に最大級の敬意を捧げる。
小賢しい人々は、見えないところで自分の身体を削る。その苦痛は「なかったこと」にされる。この地上にあっては、見えないものは存在しない。ロロ・フェラーリは己の異形を誇示し、小賢しい人々にかわって、「なかったこと」を存在させた。
もちろん彼女自身にはそんな意識はなかっただろう。が、ユダヤ教の伝承によれば、世界には常に36人の隠れたる義人がいるという。彼らが義人であると、人に知られることはけっしてない。当の本人さえ自分が義人だとは知らない。そして、世界が今日まで続いているのは、彼らの働きのおかげだという。
私は、ロロ・フェラーリこそ、隠れたる義人であると思う。彼女の魂は、天国のもっとも高い場所を占めているにちがいない。
「アトラク=ナクア」というエロゲーをやっている。
物語の冒頭に強姦シーンが配置されているエロゲーは、全体の何割くらいあるのだろう。私の少ないエロゲー経験のなかでもすでに三回遭遇した(「Re-leaf」と「デアボリカ」とこれ)。いや、だからといって、冒頭でスーダラ節を歌えというわけではないが。
20世紀作戦。
私は、悪いことに、ファインプレーが好きだ。ファインプレーとは、危ない橋を渡ってイギリス・フランス連合軍の背後に回り込み、カレーを突こうとするような選択である。これが好きな人間は、たいていそのうち自滅する。
が、好きなものは好きだからしょうがない(某ボーイズラブゲームにあらず)。新開発の萌えテンプレートにすべてを賭ける。
L作戦。
ベンチマークのスレッドとドライバのスレッドが、同じCPUにあるときと別のCPUにあるときでは、0.08msほど違うような気配がある。単純に解釈すれば、ミスヒットのペナルティが80μsというわけだ。少々長い。うーむ。
JPEG-2000が発表された。
記事を見て疑問だったのは、デコードに要する時間をJPEGの数倍程度としていたことだ。ウェーブレット圧縮のデコードには、JPEGの数十倍の時間が必要との記事を、どこかで読んだ覚えがある。もちろん、いま売られているCPUならわずかな処理時間でデコードできるはずだが、MMX以前のPentiumだと処理時間に余裕のない用途(ゲームなど)は厳しい、という話を聞いたような気が。
記事がいい加減なのか、私の記憶が捏造なのか、処理時間を減らす工夫がなされたのか。記事が正しいとすると、千号作戦の記述を一部修正しなければならない。
佐藤亜紀の「でも私は幽霊が怖い」を読んだら、ショーレムの「カバラとその象徴的表現」から20世紀作戦用に集めてきたネタの一部が使われていた。これは、ネタくらい自分で考えろ、という神のお告げだろうか。
が、ネタの前段と後段はオリジナルなので、ひっこめるのは癪にさわるし、もったいない。構わず前進だ。
L作戦。
中身のコードはほぼ固まった。平均I/O per secondは11.07msで手を打った。あとは、より多くの環境での動作をチェックし、GUIをつけ、イネーブラ/CHKDSKにまつわるWindowsのねちねちとした深みに下りてゆくだけである。平行して、Windowsの実際の動作時の、シーク距離の統計もとらなければならない。20世紀中にベータ版までいけるだろう。
さて、HalfDiskが金になるか、だが――私はもうすぐThinkPad
240Xを使える予定である。私はこれにWindows2000を入れ、システムファイルのあるパーティションでHalfDisk
0.2を効かせてみるつもりだ。
今日の黒歴史:
デバイスベイ
含みをテンプレートへのインデックスと考えるとき、個々のテンプレート(およびインデックスとの照応関係)はどこから来たのか、という問題が持ち上がる。
この問題は2つに分けられる。「そもそも最初はどこから発生したのか」と、「いったん発生したテンプレートが、どのようなメカニズムで共有・更新されているか」である。
後者のほうが答えやすい。オタク文化の生み出した無数の作品群が、個々のユーザに無数のテンプレートを配達した(現在もしている)。ユーザの一部は作者なので、過去に自分が受け取ったテンプレートを作品にして発送する。こうして文化的サイクルは、作品の再生産を通じて回転する。このサイクルのなかで、ときに新しいテンプレートが広まり、ときにコストパフォーマンスに劣るテンプレートが消滅する。個々のテンプレートの内容が変化してゆくこともあるだろう。
より答えにくい問題は、「そもそも最初はどこから発生したのか」である。
上品に(つまり素人受けよく)答えるなら、「他の文化の創造的誤読によって」となるだろう。たとえば、「背の低いキャラがエプロンドレスを着て頭に大きなリボン」というインデックスとそれが指す「ロリ」というテンプレートは、子供向けアニメの創造的誤読によるものだ、と言えば素人は納得するだろう。
が――その「子供向けアニメ」の「子供向け」は、かなり疑わしい。なにしろ、子供向けアニメの制作現場のかなりの部分は、オタク文化に支配されている。そのような製作現場で作られた子供向けアニメを見るユーザが、創造的誤読によってテンプレートを得るとき、実はそれはいわば予定された創造にすぎず、結局はなんの創造もなされていない。創造的誤読が非創造的なものとして組み込まれている文化サイクルにおいて、「最初の一回」の誤読にどれほどの意味があるだろうか。
おそらく、テンプレートの発祥と歴史を探ることには、あまり意味がない。新しいテンプレートが広まり、コストパフォーマンスに劣るテンプレートが消滅し、テンプレートの内容が変化する、その動きをこそギャル理論は解き明かすべきだろう。
今月1日に、(萌えているユーザは)「ギャルの含みをコンセプトにした恋愛シミュレーションゲームを脳内に作り上げてプレイする」と書いた。
これは、実際のゲーム制作に求められるような、真剣な創造性を要する行為ではない。それよりはるかに簡単な、いわばプレハブ式の構築である。このプレハブ化を可能にするのが、「含み」の原理だ。
去年4月27日の日記から引用する。
含み:
ストーリー中でまだ実現してはいないが、可能性として示唆されている物事。将棋用語に由来する。
背の低いキャラがエプロンドレスを着て頭に大きなリボンをつけていれば、その外見は「ロリ」という含みを持っている。ギャル作品のヒロイン(四番)が料理下手なら、それは「ヒロインの失敗作を主人公が(無理して)食べる」というシーンを含みにしている。
(なお、実際の含みは、ここで挙げた例よりもはるかに豊富な意味内容を持っている。例に挙げた「エプロンドレスにリボン」のキャラが、単純に「ロリ」とだけ言ってすませられない含みを持っていることを想起されたい)
まだよくわからないという読者諸氏のために、さらに言葉を重ねよう。
ギャルの含みとは、テンプレートへのインデックスである。「エプロンドレス」「料理下手」がインデックス、「ロリ」「ヒロインの失敗作を主人公が(無理して)食べる」がテンプレートである。
この照応関係は、古い小噺に似ている。
長期囚を集めた刑務所で、囚人の誰かが「142ページ!」と叫ぶと、全員が笑う。ページ数は、あるジョーク集の本のページ数を意味しており、ページ数を聞いた囚人たちはそのジョークを思い出して笑う、というわけだ。
ギャルの含みはこれほど単純ではない(パブロフの犬のように「142ページ!」で萌えるユーザもいないわけではないが)。さまざまな含みが絡み合っており、取捨選択の余地や、誤解を許す曖昧さが存在している。
ユーザは、自分にとってピンとくる含みを主に感受し、インデックスからテンプレートをひっぱってくる。そのテンプレートを組み合わせることで――このとき、創造性のもっとも重要で困難な働き、「切り捨て」を作用させる必要がないことに注意されたい。今月1日に書いたとおり、「あらゆる無数の可能性が並列に存在し、ユーザはそのすべてを感受する」のだ――脳内に理想のゲームや二次創作を展開する。
ときに、ギャル理論研究にあっては、価値判断につながる表現はできるかぎり避けなければならない。
もちろん完全に避けられるわけではない。本当の権力は目には見えない。が、完全に無神経でいることもできない。
「神を信じない人の人生は、偽物の人生です」と言われたとき、どう答えるべきか。「信念の問題を持ち込んではならない」と答えれば、まずまず無難だろう。では、無神論者の人生を「偽物の人生」と表記してよいものだろうか。たとえそれが熱力学の概念のように純粋に定義された概念であったとしても、このような表記を用いることは、ある種の価値判断への無批判、すなわち無条件の受け入れを意味するだろう。
フェミニズムのイロハには、「自然」という表現をすべて「主の御心にかなう」あるいは「共産主義的」と読み替える、という思想がある。ギャル理論研究においては、「現実」を「聖書」あるいは「レーニン」と読み替えるべきだろう。
L作戦。
スループットは読み込み11.5MB/s、書き込み6.5MB/s。平均I/O
per secondは11.04ms。
稼動中のシークタイム補正と線形補間は、高精度の測定と高いレゾリューションのかわりにはならないことがわかった。
戻ってこないIRPの再現性が厄介を極める。10時間連続でテストしても発生しなかったものが、30分のテストで発生した。ううう。
北川みゆき選の「ちょこっとHな恋物語」を読んだ。
聖書には「最後に残るのは、愛です」とあるが、フィクションの場合、「最後に残るのは、イデオロギーです」と言いたい。
私は昔、自分は流行のイデオロギーどおりのものを書ける、と信じていた。それは特殊な才能なのだと、誰も教えてくれなかったので。
20世紀作戦は現在25枚。
最初の15枚で首都近郊の空港に空挺を降下させて制圧、続く10枚で国境の川に3地点で架橋して対岸に橋頭堡を築いた、というところか。
千号作戦(後編)への評価が出た。
私的に最大の問題点は、「望はかわいい」という結論に戦力を集中できていない、ということだ。ストーリー上のマクガフィンにすぎないと思っていた篠塚対冬花の対決が、予想外に目を引いてしまったらしい。が、五番打者にふさわしい見せ場をどこで作るかと考えると、こうするしかなかった。
単一ストーリーにおけるマルチギャル構造の難しい点がそのまま作品に出てしまった、と総括したい。
また、夏葉氏の篠塚への「負け犬萌え」は、萌えの一般的なケースとして記しておく価値があるだろう。
昨日と一昨日の続き。
ブルーノの「繋縛」とギャル作品の「萌え」を類似したものと見る場合、私が提唱した「萌え=含み」というテーゼはどうなるのか。
「萌え=含み」は萌えの作動原理、すなわち「事物に潜む能動的な力」を説明するものである、というのが答えだ。ギャルは、含みによってユーザに「能動的な力」を発揮し「絆」を生じさせる。「絆」の存在する状態が「萌え」である。
含みが文字どおりに「事物に潜む」ものであることを考えるとき、ブルーノの言葉はいっそう意味深い。オタク文化を知らず、ギャルの絵や振る舞いにこめられた含みを読み取れない者にとっては、「能動的な力」は「事物に潜」んだまま現れてこない。オタク文化のコードを知る者は、ギャルの含みをたちまちに読み取って展開し、「能動的な力」を受ける。えここは実際、このような「能動的な力」をはからずも発揮し、多くの同人誌やCGを生み出した。
では、ユーザはどのような経路によって、ギャルの含みを「能動的な力」に変えるのか。
極端かつ乱暴な表現を用いるなら、ユーザは、ギャルの含みをコンセプトにした恋愛シミュレーションゲームを脳内に作り上げてプレイする。あるいは、そのギャルを使った二次創作を脳内で書いて読む。
そうしたゲームあるいは二次創作は、現実に存在する創作物のように、ただひとつの形態をとるものではない。あらゆる無数の可能性が並列に存在し、ユーザはそのすべてを感受する。
だから萌えているユーザは、目の前にある不出来なゲームやまんがを楽しんでいるのではない。自分の脳内に展開された、理想のゲームや二次創作を楽しんでいるのだ。オタク文化を知らず、ギャル作品への信頼もない、したがって萌えのない人間から見れば愚にもつかない駄作に、ハマって萌えまくるユーザがつくのは、このような理由からである。
ギャル作品の作者は、この原理をしっかりと理解し、応用しなければならない。
ギャル作品の作者にとって、現実の作品の出来不出来は二次的なものにすぎない。高めなければならないのは、ユーザの脳内に展開される作品である。
(といっても、現実の作品がいかに不出来であってもかまわない、ということにはならない。不出来な作品はユーザの信頼を得ることができず、信頼なくしては「何ごとも為しえない」)
それには、ユーザがどのように含みを見出して脳内作品を作り出すかを把握しなければならない。そのためには、作者自身があらゆる角度から、あらゆる仕方で萌えてみる必要があるだろう。ブルーノはいう――「想像力を整え、矯正し、整理し、また多種の幻想を意のままに構成できなければならぬ」(『魔術論題集』四八、第三書、四八五頁)