眠い。きゅう。
指定物件候補となるべき物件を思い出した。
・CLAMP「不思議の国の美幸ちゃん」(参?)
・おかざき真理「冬虫夏草」(参?)
コゲどんぼの「ぴたテン」の3巻を読んだ。
幸せってなんっスかー? ぴたテンの新刊が出ることっス、てひひひひ。
L作戦。
HalfDisk 0.2のリリース予定日が近い。あれこれの調整で忙しいなかにも、昔の「月猫通り」の巻頭言の、「火事だ! 火を消せ!」を思い出して、虚ろな笑みを浮かべてみたりする(読み筋:出荷)。
クーデタの日、祝賀の人波が街路を移動し、たがいに喜びの挨拶をかわしていた時、彼等に話しかけられたひとりの老人が、聞きなれない言葉にとまどって、こう尋ねた。
「クーデタって何だ?」
「おじいさん、国王をやっつけたんだ。王制は終わったんだよ。アフガニスタンは良くなるんだ」
しかし、老人はそんな若者達の答えに憤然として顔を上げ、激しく彼等を面罵した。
「それが、どうしたんだ。ただ牛が立って、そこにロバが座っただけだろう」
私はこの話を、当時まだ学生だった友人のひとりに伝えて、意見を求めた。彼は老人の怒りをなかば肯定して、なおかつこう答えた。
「それでもいいんだ。少なくとも今日一日うれしかった」
――佐々木徹「アフガンの四季」9ページ
今日のソ連:
溪内謙の「現代社会主義を考える」、1988年1月発行。
レーニン時代とスターリン時代の連続性と不連続性を中心に、ソ連社会主義の歴史を論じている。
著者は、レーニンをスターリンの前駆体とみなす思考を、「現在を過去に投影している」として厳しく排している。私もこれには深く賛同する。マーチン・メイリア的な歴史観は、あらゆる欺瞞と自己満足と盲目の発信源である。
レーニンには、まともに考える能力があった。たとえば内戦がはじまったとき、レーニンは赤軍に銃殺刑を導入することをためらわなかった。
まともに考えれば、当時の赤軍が銃殺刑なしで動くわけがない。赤軍に頼らずに政権を維持できないことは明白だ。政権を失ったらなにをするのか? 銃殺刑を否定した白い手で、白軍を非難するアピールと論文を書くのか? ボリシェヴィキとその支持者は、そんなことを望んでいるのか? まさか!
「まともに考える」というのは、こうして論理を展開してみれば、ごくわかりきった話にすぎない。しかし、命がけの重圧の下で、百回のうち百回、まともに考えることができるのは、特別な能力の持ち主だけだ。
スターリンには、まともに考える能力が欠けていた。それは1941年6月22日の破局を見れば一目瞭然だ。スターリンはこの能力の欠如を、物真似と猜疑心で補った。適切な決断を行う「まともに考える能力」なしに、その決断の上っ面だけを真似るのが、スターリンのやり方だった。
レーニンとスターリンの思想面での断絶は、もはや論をまたない。スターリンは思想においても物真似に頼った。30年代の粛清は、コピーによるオリジナルの抹殺とみることもできる。オリジナルが存在するかぎり、コピーはオリジナルに隷属させられる。スターリンが物真似人間だったことは、おそらく偶然ではない。
しかし、スターリン時代を招いたのはやはり、レーニンとボリシェヴィキである。
著者は民主集中制の歴史を述べ、分派禁止が非常措置として導入されたことを説明し、「一枚岩主義」はレーニン時代にはなかったものだという。この説明自体は正しい。しかし「非常措置」は、民主集中制のなかにすでに含まれている。民主集中制の前提となった思考、「プロレタリアートの前衛」がそれだ。
ボリシェヴィキのいう「プロレタリアートの前衛」とは、「プロレタリアートの代表」の意味ではない。プロレタリアートの代表なら、プロレタリアートの要求を実現するために努力しなければならない。ボリシェヴィキは、それはプロレタリアートのためにならない、という。プロレタリアートの要求を実現するのではなしに、プロレタリアートのために行動する、とボリシェヴィキはいうのだ。
人の要求を無視しておきながら、その人のために行動する――これが「プロレタリアートの前衛」の論理である。
明らかに、非常措置としてのみ許されうる論理である。この非常措置を前提としたとき、すべての非常措置への扉が開かれた。
大島弓子によれば、「あなたのために」という言葉は、いついかなる時も美しくない。この美的センスを持たなかったことが、レーニンの悲劇のそもそものはじまりだったのかもしれない。
今日のソ連:
袴田茂樹の「深層の社会主義」、1987年4月発行。
1985年秋の時点での東欧とソ連のスナップショットとして興味深い。ゴルバチョフは就任半年にしてすでに「おしゃべり」と言われていたことがわかる。西側でのゴルバチョフの人気に反して、国内では「おしゃべり」と反飲酒闘争が早くもゴルバチョフの人気を低下させていたらしい。
それにしても反飲酒闘争への反発の激しさを聞くにつけ、ロシア人から酒を取り上げたら超大国の一つや二つは軽く滅びるだろう、と納得させられる。おそらく100年後(いやもしかすると現在も)、ロシアの飲んだくれは、ソ連の崩壊をアル中の偉業として称えるだろう。人々がエリツィン政権のでたらめに耐えたのは、エリツィンが飲んだくれだったからに違いない。
ちなみにゴルバチョフは自伝のなかで、ウォッカの深刻な品不足(値上げやプロパガンダよりも品不足が問題だった)は、生産調整の超過達成のためだったと言い訳している。これが本当だとすると、ソ連型経済史上もっとも高くついた超過達成だろう。
最近の新聞に、川端康成の文章を統計的に分析した話があった。
句点(、)の直前の一文字が「て」や「し」である割合を計算して、川端の文章は敗戦を境に変わった、という結論を出した研究である。
密かにノーベル文学賞を狙う私としては、無関心ではいられない(嘘)。そこで私も、自分の書いたもので計算してみた。
私の小説における「て、」の割合は8~12%、「し、」の割合は1.5~2.6%である。少なくとも過去3年間のあいだでは、経時的に変化する傾向は見られない。
眠い。きゅう。
今月のキャンディータイムに、女同士物、しかも実の母娘物を発見した。作者はえびふらい。
一読に値するが、読んだあとは記憶から抹消するほうが精神衛生にいいかもしれない。…はっ、良識が発動している!
今日のソ連:
森村桂の「ソビエトってどんな国」、1983年11月発行。
やるな森村桂、とうならされた。
ソ連の仕組みが手にとるようにわかるとは言いがたいが、ある程度それがわかっている人間が読むと、通り一遍のソ連観を横から補うことができる。ことに、テレビラジオ委員会のミハルコフ氏という人物は、図らずもソ連人の見事な典型像になっている。熊谷独の「モスクワよ、さらば ココム違反事件の背景」とあわせて読むと、いい按配になるだろう。
レーニン廟からレーニンの遺体を撤去すべきかどうかを国民投票にかけたところ、賛成が60%を越えたという。さっさとL作戦を成功させてモスクワに行かなければ。
今月15日の続き。
「徹夜明けの同人作家」には、私も無縁ではない。縁があるというより私そのものだ。実際には私は徹夜しない主義だが、どうやら私の背中には「徹夜明けモード」のスイッチがあって、ちょっと油断しているとジョニーがそれを押すらしい。まだ背後が隙だらけだった頃には、ずいぶんたくさん徹夜明け作品を書いた。
ということは、過去の自分の作品を分析することで、21世紀の百合のイデオロギーが見つかるかもしれない。
…と考えたが、実行しない。私はまだ死にたくない。
今日のソ連:
内村剛介の「ロシア無頼」、1980年5月発行。
前半は、ロシアの伝統的な反社会集団「ロシア無頼」の紹介、後半は平凡な反共本である。
反共本のパートでは、1980年にもなって、「もし日本がソ連に占領されたら」の話をしてくれているのが嬉しい。
L作戦。
Windows Installerがおおよそわかった。
適切なオーサリングツールがあれば、Feature・Component・Directoryの3つを把握するだけで、一応まともなものが作れる。FeatureとComponentをプライマリな要素として扱い、他の要素を二次的に設定してゆく、という形式になるだろう。しかし私にはそんなツールはない。
コメントひとつ使えない世界に、じかに手をつっこむこの感触を、前にもどこかで味わったような気がする。…ハンドアセンブル?
鋼鉄天使くるみ2式の第2話を見た。
前作の印象が残っているせいか、主人公がショタに見えて仕方ない。制作スタッフは、これが百合であるということを、いっそう深く認識する必要があるだろう。
今日のソ連:
木村浩の「現代ソビエトとの対話」、1980年6月発行。
218ページから引用する。
……二十一世紀の、ある中学校の歴史の時間でのこと。先生が生徒に尋ねた。
「ブレジネフとはどんな人物かね?」
「ブレジネフ……。ええと、ブレジネフ、ブレジネフですね……。あっ、そうだ、前世紀の七〇年代に文豪ソルジェニーツィンを国外追放にした小役人です」
さて、どうなることか。
L作戦。
Windows Installerがわかってきた。
設計が悪いような気がする。どこがどう悪いのかは指摘しづらいが(誰でも指摘できるようなミスを犯すほどMSは馬鹿ではない)、ということは、作った奴が馬鹿なのだ。「いやWindowsを作った奴が馬鹿だから仕方なかった」と言われれば、そのとおりという気もするが。
もしかすると、「パソコン」という思想には、根本的な欠陥があるのかもしれない。だが、その欠陥を正そうとするドン・キホーテは、すべて敗れ去るだろう。読者諸氏の目の前の、QWERTYキーボードという巨大かつ明白な欠陥が、それを証明している。
魔法少女について調査している。
私は12歳までアフガニスタンにいたので、魔法少女アニメをまともに見たことがない。魔法少女の派生物なら、CCさくらやセラムンなどを見ているが、本家はまったく縁がない。
というわけで虚心に調査したところ、
・主人公は小学生高学年
・お供の小動物
・毎回違う姿に変身
・決めゼリフ
の4つが揃っていれば魔法少女になるらしい、という結論を得た。
小学生高学年という条件が厳しい。うーむ。
21世紀の百合のイデオロギー探索、今週のお題は「妹」。
「お姉様」と対になるはずの「妹」のほうは、いままであまり注目されてこなかった。シスプリでもやりながら考察を深めたい。
今日の推測:
1.
「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーは、良識ある人間なら、たとえ思いついても0.5秒で記憶から抹消するような発想である。コペルニクスがノートに「楕円」と書いて、それを自分で消したように。
2.
「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーは、徹夜明けの同人作家の脳内で発生・増殖したのではないか?
3. 21世紀の百合のイデオロギーも、良識ある人間が0.5秒で記憶から抹消するために「見えども見えず」の状態にあるのではないか?
4.
私たちは、自分自身の良識、および記憶抹消能力と戦うべきなのではないか?
というわけで、すべての良識を停止し、記憶抹消能力を抑制すべく努力してみる。
・ロリ
男性向けショタの性別をひっくりかえしただけになるような気がするので、あまり有望とは考えなかったが、しかしこの判断に良識が作用している可能性がある。森永みるくでも読んで再検討してみよう。
今日のSTL:
全要素がtrueに初期化されたboolの2次元配列を作る。
typedef vector<bool> v_bool; vector<v_bool> V2(width, v_bool(height, true));
「ココロ図書館」を読んでいて、ふと気づいた。
こころは司書である。ということは、少なくとも二十歳をすぎている。
……こういう考えを無視する能力こそ、私に必要なものなのだろう。
学習指定物件・参考指定物件の選定のため、思いついたときに候補をあげてゆくことにした。
学習指定物件とは、百合を知ろうとする人なら必ず体験すべき物件である。思想に難がなく、作品として水準以上で、入手性の比較的よい、純正な百合物件を選ぶ。参考指定物件は、難点はあっても見所のある物件である。
とりあえず、いま思いつくものから。
・少女革命ウテナ(学)
・あやかし忍伝くの一番(学)
・ココロ図書館(学)
・マリア様がみてる(学)
・大運動会(学?)
・鋼鉄天使くるみ2式(学?)
・映画「乙女の祈り」(学?)
・榛野なな恵「ピエタ」(学?)
・リトル・ウィッチ・パルフェ /
レネット(学?)
・へっぽこくん「ガールズ・ガーデン」(参)
・檻の中のわたし(参)
・ひみつの階段(参)
・プリティ・タフ(参)
・いつか、重なり合う未来へ サユリ編(参)
・お兄さまへ…(参)
・香山暁子「りんご畑の樹の下で」(参)
・マール王国の人形姫(参?)
・KEY THE METAL IDOL(参?)
・美しき獲物たちの学園(参?)
・Deep Purple(参?)
・映画「Show me Love」(参?)
・アトラク=ナクア(参?)
・カサブランカ革命 /
カサブランカ帝国(参?)
・藤田貴美「雪の女王」(参?)
…学習指定物件が10も挙がらないような気が。「入手性のよい」と「純正な百合」という条件が厳しい。
眠い。きゅう。
L作戦。
Windows Installerのドキュメントを見て絶望的な気分に陥っている。なにがなんだかマジでわかんねえぜアニキ… きゅう。
今日のソ連:
袴田茂樹の「ソ連―誤解をとく25の視角」、1987年11月発行。
ソ連人・ソ連社会論の総論として、かなりよくまとまっている。しかし、なにをいうにも薄い本なので、空気や気配といったものには欠ける。
101ページから引用する。「今出ているドストエフスキー30巻全集(発行部数20万)の予約受付けの時を覚えている。寒い雪のモスクワの各書店に、受付け日の10日も前から長蛇の行列ができた」。さすがは文豪ドストエフスキー、さすがは行列の本場ソ連、である。コミケの行列や徹夜組など、まさに児戯に類する。
ソ連を知るにつけ、体制側のソ連文学がまったく翻訳されていないのが惜しまれる。党やコルホーズを賛美する小説は、どこで読めるのだろう。もしかすると、ブレジネフの自伝くらいは翻訳されているかもしれないので、探してみることにしよう。
21世紀の百合のイデオロギー探索、今週のお題は「近親相姦」。
そういえば、松原香織や咲香里やRateは兄妹間の近親相姦物を多く手がけている。もしかすると、女同士物と近親相姦物にはなにか因果関係が存在するのかもしれない。といっても、佐野タカシや亜麻木硅という反例も多いが。
塩野七生の「ローマの街角から」を読んだ。
昔から思っていたが、塩野七生は少々、人が良すぎる。しかし今回、山本七平の名が出てくるのを見て仰天した。
戦後日本を代表する国賊文化人は誰かと問われれば、私は断然、山本七平を挙げる。ただしこれは100パーセントの否定的評価というわけではない。「賊」とまで言うからには、とにかく何事かはやったわけだ。何事かというのはもちろん、日本にとって犯罪的なことを、だが。
思えば、山本七平のような国賊にまともに対処できないことが、保守なるものの最大の弱点であり、それを一言で表現すれば、「お人よし」ということになるのだろう。なるほど、賢そうな人はみな革新を気取るわけだ。保守のお人よしと一緒にされたのではたまらない。
高木信孝+脚本・黒田洋介、「ココロ図書館」の1巻を読んだ。
生きる喜びが詰まった一冊である。読者諸氏も必ずや読まれたい。
今日のソ連:
熊谷独の「モスクワよ、さらば ココム違反事件の背景」、1988年1月発行。
東芝機械のココム事件を、読者諸氏はご記憶だろうか。いや、それ以前に、ココムなるものをご存じだろうか。
かつて西側諸国は、高度な科学技術が東側に渡らないよう、機械類の輸出を制限していた。この制限を行うのが、対共産圏輸出統制委員会、略称ココムである。
東芝機械は、この制限に抵触する、九軸制御のプロペラ切削加工機を輸出した。アメリカの議会では、この機械のせいでソ連の潜水艦の静粛性が向上したと主張され(実際にはほとんど関係なかった)、ジャパン・バッシングに絡んで一騒動あった。著者の熊谷独は、商社の担当者としてこの密輸に携わり、のちに事の次第をココムに通報した。
が、実は、そのあたりのことは比較的どうでもいい。
ソ連――ここにはまさに80年代ソ連がある。ソ連で働いた者だけが知っている、ソ連の空気、ソ連人の生き方が、描き出されている。ソ連マニア必携の一冊といえよう。
今日のソ連:
アレクサンドル・ツィプコの「コミュニズムとの訣別」、1993年発行。著者のツィプコは、ペレストロイカのあいだ党中央委国際部顧問として働いていた哲学者である。
304ページから引用する。
「われわれは鵞鳥がローマを救ったことをよく知っている。しかし、世界の超大国の一つソ連がなぜ滅んだのか、ほとんど誰も知らない。私自身は、連邦が滅亡したのは、不幸にもその最後の指導者が自分の論文を発表するのを好んだせいでもあるという結論に達しつつある」
著者は、ゴルバチョフの論文や演説が、言語表現としては常にひどいものだったと論じている。しかも、長い演説に情熱を燃やしていたと。
「ゴルバチョフ回想録」の全文が読めるのは日本語版だけだという。英語版はもとよりロシア語版でも、落とした部分があるらしい。不思議な話のようだが、日本語版を読めば納得できる。ラオス共産党書記長についての思い出話を、ミハイル・S・ゴルバチョフから聞きたいと思う人は、ラオス人を除けば、たぶん世界中に5人くらいしかいない。
より大きな問題は、著者の愛国主義についての理解である。
ゴルバチョフは愛国主義を動員して危機を打開すべきだった、と著者は論じている。が、アレクサンドル・ヤコブレフの言葉を、216ページから引用する。
「普通には愛国主義は、もっとも神聖な観念のひとつ、自分の民族への忠誠心を反映するもっとも顕著な特徴とみなされている。しかし、あらゆる時代のあらゆる民族の傑出した思想家・人文主義者たちは、なぜ愛国主義にあんなに用心深く対処してきたのだろうか。なぜレフ・トルストイは、愛国主義の破滅的本質について、『愛国主義、それはならず者たちの最後の避難所である』というイギリス人サミュエル・ジョンソンの言葉を引いて、あんな辛辣なことを書いたのだろうか。
それはおそらく、当時も現在も、多くのいわゆる愛国主義思想の基盤に、自民族と他民族へのルンペン・ショービニズム的なとらえ方があるからだろう。どこでもいつの時代にも、そうした思想の土台になっているのは、自民族の特徴を理想化して、不幸や失敗はすべて外敵のせいにしようとする態度である」
なにひとつ付け加える必要のない、完全な理解だと思う。
マルクス主義(正確にはマルクス・レーニン主義だろうが、ここは本の表記に従う)には、倫理の点で致命的な欠陥がある、と著者はいう。まったく同じことが愛国主義についてもいえる。
マルクス主義は、倫理的基盤を拒否した。愛国主義には、倫理的基盤が最初から存在しない。マルクス主義の上にはスターリンとクメール・ルージュが乗り、愛国主義の上にはヒトラーと文革が乗る。どちらも、一切を可能にする梃子の支点なのだ。「健全な愛国主義」は、「健全なマルクス主義」と同じくらい、血にまみれている。
L作戦。
IBM-DTLA-307030のジオメトリ測定がようやく終了した。うーむ。
20世紀作戦を小Jの小説道場に送った。
今回は基本に忠実な話なので、評価はあまり高くないと予想している。
L作戦。
IBM-DTLA-307030のジオメトリ測定が、48時間経過しても終わらない。きゅう。
今野緒雪の「マリア様がみてる いとしき歳月」の後編を読んだ。
百合テイストとはなにか、という問題について考えさせられた。もしかするとそれは誤読のなかにしか存在しないのかもしれない。うーむ。
あらすじは永遠の敵だ。
私に言わせれば、あらすじとは、原子力発電所を400字(800字でも4000字でも同じことだ)で説明しろというのに等しい。いったい400字で原発のなにが説明できるのか。
原発を作った人間が原発のすべてを理解していると思ったら大間違いだ、とも言いたい。およそ人間が作って使うものはすべて、作ったあとで理解する部分がきわめて多い。
というわけで、20世紀作戦のあらすじを書くのには4時間かかった。もちろん出来栄えには不満たらたらである。百合のイデオロギーをアジるだけの400字のほうがまだ実物に近いだろう。
それにしても、主人公の名前を忍としたのはやや失敗だった。性別不明の名前なので、あらすじを見ただけでは百合とはわからないではないか。
L作戦。
インストーラパッケージ(.msiファイル)を作ればいよいよアルファ版のリリースなので、IBM-DTLA-307030のジオメトリを測定しはじめたところ、24時間経っても終わらない。さすがにキャッシュ2MBは一味違う。
さて問題は、21世紀の百合のイデオロギーである。
やおい・ボーイズラブにおける「強姦されてハッピーエンド」にあたる役割を果たすイデオロギーを、百合はいままさに必要としている。
漠然と考えていても効率が悪そうなので、毎週お題を決めることにした。今週のお題は、「許婚」。