中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2001年7月

7月31日

 どこの誰かはわからないが、さるプロヴォカートルの英雄的な働きにより、公立中学での「つくる会」歴史教科書の採用は沙汰止みになった。
 この一件は、挑発が見事に決まったお手本として、政治工作の世界に長く語り継がれるだろう。まことにめでたい。

7月30日

 ドナルドダック作戦。
 キャプチャして使う画面を探すために、ウテナのDVDをところどころ見ている。放映以来のことだから、4年ぶりになる。
 4年――私が百合を志してから、ウテナが放映を開始するまでの時間と、ほぼ同じだ。
 ウテナの前も後も、ほんの少しでもウテナ的なものを書こうとしたことは、一度もない。単に、不可能だからだ。
 私には不可能なことがたくさんある。音楽に関することはなにもできないし、名うての女たらしになることもできない。どちらも、才能からして不可能なうえに、そうしようとする意志がない。ウテナ的なものを書くことも、こうした種類の不可能に属する。不可能なのは、残念ではあっても、そのために困ったり苦しんだりはしない。
 けれど、4年ぶりに見たウテナは、私を苦しめた。

7月29日

 小島あきらの「まほらば」(エニックス)1巻を、少しだけ読んだ。
 まだ21世紀が実感できないという向きは、この作品の、口絵カラーだけでもいいから見るべきだ。自分がいま21世紀にいることの意味を、革命的なまでの激しさで悟るだろう。
 20世紀には、パクリというのは、「猪名川みたいなの」「マルチみたいなの」という意味だった。21世紀には、「猪名川そのもの」「マルチそのもの」までゆかなければ止まらない。
 「そのもの」――20世紀人には、この言葉の真の意味がわからないだろう。私も、現にこの目で見るまではわからなかったはずだ。

7月27日

 ドナルドダック作戦。
 (ウテナ風に)………ねえ………新刊って……なん…ですか?

7月26日

 「マリア様がみてる チェリーブロッサム」が出た。このくそ忙しいときに…

 今週の「NOIR」も萌えた。クロエに霧香を奪われそうで焦るミレイユ。まったくもって素晴らしい。

7月25日

 ドナルドダック作戦。
 ビデオ資料をキャプチャして取り込んでいる(「百合すと2」は図版入り)。が、ビデオデッキの特性が悪くて苦戦している。補正の基準が目しかないのだ。さらに、キャプチャボード(WinTV PVR for PCI)の特性もまったく信用できない。
 カラーバージェネレータと、カラーバーを記録したテープが欲しい。きゅう。

7月24日

 百合論を一応書き終えたが、どうもバランスが悪い。「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーの分析が、あとにつながってこない。うーむ。

7月23日

 新刊…

7月22日

 部屋を片付けた。きゅう。

7月21日

 イギリスかどこかの小説に、「スミス艦長物語」という、海軍物のシリーズがある。時は第一次世界大戦後半、ニヒルで果敢でアウトサイダーな主人公が戦功をたてて出世してゆく、という筋書きである。
 筋書きだけ見るとなんの変哲もないが、実はこのシリーズ、やおい回路を猛烈に刺激する。主人公の見事な受っぷりは筆舌に尽くしがたく、実際に読めとしか言いようがない。作者は元海軍軍人のようなので、まさかスラッシュ・フィクション作家ということはないだろう。現代日本では得がたい、まっさらな天然物で最高級のやおい元ネタなのである。
 (とはいえ油断はできない。19世紀イギリスで人気のあった軍隊物シリーズの作者が、実は女だった、という実例もある)
 ひるがえって、百合回路をこれほど猛烈に刺激する天然物があるかと考えてみると、どうも思いつかない。うーむ。

 「プラネット・ライカ」で詰まっている。
 第4の予言まで手に入れ、アガタに「どこか別のところから悪夢に入れ」と言われているのが現在の状態である。なにをすればいいのか、もはや思いつかない。きゅう。

7月20日

 花見沢Q太郎の新刊、「電動侍」収録の「コスモス」を読んだ。
 もしあなたがいま、女同士物のエロまんがを描こうとしており、しかし具体的にはどうすればいいかわからないのなら、これを読むといい。いや、わかっていても読めと言いたい。女同士物の原則を見失っている作品が多すぎる。

7月19日

 夏コミの原稿を書いている。
 印刷… もうオフセは間に合わない。きゅう。

 SCILABを使うのはあきらめた。この手のものはライブラリが命だが、私の要るライブラリがどこにあるのかわからない。MATLABのライセンス料は伊達に高いわけではないらしい。

7月18日

 今週の「モーニング」の時代劇物(タイトル失念)、うーむ… 脇筋に百合、なのだろうか。

 数値計算パッケージのSCILABを試してみたところ、21世紀にもなってASCIIベースオンリーのインターフェースに苛々させられている。上付き文字(x2の2のこと)が、ひとつ上の行に表示されるのだ。
 作業出力だけならまだしも、ヘルプがASCIIとなると絶望的だ。"Given values fi of a function f at given points xi (fi=f(xi)) this primitive computes a third order spline function S which interpolates the function f."――頭がくらくらする。"Given values fi of a function F at given points xi (fi = F(xi)) this primitive computes a third order spline function S which interpolates the function F."とするだけでも、どれほどわかりやすいか。よい表記法の重要さを思い知らされる体験である。
 で、調べてみると、よりによってSCILABの一番弱いところを踏み抜いたような気が。bicubic splineは、どこに行けば取ってこれるのやら。

7月16日

 PSのゲーム「プラネット・ライカ」をやっている。
 なんだか凄い。とにかく凄い。レッツ・電波エンターテイメント。

7月15日

 ドナルドダック作戦。
 強力なイデオロギーの必要十分条件は、「信奉者をラクにすること」と「他のイデオロギーと相互支援すること」のほかにもう一つ、「発展の歴史を持つこと」の3つである、という結論に至った。

7月14日

 栃木市とその不愉快な仲間たちが、「つくる会」歴史教科書の採択をほぼ決めたという。
 足尾鉱毒事件と田中正造の名前は、栃木では今でも風化していない、と聞く。といっても、田中正造が英雄視されているのではない、まったく逆だ――強烈なタブーだという。
 足尾鉱毒事件をわずか4行で片付けている教科書が、ほかにあるとは思えないので、採択にあたっては、このへんの事情が強く働いたのだろう。
 ……と周辺諸国に言い訳すれば、いくらか事態が和らぐかもしれない。

 昨日の予想は、かなりナンセンスというか、私の期待したようなものは手に入らない道理だった。仕方ない、全部ハードコーディングしよう。

7月13日

 暑い。
 夜、屋根があって冷房のないところにいると、頭寒足熱の逆を体験できる。健康に悪いことこの上ない。

 今日の予想:
 数式をパースして、C++から関数として叩けるようにするソフトは、フリーで存在するか?(はい/いいえ)
 「はい」に賭けた私は、探索の旅に出るのであった。

7月12日

 今週の「NOIR」。
 戦闘は退屈と聞いていたが、実際そのとおりだった。百合はまだか。
 黒服の皆様は、命がけで働いているはずなのに、眠たそうな仕事ぶりである。とりあえず、武器らしい武器くらい上に要求することをお勧めする。

 ドナルドダック作戦。
 強力なイデオロギーの必要十分条件は、「信奉者をラクにすること」と「他のイデオロギーと相互支援すること」の2点で正しいかどうかを検討している。
 「ラクにすること」のカバーする範囲がやや広すぎるような気もする。かといって、「現実を理想化するためには、なにを無視すればいいかを教える」などと展開すると長すぎる。うーむ。

 L作戦。
 ドライバのデバッグとチューニングを完了した。次はAAHDDを更新して、makehgtと統合する。その次はインストーラをもっとまともに… 先が長い。

7月11日

 アキバを散歩したら、ソニーの新しい18.1インチ液晶モニタを見て、驚いた。
 従来のものよりはるかに上下の視差が小さい。それでいて18万円弱である。液晶パネルの世代が1つ新しいかどうかするのだろう。18万円でモニタを探しているなら、必ずチェックすべきだ。

 ドナルドダック作戦。
 「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーを批判しても仕方ない、と考えを変えた。滅びゆく人々を叩いても始まらない。

7月8日

 「百合すと2」の制作作業を「ドナルドダック作戦」と命名、開始した。
 とりあえずイデオロギー論から書いている。題して、「百合者宣言」。が、途中まで書いてみると、先に感情移入システム論を独立して論じておくことが必要とわかった。
 Xイデオロギーはまだ見つからないので、目的を、「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーの批判に絞る。「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーを自省なくしては読めないようにすることが目標である。

7月7日

 氷室冴子の「クララ白書」の1巻(文庫新装版)を読んでいる。
 昔読んだときにはわからなかったが、図式的な感じを強く受ける。これはここをカバーしていて、これはこれを準備していて、という意図が手に取るように見える。だからといって悪いわけではない、たとえば、パール・バックの「大地」もきわめて図式的だ。
 思えば、現在の百合のセンスはこの種の、作為的な作戦構想のセンスと関係があるのかもしれない。Xイデオロギーは、作為的な作戦構想なしに百合を作ることを可能にするべきだろう。イデオロギーの諸々の公理が、作戦構想を単純にし、作者の主意主義が入り込む余地を作る。

7月5日

 またあらすじを書かなければならない。どうせ無駄だというのに。
 コバルト・ノベル大賞…ではなく、集英社ノベル大賞である。投入するのは20世紀作戦。一次を通ったら奇跡だ。
 …と思ったが、トンネル効果が生じる確率を計算してみたら、奇跡というほどでもない(おそらく1~5%程度)。あーたーれー。でも二次で蹴られる。

 L作戦。
 C++への転換を終えた。あとはちょっとデバッグして動作確認すればいい。
 思ったとおり、C++だとすべてがとてつもなく単純に書ける。不用意に用いればデメリットがあるが、なにを避けるべきかがわからないようでは、Windows2000のドライバは書けない。Windows2000のドライバ開発は、C++でやるべきだ。

7月4日

 「芸術」や「文化」という言葉は通常、なにかの言い訳か、金を無心するときに使われる。
 「グリーナウェイは答えた――映画は文化であり、文化なぞというものはレヴェルが高ければ高いだけ、パトロナージュなしでは成り立たない。」(佐藤亜紀「陽気な黙示録」(岩波書店)83ページより抜粋)。要するにグリーナウェイは、パトロナージュに金を無心しているわけだ。
 言い訳の例としては、「ポルノは芸術である」というテーゼを挙げれば事足りるだろう。ポルノが芸術かどうかには議論の余地があるだろうが、このテーゼ自体が言い訳であることには議論の余地はない。
 なにかを言い訳したり、金を無心したりする必要がないものは、芸術や文化である必要がない。以前には通俗上等を気取っていた連中が、取ってつけたように芸術だの文化だのと言い出すのは、調子がおかしくなったときと相場が決まっている。
 ある人々は、芸術や文化に生まれつく。それが価値あるものだからではなく、そう生まれついたがゆえに、そうせざるをえない。ほんの一握りの芸術貴族――まるで党幹部が共産主義ではなく党員に生まれついたように、芸術ではなく芸術家に生まれついた連中――を除いて、言い訳と無心の旅が、果てしなく続く。
 芸術や文化でないものを作る人は幸せである。香織派の目指す百合も、そういう幸せなものでありたい。

7月3日

 今日のソ連:
 ゲイル・シーヒーの「ゴルバチョフ」、1991年12月発行。底本は1990年発行。
 驚くべき本である。
 「ゴルバチョフ回想録」はこの本の出版後に書かれたが、この本で指摘されているゴルバチョフの泣き所や暗部の数々について、ほとんどなんの弁明もしていない。「食糧プログラム」の失敗について弱々しい弁解をしているにすぎない。弁明のしようがなかったのだろう。「ゴルバチョフ回想録」を読む上で必須の一冊といえる。
 1990年3月末の時点での、ヤコブレフの補佐官の言葉を、454ページから引用する。

 「一九八五年には、あらゆることが非常に明瞭だった。自由を宣言し、人権を宣言し、あなたがたは自由な人間なのだとみんなに申し渡す。それは一つのゴールを目指すかに見えた――新しい人間を創り出すという。レーニンが同じことをした。そして私たちはレーニンの設計したその人間像を引き継いだのだ」。沈んだ笑いが彼の喉から漏れた。「怠け者で、自主性がなく、それでいて大変に攻撃好きな」。彼は精神的なプロパガンダに対する観念そのものを嘲笑しているのだった。「新しい、改良された人間性を創り出すことなんて、しょせんできはしないのだ」

7月2日

 9作戦は現在40枚。とっとと終わらせて「百合すと2」に入らなければ。

 学習指定/参考指定物件で、なにか忘れていると思ったら、森奈津子を忘れていた。
 が、入手性に優れた純正な百合物件が思いつかない。うーむ。

7月1日

 OAVの「まじかるカナン」の1巻を見た。
 努力は大いに認めよう。空回りしているわけでもないと思う。が、どこか根本的なところで間違っている。

 

今月の標語:

 ゴルバチョフはしっかりした道徳観を持って大学にやってきたのでしょうか、と私はしつこく尋ねた。道徳観というのは、人間が社会においてお互いにどうふるまうべきかという観念のことですけれど。
 リーベルマンは私を叱責した。「あなたは秩序をみだす」。
――ゲイル・シーヒー「ゴルバチョフ」93ページ

 

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