中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2002年11月30日

ゾンド作戦

 金光桂子のD論「『我身にたどる姫君』の研究」を読んだ。引き続き「我身~」本文の巻六にかかっている。

 なにを言うにも登場人物の多い話なので、誰が誰だかさっぱり区別がついていない。メタ好きナチュラル炸裂の本文はいいから設定ノートのほうをよこせ、と作者に言いたくなる。

マリみて註釈第23回

 『ロサ・カニーナ』(初版第1刷)から。

98ページ:

 「(中略)幸い、私には妹がいない。現在の白薔薇さまロサ・ギガンテイアが卒業なさった後、私はあなたを妹として迎えるつもりよ」

 「静さまは、志摩子さんのことを好きだったんですか?」

 姉の卒業による姉妹スール関係の消滅にかかわる問題の扱いが、このくだりから読み取れる。

 まず、姉の卒業によって姉妹関係は消滅するものと前提されている。第3回でみたように、マリみてにおける「姉妹スール」という制度の内実は、その起源から程遠いものだ。なのに、リリアン女学園高等部という枠は、ひどく確かなものとして起源から受け継がれている。

 次に、姉の卒業後の妹と姉妹関係を結ぶことが、なんら問題視されていない。もし姉妹関係が、両者の個人的な絆として理解されているのなら、このような発言は出てきようがない。

128~129ページ:聖と静

 マリみて初のキスシーンである。

 この直後に聖は、覗き見していた祐巳を現行犯で押さえる。聖の行動パターンからして(第5回・第10回)、このキスシーンの聖は、祐巳に見られていることに影響を受けていることは確実と考えられる。

11月29日

 廃屋譚さんから、マリみての小笠原祥子のイラストをいただいた。

 

 今月の電撃G'sマガジン等で、ハピレスTVアニメの第2期放映が発表された。

 スケベ帝国主義の打倒はもはや、それが起こるかどうかの問題ではなく、いつ起こるかの問題である。

マリみて註釈第22回

 『ロサ・カニーナ』(初版第1刷)から。

76ページ:

 「(中略)……私、あまり他人のデータをもっていなくって。薔薇さま方の名前だって、近頃ようやくと覚えたところだし。由乃さんと令さまが従姉妹だって知ったのも、『黄薔薇革命』の頃で。(中略)」

77ページ:

 「でも、祐巳さんの場合、小笠原祥子さんだけは特別だったのでしょう?」

 「小笠原祥子さんだけは特別だった」と考えるべき根拠を、静はいったいどこから得たのか。祐巳の周辺に情報源があると考えるほかない。

 祐巳の周辺の情報源が、じかに静とつながっている必然性はない。単なる噂話として静のもとに到達した可能性も考えられる。いずれにせよ静は、「あまり他人のデータをもっていな」い祐巳と対照的に、情報収集に長けている。

 情報収集という面で祐巳と静の対比を際立たせるこの場面で、しかし祐巳自身は、静と自分の対比に気づかない。

11月28日

 女同士物のエロまんがのアンソロジー、「LOVEゆり組」を読んだ。エロまんが界の総戦力の5%、といったところか。

 とはいっても、日々の糧を得るためのルーチンワークの着実な仕事としてやっていては、100%どころか50%を出すこともできない。まともな女同士物を描ける作家を全員集めても、やっと一冊の本ができるかどうか、というのがエロまんが界の現状である。

 

 エニックスとスクウェアが合併ですかそうですか、新社名は「セガバンダイ」ですか(一部嘘)、などとつぶやきながら、「2002 CESA ゲーム白書」を読んだ。なお以下の話はすべて国内市場の話である。

 さんざんゲーム業界の危機を吹き込まれていたので、よほど悪いのかと思っていたら、不況とADSLのダブルパンチを受けているとは思えないほどの大善戦である。ハリウッド式・「FF the Movie」式の大作主義路線をやめ、資金や営業的要素(派手なビジュアル等)で人目を引こうとする根性を捨て、多様性と思想によって顧客をつかむ方向に注力すれば、まったく問題ない。

 プレステ2で鉄壁となったSCEに対して、なぜ任天堂があえてゲームキューブを出してきたのか、データからはまったく読み取れない。

 まず、1999年・2000年のどちらも、N64のソフト売上総額は、ドリキャスのそれを下回っている。それどころか2001年、N64とゲームキューブのソフト売上総額の合計でさえ、ドリキャスのそれを下回っている。任天堂の据置ハードはすでに、ドリキャスよりも苦しい状況にあるのだ。ドリキャスよりも自社ソフトの割合が多いのと、海外の地盤が堅いのとで、ぎりぎり沈まずにいる、というところだろう。

 さらに悪いことに、2001年の任天堂の据置ハード+ソフトの売上高は、1999年のレベルに回復していない。ゲームキューブの投入は、市場の目をひきつけることができなかった、とみるしかない。

11月27日

マリみて註釈第21回

 『ロサ・カニーナ』(初版第1刷)から。

25ページ:

 つぼみブウトンは無条件で薔薇さまになれるわけではない、っていうことだ。そりゃ、リリアン女学園があるここ、日本という国は民主主義なわけだし。生徒会長を選ぶのに、国民ともいうべき生徒の意見っていうのが全然反映しないとしたら、それはやっぱり変だけど。

 生徒会の名称を「山百合会」としているリリアン女学園高等部では、「生徒会長」は「山百合会長」のほうが適切ではないかと思われる。些細なことのように見えるが、このために「山百合会」という言葉が宙に浮いていることは見逃せない。

35ページ:

 その人はニッコリと笑った。見覚えはない。雰囲気からして、多分上級生だろう。第一印象は「涼しそう」って感じ。直線に切り揃えられた短い髪のせいで首が寒そうに見えるからか、単に顔立ちの問題なのか。涼しそうと表現したけれど、それだけじゃなくて非常にきれいな人でもあった。

 ロサ・カニーナの描写である。

 首が長いとも書いていなければ、肩が華奢とも書かれておらず、とにかく身体に関する描写が一言もない。

11月26日

マリみて註釈第20回

 『いばらの森』(初版第1刷)から。なお次回からは『ロサ・カニーナ』である。

243ページ:

 「私は別に孫の顔を見ることだけが生き甲斐の、情けないお婆ちゃんじゃないの。あなたの後に誰が白薔薇ロサ・ギガンテイアを継ごうがどうでもいいわ。それより、約束を違えないでちょうだい。あなたは私が卒業するまでは、ちゃんと私の側にいるのよ」

 聖のグラン・スールのセリフは少ないが、印象深い。これなどは、マリみて全編でも屈指の百合的なセリフである。

263ページ:

 時計嫌いの私が今日は腕時計をして、~

 祐巳の視点からは、聖はいつも飄々としているが、「白き花びら」全編に漂う雰囲気からわかるように、実は神経質なところがある。なかでも「時計嫌い」は象徴的なので、ここに取り上げた。

11月25日

 23日の続き。

 弱者の特権性、ニーチェ、革命――この三つ巴の構造のなかに、少年愛まんが・JUNE・やおい・ボーイズラブはどう位置付けられるかを検討してみた。

 やおい・ボーイズラブに特徴的な「強姦されてハッピーエンド」はもちろん弱者の特権性そのものである。しかし、少年愛まんが・JUNEにみられる、犠牲者が生き残ろうとする物語はどうか。それはある意味で、「強姦されてハッピーエンド」の対極にあるものだ。

 検討の末、「緊急避難」という概念を導入することにした。

 中島梓先生のJUNE論はすべて、緊急避難としてのJUNEの擁護である。JUNE少女たちにとってJUNEは、手の届く範囲にあってただちに利用できる手段であり、彼女たちが抱える衝動はあまりにも切迫していたので、JUNEという手段が最善かどうかを検討するような余裕はなかった、と。

 そこには、「JUNEの理念」というようなものはない。もしかするとそれは、「やおい」という語の言霊かもしれない――「やまなし、おちなし、いみなし」、それはまさに理念の欠落の宣言にほかならない。

 そして、理念の欠落のゆえにこそ、犠牲者が生き残ろうとする物語は「強姦されてハッピーエンド」に変質せざるをえなかった。緊急避難は、その場をしのぐだけのものでしかなかった。後付け的に理念が生じることはなかった。その痛ましい挫折の証言としてなら、西村マリの「アニパロとヤオイ」にもなんらかの意義があるかもしれない。

11月24日

 巷で話題のTVアニメ、キングゲイナーを11話まで見た。

 鉄道が萌えない。

 シベリア鉄道を――そう、鉄道の横綱・シベリア鉄道を、装甲列車! 装甲列車が走る! 萌え! スクール水着の上にエプロンを着て裸エプロンごっこをするがごとき極上の萌え!  喝!

 ……のはずなのに、キングゲイナーに出てくる鉄道も装甲列車も、まったく萌えない。それもヘボいという段ではなく、青木雄二がマルチ(HMX-12)を描くがごとき萌えなさ加減である。宮崎駿の爪の垢でも煎じて飲め、である。

 ただし作品自体はかなり面白い。プリティサミーに挑戦できる作品が、久々に現れたようだ。

マリみて註釈第19回

 『いばらの森』(初版第1刷)から。

220ページ:

 「偶然廊下で会ったから、一緒に来ちゃった。祥子ちゃんは日本人形みたいにきれいだから、ついつい構いたくなっちゃうの」

 お姉さまの言うとおり、祥子は誰の目から見ても間違いなく美少女といえる容姿を備えていた。~

 聖のグラン・スールの第一声である。

 「日本人形みたい」という表現に注目したい。「構いたくなっちゃう」ことと「日本人形みたい」であることのあいだには、因果関係は認められない。「日本人形みたい」は「きれい」を修飾するだけで、あとは論理のつながりから外れてしまう。つまり、聖の姉は、このセリフ中で「日本人形みたい」と言う必然性はない。

 すると、「日本人形みたい」はどこから出てきたのか。「日本人形みたい」ではない「きれい」の存在を想定してのことと考えるほかない。

 この想定対象がすぐに示されるのは、フィクションならではの進行である。

221ページ:

 「バタ臭い顔で申し訳ありません、お姉さま」

 この註釈は、マリみてにおける身体の描写を執拗に取り上げてきた。いまや、こう論じてもいいだろう――マリみてにおいて身体は原則として、美を備えるだけであり、個性を排除する傾向がある。

 肌の白さは直接的に美を示すので、由乃と栞がそれを描写される。一方、浅黒い肌や赤みがちな肌といったものは描写されない。背の高さについて具体的な描写が一言もないのは、それが直接的に美を示さないからではないか。髪の描写がしばしば、その人の美しさの描写に使われるのは、髪が加工可能であり、身体よりも大きな柔軟さを持つからではないか。

 この前提に立って「日本人形みたい」というセリフを評価すると、これがマリみての原則を破るものであることがわかる。「日本人形みたい」であることと美は直接的には結びつかず、個性とより強く結びつく。

 聖の姉が、マリみての原則を破るセリフを第一声で吐いたことには、見逃せない意義がある。

11月23日

 弱者の特権性(6月22日・8月3日の日記参照)とニーチェと革命は、相互に拮抗しあっているのではないか、という仮説を立てた。

 はじめに被抑圧者がいる。被抑圧者として生まれつく人間はいないので、被抑圧者は己の立場を不当なものと感じる。この不当さに対して、3つの解決策がある。

 被抑圧者になんらかの特権(権力ではないところに注意)を与えて、そこに安住させる。古くは「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通るほうがまだ易しい」から、現在では「強姦されてハッピーエンド」まで、この解決策はさまざまなバリエーションをとりながら人類に愛用されつづけている。

 3つの解決策のうち、現在の日本でもっとも強力なのはこれである。生命の危険や肉体的苦痛がない場合、これがもっとも楽な策だからだ。

 被抑圧者は、己ひとりの状況を改善して抑圧を取り除けば、もはや被抑圧者ではなくなり、問題は解決される。たとえば近世の改宗ユダヤ人は、改宗によって状況を改善しようとした人々である。

 が、人間には知性があるので、より包括的な解決を求める人々もいる。己が被抑圧者でなくなっても、抑圧―被抑圧の構造からは逃れられないからだ。たとえば、歴史の教えるところによれば、改宗ユダヤ人はしばしば、ユダヤ人迫害の急先鋒を務めた。

 革命は、社会構造を変革することで抑圧―被抑圧の構造を廃することを目指す。この解決策は、平時には評判が悪いが、ひとたび革命情勢が訪れると熱狂的に支持される。

 弱者の特権性が道徳を乗っ取って「奴隷道徳」を生み出し、さらには、被抑圧者でない者までが弱者ぶって特権性を享受するようになったのがキリスト教世界の歴史である。弱者ぶった奴らは超ムカつくから全員ぶち殺す。よい子は弱者の特権性になど目もくれず、強く、享楽的で、人間的魅力を放ち、誇り高くあるべし――とニーチェは説いた。

 現在の日本では、これは具体的には、「モテるよう努力しろ」「モテる者の鑑であれ」というメッセージになる。常に一定の支持を集めるが、道徳を乗っ取られた歴史が示すように、弱者の特権性には勝てない。

 

 まず、弱者の特権性と革命は拮抗関係にある。被抑圧者が弱者の特権性に安住していては、革命に立ち上がる民衆など湧いてきようがない。

 ニーチェは直接に弱者の特権性、それも弱者ぶりっこを問題にし、排撃している。しかしニーチェの対案は、「強者たれ」であり、強者には革命など必要ない、抑圧―被抑圧の構造を問題にすること自体がアウト、ということになる。

 というわけで、弱者の特権性とニーチェと革命は、それぞれ支持率を競う拮抗関係にある。革命を訴える私としては、弱者の特権性とニーチェの両方に対抗しなければならない、というわけだ。うーむ。

11月22日

マリみて註釈第18回

 『いばらの森』(初版第1刷)から。

211ページ:

 こんな風に澄ました顔をしているけれど、ここで待ちかまえて、学園に入ってくる生徒たちを可とか不可とか選別しているに違いない。

 こういう文章を見ると、予定救済説はよくできた説だと改めて思う。

 それはともかく、この一文から始まるくだりに、この時点での聖の宗教観が窺える。聖は、キリスト教を葬式仏教の変種としか受け取れない人間ではない。幼稚舎からリリアン女学園に通いながら、「救い」や「(聖母マリアの)慈悲」の観念を徹底的に拒否し、キリスト教の一切を抑圧機構として見る姿勢を打ち出しているのだ。稀有な個性である。

214ページ:

~リリアン女学園高等部の制服を着ていて、真っ直ぐな髪は腰にかかるほど長い。最初に感じたほど肌の色が白いというわけでもなかった。

 栞の身体の描写である。

 ここでもまた、背の高さや体格については沈黙している。肌の白さの描写は、由乃のもの(第7回参照)に次いで2度目である。

11月21日

 大木雅夫の「比較法講義」を読んだ。

 ソ連の司法制度について書いてあったので読んでみた。一般書ではなかなかお目にかかれない記述なので有難味のある本だが、内務人民委員部のことを書いていないのでは有難味も半減である。

マリみて註釈第17回

 『いばらの森』(初版第1刷)から。

181ページ:

 「あれはね、新聞沙汰になったほどの事件だったのに、皮肉なもので戦争のおかげで忘れられたの」

 この一文は、全体の整合性を得るために、やや特殊な解釈が必要とされる。

 まず、戦時中には、須加星の事件は新聞に載らない。1937年に日中戦争が始まったときにはすでに「時局」が叫ばれ、言論統制が厳しくなり、退廃的で戦意高揚につながらないニュースは極力抑えるようになっていた。「津山三十人殺し」が発生当時には報道されなかったことはよく知られている。須加星の事件のような、いたずらに人の心を惑わすばかりでなんの公共性もないニュースが報道されることは、絶対にありえない。となると、遅くとも日中戦争勃発以前という意味の「戦前」に限られる。

 たとえ戦前であっても、官憲に睨まれることを常に恐れて、公共性という大義名分の確保に努めていたのが当時の報道である。女学生の心中未遂のようなニュースを取り上げるとなると、昭和一桁まで遡る必要があるかもしれない。そうなると須加星は80歳を越してしまう。新人作家の年齢が60歳と80歳とでは、後者のほうが格段に考えにくい。

 先述したとおり、戦前の高等女学校には三薔薇ファミリーは存在しえない。たとえ名前だけは同じ集団があったとしても、その機能や権威のありかたは、まったく異なるものにならざるをえない。戦前のリリアン女学園が、三薔薇ファミリーが存在しうるような特殊な校風を持っていたと想定しうる根拠は、現在までのところ、この一文のみである。

 もし須加星の事件を戦前と想定すると、これだけの難点が積み上がる。が、もし「戦争のおかげで」を「戦争による混乱のおかげで」と解釈し、須加星の事件を戦後と想定すれば、これらの難点をすべて避けられる。

 サンフランシスコ講和条約が結ばれたのは1952年、朝鮮戦争の休戦が1953年。戦後の混乱がようやく収まって神武景気を準備していたのが1952~55年という時期である。京極夏彦の京極堂シリーズもちょうどこの時期を舞台にしている。「戦争」を引き合いに出すこと自体は不自然ではない。

11月20日

マリみて註釈第16回

 『いばらの森』(初版第1刷)から。

141ページ:

 (うーん、ジーパン姿の令さまも、なかなか格好いい)

 お尻の位置が高くて、足がスラッと長くって。しかし制服でもナニな令さま、こうなるともう完全に男にしか見えない。

 身体の描写である。

123ページ:

 「ただの偶然にしては、小説中に出てくる学園、リリアン女学園にあまりにもそっくりですもの。うちの学校の生徒か、関係者が書いたに違いありません」

168ページ:

~近くで見ると結構なお年のご婦人だった。

169ページ:

 ちょうどお祖母ちゃんくらいの年代かな、って祐巳は思った。

178ページ:

~たぶん六十から八十までには間違いなく含まれると思うけれど、お洒落で上品なお婆ちゃん。

 須加星がいつ在学しており、事件がいつ起こったのかを推測してみる。

 まず、当時のリリアン女学園はすでに、現在のリリアンと「あまりにもそっくり」だった。しかし、なにが「そっくり」なのかについては、なにも描写されていない。山百合会のけったいな風習、三薔薇ファミリーの有無さえも述べられていない。

 だが、聖の学校生活を三薔薇ファミリーと切り離して考えるのは、あまりにも難しい。逆に、三薔薇ファミリーのようなものが登場すれば、ただちに「これはリリアンだ」と思い込むだろう。須加星の小説中には、三薔薇ファミリーに相当するものが登場すると考えるのが妥当である。

 戦前の女学生のメンタリティーからして、三薔薇ファミリーに似た機能と権威と人気を兼ね備えた集団があったと考えることは難しい。機能によって脚光を浴びることは、けっして尊敬や人気には結びつかないのが戦前の女学生のメンタリティーだった。たとえば吉屋信子『女の友情』では、もっとも積極的に行動し運命を切り開くのは初枝だが、読者の支持を集めたのは、鬱々としているのが仕事のような由紀子と綾乃である。もし戦前の女学校に、三薔薇ファミリーに似た機能を持つ集団があれば、ほとんどの生徒からは敬遠されただろう。

 事件は少なくとも敗戦後、それもおそらくは新制高校が始まった1948年以降であると考えるのが妥当である。軍国主義教育と敗戦と戦後民主主義教育は、女学生のメンタリティーを少なからず変えていた。

 また、この説によれば、三薔薇ファミリーは戦後間もない時期に発足したことになる。想像を逞しくすれば、三薔薇ファミリーのけったいな性格は、古きよきものとしての貴族的なものへの憧れと、戦後民主主義教育の受容とのあいだで、いわば神仏習合式に生じたものではなかったか。

 結論である――山百合会と三薔薇ファミリーの発足を1949年と想定し、三薔薇ファミリーの性格が固定するまでの期間を3年と想定して、須加星の事件は1952~55年に起こったと推測される。

11月19日

 百合物件をいくつか仕入れた。

 参考指定物件である。偕成社版から「ひみつの階段」以外の作品が削られ、そのかわり新作が46ページ入っている。新作は、百合的にはなにもない。

 百合的にはなにもない。

 制度を扱おうとすると、制度を制定・維持する権力にどうしても目がいってしまいがちになるが、いい方法ではないと思う。持続する制度にはすべて、それ自体の独自の論理がある。その論理のありかたを、全面的に権力に帰することはできない。

 女同士物は「LIMITED LESSON」のみ初収録。

 

 噂に聞く「ハリー・ポッター」なるものを読みはじめた。が、いきなり露骨に「みにくいアヒルの子」パターンだったので、早くも挫折しかかっている。

 私は「みにくいアヒルの子」パターンが大嫌いなのだ。このパターンが好きな人はいったい、「運がいい・悪い」ということを、どう考えているのか。結果論の無限の正しさを、どう考えているのか。

マリみて註釈第15回

 『いばらの森』(初版第1刷)から。

132ページ:

 「(中略)そう考えると、特殊な姉妹なんだと思う。姉が妹を教育する本来の姉妹制度の目的から外れた、言い換えれば違う次元に存在しているのではないかしら」

133ページ:

 さっきから気になっていたらしく、祥子さまは祐巳の方に身体を向き直ると、「曲がっていてよ」と髪のリボンに手をかけた。身なりを正されながら、祐巳にもそういうスキンシップがあった方がいいって思えた。

 祥子と祐巳の姉妹スール観が窺える。志摩子と聖の姉妹観を知る手がかりにもなる、重要なシーンである。

 祥子の「教育」という言葉に注目したい。私の記憶が確かなら、姉妹関係を「教育」と表現したのは、ここが最初である。ここまでは、「指導」という言葉がずっと使われていた。教育と指導は、戦略と戦術くらいに違う――つまり、関心のない人にとっては同じだ。「教育」という言葉の登場に意味があるのかどうか、それは現時点ではまだわからない。

 祥子が「姉が妹を教育する」と言ったその矢先に、祥子の振舞いに「スキンシップ」を見出す祐巳である。そもそもの姉妹制度と現行の姉妹制度との乖離(第3回参照)に似た飛躍が読み取れる。

11月17日

ゾンド作戦

 Jean-Pierre Jacquesの「Les mauheurs de Sapho」を読もうとして、OCRと自動翻訳に取り組んだ。

 とりあえずOCRはそれなりにいける。自動翻訳は、こんな具合である。

On pretend que Sapho fit d'admirables vers. Dans tous les cas, je ne crois point que ce soit la son vrai titre a l'immortalite.

 

GUY DE MAUPASSANT, ≪ La Lysistrata moderne ≫, chronique parue dans le Gaulois du 30 dec. 1880.

 

En le niant a chaque coupable je ne tendais pas a moins qu'a pretendre que le saphisme n'existe pas. Albertine adoptait mon incredulite pour le vice de telle et telle: ≪ Non, je crois que c'est seulement un genre qu'elle cherche a se donner, c'est pour faire du genre. ≫

 

MARCEL PROUST,
Sodome et Gomorrhe 11, 1922.

One pretends that Sapho made admirable toward. In any case, I not believe only that is there his/her/its true title to immortality.

 

GUY OF MAUPASSANT, " The modern Lysistrata", chronicle appeared in the Gallic of Dec. 30, 1880.

 

While denying it to every guilty party I didn't stretch unless to pretend that the lesbianism doesn't exist. Albertine adopted my incredulity for vice of such and such: " No, I believe that it is only a kind that she/it tries to give itself/themselves, it is to make the kind. "

 

MARCEL PROUST, Sodome and Gomorrhe 11, 1922.

 私は自動翻訳を放棄した。

マリみて註釈第14回

 『いばらの森』(初版第1刷)から。

95ページ:

 「あの、キスっていうのもなしにしてもらえませんか」

 二人の会話に割り込んで、囚われの身の祐巳はもがきながら言った。白薔薇さまロサ・ギガンテイアは他人の妹だろうがお構いなしに抱きついたりほっぺにチュッだとかするから、油断できない。

 スキンシップを慎むべき基準として、「他人の妹」を持ち出している点に、祐巳の姉妹スール観が窺える。「自分の妹でなくても」「隙ありと思えば見境なく」といった表現や基準もありうるはずなのに、「他人の妹」と表現される。

119ページ:

 「私、すごく仲がいい友達がいたのよ。それこそ親や兄弟よりも大切で、その人さえいれば他に何もいらないくらい好きだった」

 「他に何もいらないくらい好き」という表現に注目したい。これは、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに則った悲劇の決まり文句である。

 もし現在、この決まり文句を異性愛の文脈に置けば、もはやかつてのような鋭い響きを帯びることはない。たとえば、すぎ恵美子『げっちゅー』の前半のあるエピソードは、「他に何もいらないくらい好き」という状態を、運命ではなく前提として受け入れ、その上での行動が求められる、という結論になっている。

 なお個人的に、「兄弟よりも有難味のある友人がそんなに珍しいのか」という疑問も付け加えておきたい。

11月16日

マリみて註釈第13回

 今回からは『いばらの森』(初版第1刷)である。

58ページ:

~親友という言葉で片づけられるほど冷静な関係ではなく、~

 「親友」と「冷静」を結びつけている点が興味深い。

 「二人のあいだの感情は、熱烈な友情とどう違うのか?」――これは、百合の大問題のひとつである。女性間の人間関係には、ホモソーシャル―ホモセクシュアルの二極構造が男性よりも希薄なため、友情と断絶した恋愛感情なるものを想定すること自体が難しい。

 この大問題に対する現時点での回答は、上の引用部に示されている。すなわち、友情を理性的な領域に囲い込み、その領域の外にあるものとして恋愛感情を位置付ける。

74ページ:

 生徒のお手本となる立場の白薔薇さまが、「生活」を「指導」されるための部屋に呼び出しを受けるなんて。~

 教職員に対する山百合会の独立性という理念は、祐巳の頭にはないらしい。マリみてにおける「制度」を知る手がかりとして、見逃せない一節である。

11月15日

 今日もまた、不特定多数のエロまんが単行本50冊ほど(同人誌を含む)に目を通した。

・わんぱくの「彼女がつながれた日」の表題作は、同種の女同士物の典型例として有意義

・酔花ころんの絵には松原香織の影響が感じられる

・田中浩人の同人誌のCCさくら本は一見の価値あり

・ほとんどのエロまんがの思想は2~4派に大別することができるかもしれない

 

 「ユリイカ」の1996年11月号を読んだ。クィア・リーディング特集の号である。

 小谷真理とキース・ヴィンセントの対談で、小谷真理が、「やおいの人たちには、ホモソーシャルとホモセクシュアルの間には亀裂なんかない、とそれをかなりはっきり打ちだしてきますね」と発言している。しかし、やおい・ボーイズラブは、この亀裂を前提とすることで初めて成立するものでもある。

 また、大塚隆史の「ノンケの男が最高!」というエッセイが興味深い。古くから二丁目にいる筆者が、ゲイ・アイデンティティの希薄な「ノンケっぽい」ゲイへの警戒心を表明した文章である。アメリカでも80年代以降、若いゲイのゲイ・アイデンティティが希薄になっているとの報告をどこかで読んだ。

 ここで思い出されるのが、溝口彰子の論文「ホモフォビックなホモ、愛ゆえのレイプ、そしてクィアなレズビアン」にある、ボーイズラブにはゲイ・アイデンティティへの嫌悪がみられる、との指摘である。もしかすると、ゲイ・アイデンティティの最後の根拠地はボーイズラブ、ということになるかもしれない。

 なお私は、クィア理論の根本にある「境界を撹乱する」という戦略を、無効であるばかりか有害であるとさえ考えていることを付け加えておく。

 「境界を撹乱する」というパフォーマンスには、すでに根拠を失った境界の存在を認め、際立たせ、延命する作用がある。歴史上、撹乱によって潰えた秩序はひとつもない。新たな根拠に基づき、新たな中心と周縁を設定し、新たな境界を設けること――これだけが世界を変えてきた。

マリみて註釈第12回

 『黄薔薇革命』(初版第1刷)は今回で終わり、次回からはいよいよ『いばらの森』である。

201ページ:

 黄薔薇さまロサ・フエテイダは大口あけて、左の奥の歯茎に穴が空いているところまでよーく見せてくれた。

 これも身体の描写ではあるので、一応。

204ページ:

 学年が下のものからお別れするのももちろん異例だが、それ以上に姉妹になることを申し込むなんて絶対ありえないことだった。おまけに、一度こちらから解消した相手に、って。皆、またしても大騒ぎになってしまった。

 (中略)

 現在、令さまと由乃さんの破局に影響されてロザリオ返しちゃった下級生たちが、元お姉さまに復縁をお願いするというのが密かなブームになりつつある。一時の気の迷いでお別れしちゃったものの、時間がたつにつれ後悔している人がけっこう多いらしいから、ちょうどいい機会なんじゃないかな。

 姉妹スール関係の規範の強さについては、第8・9回で述べた。かと思うと、法外な復縁が「ブーム」になりうるほど簡単に通るようでもある。

11月14日

 わけあって、不特定多数のエロまんが単行本40冊ほどに目を通した。

・りえちゃん14歳の「卒業アルバム」は、エロまんがにおける女同士物の例として有意義かもしれない

11月13日

 香織派は冬コミに当選した。2日目、スペース番号は西と02bである。

 

 トロッキー

マリみて註釈第11回

 今回も『黄薔薇革命』(初版第1刷)。

156ページ:

 令さまの手は、大きくて肉厚で、少し表面が固くなっていて、やっぱり、お世辞にも毛糸が似合うとはいえないくらい男らしかった。

 数少ない身体の描写である。

 百合的には、手は顔ほどに物を言う――という共通認識は残念ながらまだ形成されていないが、私の予想が正しければ、いずれそうなるだろう。

194ページ:見せ場

 マリみて屈指の名場面である。

 第3回からずっと、身体の描写がかなり稀であることを述べてきた。希薄にされていた身体の存在感が、衝撃的なまでに濃密に立ち現れる。

 このシーンはおそらく、前もって身体の存在感を希薄にしておかなければ、成立しない。より正確にいえば、マリみて的には成立しない。もし由乃の身体に具体的なイメージが伴っていたら、底の浅いメタファーにしかならない。

 そろそろ、マリみてにおける身体について全般的なことを言えるようになってきたが、その話はまだ先送りである。悪しからず。

11月12日

マリみて註釈第10回

 今回も『黄薔薇革命』(初版第1刷)。

132ページ:

 「そんな顔していると、本当に襲っちゃうから」

 未だ硬直している祐巳にいたずらっぽく笑いかけると、白薔薇さまロサ・ギガンテイアはきゅっと抱きついた。

 (……だから、何も感じないんだってば)

 (中略)

 それはちょっとまずいでしょう。本気出して暴れると、いとも簡単に解放された。しかし、逃げたその先に、なぜかちょうど祥子さまが立っていた。

 「……祐巳」

 「さ、祥子さまっ」

 いや、これには全然深くない水たまりみたいに浅い事情がありまして……。しかし祥子さまは、祐巳を無視して白薔薇さまロサ・ギガンテイアにつかつかと歩み寄ると冷ややかに言った。

 「お戯れが過ぎましてよ。知っていておやりになったのね?」

 第5回で述べた黄金パターンである。

 ここまでのところ、聖の身長体格その他については一言もない。

146ページ:

~紙面に載っているだけでも、十組二十名の氏名がリストアップされている。(中略)

 しかし、これは新聞部が把握しているごく一部のリストということだから、実際にはその陰で何倍かの姉妹がさようならしているらしい。いったい、どうなっちゃうんだろ。

 第5回で論じたように、リリアン女学園の中高等部をあわせた生徒の総数は2500人以下と推測される。高校受験で入学する生徒もいるので、中等部と高等部の人数は同じか、あるいは高等部のほうが多いと考えられる。これらの前提から、リリアン女学園高等部の生徒総数は1500人以下とみるのが妥当である。姉妹の組数は最大1000組(すべての2年生が、1年生の姉で3年生の妹、という想定)、現実的には800組を超えないと考えるべきだろう。妹が1年生の姉妹なら、400組となる。

 祐巳の「ごく一部」「何倍か」という表現を信じるなら、破局した姉妹の実数は30組以上と考えられる。最小限に見積もっても、影響を受ける可能性のある全姉妹中の7.5%が破局した計算になる。

 この数字を、「黄薔薇革命」のインパクトが絶大だったとみるか、姉妹関係の規範が脆いためとみるか。

11月11日

 ギャル作品とロシア人の相性は、少々厳しい。

 まずスラブ人自体、周りを強力なライバルに囲まれている。グルジア人(戦前の少年向け読み物では、世界一の美人はグルジア人とされていた)、ギリシャ人、北欧人、いずれも世界的な美の基準である。またロシア語という言語は、ドスが効いている。日本におけるギャル文化の発達は、日本語の音韻構造と無縁ではあるまい。

 そして、なんといってもまずいのは、名前がいまひとつかわいくないことだ。ギャル作品に限らずアニメ・まんがで、「ソーニャ」(ソフィア)、「ナターシャ」(ナターリア)以外のロシア人女性名にはなかなかお目にかかれないが、ほかにいい名前が少ない、という事情が大きい。

 さらに、愛称にすると男女ともに同じ名前になる場合が多い。たとえば「アレクサンドラ」を愛称にすると、男女ともに同じ「サーシャ」になってしまい、ロシア文学の登場人物と名前がぶつかって、気分がすっきりしない。「名探偵コナン」のヒロインの「灰原」という名前が、いまだに「ナニワ金融道」の主人公とぶつかって仕方がないのは私だけではないはずだ。

 さて読者諸氏は、この名前に萌えられるだろうか――タニア・グロッター

マリみて註釈第9回

 今回も『黄薔薇革命』(初版第1刷)。

97ページ:

 熱狂的な固定ファンしか注文しないマスタード・タラモサラダ・サンドを頬ばりながら、白薔薇さまロサ・ギガンテイアがぼやいた。

 おそらくはマリみて最大の人気キャラ・聖の特徴は要チェックである。

108ページ:

 これまで、何らかの事情でその関係を解消した姉妹がいなかったわけではないが、今回の事件は明らかに今までのそれとは違うという。今までは、主権が姉側にあった。姉妹の関係を結ぶ時も上級生から下級生に申し込むのが通例だし、解消する時だって姉の側から訣別を言い渡すパターンしかあり得なかったからだ。

 ここでも再び、姉妹スール関係の非対称性と、規範の強さが強調される。

 事件の重大性を強調するためなら、規範の強さを前提とする必要はない。型破りな姉妹を引き合いに出しつつも、それをあくまで周縁的なものと位置付け、その上で、リリアン女学園に模範を示すべき山百合会幹部がこの挙に及んだことの重みを強調する、という論法もありえたはずだ。

 なお、「主権」は法学だけで使われる概念なので、「主導権」の誤記と思われる。

11月10日

 昨日の答:スペアはいくつあっても、会えるのは一人。

 

 先月28日の日記で書いた謎が、すべて解けた。

 まず私の資料から。ノーマン・キャンターの「中世のカリスマたち」、30ページ。

 エウセビオスの顔が初めてほころんだ(中略)彼は、今日でもカトリック教、ギリシア正教、英国国教会で用いられている、ニカイア信経を記した中心人物であった。

同書63ページ。

~カエサレアの司教エウセビオスは、ローマ帝国の運命とキリスト教会とのそれとの一体性を宣言した。彼はこう述べている、両者の運命は、時の終わりまで一つのものとなろう。そして神は、帝国がキリスト教国となったことに対して酬われるであろう、と。さらにこうも述べている、富と力の黄金時代が到来し、教会は帝国の勝利の歓びを享受すべし、と。~

 さて、エウセビオスがローマ帝国を賛美した具体的な文書の名前はというと、この本には挙がっていなかった。思い出せないのも当たり前で、もともと覚えているわけがない。

 そして、野本氏のご教示によれば、問題の文書の名前は「コンスタンティヌス頌歌」「コンスタンティヌス伝」とのこと。また、ニカイア信条の策定におけるエウセビオスの立場は、指導的なものだったとは考えにくいとのことである。

マリみて註釈第8回

 今回も『黄薔薇革命』(初版第1刷)。

64ページ:

 それは、校内では結構有名な話だそうで。特に今年の春、黄薔薇のつぼみロサ・フエテイダ・アン・ブウトンである令さまが由乃さんを妹に選んだ時、「リリアンかわら版」の記事になったから、高校からリリアン女学園に入ってきた生徒でさえ把握していることらしい。しかし恥ずかしながら、祐巳は幼稚舎からリリアンでありながら、今の今まで知らなかった。

 第5回で指摘したように、祐巳はなぜかリリアン女学園の情勢に疎い。それも今度は、祐巳が憧れていたはず(そうでなければ、祥子との接近遭遇にあれほど感動した理由が説明できない)の山百合会幹部の重要な出来事を見逃している。

67ページ:

 「あ、私はちょっと通りかかっただけで、すぐ失礼しますから」

 何となく居たたまれなくなって、そそくさと席を立った。令さまのいないところで令さまの話をしていたせいか、恋人同士のお邪魔虫みたいな気分になったせいか、自分でもどちらかわからないけれど。

 「祐巳さん、何、気をつかってるの?」

 「そうよ。私たちは昨日今日姉妹スールになった仲じゃないんだから、そんなにベタベタしたりしないわ」

 (中略)

 「大したことじゃないのに叱ったり、そう乱れていないタイを直したり、飴玉をこっそり渡したり。妹ができてから、祥子はずいぶん楽しそう」

77ページ:

~姉には絶対服従といっていい妹がロザリオを返すなんて、貞淑な妻がある日突然離婚届を突きつけるようなもの。~

 姉妹スール関係の規範が見てとれる。

 (祐巳流の表現とはいえ)「絶対服従」というほど非対称で束縛の厳しい関係と、「ベタベタ」と形容されるようなコミュニケーションのありかたのあいだに、マリみてにおける「制度」が垣間見える。

11月9日

 今日の問題:

 この三者に共通するものはなにか。

マリみて註釈第7回

 今回から『黄薔薇革命』(初版第1刷)である。

42ページ:

 パジャマの襟もとから覗く痩せた由乃の胸にも、ロザリオがかかっている。

 令が今年の春に渡した、ダークグリーンの色石は、由乃の白い肌にとてもよく似合っていた。

 久しぶりの身体の描写である。

 ちなみに「色石」とは、広辞苑にも載っていない言葉だが、「color stone」の直訳で、ダイヤモンド以外の宝石の総称らしい。

 このロザリオについては、後にも描写がある。

79ページ:

~左手に、深緑色の石をつなげたロザリオが握られている。~

 ちなみに、これまでのところ、祐巳のロザリオについては具体的な描写がない。

11月8日

 「いきなりはっぴぃベル」をクリアした。EDを見たのは3人、パステーテ、美智子、ちこりである。

・パステーテ:姫よりも騎士たちのほうがかわいいのはどういうわけか。

・美智子:あんな阿呆な議論を展開されたら、見る分には面白くても、当事者は絶望的な気分になって説教しはじめるような気が。

・ちこり:シスプリ理論を受け入れられない人間にとっては、宙よりも電波。主人公が一瞬で電波に汚染されるところがさらに。

 あと、自宅では私服を着てほしかった。特にパステーテ。

マリみて註釈第6回

 今回も第1巻(初版第1刷)から。今回で第1巻は終わり、次回からは『黄薔薇革命』である。

230ページ:

 それじゃあ、屈折もする。男なんて、って思うようにもなる。

 マリみての百合は、けっして最先端でもなければ、革新的ともいえない。第1巻については特にそうだといえる。

 第一に、異性との関係における問題が、同性との関係に影響するという、古い非対称的な構造をとっている。これを「非対称的」というのは、逆の構造――同性との関係における問題が、異性との関係に影響する――が存在しないも同然だからだ。

 第二に、異性との関係における問題が、ごく平明な理解しやすい形で語られる。この平明さは、古い非対称的な構造と共犯関係にある。曖昧な屈折した語りは、その語りの前提を疑わせる。「異性との関係における問題が、同性との関係に影響」という構造を揺らがせかねない危険因子を、平明な語りによって排除しているのだ。

 つまり、引用部にみられるような構造は、極言すれば、「強姦されて男嫌いに」という例のパターンとあまり違わない。これは、久美沙織『丘の家のミッキー』(1986年)にみられる百合テイストと比べても、明らかな後退といわざるをえない。

 マリみて第1巻は1998年5月に発行された。マリみてブームが本格化するまでに、これほど時間がかかったのは、第1巻にみられる百合思想の反動性を忘れ去る必要があったためではないか。

11月7日

 Tablet PCが発売された。

 コンセプト自体はいつものMSなので驚かないが(10年前からずっと、「数打ちゃ当たる」と「勝つまでやる」の一つ覚えだ)、どうやってハードウェアベンダーを唆したのかが気になる。特にコンバーチブル型――あれほど開発費のかかりそうな、あれほど売れそうにないハードウェアを、よくもまあ作らせたものだ。

 とはいえ、Bluetooth内蔵のピュアタブレット型が12万円を切るようなら、魅力がないでもない。どうせ開発費の関係で不可能だろうが。

マリみて註釈第5回

 今回も第1巻(初版第1刷)から。

114ページ:

 連れてこられたのは、第二体育館だった。

 ここは校舎の裏手の少し離れた場所にあり、中等部と高等部の生徒をあわせて全員収容できる第一体育館ほど広くない。~

 リリアン女学園の制度と規模を推測する手がかりである。

 まず、「中等部と高等部の生徒をあわせて全員収容できる」という表現があることからして、中等部と高等部はあまり分離されていないことが読み取れる。次に、第二体育館を設けるほどクラス数が多いことが読み取れる。

 仮に体育館・校庭・プールを中高で共同利用しているとすると、1クラス当たり週2時間は施設を使うことになるので、施設一個当たり15クラスが上限になる。校庭は雨天には利用できないので、校庭とプールを合わせて15クラスが上限になるだろう。体育館が2つに校庭・プールで45クラス、ということは、一学年当たり7.5クラスが上限である。いくらお嬢さま学校でも、そうそう施設は遊ばせておけないので、一学年4クラスより少ないということは考えにくい。

 もし校庭や体育館を2クラスで同時に使ったりすれば、これよりも上限が引き上げられる。が、もし一学年8クラスを超えると、中高をあわせた生徒数が2500人を超える(リリアン女学園が50人学級であることは昨日述べた)。バスケットボールコート2面を備えた標準的な体育館の収容人数は2500人程度であるため、これを超えると、「中等部と高等部の生徒をあわせて全員収容できる」体育館は少々大きすぎるものとなる。

 以上の議論により、リリアン女学園の中・高等部は一学年4~8クラス、総クラス数24~50程度と推測される。

117ページ:

 「祥子はね。正真正銘のお嬢さまだから、社交ダンスくらい踊れて当たり前なのよ」

 紅薔薇さまロサ・キネンシスは、少し自慢げに祥子さまを語った。五歳の時からバレエを習っていたが、中一から三年間は社交ダンスの個人授業を受けたとか。英会話やピアノ、茶道、華道など、中学までは毎日何かしらの家庭教師が来ていたとか。

 「何だか、別世界の話みたい」

 ため息がもれた。十五年間生きてきたけど、まだまだ世の中って計り知れない。

 幼稚舎からリリアン女学園に通っているのに、周囲の情勢に疎い祐巳である。とはいえ私も、かの有名なフォトグラフィック・メモリーの持ち主にはいまだに出会ったことがないので、その程度には珍しいということかもしれない。

 この例にも表れているように、祐巳は、リリアン育ちの経験や感性を持っているようにはあまり見えない。にもかかわらず祐巳を完全なリリアン育ちに設定した理由は明らかではない。「銀杏の中の桜」には祐巳は登場しないため、乃梨子同様に高校受験で入学したと設定することもできたはずだ。

141ページ:

 「それはねー」

 そう言ったかと思うと、白薔薇さまロサ・ギガンテイアは突然祐巳をキュッと抱きしめた。

 この直後に祥子が現れて、

142ページ:

 「嫌だなぁ。祥子が入ってくるのが見えたからサービスしたんでしょ?」

 悪びれもせず、白薔薇さまロサ・ギガンテイアは言う。

 となる。

 マリみての何割かは、この黄金パターンで持っていると言っても過言ではないだろう。しかしこの問題は、註釈という枠で検討できる範囲を超えているため、扱わない。

11月6日

マリみて註釈第4回

 今回も第1巻(初版第1刷)から。

40ページ:

 「祥子。簡単に動かさないほうがいいよ。頭打っていたら大変だから」

 人波をかきわけて出てきたのは黄薔薇のつぼみロサ・フエテイダ・アン・ブウトン。二年菊組三十番、支倉令さま。さすがは武道家の娘、受け身を失敗して脳しんとうを起こすケースとかよく見ているのだろう。

 しかし、セーラーカラーでローウエストのプリーツスカートを着ていてなお、男装の麗人に見えるという存在もリリアンでは希少価値ではないだろうか。スレンダーな身体にベリーショートヘア。アンティークドールの着ているドレスにも似たこの制服を、袴のように着こなしていた。

 令の初登場である。ここでやっと身体の具体的な描写が出てくるが、それも「スレンダーな」の一語にすぎない。

 また、出席番号が「三十番」というところから、リリアン女学園は50人学級であることがわかる。なにを当たり前の、と思えるかもしれないが、私の知るお嬢さま学校には30人学級のところがある。教室を描く際には注意されたい。

41~42ページ:

 「よかった」

 安堵したのか、祥子さまは祐巳をキュッと抱きしめた。胸に、さっきと同じ圧迫感。ああ、そうか。それは祥子さまの胸の膨らみだったらしい。制服の構造上、体型の個人差は表に出にくいが、お胸はかなり豊かなほうらしい。……なんて考えている場合じゃない。今、祥子さまに抱擁されているのだ。

 初抱擁。

 ここまでのところ、祥子と祐巳の背の高さに関する描写が、「勉強も身長も体重も容姿も、すべてにおいて平均点の自分と、すべての条件を満たした小笠原祥子さま~」(22ページ)という迂遠な表現ひとつだけである点が、個人的に興味深い。探偵流に読まない読者は、祥子と祐巳の背丈についてほとんどなにも知らないまま、このくだりを読むことになるのだ。

 ――と言いたいところだが、23ページで蔦子撮影の写真が挿絵に出てくるため、祥子のほうがかなり背が高いという前提のもとに、このシーンは読まれることになる。

 また、身体の描写として唯一、胸の大きさが選ばれている点も見逃せない。膝や腰の高さ(足の長さと等しい)、体温の高さ、髪の香りなど、描写しうるものは数多い。そのなかで、なぜ胸の大きさなのか。

93ページ:志摩子と祐巳が昼食を共にする

 祐巳が初めて薔薇の館(山百合会本部)に入ったとき、最初に会ったのも志摩子なら、祐巳と初めて友達らしいつきあいをした山百合会幹部も志摩子である。

11月5日

 「いきなりはっぴぃベル」をやっている。

 マリネラ王国(違う)のお姫様が、授業中に王権神授説を擁護するシーンがある。残念ながら論旨は書かれていないが、現代世界で王権神授説を擁護するのは、50年前と比べても、格段に難しくなっているような気がする。王権米授説(実例:サウジアラビア、クウェート、かつてのイランなど)を主張するほうがまだしも容易かもしれない。

マリみて註釈第3回

 今回も第1巻(初版第1刷)から。

27ページ:

 山百合会とは、リリアン女学園高等部の生徒会。その幹部、紅白黄の薔薇さまといえば、生徒でありながら、一般の生徒とは別格の地位にいる殿上人なわけである。祥子さまは、その紅薔薇さまロサ・キネンシスプテイ・スールだった。

 ここで初めて山百合会の正体が説明される。

 山百合会は、ソロリティではなく生徒会である。山百合会の性格については後に論じるとして、ここではまず、ソロリティと生徒会(とその執行部)の違いを示しておきたい。

 ソロリティはそれ自体が任意団体であり、生徒会などの団体の行政を担当する機関ではない。また部・同好会と異なり、生徒会などの管轄は及ばない。誰の許可がなくても、「ここにソロリティあり」と宣言するだけで発足することができる。極端な話、破防法などに触れさえしなければ、茶飲み話をしているだけでも運営できるのがソロリティである。

 生徒会とは、定義の上では、生徒全員の団体である。しかし、生徒全員を指して「生徒会」という言葉を使うのは、生徒会執行部くらいのものだ。

 生徒会執行部は、生徒会の行政を担当する機関である(ただし、山百合会の会則には「執行部」という言葉がないか、たとえあっても生徒はそれを使わないようで、マリみてでは執行部員のことを「幹部」と呼ぶ)。仕事と権限なしには、生徒会執行部は存在しえない。

35ページ:

 志摩子さんはやわらかな巻き毛を揺らしながら、扉を開けて怖じ気づく二人に手招きをした。

 きれいなだけじゃなくて、やさしくてかわいい人だったんだ。藤堂志摩子さんって。祐巳はぽーっと見とれてしまった。

 これなら、祥子さまと白薔薇さまロサ・ギガンテイアが取り合いもするよなぁ。だって、一緒に並んで歩きたくなるようなタイプだもん。色白で、やわらかそうな茶色の巻き毛で。

 それに引き替え、同じ天パーでも祐巳のはただの癖っ毛。跳ね放題の剛毛を二つに分けて、どうにかこうにかリボンで押さえているのだ。――片や綿菓子、片やサバンナの野生動物。

 容姿の具体的な描写がなされるのは、実は祥子よりも志摩子のほうが先である。ここまでのところ、祥子の容姿については、髪の美しさを称えた描写があるだけだ。

 容姿の描写が髪に集中している点が興味深い。顔の造作、背の高さや体格に関する形容は一語もない。『いばらの森』以降、身体にかかわる表現がなかば聖の専売特許になることと考え合わせると、マリみてにおける身体の問題が理解しやすくなる。

11月4日

 「看護しちゃうぞ」が終わったので、今度は「いきなりはっぴぃベル」(テリオス)に取り掛かった。

 実に重厚である。絵、塗り、シナリオ、演出、すべてにおいて重厚にラブコメしている。ただ問題は、ラブコメをやる人が重厚なものを求めているかどうか疑問だというところだ。

マリみて註釈第3回

 今回も第1巻(初版第1刷)から。

13ページ:

 リリアンの制服は、緑を一滴落としたような光沢のない黒い生地を使用していて、どこまでも上品。黒のラインが一本入っているアイボリーのセーラーカラーは、そのまま結んでタイになる。今時、ワンピースで、ローウエストのプリーツスカートは膝下丈。三つ折り白ソックスにバレーシューズ風の革靴~

 リリアン女学園の制服が、ここで初めて描写される。ここまでは、セーラー服ということしか明かされていなかった。

 「緑を一滴落としたような」黒と言われて、藤本ひとみ「ユメミと銀のバラ騎士団」シリーズのヒーロー、聖樹・レオンハルト・ローゼンハイム・ミカエリス・鈴影の髪の色を思い出すのは私だけではないはずだ。

 暗緑色は、特色でも使わないかぎり、美しく印刷するのが難しい。そのためか、「ユメミと銀のバラ騎士団」シリーズでは、鈴影の髪は明るい緑で描かれていた。マリみての表紙では、ご覧のとおりの表現手法で暗緑色の雰囲気を出している。

13ページ:

「だって相手はリリアン女学園のスターよ。スターは素人のことなんか、いちいち覚えてやしないわよ」

14ページ:

「声かけられて萎縮しちゃうのは、仕方ないわよ。『山百合会』の幹部に声をかけられて平気な一年生なんて~」

 山百合会への言及が初めて登場する。山百合会の幹部すなわちリリアン女学園のスター、という図式が提出され、ようやく「制度」が姿を現しはじめる。

16ページ:

 そもそもリリアン女学園高等部に存在する姉妹スールというシステムは、生徒の自主性を尊重する学校側の姿勢によって生まれたといえる。義務教育中は教師及びシスターの管理下におかれていた学園生活が、生徒自らの手に委ねられ、自分たちの力で秩序ある生活をおくらなければならなくなった時、姉が妹を導くごとく先輩が後輩を指導するという方法が採用された。以来それを徹底することにより、特別厳しい校則がなくとも、リリアンの清く正しい学園生活は代々受け継がれてきたのだ。

 (中略)最初は広い意味で先輩後輩を姉妹スールと呼んでいたが、いつの頃からか個人的に強く結びついた二人を指すようになっていった。ロザリオの授受を行い、姉妹スールとなることを約束する儀式がいつの頃から始められたかは定かではない。

 よく読めば、前段と後段では、姉妹スール概念の内容があまりに異なっている。

 前段でいう姉妹スールとは、上級生一般と下級生一般のあいだに指導・被指導という関係を設定した制度を指している。個人がなにかを選んだり約束したりするような余地はなく、参加しないでいることもできない(旧日本陸軍の記憶が鮮明なところでは絶対に採用されそうにない制度だ)。

 後段でいう姉妹スールとは、個人の選択と約束にかかわる制度を指している。それに参加しないでいることもできる(蔦子がそうしている)。そしてこの引用部分は、志摩子の去就をめぐる噂話の真っ最中に置かれている。

 二つの概念はまったく異なるのに、同じ「姉妹スール」と呼ばれ、さらには並列に語られる。並列に語られながら、前段の概念は物語中でまったく利用されない。このねじれは、マリみてにおける「制度」を読み解く上で重要な手がかりである。

11月3日

 『紅薔薇のつぼみロサ・キネンシス・アン・ブウトン』をちゃんとルビで表記したかったので、今日から日記をXHTML 1.1に切り替えた。あしからず。

 なお当然ながら、XHTML 1.1に対応していないブラウザではルビなど見えない。

マリみて註釈第2回

 今回も第1巻(初版第1刷)から。

9ページ:

「呼び止めたのは私で、その相手はあなた。間違いなくってよ」

 小笠原祥子の第二声である(第一声はもちろん「お待ちなさい」)。

 「~ってよ」という言葉遣いに注目したい。「~てよ」「~だわ」という言葉遣い――以下では「テヨダワことば」と呼ぶ――は、現在では「お嬢さま」のイメージと混じりあってしまったが、その由来は、華族や中産階級などのエスタブリッシュメントではなく、女学生文化である。

 女学生は最初、「男まさりの女大学」というイメージで見られていた。現在の「女学生」のイメージ、たとえば『はいからさんが通る』のような、海老茶式部でハイカラでお転婆という女学生のイメージは、おおよそ明治30年代に形成された。テヨダワことばもその一部である。当時のエスタブリッシュメントでは、テヨダワことばは蓮っ葉で下品とされていた。

 こうした歴史的経緯は現在ではすっかり忘れられて、テヨダワことばを「お嬢さま」と結びつける感じ方が支配的になっている。祐巳自身、テヨダワことばに距離を置いていることからしても、テヨダワことばを「お嬢さま」のものとして認識していると考えられる。

 しかし、祥子のほうはどうか。祥子の生育環境からして、古い女学生文化を身をもって生きた元女学生が身近にいた可能性がある。たとえ元女学生は身近にいなくても、テヨダワことばを蓮っ葉な、気さくな言葉として使う環境であった可能性は高い。

 とすると、祥子の主観では、気さくなつもりで「間違いなくってよ」としゃべったことになる。しかしその意図は、祐巳には通じない。祥子の抱えている問題は、早くも第二声から窺えるのだ。

11ページ:

 二年松組、がさわらさちさま。ちなみに出席番号は七番。通称『紅薔薇のつぼみロサ・キネンシス・アン・ブウトン』。

 祥子の名前の初登場である。

 祐巳が山百合会に憧れ、強い関心を抱いていることは、ここではまだ明らかにされていない。祐巳と祥子の関係はまず、山百合会の存在を抜きに語られる。祐巳が祥子との接近遭遇にあれほど感動したのは、祥子が山百合会の幹部メンバーであるからにもかかわらず。

 「松組」「出席番号は七番」といった、物語中で二度と利用されることのない瑣末な情報が、「山百合会」という固有名詞よりも優先されていることに、マリみての語りの特徴が典型的に表れている。祐巳の祥子への関心を、制度的なものから引き離し、個人的なものに引き寄せているのだ。

 マリみてにおける「制度」の扱いは、重要な問題である。これについては、山百合会の性格を検討するときに詳しく論じたい。

11月2日

マリみて註釈第1回

 今日からマリみて註釈をはじめてみる。まずは第1巻(初版第1刷)から。

6ページ:

 私立リリアン女学園。

 明治三十四年創立のこの学園は、もとは華族の令嬢のためにつくられたという、伝統あるカトリック系お嬢さま学校である。

 明治34年(1901年)という創立年は、1899年発布の『高等女学校令』に由来すると思われる。

 高等女学校令をもって女子高等教育が始まったわけではない。たとえばプロテスタント系のフェリスは1869年、カトリック系の雙葉は1897年に創立されており、『女学雑誌』は1885年に創刊されている。小杉天外『魔風恋風』は1903年に連載されたが、主人公の通う名門高等女学校は物語開始時点で創立十周年となっている。つまり、1901年当時すでに、女子学生は都会の一風景であり、都会の風物を描くときには欠かせない小道具になっていた。

 とはいえ、『高等女学校令』の、区切りとしての意味は大きい。キリスト教的な理想を掲げた『女学雑誌』が潰えるのと入れ替わるようにして、1905~7年のあいだに『少女界』『少女の友』などの通俗少女雑誌が続々と創刊される。高等女学校令の発布を境にして女子学生が増加、特に地方都市で急増したことが、創刊のきっかけになったと考えられる。

 こうしてみるとリリアン女学園は、高等女学校としては後発組である。高等女学校の制度や女学生文化は、創立時すでに確立されていた。その校風は、学校独自のものは薄く、当時の女学生文化をそのまま受け入れた部分が多かったと考えられる。

6ページ:

 東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地域で~

 後に述べる理由から、リリアン女学園の所在地は少なくとも三鷹以西と考えられる。1901年当時、「華族の令嬢」をターゲットとした高等女学校の所在地に、三鷹以西を選ぶ理由はなにもない。「武蔵野」といえば杉並区あたりを指した時代である。山手線の内側に立地を求めるのは難しくなかった。

 となると、リリアン女学園は戦後に所在地を移したとみるのが妥当である。以下、この仮説を「移転説」と呼ぶ。
移転説を採ることで、リリアン女学園の奇態な校風をうまく説明することができる。

 移転前にはリリアン女学園は、都市部の女子高文化に混じり、単なるお嬢さま学校だったと考えられる。それが移転によって都市部と切り離されることで、古い女子高文化を独自の方向に発展させたのではないか。

 また、リリアン女学園は幼稚舎から大学まであり、その敷地は相当に広いものと想定される。この敷地は、移転のときに確保したものと考えられる。

 移転説はほかにも、いくつかの問題をうまく説明できるので、折につれて再び取り上げたい。

 

今月の標語:

あなたを私の「妹」にしてみせる!!

(今野緒雪『マリア様がみてる』の帯より)

 

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