中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

2002年10月

10月31日

 エロゲーの「看護しちゃうぞ」(トラヴュランス)をやっている。
 耽美が嫌いで少コミ系の女子中学生が、妙にラブコメ寄りに偏った資料を見ながら、「エロゲーってこういうもの?」と妄想したシロモノを、そのまま作品にしたようなゲームである。この安易さが素晴らしい――のかもしれない。が、やはり私としては、「もっと過剰に!」と言いたい。もっと安易さを、震えるほどの安易さを!
 ほかの安易なエロゲーが、ゲーム開始後5分で絡みが見られるとしよう。とすれば、震えるほど安易なエロゲーでは、ゲーム開始後5秒以内に絡みを見せなければならない。否、5秒ではまだ安易さが足りない。CD-ROMを入れて自動起動した瞬間に――否、否、パッケージを開封した瞬間に!
 それはいいとして、話のほうに文句をつければ、楓と紅葉は血がつながっていないほうが面白いような気がする。

10月30日

 小谷野敦の「〈男の恋〉の文学史」を読んでいる。
 王朝文学の後、明治文学の前の「男の恋」といえば、同性愛と相場が決まっている――はずなのに、非常にあっさりとやりすごしたあたりが気に食わない。

10月29日

 「最遊記」と「LOVELESS」が掲載されていること以外にはほとんどなに一つ世に知られていない少女まんが誌「月刊コミックゼロサム」が、百合に傾斜しつつあるような気がする。
 いまさらボーイズラブをやるのは自殺行為という単純な事実が、ようやくわかってきたらしい。そろそろ、セラムンに続く第二の「量から質へ」の転化が起ころうとしているのかもしれない。

 今日の朝日新聞夕刊の記事によれば、現在TVアニメの新作は週71本放映されているという。
 しかるに、その71本のなかで百合の可能性を秘めているのは、私の知るかぎり、「灰羽連盟」ただひとつ。
 …………ねえ、ジョニー、これは歴とした証拠だよ――そう、世界は間違ってるんだ。

 すぎ恵美子の「げっちゅー」12巻を読んだ。
 作中で、日本の携帯電話をそのままロサンジェルスで使っているらしいのが気になって調べてみたら、ちゃんとauのマークが描いてあった(134ページ)。いまのところ、国際ローミングできるのはauだけなのだ。作者(あるいはその周辺)はかなりの海外旅行好きか、それとも携帯電話マニアか、どちらかと思われる。
 ただし端末デザインが国際ローミング対応端末に見えないのはご愛嬌か。

 水城せとなの「ダイアモンド・ヘッド」3巻を読んだ。
 微妙に個人的なトラウマを直撃なのが辛い。うーむ。
 とはいえ私は強く生きることにしているので、トラウマ直撃がむしろ好きだと言いたい、否、言う。

10月28日

 幸福回復作戦が終わり、これからいよいよゾンド作戦に専念するはずだったが、とある事態への対応を迫られつつある。
 事の背景についてはまだなにも申し上げられないが、結果としては、こういうことだ――香織派は現在、マリみてに参戦する方向で調整を進めている。

 私は、語学自慢や体力自慢はたいしてうらやましくもないが、記憶力自慢だけは、どうにもうらやましくてならない。
 語学も体力も人にやってもらえばいいし、たとえ自分ひとりでも、時間をかければどうにでもなる。しかし記憶力だけは、人にやってもらうことはできない。うろ覚えの悔しさを知らずに済むとは、まったくもってうらやましい。
 最近はインターネットの全文検索のおかげで、うろ覚えがかなりカバーできるようになった。うろ覚えで「エクセリーナ」という言葉を思い出したとき、それが何だったかを即座に調べることのできる世界が訪れるとは、いったい誰が想像しただろう。
 しかし、全文検索ではどうにもならないうろ覚えは少なくない。私が最近遭遇した例を挙げよう。
 ニカイア信条が作られた頃、キリスト教会はまだローマ帝国の覇権の下にあったので、教会人はなんのためらいもなくローマ帝国を賛美した。ニカイア信条の作者(うろ覚え。おそらく聖アタナシオスのこと)もローマ帝国賛美の文書を書いており、ローマ帝国はキリスト教を受け入れたので永遠に栄える、と述べている。のちに聖アウグスティヌスが「神の国」を書いたのも、ローマ帝国の没落を目の当たりにして、ローマ帝国賛美から路線転換する必要を感じたためだった。
 さて問題である。ニカイア信条の作者(おそらく聖アタナシオス)が書いた、ローマ帝国賛美の文書の名前は?
 ――これが思い出せない。全文検索で調べても出てこない。
 どなたか、もしご存じでしたら、どうかご教示ください。

 ちなみに、久美沙織の「丘の家のミッキー」8巻154ページ(新装版)で、千佳恵がキリスト教を非難して「ローマなんてとっくに滅びたじゃないですか」と主張するのは、こういう根拠があってのことと思われる。

10月27日

 幸福回復作戦を完了した。
 教訓:総花的な方向に色気を出すのはやめよう

 「サクラ大戦4」をやった。
 全シリーズ中、もっとも納得感が高い。天海(サクラ1の前半のボス)を部分的に名誉回復する話になっていたら、積極的に面白くなっていたかもしれない。短いのがよかったのか、能楽というモチーフがよかったのか、メイングループだけで13人という超シスプリ級の数の論理か。
 しかし考えてみるとやはり、数の論理で押し切られたような気がする。13人がわらわらと寄り集まっているさまを見ると、もう納得するしかない。人間の認知能力にとって、7という数はマジックナンバーだそうだが、12付近にもまたマジックナンバーがありそうな気がする。

 もし現在のギャル界で、「史上最強の妹キャラは誰か」と問えば、「伊藤乃絵美」という見解が主流を占めるだろう。
 1980年代の終わりまで――つまり、マルチギャル構造がまだなく、スケベ帝国主義の支配に陰りひとつなかった世界では、若松みゆき(あだち充の「みゆき」)がその地位を占めていた。
 先日、幸福回復作戦のために、あだち充の「みゆき」の1巻(愛蔵版)を読んだ。
 再び考えらせられた――スケベ帝国主義はなぜ滅びの道を辿ったのか? 若松みゆきほどのキャラを生み出す力がありながら、なぜ滅びなければならなかったのか?
 1980年製の妹キャラなど何ほどのものか、と思うかもしれない。しかしそれは進歩史観に目をくらまされた考えだ。もしスケベ帝国主義の諸前提を受け入れるなら、若松みゆきは伊藤乃絵美に一歩もひけを取らない。いや、真のスケベ帝国主義者にとっては、比較することさえナンセンスだろう。歴史は、新しく得たものを数え上げるのは得意だが、なくしたものを数えるのは苦手だ。スケベ帝国主義の崩壊によって、ギャル界がどれほどたくさんのものを失ったか、「みゆき」を読めばわかる。

10月24日

 セジウィックの「男同士の絆」には、ところどころ、椅子から転げ落ちそうな誤植がある。特に「鋏打ち」は印象的だった。どうやら、鋏で打つらしい。うーむ。

10月23日

 今日もセジウィックの「男同士の絆」を読んでいる。要するに、可モテが究極的に関心を寄せているのは男だ、という話である。
・『田舎女房』のホーナーはモテ野郎であり抹殺対象
・『センチメンタル・ジャーニー』のヨリックは可モテであり撲滅が望ましい
・『義とされた罪人の手記と告白』のロバートは非モテであり自滅している
 ギャル作品万歳。

 ギャル作品といえば、瀬口たかひろの「えん×むす」(週刊少年チャンピオン)に今ひとつ納得できないのは、非常に素直にホモソーシャルな話だからではないかと思えてきた。しかも作者はおそらく、そのことをはっきり意識している。もっとひねくれるか、もっと過剰になるかしてくれないと、21世紀に生きる人間としては納得できない。

 非モテについて再び。
 6月16~18日の日記で論じたように、非モテと権威主義の結びつきは見逃せない。『義とされた罪人の手記と告白』のロバートがまさに非モテ権威主義者であるのを発見するに及んで、再びこのテーマについて考察した。
 従来「非モテ」とされている概念は、「非モテ権威主義」と「モテ外」という二つの異なる概念の混成物ではないか?  理念的にはモテ外を思い描き、行動の上では非モテ権威主義的、という二重性が「非モテ」概念の生命力をなしているのではないか?
 というわけで、「非モテ」概念への疑惑がまたしても深まった。

10月22日

 セジウィックの「男同士の絆」を読んでいる。
 やおい・ボーイズラブと、ホモソーシャル―ホモセクシュアル二極構造の関連性を、ますます確信しつつある。

 通販・イベントを更新した。

10月21日

 Jガーデンの売上で、セジウィックの「男同士の絆」を手に入れた。
 このように香織派の収益は、百合の発展のために有効に利用されています。

 数式とIllustratorについて考察した。

 リンクを更新した。

 レズビアン・コミュニティからの質問を想定した問答集を成文化することを検討している。以下、草案をいくつか例として挙げる。

Q:香織派による百合の定義にある、「非レズビアン」とはどういう意味ですか?
A:世界を不当にも「ノーマル」と「レズビアン」に分割することへの、非レズビアン側からの抗議を意味しています。

Q:香織派は、「ノーマル」と「レズビアン」の分割には抗議するとしても、非レズビアンとレズビアンの分割は認めるのですか?
A:支配的イデオロギーと戦うとき、従来「ある」とされているものをいきなり「ない」と主張するのは効果的ではなく、よい戦略とはいえません。新しいものを見せることで、いままで見えていたものの意味を変えるほうが、より効果的です。

Q:「非レズビアン」という語句をどういう意図で百合定義に含めたのですか?
A:二つの意図があります。
 第一には、限界を設定することで、その限界の内部に豊かな可能性を引き出すことができます。もし「非レズビアン」の語句を外せば、レズビアン・アイデンティティやホモフォビックな社会といったアクチュアリティの高いテーマが関心を集め、香織派が求めるようなものは周縁へ追いやられるでしょう。これでは、「レズビアン・アイデンティティやホモフォビックな社会」という問題そのものを周縁に追いやってしまうシステムに食い込めません。
 第二には、ホモフォビアとの戦いにおける戦略です。将を射んと欲すればまず馬を射よ。「ノーマル」と「レズビアン」という分割を廃することができれば、半ば勝利したようなものです。

 しかし教理問答を書くのは面倒くさい。うーむ。

10月20日

 Jガーデンにて香織派のスペースにお越しくださった皆様、ありがとうございました。

 眠い。きゅう。

10月19日

 明日20日、西在家香織派はJガーデン(池袋サンシャイン)にサークル参加します。スペース番号はG09b、皆様のお越しを心よりお待ちしております。
 なお、新刊「百合すと2.1」は持ち込み数に限りがございますので、売り切れの節は平にご容赦ください。

 両面印刷のレーザープリンタ(ブラザーのHL-1670N)が、新刊を救う命綱になることは以前から想定していたが、さっそく役に立った。

10月17日

 天野こずえの「ARIA」1巻をようやく手に入れた。

 ゾンド作戦。
 川村邦光の「オトメの祈り」を読んだ。
 吉屋信子史観への異議申し立て、といった内容である。それと同時に、吉屋信子が徹底抗戦したものが何だったかを示している。

10月16日

 シスプリRePureを見た。
 前半は絵に描いたようなクソアニメだったが、後半は一見の価値があった。さすがは林明美。

10月15日

 ブラザーのBR-Scriptプリンタとハーフトーンスクリーン情報について考察した。
 やはりPostScript互換プリンタは一味違う。

 偽carolの公開を終了した。見逃したかたには悪しからず。

10月14日

 XHTML+CSSの練習を兼ねて、今日から読者諸氏の非DTP生活を支援してみることにした。エセ村上春樹はこんな感じでいいのだろうか。

10月13日

 Jガーデン新刊「百合すと2.1」のために、Illustrator 10を試してみた。
・OpenTypeフォントを使ったとき、2倍ダーシ(倍角ダッシュ)の真ん中の隙間を消す方法がわからない
・Unicodeにまったく対応していないので、「冒瀆」の「瀆」の字が出ない
 ……InDesign?

10月12日

 ゾンド作戦。
 TeXの縦組能力を評価した。
・結論:JISフォントメトリックを使えばOK
 いまやXSLTにとりかかる時が来た。

10月11日

 幸福回復作戦。
 ハピレスのイデオロギー分析を書き終えた。
 馬鹿どもをまとめて包囲殲滅してみた。が、微妙にイデオロギー分析ではないような気がする。微妙に、どころか、かなり、かもしれない。うーむ。

 ゾンド作戦。
 永嶺重敏の「雑誌と読者の近代」の一部を読んだ。
 先月月29日の日記に、「やはり「少女倶楽部」の40万部という数字はまったく驚異的だ。コアターゲット層では4人に一人が購読していないと達成できない値である」と書いた。実はこのとき、40万部はフカシで、実売15万程度だろう、くらいに思っていた。
 フカシではなかった。
 178ページ、昭和6年の東京府の職業婦人へのアンケートでは、「読む雑誌」について、5779人中1100人が「少女倶楽部」と回答している。
 同じく昭和6年、東京の女学生へのアンケートでは、「夏期休暇中に読んだ雑誌」について、994人中398人が「少女倶楽部」と回答している。
 「少女倶楽部」恐るべし。

10月9日

 86時間連続ネットゲームで死亡?
 「光州のネット倒れ」とは、さすがラグナロック・オンラインの本場は違う。

10月8日

 先月23日の続き。
 ビジュアルノベルの制作を工程の上下流で分割する方法についてつらつらと考え、次のような結論を得た。名づけて「教団方式」である。

 はじめに聖典がある。
 聖典は、チーム全員の信仰の拠り所になる。チームは全員、「聖典を正しく表現するものを作れば、それは傑作になる」と信仰しなければならない。
 聖典がどうやって作られたのか、誰が作ったのか、どんな形態をしているか、それは問題ではない。極端な話、聖典は一台の自転車でもいいし、新聞の折り込み広告でもいい。守られるべきルールは2つ、
・聖典はけっして追加されたり書き換えられたりしない
・チームのメンバーは、聖典の作者とは接触できない
 この2つを守ることができ、チームの全員が聖典を信仰するなら、どんなものでも聖典になる。聖典は、揺らぐことのない北極星としてチームを導く。聖典が揺らぐなら、チームも揺らぐ。
 ただし、売れるゲームを作りたければ、それなりの聖典を選ぶ必要があるだろう。また、既存のありきたりのものよりは、メンバーの目を輝かせるようなもののほうが信仰を篤くするだろう。

 次に、神学者チームが聖典に注解をつける。
 神学者チームは、ノートを何冊も埋める設定マニアであり、秘められた(もともと存在しない)意味と必然性を聖典から見つけ出すカバリストであり、矛盾をより高い原理によって解消する弁証法学者である。作品の内容的な完成度は、神学者チームの腕前にかかっている。
 この段階ではまだ、ゲームにどんな構造を与えるかは検討されない。神学者チームは、想像力と理解力の乏しい官僚チームが深く正しく聖典を「理解」できるように、官僚チームにも読める言葉で注解を書く。

 第三に、官僚チームが聖典注解を参照しながら作業手順書を組み立てる。
 官僚チームは、神学者チームの書き散らした紙屑のなかからマシなものを探し、手持ちのリソースのなかにはめ込んで作品を設計する。工数には上限と下限があるし、ユーザには順序正しくわかりやすく情報を提示しなければならないし、営業的にインパクトのあるものを優先して採用しなければならないし、作品は完結した形を取らなければならない。作品の商品としての完成度は、官僚チームの腕前にかかっている。
 この段階では、神学者チームは作業手順書に口を出す。官僚チームと神学者チームのやりとりの過程で、聖典注解は揺らぐだろう。しかし聖典は揺らがない。

 第四に、親方チームが作業手順書を解釈し、自分の行う作業と成果物について具体的なイメージを描く。
 親方チームは、官僚チームのぶち上げた夢物語を、実現可能なものに書き換える。しかしこの段階では、新しいドキュメントはほとんど書かれず、書いたとしても作業手順書に書き込まれたわずかなメモ程度である。官僚チームとの口頭のやりとり、非言語的なコミュニケーション、その場で捨ててしまう走り書きが中心となる。
  夢物語を実現可能なものに書き換える過程で神学的な問題が生じたら、神学者チームが問題解決に加わる。なにが神学的な問題であり、なにがリソース配分の問題なのかを決める基準になるのは、聖典である。

 最後に、丁稚チームと親方チームが作品を組み立てる。
 親方チームの過酷な要求にあえぎ、また上流工程で自分の創造性を反映させる機会のなかった丁稚チームは、チャンスさえあれば自分の思うところを成果物に組み入れる。作業手順書に不満な点を探し出し、官僚チームと神学者チームを巻き込んで作業手順書の改訂を図る。
  ゲリラ的に発揮される丁稚チームの創造性に一定の枠と方向性を与え、また成果物に共通した匂いを与えるのは、聖典である。

 どの程度うまく動くか想像もつかないが、実行可能なプロセスではあると思う。

10月7日

 吉田まゆみの「アイドルを探せ」を読んだ。
 ポモポモしい「主体の消去」な話だったのが、後半になると、だんだんと主体が現れてくるのが面白い。
 活版印刷によって可能になった商業出版のありかたが、技術的・営業的理由から近代小説の長さと文体を決定し、近代小説の長さと文体が近代小説的な主体表現をもたらした、という話がもっともらしく思えてくる。ある程度以上に長い話になると、主体なしには間が持たなくなるのだ。
 まんがとしての出来のほうはといえば、9巻169ページは、1980年代のまんが全部のなかでも指折りの名場面だと思う。この1ページをもって、「アイドルを探せ」は名作だ、と言いたい。

 観念論と唯物論の違いについて、こんな比喩を思いついた。
・観念論:「猥褻だから隠す」
・唯物論:「隠すから猥褻になる」
 「隠すから猥褻になるのか! じゃあ隠すのをやめてみよう(私だけ)」と決意した瞬間、人はイデオロギーに出会う、というわけだ。

10月6日

 吉田まゆみの「アイドルを探せ」を読んでいる。少年愛まんがの退潮と同時期、1984年に連載が始まっているのは、偶然だろうか。
 「主体-服従化から主体の消去へ」というフーコー風の転換が読み取れる。 しかし「アイドルを探せ」が大ヒットした一方で、「強姦されてハッピーエンド」へと向かった人々がいることも忘れてはならない。そして現在、風向きはどちらに向いているか。
 もしかすると1984年から現在までの歴史は、ポモとやおいの暗闘として理解されるべきなのかもしれない。「革命はもう来ない」がポマーの合言葉だが、彼らは早く悟るべきだ――「ポストモダンは来ない」のだと。

 Dreamweaver MXは、br要素を使うと、勝手に半角スペースを変なところにまぎれこませる。とっととXHTML+CSSに移行しろというメッセージだろうか。

10月5日

 ゾンド作戦。
 少女まんが史には3本の断層が確認されている。

・1955年線
 少女雑誌のビジュアル化
 少女小説の衰退

・1969年線
 ロマンチック・ラブ・イデオロギーの台頭
 母子ものの終焉
 少年愛まんが

・1984年線
 乙女ちっくの終焉
 主体-服従化の終焉
 やおいの発生

 1995年線(エヴァブーム、ボーイズラブの台頭)についてはまだはっきりしない。
 1984年線は整理しづらい内容を持っているので、よく考えてみる必要がありそうだ。フーコー的な主体-服従化モデルを離れて、ブルーノ的な操作者-被操作者モデルへと向かったのが、やおいだった。では、吉田まゆみの「アイドルを探せ」に典型的にみられるような流れは、どこへ向かったのか。

10月4日

 偽CAROL
 本物は廃屋譚まで。

10月3日

 幸福回復作戦。
 イデオロギー分析をさっそくハピレスに適用すべく、評論に着手した。
  とりあえず10枚ほど書いたが、まだ「うる星やつら」を抜けられない。うーむ。

10月2日

 イーグルトンは「文芸批評とイデオロギー」で、イデオロギー分析を科学的なものにしたい、と書いている。
 科学的であるための必要十分条件は、私にはわからない。しかし必要条件のひとつはわかる。明らかになったことを事後的にしか説明できないものは、科学的ではない。
  イデオロギー分析が科学的になったと主張するには、なにかを予想しなければならない。そして日本には、イデオロギー分析の対象として、この上もなく好都合なジャンルがある――「やおい」。
 やおいこそ、イデオロギーが肉弾戦を演じる地平である。やおいイデオロギーの意味空間の内部に安息して矛盾を感じずにいるだけのために、やおいイデオロギー以外のありとあらゆるものが、歪められ、無視され、破棄される。ロマンチック・ラブ・イデオロギーは極限まで歪められて「愛ゆえの強姦」を出現させ、ある種の人間性は無視されて「強姦されてハッピーエンド」が可能になり、「男は子供を産めない」という経験的事実はありうべからざるものとして破棄される。
 もしイデオロギー分析が科学的でありうるものなら、それを応用することで、アニパロ市場で大ヒットする作品が作れるはずだ。もし作るところまで達しなくても、ある作品を見せられたとき、それがアニパロ市場でどの程度ヒットするかが判断できるはずだ。

 この日記を書くHTMLエディタは、いままでFrontPage Expressだったが、Dreamweaver MXに乗り換えてみた。ソースを見るとまだヘボいが、これはDreamweaver MXができるだけ元の状態を尊重するためである。
 バグらないのはいい。しかし動作が重い。うーむ。

10月1日

 テリー・イーグルトンの「文芸批評とイデオロギー」を読んでいる。「マルクス主義文学理論」と銘打った、イデオロギー分析の話である。
 批評理論としては、作品の過剰さと例外性の扱いに困りそうな気がするが、ジャンルを扱うには、これ以上の装置はまずあるまい。かねてからの懸案の「第二層の自己同一化」の理論化に使えそうな気がするが、私の頭が追いつくかどうか。

 

今月の標語:

ボク……モチ、オーケー

(昭和九年四月十九日付 東京日日)

 

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