中里一日記

[来月の日記]

1998年8月

8月31日

 今月の「あすか」をチェックしたところ、百合が載っていた。と思ったら、どうやら片方は男だったらしい。没。
 ちなみにこのまんが、主役の一人が「中里」という名前で、心臓に悪い。

 ようやく新作に着手した。これは短篇で、「21世紀のスタンダード百合」ではない。
 これまでの、読者を一撃で脳天唐竹割りにしようという書き方(シュリーフェン計画式の書き方、と言い換えてもいい)に疑問を覚えたので、かったるく、だらだらと、懐を広くとって書いている。書くときも、だらだらと、かったるく書いている。どちらにしろ時間がかかることは変わりないのだが、このほうが書ける時間が長いのでありがたい。もちろん最後までかったるいわけはなく、だらだらやっていると見せかけて読者のまわしをつかみ、上手投げを決めて土俵に叩きつけるのが狙いである。
 今月の小Jの小説道場に評が載っている拙作「旧世界秩序」は、今でも脳天唐竹割りの最高傑作と思っている。しかし、いかな必殺の一撃も、読者に当たらないのではどうしようもない。まずまわしをつかむことだ、と考えたのである。

8月30日

 昔、パソコン通信をやっていたとき、私が使っていたあるBBSでは、「アップしてあるCGを見たら感想を書け」という論調がまかりとおっていた。
 気持ちはわかる。しかし愚かしい話だ。絵だろうと文章だろうと、まったく見も知らない、永遠に沈黙している人々に向けて書くのでなければ、誰に向けて書くのか。馬鹿げた内輪褒めにうつつを抜かす人々に向けて書くなど、私はふるふるごめんだ。
 とはいえ、読者と作者はけっして平等ではない。読者は沈黙のなかで作者をいくらでも批判できるが、読者を批判できる作者はただの一人もいない。この不平等があるから、「アップしてあるCGを見たら感想を書け」という論調も出てくる。
 この不平等を解決する手段をあざやかに示した言葉がある。「観客は、木戸賃を払ったときにすべての義務を済ませている」だ。これは私の採用する方針でもある。(ただしいくつかの例外はある。たとえば、私の所属する文芸サークル(新月お茶の会)のメンバーは、木戸賃なしで私の作品を読んでいる)
 だから私はホームページで自作を公開しない。しかし時には、頻繁にこの日記をチェックしている読者のために、現在のところ入手不能なものを時間限定で公開することもある。頻繁にチェックしていてもたまたま運悪く見逃した読者にはあしからず。

 昔の林原めぐみの演技を聞こうと思い、「らんま1/2 熱闘編」のビデオを見た。
 林原めぐみは女らんま役、男らんま役は山口勝平である。この二人一役は見事なもので、ちゃんと同一人物に聞こえる。さすがに声優だ。
 林原の演技は、やはり林原だった。今聞くと、ときどきリナ・インバースが入って聞こえる。

8月29日

 サウンドカードのXG音源がどんなものか試そうと思い、「Natural ~身も心も~」を久しぶりにやった。
 SB16のへなちょこなMIDI再生とは月とスッポンだ。昔はMIDIくらいどうでもいいと思っていたが、間違いだった。XG音源があればゲームが一回り面白くなる。これが3980円なのだから、買わないほうがおかしい。

 「Natural ~身も心も~」で思い出した.。もし読者が、エロゲーをまだやったことがない、もしくは数年前からやっていないのなら、最近の有名作品を一度やってみることをお勧めする。最近の有名作品はそう馬鹿にしたものではない。少なくともハッタリだけは効いている。

8月28日

 先日買ったPCIサウンドカード(以下YMFと表記)の音質を調べた。
 方法はというと、初期型SB16(以下SBと表記)とYMFを同時に使った。SBの入出力とYMFの入出力を4通りに組み合わせで結線し、1kHzのサイン波を出力しながら入力をスペアナに通した。
 結果を以下に示す。
・SB→SB

・YMF→YMF

・SB→YMF

・YMF→SB

 以上のデータをまとめると、結果のよい順に「YMF→SB」「YMF→YMF」「SB→SB」「SB→YMF」である。
 結論は明らかだ。出力はYMFが優れており、入力はSBが優れている。
 しかしこの結果は感覚的に承服しがたい。どう聞いても、YMFの出力は高調波にまみれているからだ。と思ってもう一度サイン波を聞いてみたところ、今度は綺麗な単一の音だったので絶句した。音楽を聴いてみても、たしかに改善されている。
 どうやら、実験中にセッティングが変わったことで、音質が改善されたらしい。YMFを刺すスロットを変えたし、何度となくピンプラグを抜き差しした。コントロールパネルからいろいろといじりもした。どれが原因かはわからない。
 しかし音質が改善されたといっても、音楽を聴くかぎりでは、気になるような差はない。SBよりも安っぽい感じがするのは変わらない。人間の感覚というのはそんなものらしい。高調波や周波数特性よりも、動的な特性のほうがずっと強く影響するのかもしれない。

 数年ぶりにオーディオ雑誌を立ち読みした。
 この世界はいつ見てもすごい。ことに「DDコンバータ」なる代物には仰天した。これは、CDプレイヤーとDACのあいだに入れて、ジッターを取り除くものらしい。もちろん高級オーディオ用なので、データが崩れるほどのジッターを出すような粗末なCDプレイヤーは想定していない。ではなんのためなのかというと、さる通人から聞いたところによれば、高級オーディオの世界には、「データには影響のないほんのわずかなジッターでも、電源電圧の不規則な変動を引き起こし、これがDACに回り込んで音に影響する」という信念が広く存在するという。この信念がマニアにDDコンバータを買わせるらしい。
 これが安いものなら、昔のPHSのシールアンテナのようにご愛嬌というものだが、100万円以上する。この世界では、信念というのは高くつくもののようだ。
 オーディオやAVといっても、常人とかけ離れた世界のことばかりではない。ビデオデッキの新製品を見たところ、ゴースト除去チューナー付きのS-VHSデッキが定価10万円とあった。安くなったものだ。
 ゴースト除去チューナーの効果は一見の価値がある。別に気にならないと思っていても、ゴーストのない画面を見れば、必ず気が変わる。S-VHSとVHSの差も大きい。レンタルビデオを見るだけならともかく、予約録画をするなら絶対にS-VHSだ。ちなみに私が使っているのは、8年ほど前に買った、ゴースト除去チューナーのないS-VHSデッキである。
 現在の数万円を惜しんで普通のVHSを買うと、将来の人生における幸福の数パーセントが確実に失われる。惜しむなら幸福のほうを惜しむべきだ。

 しかし、以前こんなことがあった。
 あるとき雑談をしていて、食べ物の話になったとき、私は醤油の味について力説した。いい醤油とまずい醤油では天地の開きがある。ちょっと高い醤油にするだけで、寿司や餃子の味がどれほど違うことか。食費のなかで醤油の占める割合は微々たるものなのだから、いい醤油を使わない手はない、と。
 すると雑談の相手は、「でも、普通の醤油で食べられなくなったらやだな」と言った。
 私は少し絶望した。こんな人のほうが多数派なのかもしれない、と考えさせられたのだ。

8月27日

 「やおい幻論」を読みおえた。
 私はかつて大学の教養課程で、宮台真司の講義をとっていた。その講義の最終回のテーマは「やおい」であり、私はこれを非常に楽しみにしながら講義に出ていた。
 そして宮台真司は、最終回の講義を休んだ。
 あれは敵前逃亡だったのだろうか。もしそうだとしたら、その決断力には敬服する。逃げるのが最善だ。
 私も、なにも書かずに逃げるのが最善だとは知っている。しかし私的には、適当なことを書いてお茶をにごしたいので、そうする。
 人間を「やおい指向者」と「非やおい指向者」に分けて考えることは馬鹿げている。やおい指向者が存在するのは、人間にやおい指向をもたらす圧力(やおい化圧力)が存在するためだ、と考えるほうがより適切である。やおい化圧力を「社会に由来するもの」と「生得的なもの」に分けて考えることも馬鹿げている。これは実際には区別できない。人間の社会を、ピンセットや試験管で扱うことはできないからだ。
 さて、やおい化圧力とはなにか。私の仮説ではそれは、「恋愛・性愛のストーリーに自己イメージを同期させることの難しさ」である。
 こう書くと難しそうだが、簡単なことだ。現代社会は、あまり恋愛向きでない人間をたくさん作り出している、というだけの話である。しかしこの簡単に見える言明のなかには、複雑な意味がある。
 簡単なのか複雑なのかはっきりしろ、と言われそうなので、はっきりしておく。複雑だ。それも高度に複雑だ。あまりに複雑なので、ここで書きつくせるようなことではない。あしからず。

 そういえば、「やおい幻論」を読んでいて、ある奇怪なまんがを思い出した。最初は同人誌の税金問題から始まり、最後には、やおい同人誌の神様といわれる作家が男に性転換していて、星○のコスプレをしながらアナルセックスしている、という話だった。
 あれはやおいの本質を描いた作品だったのだろうか。とてもそうとは思えなかったが。

 東京少年のアルバムを5枚まで揃えた。タイトルは「僕等をさがしに」「陽のあたる坂道で」「原っぱの真ん中で」「もーいいかい?」「帰り道」である。
 どれひとつとっても、味わい深くはあるものの、歴史に残る名曲とはお世辞にもいえない。しかし、mp3にしてこっそりバラまきたいという情熱が、どこからともなくわいてくる。

 DACのキットを探しに秋葉原に行ったら、秋月が休みだった。もちろんほかの店にはあるはずもない。あうち。
 一年ほど前までは、アキバ系を気取って頻繁に秋葉原に通っていたものだった。最近はあまり行かない。ヤマギワが日和ったのも原因のひとつだが、やはりなんといっても、アキバ系を気取る感覚が古臭くなってしまったのが大きい。
 というわけで現在の私は「マチダ系」を自認している。町田になにがあるのかと疑問に思う読者もいるだろうが、古本屋5軒とアニメイトと町田市の図書館2軒がある。図書館くらいどこにでもある、などと思ってはいけない。町田市の図書館の蔵書の質と量は素晴らしい。その存在さえ知ることが難しいような貴重な本が何冊もある。
 町田市の図書館から本を借りるのは容易ではない。町田市に住んでいるか、町田市内の学校・職場に通う人でなければ貸出カードを作ってもらえないのだ。私はそのどちらでもない。そのため私はかつて、ソーシャル・エンジニアリングを用いて貸出カードを作らせた。その手口はというと、町田の某大学近くにある図書館を三月末に訪れて、純朴そうな図書館員を狙い、「今年××大学に受かったんですけど、学生証はまだなんで」と説明した。このカードのおかげでずいぶん楽しい思いができた。
 しかし、なんたることか、町田市の図書館はその後、カードに更新期限を設けて、私のような不正利用者を排除しにかかったのだ。町田市の図書館に魅力を感じたのは私だけではなかったらしい。
 様子をうかがったかぎりでは、この更新の際のチェックは非常に厳しく、身分証明書の提示が求められていた。私のカードを更新するには、図書館員を協力者にするか、利用者管理データベースに不正侵入して書き換えるくらいしか方法がなさそうだった。
 かくして、3年前から今に至るまで、町田市の図書館から本を借りることができない状態である。しかし自称マチダ系としてはこのまま引き下がるわけにはいかない。いつか必ず再びカードを入手するつもりだ。

8月26日

 「やおい幻論」を60%くらいまで読んだ。
 トランスセクシャルという概念を導入したのは卓見かもしれない。しかし悲しいかな、概念の不適切な詳細化という罠にはまっている。「FTMゲイ」という概念でやおい指向を説明するのは、真偽のほどはともかく、説得力に欠ける。
 FTMゲイという狭い概念に頼るかわりに、トランスセクシャルという概念を拡大適用して展開すべきと思う。すなわち、「健常人は超多重人格である。持っている人格を適切かつ統合して運用できる点が、いわゆる多重人格との差である」というような手口だ。
 それに私は、生得的なものに寄りかかった説明が好きではない。人間の文化と歴史において、いったいどれだけの嘘が「生得的」という説明のもとに人間を縛ってきたかを考えると、生得的なものを振りかざす説にはおのずと疑ってかかりたくなる。それに、人間の自由と多様性を主張する側が、人間に画一性を押しつける側の論法を真似するのは、戦術的に問題がある。
 ちなみに百合の根源については、個人的にいろいろ思うところはあるものの、香織派の公認イデオロギーは「一粒で二度おいしい」説である。

 PCIサウンドカードを買った。
 今まではSB16の初期型を使っていた。これは、トラブルが少ないのはありがたかったものの、バスへの負担がとにかく重かった。mp3を再生しながらWord95を使うと、文字を入力するたびにぶちぶちと音が切れた。DOS窓を使ったらまったく音楽にならない。
 今日買ってきたのは、メーカ不明の3980円(秋葉原OVERTOP)、YMF724採用の代物である。このYMF724というのは大したチップらしく、S/PDIF出力とXG音源つきで、しかもこれを採用しているカードはたいてい安い。私はこういうのを一年以上も前から待っていたのだ。
 期待したとおり、mp3の再生はかなり切れにくくなった。どれくらい切れにくいかというと、MMX Pentium 166MHzのマシンで、AudiograbberでCDをripしながらインターネットにダイヤルアップ接続してネットサーフィンしても切れないくらいである(mp3プレイヤーはNad 0.93)。この状態からさらにDOS窓を使うと時々切れる。
 後日、このカードの音質について調べた。8月28日の項を見ていただきたい。

8月25日

 今月の小Jの小説道場に、拙作の評価が出ている。あまり芳しくない評価である。というわけで今日はふてくされている。しかし確かに、一般受けするかと聞かれれば、「しない」としか答えようのない作品ではあった。
 とはいえ、おかげで次の中・長篇の方針が固まった。キーワードは「21世紀のスタンダード百合」だ。

 「やおい幻論」を途中まで読んだ。
 内容はさすがと思わせるのだが、妙に文章が長ったらしいような気がする。半分に縮めてほしい。

 OAVの「KEY THE METAL IDOL」のことを思い出したので、少し書いておく。
 最終巻が出た当時、ある知人のまわりでは、あの終わり方が許せるかどうかで議論になったらしく、私も意見を求められた。私は「全体としては『しょうがないか』と思ってあきらめた」と答えた。そのあと、厨川さくらの運命についても訊かれたので、「あれはいい」と答えた。
 その人は、全体についてはあれで当然と考えていたらしいが、さくらの運命についてはかなり疑問に思っていたらしい。
 さくらの運命は、客観的に見れば、許すべからざるものである。さくら自身の問題(両親を探す云々)については、なにひとつ決着のつかないまま放置されてしまった。あれではまるで、さくらはキイのためだけに存在したかのようだ。
 しかし、だからこそいい。ひとりの人間(さくら)が、別のひとりの人間(キイ)のためだけに存在してしまうという、そこがいい。
 これは邪な欲望というべきかもしれない。しかしこれは確かに百合の一面、それも重要な一面だと思う。将来これは、百合というジャンルにおいて、ジャンルに一体感を与えるような底流になるかもしれない。

8月24日

 人生は厳しいので、榊原史保美「やおい幻論」を自分で買った。おかげでPCIのSCSIカードがまた一歩遠くなった。あとサウンドカードも。

 ロシアが通貨を切り下げ、国債の支払いを90日間先延べした。
 私は、現代の通貨というのは、形のある嘘だと考えている。つまりこういうことだ。人は、売りたい実体(財・サービス)と引き換えに通貨を受け取り、その通貨の嘘がバレる前に、通貨を買いたい実体と引き換える。通貨の嘘がバレない理由は二つ、それが社会に必要不可欠な嘘であるというのと、嘘を真に受ける人間がきわめて多いというのと。
 この図式のなかでもっとも肝心なのは、「通貨の嘘がバレる前に」という点である。もし仮に、ある瞬間、ある通貨を手持ちにしている人間全員が、その通貨が明日まだ効力を保っているかどうかを真剣に疑いはじめれば、どんな通貨だろうとたちまち紙屑になる。現実にはこれほど極端な事態は生じないが、ルーブルやバーツがそうなったように、これに近いことはいくらでも起きる。
 さて、この視点からドルを見てみたい。
 アメリカは現在、ドルを大量に流出させている。ドルという嘘と引き換えに、自動車や半導体といった実体を手に入れている状態である。大量の嘘をほいほいと受け取り、かわりに実体を渡している国の代表がほかならぬ日本である。おかげで日本は大量のドルをかかえている。
 もちろん、ドルという嘘がバレる前に実体(もしくは、まだしばらくは嘘がバレない別の通貨)と交換してしまえばなにも問題はない。しかしその前にドルという嘘がバレると、日本は大変なことになる。
 もし日本だけが大量のドルをかかえているのなら事態は深刻だが、さすがに日本政府もそこまで間抜けではない。日本と同じく、大量のドルをかかえている国はたくさんある。そういう国々はどこも、ドルという嘘がバレてもらっては困るのだ。
 手持ちのドルが少量なら、今のうちに別の通貨と交換することもできるが、量が量なのでそうはいかない。ほんの一部を売っただけで相場は暴落する、つまり嘘がバレる(これが具体的にどの程度の量でどの程度下落するかはアジア通貨危機に詳しい人に訊いてほしい)。手持ちのドルをほとんどさばかないうちに、残ったドルは紙屑になる。
 こういうわけで、ドルを大量にかかえている国々は、嘘を信じつづけることになる。つまり、かかえこんでいるドルの量はどんどん膨れあがる。危険だとは思っても、ほかに手がない。とりあえず現在のところは、アメリカ経済が好調なので帳尻だけは合う。もちろん実体の帳尻ではなく、嘘の帳尻だが、一応の説得力はある。
 この仕組みが続くかぎり、アメリカはいつまでも嘘を渡して実体をもらうことができる。ドルをかかえこんでいる国々はもうどうにも止まらない。
 いつまで止まらずにいられるだろうか。

8月23日

 佐木隆三「宮崎勤裁判」上中下巻を途中まで読んだ。
 宮崎勤のことはただの馬鹿だと思っていたが、認識を改めた。これは食わせ者だ。
 中巻15ページからの、簡易精神鑑定における一問一答の記録はまさに圧巻である。彼のセリフの表現力は驚嘆の一語に尽きる。へばりつくような、染みこむような、心底おぞましい人物像が、あますところなく表現されている。事件の残酷ささえかすんでしまうような、強烈なおぞましさだ。
 これほど表現力あふれるセリフを吐くには、よほど頭を働かせる必要がある。そんな頭脳があるからには、彼の言葉と行動はなにひとつ額面どおりには受け取れない。
 とはいえ、すべてが昔のことになってしまった。今は誰も彼のことなど気にかけない。かつてはある種の日本人の代表のように扱われていて、彼について語った本がたくさん出版されていたものだったが。

 アフガニスタン空爆問題について、昨日の続きである。
 あれからつくづく考えてみたところ、ひとつの有力な仮説を思いついた。もしかしてミサイル空爆は、一種のヤラセではないか。水面下での工作によって目的を達し、表面は「テロには報復で対抗する」という方法が通用したかのように装う、という仕掛けだ。
 もし成功すれば、「テロなど結局は押さえこまれて終わるものだ」というイメージを世界中のテロ支援者に植えつけ、意気阻喪させることができる。テロは、行われないようにすることが最上の対策である。
 もし失敗すれば、「十分な安全地帯と資金と組織があればテロは有効だ」という教訓をすべてのテロ組織と支援者に与えてしまうが、アメリカが失敗の危険をあえて冒すとは思えないので、かなり確かな工作なのだろう。
 以上、この件は最終的にはテロ側の沈黙で終わる、というのが私の予想である。

 Daytona USA 2、今日のベストラップは44秒07。42秒05はあいかわらずイメージできない。42秒台前半の走りをいっぺん見てみたい。

8月22日

 TV版「大運動会」の訓練校編をようやく見終えた。
 私的には、クリス×あかりを持ちたい。一乃攻はいろいろ苦しいような気がする。一乃は確信犯的でなさすぎる。あかりが完全な受なので、これは辛い。あと、私は迷いのある攻があまり好きではないのだ。

 エヴァのビデオの12巻も見た。いつ見ても、あの世界の14歳は胸が大きい。

 アメリカによるアフガニスタンへのミサイル空爆について、ひとしきり考えた。
 いったい、アメリカはどうやってこの件にけりをつけるつもりなのか。
 例の黒幕(これが本当にアメリカの言うとおりのものだとして)を黙らせるにはパキスタンに言うことをきかせる必要があるが、どうすればそんなことができるのか。だいたい、すでに核問題をかかえているパキスタンへの要求項目を増やしてどうするのか。全部の要求を飲ませられるような強力なカードを持っているとでもいうのだろうか。それとも、要求を飲ませるつもりはあまりなく、「相手が核保有国だろうとアメリカはひるまない」というデモンストレーションが主目的か。
 もちろん、テロリスト側が報復テロを行わず、いつのまにか問題が立ち消えになる可能性もある。しかしそれを期待しているのだとしたらアメリカ政府の思考回路は破滅的なまでに楽観的だ。もっと悲観的な場合に備えた見通しがあるはずなのだが、それがわからない。水面下の部分がきわめて大きいのかもしれない。
 なんにしろ、巻き込まれた連中はいい迷惑だ。ご冥福を祈ると書いておけば収まりがいいところだが、私はテロや報復のない世界を作るためになにか行動したことはないし、これからするつもりもあまりないので、無責任に祈ることはやめておく。私は、テロと報復に関しては、今ある世界の消極的な共犯者なのだ。まことに人類の歴史は有罪である。そして私も。

8月21日

 榊原史保美「やおい幻論」を図書館でリクエストしようとしたら、すでに予約が二人。
 気を取りなおして、藤本由香里「私の居場所はどこにあるの?」をリクエストしようとしたら、これもすでに予約が二人。
 人生は厳しい。

8月20日

 最近、どうもマウスの動きがぎくしゃくしていて精神衛生に悪い。中を掃除しても今一つよくならない。寿命だろうか。
 昔、古いロジテックのマウスを使っていたら、最後にはボールがでこぼこになってしまった。今のMSのマウスは表面の加工が改善されたのか、ボールには異常はない。少なくともこれを見るかぎりでは、この5年ほどでマウスはずいぶん改良されたらしい。
 モニタも、「同じ価格と画面サイズで」という条件でいえば、ずいぶんと改良された。中くらいの価格帯のものでも、コンバージェンスや歪みが許容範囲に収まる。ただし底辺のレベルはぐっと下がったようだが。
 よく言われるとおり、キーボードは改悪著しい。これはなにかの陰謀ではないかと思うくらいである。底辺のレベルがぐっと下がったのはいいとして(そのぶん価格も下がったのだろう)、その上が壊滅した。いま私がこの日記を書くのに使っているような、5年前にはごく当たり前だった良質なキーボードは消えてしまった。一台5万円してもいいから注文生産で作ってほしいくらいだが、そんな注文を受けているところはどこにもない。キーのスイッチがもう生産していないのだろうか。

 『月猫通り』(大学のサークルの本)に載せた短篇を再録した本を、冬コミ合わせで出そうかと思案中。しかし考えてみたら、再録が許せるような短篇は二つしか書いていないという事実に気がついて愕然とした。あれもこれもどれも過去の悪夢である。
 同志スジャータYotsuyaに協力を仰ぐと四つになるが、たいしてページ数は増えない。例の中篇を載せるのは、過去の栄光にすがるようで気が進まない。
 そしてなにより、イラスト担当さんを探したり交渉したりするのが面倒だ。しかしやはりせっかくの冬コミなので本は出したい。きゅう。

8月19日

 コミケの申し込み手続きをした。受かりますように。

 人のマシン(Aptiva Jモデル)に、Windows98をクリーンインストールした。
 ご存じの読者も多いかと思うが、Aptiva Jモデルというのは、IBMの生み出した世紀の大駄作だ。
・Mwaveカード搭載
・SiSのマイナーなビデオチップをオンボードで搭載
・Pentium 166MHz、二次キャッシュなし
 分別のある大人なら「捨てろ」の一言で切って捨てるだろう。もちろん、分別のある大人などそう多くいるものではない。少なくとも私は違う。このマシンを使う人もだ。
 このマシンの尋常ならざる駄作ぶりは、付属のモニタからも見て取れる。ウィンドウが開いたり閉じたりするたびに、画面全体のサイズが5パーセントほど揺らぐ。このモニタを設計した人は、なにかの限界に挑戦していたに違いない。それがコストダウンの限界か、良心の限界か、ユーザの無知と我慢の限界かは知らない。おそらくそのすべてだろう。
 この先どれくらい長くこのマシンが使われるのかは知らない。モニタを換え、まともなビデオカードを刺せばいくらか延命できると思う。それがいいことかどうかは別として。
 Windows98は、ビデオカードを標準VGAと認識し、Mwaveを無視したらしいことを除けば、まったく正常にインストールできた。ただし忠告しておくと、アップグレードインストールはしないほうがいい。IBMがやらせたがらないところを見ると、駄作ぶりが火を吹く可能性が高い。

 福田明「流星バースト通信」という本を読んだ。
 この本によると、流れ星は夕方にもっとも少なく、朝にもっとも多いらしい。季節では夏に多く冬に少ない。願い事をするなら、夏の流星群のときに、早起きするか徹夜するとよさそうだ。2秒くらい光る大物が相手なら、三回唱えるのも不可能ではないかもしれない。

8月18日

 酒を飲んだ。
 私は、酒一般は嫌いではない。嫌いなのはビールだ。付き合いやらでずいぶん飲んだが、飲むたびに嫌いになる。
 というわけで、どうも思考がおぼつかない。日記のような無責任な文章でなければ一文字も書かないところである。ここなら、あとで気に食わなくなっても簡単に変えられるから心強い。

 私はこういう珍しい活動をしているので、いったい私がどんな人物か、興味のある読者も少なくないと思う。
 このホームページのどこかにも書いたとおり、イラクのバグダッドで生まれ、小さいときにアフガニスタンのカブールに移った。12歳のときパキスタン経由で日本に戻って、そのあとはイスラム的なものとは縁のない暮らしをしている。アラビア語など綺麗さっぱり忘れてしまったが、イギリス軍が使っていたという古いライフルの、ずっしりとした感触は忘れがたい。一発でいいから撃ってみたかった、と今でも思う。このライフル用の弾は一発もなく、試射さえできなかった。数を多く見せるためのダミーだったのだ。
 ワイシャツのサイズは、ネックが37センチ、ユキが82センチ(測定:コナカの店員)である。これはかなり珍しいサイズらしく、近所のスーパーにはこのサイズはない。首にあわせて一番近いサイズのを買ったら、袖が10センチ以上足りなかった。いつかきっとオーダーメイドのワイシャツしか着ないような身分になってやる、と心に決めている。ウェスト70、股下89、身長174。
 プログラミングはBASICで覚えたが、これも綺麗さっぱり忘れてしまった。現在はC専門である。スタイルはMSスタイルをベースに、さまざまなとんでもない味付けをしてある。たとえば「double *foo」を、「double* foo」と書く。「double*」すなわち「doubleへのポインタ型」という仕組みだ。これは「double* foo, bar」などとやったときに混乱するので、良い子は真似してはいけない。
 さて、以上まで書いたことのうち、どれくらいが本当のことだろうか。

 Daytona USA 2、今日のベストラップは44秒91。43秒台は見えた。しかしそのゲーセンのコースレコードは42秒05だ。そんなタイムで回れるというイメージがまったくわかない。道は遠い。

 明日はコミケの申し込み最終日である。読者もお忘れなく。

8月17日

 久美沙織「これがトドメの 新人賞の獲り方おしえます」を読んだ。小説を書く楽しみのひとつは、こういう本を読むことである。
 こういうところに出てくる人は、ペンネームが楽しい。時として作品より楽しい。それにしても「浅倉まるち」とはいいペンネームだが運が悪かった。今や「まるち」といえば、耳のところにメカが出ている、髪が緑の、あのロボットのことになってしまった。しかしこのまま変えずにつっぱれば大したものだ。
 載っている課題をやってみて日記に載せようかとも思ったが、じゃんけんの後出しにしかならないのでやめた。私の腕のほどが知りたいという読者には、こちらで拙作の一部をご覧いただきたい。
 ちなみに私のペンネームの由来を書くと、中里は中里介山からいただき、一は自分の本名からとった。私が当時使っていたパソコンで表示すると、地味なわりに見栄えのする名前だった。昔のパソコンは漢字を縦横16ドットで表示したので、ちょっと画数の多い字はたいてい少し崩れて表示されたのだ。
 この名前はどこからどう見ても男名前なので、読者にあらぬ妄想を抱かせずにすむ。私は、森奈津子「耽美なわしら」に出てくる百合少女小説家のような、性格の悪いことはしないのである。

8月16日

 コミケに行った。買った本はまだ読んでいない。
 大学のサークルの先輩である某氏(男性向け創作)はアスカのごとく、「売れない… 売れないのよ…」と嘆いていた(一部嘘)。不況のせいらしい。
 今回はあいにく弾薬があまりなく、そのためやる気がなく、そのため会場に着いたのが午後3時と時間がなく、そのためろくに見て回らなかった。弾薬が足らないというのは痛い。敵を見ても弾薬の残りと相談するようでは面白くない。今日は短時間ながら見敵必買を実行できたので、それなりに痛快だった。

 Daytona USA 2、ハードMTの感覚がつかめてきた。しばらくは現在のやりかたをいじらず、様子を見てみることにする。特に最終コーナーは、ライン取りがどうこうよりもまず、あの形と性質に慣れる必要がありそうだ。

8月15日

 今日はV-J Dayである。アメリカは今でも戦勝記念の行事をやっているのだろうか。やっているに違いないのだが、そういう報道に接したことがない。私があまりTVを見ないせいだろうか。違うような気がする。

 Daytona USA 2、今日から車種をハードMTに変更した。どういうわけか直角コーナーでコケる。最終コーナーでは当然のようにコケる。最初からMTで行くべきだったか。

8月14日

 映画「バウンド」を見た。主役の片方、コーキーが素晴らしい。少年ぽい受が好きな人は、コーキーを見ずには死ねない。
 少年ぽい受で思い出したが、久美沙織「丘の家のミッキー」のレミは、私的には少年ぽい受のイメージである。ミシェール(ミッキー)とレミがなんともならなかったのは、ミシェールも受だったからだと勝手に思っている。やはり百合の攻は大きな課題である。

 1998年8月14日現在においてもっとも注目すべき美少女系エロまんが家・O(あえて名を伏せる。まだOの作品を知らない読者に余計な先入観を与えたくない。通人なら伏せられた名を容易に想像できるはずだ)の作品について、少々語っておかねばなるまい、と感じている。Oの作品は、今までのところ私の見たかぎりでは、あまりにも誤解されている。ただ座して成りゆきを眺めるには不愉快な情勢だ。幸い、ここは一応なりとも世界中から読める場所である。
 Oの作品を、「絵は素晴らしいがストーリーがまだ安易」と評する人々がいる。また別の人々は、一種のメロドラマとして読んでいる。どちらも間違いだ。あのストーリーを安易と思う人々の頭こそ安易だ。またOの作品は、メロドラマに必要な、ある決定的な盲目さを欠いている。あれをメロドラマと思う人々は、自分自身の目で盲目さの不足を補っているのだろう。
 結論から言おう。絶望や希望やニヒリズムこそ安易である、なぜなら私たちは普通、そうしたものを想像することはできても、生きることはできない。私たちはもっと安易にしか生きられないのだ。
 Oの初単行本の26ページを見てほしい。「あったかい/このままで いたいな」というセリフで短編が終わっている。オチとしてのこのセリフの安易さは、私たちの生の安易さだ。67ページからはじまる短編が、「愚行を繰り返す日常」としての確信犯的な気分を欠いているのは、私たちが確信犯的に生きられないことをそのまま反映している。
 私たちの安易さに忠実であることは、メロドラマの特徴でもある。しかしメロドラマは、世界の大きさに対して盲目である。悲劇が純粋に悲劇であるような空間を恣意的につくりだし、その空間のなかに閉じこもって、世界の大きさから目をそらす。目をそらすというのが具体的にはどういうことかといえば、たとえば「アンネの日記」は父親によって一部を削除された形で出版された。
 Oの作品は、世界の大きさに対して少しも臆すところがない。129ページ、「メリークリスマス 今日は給料日だぜ ねえちゃん/いくらでさせる」、このセリフに私は感動した。世界はこのように大きい。
 最後に、Oの作品をまだ知らない読者に、読むように勧めて終わりたいところだが、名を伏せているのではそうもいかない。興味を持った読者は、身近な通人に聞くなりしてほしい。

8月13日

 辞書を読んでいると面白い言葉に出くわす。たとえその辞書が「ANSI C言語辞典」であっても。
 算体、算帳、算譜、算法。ちょっとしたJ・A・シーザー気分である。それぞれオブジェクト、ファイル、プログラム、アルゴリズムのことだが、横文字にすると面白くもなんともない。
 こういう強引な日本語訳もいいが、広く使われている自然な訳語も、時として味わい深い。私が高校生のとき、生物の授業で、教師が教科書の一節を読み上げて「これは嘘ですね」と断言したことがあった。どういう一節かというと、レーウェンフックがコルクを顕微鏡で観察して小さな部屋がたくさんあるのを発見し、「これを『細胞』と名づけた。」というところだった。なるほど言われてみれば、レーウェンフックが日本語を知っているわけがない。言葉というのは味わい深いものだと、改めて知った瞬間だった。

 Daytona USA 2、今日のベストラップは45秒68。あと3秒以上も縮まるというのは本当なのだろうか。なにかとんでもない裏技か、それともハード車にはまだ私の知らないすごい特性が隠れているか、どちらかとしか思えない。
 直角コーナーは一応の解決をみた。現在の問題は最終コーナーである。アクセルを少し抜いただけのオーバースピードで、インの芝生に左車輪を入れて減速しクリアするのが最善か。アクセルとステアの加減がよければ、そんなことをしなくても綺麗にクリアできそうでもあるが。

8月12日

 鳩を寄せつけないための道具と称する、目玉模様の風船がある。
 あれを発明し、商売にした人の慧眼には恐れ入る。鳩が目玉を恐がるとはいかにもありそうな話だし、それになんといっても、「鳩ごときにはこの程度で十分」と思いたがる人間の傲慢さをよく突いている。
 もしあなたがマンションに住んでおり、鳩に対する苛烈で容赦のない闘争生活を生きる私の同志ならおわかりだろう、あれはあまりにも鳩を馬鹿にした道具だ。鳩の知能は、物体の認識に関することでは人間に一歩もひけを取らない。あれが目玉に見える鳩など皆無だろう。人間にとってあれが風船であるのと同様に、鳩にとってもあれは風船でしかない。
 鳩の学習能力もあなどれない。私は現在、対鳩用の兵器としてエアガンを用いている。このエアガンは、発砲する前にスライドを引いてバネにエネルギーをためる必要がある。スライドを引くとカチリという音がする。日中ならなんでもない小さな音だが、静かな早朝にはかなり遠くからでも聞こえるだろう。そして、私の家に襲来する鳩どもは、なんと、私がスライドを引いたかどうかを音で知っている。少なくとも、そう思われる節がある。
 これほど手ごわい相手に対して有効な「置いておくだけでOK」の兵器が、容易なものですむわけがない。
 細長い突起などでベランダの手すり部分を覆って鳩の足場をなくしてしまう、という方法がかなり有効らしいが、鳩のせいで不便を強いられるのは癪だ。ここはやはり、鳩を認識して自動的に攻撃する、一種のロボット兵器が欲しい。
 CCDカメラで鳩を認識し、自動的に照準・発砲する小型の砲台のようなものがあったら、どれほど私の心は安らぐかわからない。砲弾は水がいい。少量の水をごく小さな穴から高圧で噴射し、鳩に叩きつけるわけだ。これなら外れた場合にも、飛翔するあいだに分散して細かな水滴になり、周囲に被害を与えない。射程は20メートル程度、歩行中の鳩でも攻撃可能で、照準完了から着弾までは0.1秒以内(これくらいでないと鳩は巧みに回避して弾切れを生じさせるだろう)、発砲の前には可視光線のレーザーによって照準すると同時に鳩に警告を発する。
 現在のところはまだ、動きと輪郭が認識できるCPUパワーは高価だし、CCDカメラと水圧ポンプは機械なのでそう安くはならない。だが、このロボット砲台はどうしても商品化してもらいたいし(このロボット砲台の案は私が考えたものだが、この程度のことを業者が考えないわけがない)、また必ず商品化されると信じている。この非人間的な闘争の日々が、マンションに住んでいるかぎり続くとは思いたくない。
 さて、今はロボット砲台を礼賛している私だが、いつか望みどおりのロボット砲台が手に入ったときには、「かくして人間はその存在の非人間的な部分を追放して生きるのであった」などと思うのだろう。勝手なものである。

8月11日

 今月のヤングユーの「Papa told me」は素晴らしい。全人類に読ませたい。あまりにも素晴らしかったのでヤングユーを買ってきてしまった。できることならスキャナで取りこんでここで見られるようにしたいが、あいにく今の私は著作権問題には慎重なのである。
 とにかく、ヤングユーが手に入る地域にお住まいのかたにはぜひ読んでいただきたい。

 CLAMPの裸絵のテレカを入手して純真なCLAMPファンに見せびらかすべくヤングマガジンUppersを買った。しかしよく見ると、絵よりもコメントのほうがインパクトがある。これは雑誌を見せびらかすほうが得策かもしれない。

 Daytona USA 2、今日のベストラップは45秒86。どうもタイムが縮まない。直角コーナーでは並走車にあまり離されないので、問題はヘアピンと最終コーナーらしい。

8月10日

 割り箸追放運動はここ10年でもっとも痛快な出来事のひとつだった。
 「割り箸を使うのをやめて森林を守れ」とは、いったいどこの馬鹿が言い出したことなのか知らないが、言い出しっぺの責任など大した問題ではない。馬鹿なことを言う人間はいつでもどこにでもいる。注目すべきは、そのたわごとを真に受けて日本中に広めていった大衆・市民運動・マスコミの三位一体のメカニズムである。いったい誰も確認を取らなかったのか。いや、確認を取ってみて事実に気づいた人もいたには違いない。ただそれはごく少数で、奔流のごとく広がる運動の前にはほとんど無力だったのだろう。
 私は、今のアンチMSの風潮にも同じ匂いを感じる。ただ、ことが割り箸ほどには明白でないから、現在のところはアンチ・アンチMSにとっては風向きが悪い。
 そう、私はアンチ・アンチMSである。MSが有害だからといってアンチMSを流行らせるのは、シラミを殺すために強力な発癌性物質を使おう、というのと似ている。シラミが有害だからといってシラミを排除する手段がすべて良いものだと考えるのは、よくある愚かさの一形態である。
 私はアンチMSの流行の様子をつぶさに観察している。アンチMSの尻馬に乗った・乗ろうとした連中にはビタ一文渡さないようにするためだ。ラルフ・ネーダーはブラックリストの序列第一位である。RealNetworksは最近ブラックリストの上位に躍り出た。スコット・マクネリの真意は計りがたいが、私は勝手にブラックリスト入りさせている。Netscapeも、Appleにならってあの連中と距離をおかないかぎり、早晩にっちもさっちもいかなくなるだろう(それと、ジム・バークスデールとかいうCEO(かなにか)は馬鹿なので首にすべきだ。決算期の取り方を細工するなどいわば篭城策である。潰れる寸前の地方銀行にこそふさわしい手で、これからますます業界にのさばろうという会社のすることではない。今年の四半期の赤字額など来年になれば誰も気にしなくなるが、「姑息なことをしてでも好印象を与えようとする会社」というイメージは誰も忘れない)。

8月9日

 前から思っていたのだが、清水玲子「輝夜姫」の、まゆの母親は少女まんが史上屈指の悪役ではあるまいか。
 考えてもみてほしい、自分の娘と同じ歳の子供をひきとって(この段階からすでに下心があったはず)娘といっしょに育てて、中学1年になったら抱いて、しかもそのことは娘には内緒だ。やむにやまれぬ事情があったとかではなく、すべて彼女の計画どおりの確信犯らしい。
 これはかなりすごいような気がする。ここまで好きなように生きられたら、ああやって死んでも「我が人生に悔いなし」だろう。願わくば私も彼女のように大胆不敵に生きたいものだ。というわけでとりあえず、将来美人になりそうな女の子を産んで、その子を私にひきとらせてくださる人を募集中(嘘)。

 Daytona USA 2、ハード車で初のラップタイム45秒台を記録した。当面の問題は直角コーナーへの突入である。クリッピングポイントが肩に触れるくらいのラインで入れれば、エンジンブレーキだけのクリアは可能とみた。しかしそれが難しい。どういうわけか、DaytonaはVirtua Racingにくらべてタイミングをとりにくい。とにかく練習あるのみだ。
 直角コーナーは当面の問題だが、最終コーナーのほうがより長く問題として残りそうな気がする。現在は、アクセルを離して進入、クリッピングポイントの前でブレーキ、ドリフトしながら抜ける、という手順でクリアしている。現在の主な問題点は二つ、クリッピングポイントを手前に設定しすぎている可能性と、ドリフトで抜けるのが正しいのかどうかである。特に後者は検討を要する課題だ。

8月8日

 まだ風邪が治りきらない。そろそろ立秋なだけあって、日ごとに涼しくなっている。早く治したい。

 N.Wirth「系統的プログラミング入門」を少し読んだ。
 最初のほうにフローチャートが出てくる。私はフローチャートについてはきちんと学んだことがないのだが、これはタバコや核兵器と同様、人類を不幸にする発明ではないだろうか。単純なことを難しく高級そうに、しかも誤解を生むように説明するための道具としか思えない。役に立つことがあるとしたら、C言語のwhile文とdo/while文の違いを印象的に説明したいときくらいだろう。プログラミング言語によらずアルゴリズムを説明するための発明だろうが、こんなものを使ってまでプログラミング言語を避けねばならない理由があるとしたら、それは政治的理由に違いない。この手の馬鹿馬鹿しさがまかりとおるためには、政治の力が欠かせない。
 思えば、ブートストラップを説明するときにいつも使われるあの謎の記号式(もしくはそれを表現した大仰な図式)も、表現している内容よりも表現形式のほうがはるかに複雑だ。コンパイラをクロス開発することのなにがそんなに偉いのか、私にはどうしてもわからない。コンパイラの吐くバイナリと、そのコンパイラが動作しているCPUとのあいだには、神秘的なつながりがあるとでもいうのだろうか。
 科学には謎が多いものだが、コンピュータ科学には特に多いような気がする。

8月7日

 ようやく熱が引いた。まだ少し喉がおかしいが、明日にはよくなるだろう。
 喉といえば、先週のTVアニメのCCさくら(の特別構成? 本編は放送せず、視聴者からのハガキの紹介や、「ここまでのあらすじ」だけをやっていた)に、丹下桜が出ていた。ごく普通の姿形をした女性の口から、あのキーで「汝のあるべき姿に戻れ、クロウ・カード!」が出てくるのは、かなり驚異的な眺めである。
 ちなみに私の声は、人に言わせれば、「顔よりはずっといい」らしい。どういう意味だろうか。

 Daytona USA 2、ハード車の特性がだんだんとわかってきた。ライン取りは悪くないのにタイムが出ない(今日のベストラップは46秒12)と思ったら、加速の際にタイヤがスリップしやすいらしい。よほどアクセルワークに熟達しなければ使いこなせそうにない。
 直角コーナーについては私の読みが当たっていた。グリップ状態で進入するほうがいい。もしかすると、ハード車ならエンジンブレーキだけでクリアできるかもしれない。

 勉強の大切さは、「車輪を再発明する」までは絶対にわからない。
 私は小学6年から高校1年までのあいだ、MZ-2500という8ビットパソコンを使っていた。当時のことを知る人も少なかろうと思うので、このマシンの性能について説明を加えておく。CPUはZ80B 6MHz(のセカンドリソース)、ウェイトが1。これが具体的にどういうことかというと、CPUだけでは2HDのFDDが使えない。DMAが必要である。CPUでは、FDDのデータ転送速度(30KB/sくらい?)に追いつけないのだ。
 私は、このマシンの上で快適に動くテキストエディタを作ろうとした。しかもオールBASICでだ。
 設計にとりかかってすぐ、「データ構造」という概念を発見した。
 もし、作業中のテキストを、フロッピーにしまうときと同じように直線的に並べれば、少し大きなテキスト(たとえば10KBとしよう)ではとても快適とは言えなくなる。テキストの先頭のほうに一文字挿入するたびに、その後ろのデータはメモリ上を移動することになり、これはたとえマシン語ルーチンを使っても0.3秒以上かかる作業である。一文字挿入のたびに0.3秒待たされるテキストエディタなど、言語道断というほかない。
 では論理行(改行から改行まで)をひとつのブロックとして確保し、挿入や削除のためのデータ移動はそのなかだけで行われるようにすればどうか。これにも問題がある。ひとつの論理行のために十分な領域サイズを、あらかじめ決定する方法がない。不足すれば、0.3秒かけて後ろのデータを移動し、領域サイズを広げるほかない。これは、メモリを大幅に無駄遣いし、しかも0.3秒待ちを完全に追放することもできない選択肢である。
 論理行では確保すべき領域サイズをあらかじめ決定することができなかった。それなら表示行ではどうか。表示行は80バイトに決まっている。しかしこれも0.3秒待ちの悪夢から自由ではない。テキストの頭のほうに書き足してゆくと、新たな表示行が生じるたびに0.3秒待つ必要がある。
 こうした事情に直面して、私はついに車輪を再発明した。プログラミングを学んだことのある人なら、すでに正解はおわかりだろう。双方向リンクリストだ。
 これを発明したとき、私は自分が天才ではないかと思った。事実は、ただの勉強嫌いの中学生にすぎなかった。双方向リンクリストは、今ではどんな入門書にも書いてある、ごく基本的なデータ構造である。
 双方向リンクリストをもとに、データ構造にさらに工夫を加えて、メモリの利用効率と速度を両立させ、さらに行数が常に把握できるようにもした。詳細は省くが、長くリンクが続いている論理行の先頭を一文字削除するとき、リンクの後ろまで延々とたどってメモリ移動をせずにすむような仕組みをデータ構造に持たせた。この工夫は今でも、我ながらよく考えたものだと自画自賛している。
 こうして私は勉強の大切さを知り、まじめにプログラミングを勉強して立派なプログラマーになった…とはいかない。勉強の過程で、もっと大切なことを知ったのだ。
 ワインバーグの著書のどれかに、エレベータの待ち時間の話がある。
 ある人のところに、エレベータの運行のアルゴリズムが悪くて待ち時間が長いという苦情があるから、直してくれという依頼がきた。この依頼を受けて、その人は、各階のエレベータ扉の横に鏡を取りつけた。苦情はぴたりと止んだ。エレベータがくるまでのあいだ、待っている人は鏡で自分の姿を見るので、待たされることがあまり苦にならないからだ。エレベータの運行のアルゴリズムを改良することよりも、待たされる苦痛を取り除くほうがより根本的で簡単な解決法だった、という話だ。
 これを私流に解釈するとこうなる。「プログラミングはできるかぎり避けよ」。プログラミング以外のあらゆる方法で問題にアプローチし、どうにもならないときにだけコードを書けばいい。だとすれば最後の手段のためにあらかじめコツコツ勉強するのは効率の悪い話だ。問題解決のために幅広くアプローチできる知識と創造力と観察力を鍛えるほうがずっといい。
 私の作ろうとしたテキストエディタにも、これが当てはまった。この立派なテキストエディタを作ろうとしたとき、私はすでに、粗悪ながらも反応速度だけは十分な、正常に動くテキストエディタを完成させていた。そして私の用事は、すでにある粗悪なテキストエディタで十分間に合ったのだった。
 かくして私はいまだにプログラミングをちゃんと勉強していないのである。

8月6日

 CLAMPが男性向け創作…ではなく青年誌(ヤングマガジンUppers)に進出している。ただし、現在のところまんがはなく、イラストだけらしい。昨日UppersのカラーページでCLAMPの名前を見たときには、なにかの冗談かそれとも熱のせいで幻覚を見ているのかと思った。
 CLAMPには、デッサン力のすば抜けているメンバーがいないので、あまり裸には向かないと思う。裸の道は遠く険しい。

 裸でふと思い出した。
 その昔、PCドルフィンという雑誌があり、この表紙が一時期、百合的にかなり良いものだった。ボンデージ系とかわいい系、というありがちなパターンだったが、絵から二人の関係がなんとなくうかがえて、その関係がとても良かった。(私が勝手に空想していただけかもしれないが)
 これは百合的に見所のあるイラストレーターだと思って一時期チェックしていた。ところが、のちに出た画集のコメントによれば、あれは編集者の注文どおりに書いただけらしい。大した編集者である。知られざる百合の才能はいろんなところにいるものだ。

 あえてどことは言わないが、技術ネタを載せている某ページが、Windows for Workgroup(WfW)をWGWと書いていた。最初は「ああFとGってキーが隣だしな」と思ったが、繰り返しWGWと書いているので本気で間違えているのだとわかった。私もひとごとではない。校正がないというのは実に恐ろしいものだ。
 そのページはさらに、「ノートパソコンにWindows98を入れるのは悪くない」と書いている。嘘だ、とまでは言わないが、疑問だ。Windows98のインストール時のトラブル報告の大半は、ノートパソコンでのものである。ノートパソコンのハードは癖が強く、ハードの自動検出にとってはきわめて厄介な相手である。腕に覚えのある暇人でないかぎり手を出すべきではないし、またそれほどの腕と暇があるなら据え置き型へのインストールを恐れる理由はない。
 ちなみに私のマシンにはすでにWindows98が入っている。私の意見は、「入れたければ入れれば?」である。Windows98を入れるのはちょっとした博打だが、どのみちパソコンはいつでも博打だ。危険の計算はなにひとつ保証しない。この本質から目を背ける輩の言うことはすべて眉唾ものである。

8月5日

 2週間ほど前からずっと風邪をひいていたが、今日ようやく熱が出た。私が風邪にかかるとしつこくて、熱が出るまではいつまでも体調をかき乱しながら潜伏しつづけるのだ。喉にちくちくするような痛みを感じたが最後、途中で治ったことは一度もない。

 Daytona USA 2、直角コーナーのところを再検討している。今まではドリフトしながらクリッピングポイントを通過していたが、弱くブレーキングしながら通過すべきではないか。そのままグリップ走行を続けると無理めの速度と角度で突っ込み、後半でドリフトに入ってクリアするという寸法だ。
 ちなみに昔話をすると、Virtua Racingの上級の、ヘアピン前の直角コーナーは、エンジンブレーキだけでクリアできる。これを発見したときは嬉しかった。ふわっとアクセルを浮かすタイミングと量が難しく(完全に離すと横にすっとぶ)、またアクセルの特性が台ごとに非常に違ったので、うまくいくことはめったになかったが。

8月4日

 「白百合館の変な人たち」を読み終えた。傑作とは言えないものの、百合ストなら当然本棚にあってしかるべき一冊ではある。

 「機動戦艦ナデシコ 傑作選」を見た。
・ルリルリの髪は、芯に針金かなにか入っているのだろうか。
・「なぜなにナデシコ」は楽しい。
・百合がほとんど出てこないのが嫌。
・見る人を選ぶ、正しい娯楽作品である。
 劇場版のビデオが楽しみだ。

 Daytona USA 2、車種をハードATに転換した。対戦をやったことがないのでわからないが、違う車種を選べるのなら、ノーマルとハードでは勝負にならない。なにしろベストラップが2秒違うのだ。
 ノーマルと比べると、悪いのはスピンしやすいところだけで、あとは全面的に優っているように思える。特性に慣れ次第、MTに転換する予定である。

8月3日

 「白百合館の変な人たち」を途中まで読んだかぎりでは百合中心に展開している。しかし、なにを言うにも主人公は男である。かえすがえすも不覚だった。

 戦前から開戦直後にかけて、日本の軍部は「世界四大要塞」なる概念を宣伝していたらしい。メンバーのひとつはシンガポールである。これが「大」の名に値するかどうかはともかく、20世紀も半ばというご時世でも一応は要塞らしい体裁をしていたところではある。問題は残りの三つで、これがわからない。
 とりあえず、あれだけ死人を出して落とした歴史を持つ日本軍としては、旅順は外せないだろう。インターネットで検索したところ、小笠原諸島の父島もメンバーだったらしい。もちろん要塞と呼べるようなものはなかったので、ドクター中松とエジソンを並べるくらいの誇大広告だ。このぶんだと、残りのひとつもかなり怪しい場所ではないか。ハイラルならまだマシなほうだろう。マジノ線をこじつけて要塞呼ばわりする手もある。セバストポリというまっとうな選択もあるが、これだとメンバーの選定時期が問題だ。
 いずれ調べてみよう、とは思うものの、どこを調べればよいのやら。日本軍マニアに聞くしかないような気がする。

 今日のベストラップは45秒12。44秒台は見えた。といっても44秒前半を出さないとコースレコードにまったく届かないのだ。
 よく見てみると、ATとMTの差は最高速度では1%だった。私がいま詰めようとしている差は2%である。嫌な暗合だ。やはりMTに転換すべきか。

 なお、この日記は、間違いに気がつき次第、予告も注釈もなしに書き換える。あしからず。

8月2日

 森奈津子の新刊「白百合館の変な人たち」(プレリュード文庫)を発見。一週間以上も前から店頭に並んでいたのに、プレリュード文庫なんか見ると目が汚れるので、今まで「見えども見えざる」状態だった。不覚。(今日の格言:「本屋百遍」)
 見敵必買を実行して家に帰り、あとがきを見ると、主人公は男の子と書いてあった。ダブル不覚。

 最近Daytona USA 2をやりこんでいる。コースは中級、クルマはノーマルAT。一応ドリフトのコツをつかみ、ラップタイム46秒前半、トータル3分10秒くらいで回れるようになった。
 私が通っているゲーセンの台では、コースレコードは3分2秒と出ている。ラップタイムでもう2秒は縮まる、ということだ。現在の私は、ドリフトから復帰するときのアクセルワークがぬるいので、直角コーナーで0.3秒、ヘアピンで0.6秒、最終コーナーの立ち上がりで0.4秒は確実に縮まるという感触はある。しかしあと0.7秒が縮まるとは思えない。これがATとMTの差か? 早めにMTに移行したほうがいいのだろうが、私はDaytonaのあのシフトレバーがどうにも好きになれない。なにしろ私はVirtua Racingで育ったのだ。

8月1日

 ホームページの更新作業が思うように進まないので、日記でも載せてみることにした。
 思うように進まないといっても、道中に山賊やゲリラが潜んでいて毎日のように襲撃されたり、不可解な理由で一歩前進二歩後退していたりするわけではない。ただ単にやる気が起きないというだけだ。それで毎日なにをしているのかというと、本を読んだり、昔書いたコードに手を入れたり(今日の豆知識:Visual C++5.0はSPを入れないとマトモに動かない)、夏を楽しむべく散歩して汗だくになったりしている。もちろん一番のやる気は次なる作品の構想へと注がれているわけだが、どうも「間の楔」に匹敵するハードでアレな代物になりそうなので、なかなか覚悟が決まらない。積ん読状態の「幼馴染み」でも読んで頭を冷やすべきか。
 そうそう、やる気の話だ。
 知っている人は知っているだろう。やる気という問題、実にやっかいなものである。私は一時期、努力努力と呪文のように聞かされた時期があった。その経験をへて、努力という呪文を鼻で笑う自信をつけるに至った。努力とは口で言うものではない、するものだ。なぜ努力するのかといえば、それはその人が努力する運命にあるからだ、と。
 そう、ついでに言えば、私は一種の運命論者でもある。浅薄な合理論を唱える人間は、タバコを吸う人間と同じくらい馬鹿で有害だと信じている。根室教授は言った、「機械には目的がない」。合理論とは機械のはずだ。もし機械でないとすれば、目的を持っていながらそれを隠していて、うかつな持ち主を操ろうとするトロイの木馬だろう。
 かくして私は、運命の魔の手がホームページ更新へと私をいざなう日を待ちながら、とてつもなく邪道なスタイルで書かれているためとても人には見せられないコード(しかし私の卒論はこのリストでページを水増ししてある。誰かあれをこの世から消滅させてくれ)をつついたり、夜ベッドの上で愉快千万な構想を練っては我ながらあまりのアレさ加減に身をよじったり(実際にベッドの上で身悶えする。本当だ)しているのである。あしからず。


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