中里一日記

[先月の日記]

1998年9月

9月30日

 エロティカという概念(今月24日の日記を参照)について再考した。
 「ポルノは教科書、強姦は実践」というのは有名なフェミニズムのテーゼである。このテーゼを修正しようとすれば、たちまち政治的な困難に出会う。政治的な困難を回避しつつ、「正しい」ポルノをフェミニズムに導入するための便宜的手段として、エロティカという概念を評価すべきだ、と考えなおしたのだ。
 こう考えてみると、改革への意思は評価できる。しかしやはり、政治によって作品に特権を与える概念であることは否定できない。
 目的が手段を正当化するかどうかは程度の問題だ。程度の問題をどう判断するかはまさに価値観であり、人によって千差万別であろう。読者がどう考えるかは知らないが、私にとって、エロティカという概念の目的は、その政治的な臭みを補うのに十分ではない。

9月29日

 今月のラジオライフが、警察のデジタル無線解読についての記事を載せている。
 なにより驚いたのが、暗号鍵312ビットというのは見せかけではなく、312ビット全部が有効であるらしいことだった。それが2週間ほどで、大量の計算もなしに解読されるのだから、暗号化方式と運用のどちらかに根本的な欠陥があるとしか考えられない。
 警察は当然、新しい無線システムと暗号化方式を開発して採用するのだろう。今度は10年くらい持つようなシステムにしてほしいものだ。あと核○(一部誤字・伏せ字)には暗号鍵の解読方式を公表してほしい。

 ISAバススロットのない、PCIとAGPだけのMBがどこかから出るらしい。しかしスペックを見ると、PS/2マウス、キーボード、シリアル、パラレル、FDDと、存在すべきでないデバイスがごまんとある。全部無効にして使うのが人として当然だが、たとえ無効にしていても、ああいうものはついているだけで気分が悪い。全部なしのMBが早く出てこないものだろうか。ああいう無駄を全部削れば、かわりにIEEE1394をつけるくらいのコストが浮きそうだ。
 マウスもキーボードもシリアルもパラレルも全部USBである。FDDは無しにしたいが、それだとWindows98で不都合が起こるらしいので、IDEにLS-120をつける。古い無駄と一切無縁のPCはもう目の前なのだ。
 ただしその前に、私の場合、従来のキーボードをUSBにつなぐ変換機が出てくれないと困るのだが。

9月28日

 HDDのアクセス頻度が妙だと思ってウィルスチェックをしたら、最近噂のトロイの木馬、BackOrificeをつかまえた。
 ウィルスならまだしも、トロイの木馬というのはほとんど不品行の証明に等しいので、あまり自慢にならない。日頃の行いが悪い読者は、ウィルスチェッカのデータを常にアップデートしておくことをお勧めする。

9月27日

 短篇のあらすじが進まない。
 技術的にはなんの問題もないが、書くときの精神状態が問題だ。正気では書けない。正気がふっとんでいる瞬間を使って、少しずつ書いていくしかないのだ。
 よって、あらすじを読んで「中里一(中里一成)ってこういう奴だったんだ」とはあまり思わないでいただきたい。この日記のほうがずっと実像に近い。嘘ではない。本当のことだ。

 小Jのフジミを読んでいて気がついたのだが、ハシラの「フジミ使用上のご注意」には少し問題がある。「あなたの恋人への評価基準として用いないこと。腹上死を招く危険があります」というところは、「あなたの男性の恋人への~」とすべきだ。恋人が女性の場合、意味が通らない。
 それにしても、冒頭の「二十四歳と十ヶ月」を読んで、愕然とした。私は悠季と同い年になってしまったのだ。にわかには信じがたい事実である。さらに言えば、フジミの最初の頃の悠季よりも年上なのだ。おいおい冗談だろ、と思ってみてもやはり事実である。うーむ。

 小説道場を見たら、全3ページのうち1ページの半分くらいがイラストで埋まっていた。こんなにも「おお注目作!!」に値する投稿作は少ないのか。門番の皆様もご苦労様である。
 他の投稿作の評価を見るかぎりでは、私のは珍しい分だけ底上げされている可能性がある。もし読者が小説を書いていて、「どうしても小説道場にあらすじと評価を載せたい」という場合は、百合を書くのも手かもしれない。

9月26日

 うっかり小Jを買ったら、財布がすっからかんになってしまった。きゅう。
 それにしても小Jは高い。A5の308pで780円である。ちなみにヤングユーはB4の390pで350円。部数と広告料のことや、まんが雑誌は利益を出さないで作る(利益は主に単行本から出るらしい)ということを割り引いても、ずいぶんな差に感じる。ほかのJUNE系雑誌もこんなに高いのだろうか。

 大学のサークルの、地方から上京してきた後輩が、東京のさまざまな物事に触れてショックを受けていた。
 アキバでエロ同人誌を買っては「ドラえもん本ですよ!」と驚き、即売会で女性のエロまんが作家を見ては「なんで女がエロまんが描くんですか!?」と悩んでいた。まるでテレビや電話に驚く原始人である。愉快だ。

 「CLAMPが描いた裸絵を見せびらかして、CLAMPのファンを泣かせる」作戦(先月11日の日記を参照)が成果をあげた。ふはははははは。
 ただ、その人はファンというほどCLAMPが好きではない人だったので、まだ序の口ともいえる。真のCLAMPファンを撃沈しなければ作戦の意味がない。
 私は、昔はあまりCLAMPは好きではなかったが、あるとき雑誌のハシラ(左右の余白)の近況報告に、「『もう涙は見せない』というTVドラマにハマッてます」と書いていたのを見て、好きになった。
 『もう涙は見せない』というのは、4年ほど前に放映された、サスペンスでハードボイルドっぽくてチープでデタラメな連続TVドラマである。私は大好きだったが、まったく人気が出ず、私の周囲には知っている人は皆無だった。
 だから、このハシラを見たとき、「やはり見る目のある人はちゃんと見ているのだ」と思って感動した。それ以来私はCLAMPのファンである。といいつつ、作品はあまり読んでいないのだが。

9月25日

 今日は私の誕生日である。
 毎年誕生日がくるたびに、よくこの歳まで生き延びてきたものだ、と自分を褒めてあげたくなる。私の命は私の勲章だ。
 といっても、今までの人生をすべて合計して、生き延びたほうがよかったかと考えてみると、あまりそうとは思えない。昔のことだから別にどうでもいいのだが。私は未来に生きるのである。

 親しくしている人から、誕生日のプレゼントに腕時計をもらった。私はくれるものはもらう主義だが、その人の財政はあまり豊かではないので、やや高いものをもらうと少々心苦しい。それに、私は腕時計を持つと必ずなくすので、持たないことにしているのだ。ますます心苦しい。

 このあいだ完成した短篇を小説道場に投稿するにあたって、原稿に同封するための編集部への手紙を書いている。
 小説道場に投稿しはじめてから長いが、これはいつも難しい作業だ。知人には読まれたくない作品につける場合にはいっそう難しい。
 さらに、あらすじを書くという苦行も残っている。小説道場では、私の投稿のあらすじは誌面に載る確率が高い。だからこれは小J読者を百合へと導く、数少ない窓なのだ。あだやおろそかにはできない。

9月24日

 疑うことを知らない純真な読者がいるとまずいので念のために断っておくと、この日記は事実のみを記しているとは限らない。特に私のプライベートに関しては。

 久しぶりにホームページ検索エンジンで「百合」を探してみたら、私の知らなかった百合サイトがずいぶん出てきた。内容がかなり充実しているところもある。リンク集に加えたいところだが、ただ、ポルノを百合に含めているサイトをどう扱うべきか迷う。
 ポルノ自体が悪だと考えているわけではない。ある意味で、ポルノとは性別のようなものだ。性別の存在自体は善でも悪でもないが、あまりにも多くの嘘とごまかしが性別を隠れ蓑にしてきたし、現在もしている。性別にまつわることを語るときには、嘘とごまかしを知らず知らずのうちに採用していないかどうか気をつける必要があるし、また誤解を招かないようにするために言葉は冗長になる。
 ポルノもまさしくそういう存在である。香織派が百合の定義に「非ポルノ」の条項を入れているのは、一つには、百合をくだらないごたごたに巻き込まないようにするためだ。無論、ポルノでないからといって「嘘とごまかし」を避けられるわけではないが、ごたごたに巻き込まれるおそれはいくらか減る。それに、私の感触では、ポルノの枠内での百合にはあまり将来性がない。この方面での百合の可能性を追求するなら、「ポルノ」や「エロティック」という概念そのものを変革する必要があるだろう。
 ちなみに、かつてフェミニズム関連方面で「エロティカ」という概念が使われていたことがある。現在も使われているかもしれないが、最近はあまり聞かない。どういう概念かといえば、「嘘とごまかし」のないポルノのことらしい。それなりに普及した概念らしいので、それなりの必然性があっての発明なのだろう。
 だが、エロティカという概念の推進者が、「同じ作品が、ある文脈ではポルノで、別のある文脈ではエロティカである、ということはありうる」と発言したのを見ては、疑問を感じないわけにはいかない。作者と読者が「悪い」なら白も黒になり、「公認された」作品を「よい」読者が有難がって読むなら黒も白になるのか。これでは、エロティカという概念は作品に関するものではなく、作者と読者に対する政治的なレッテルと見られても仕方あるまい。こういう種類の政治を私は嫌悪してやまない。

9月23日

 上野千鶴子「ナショナリズムとジェンダー」を読んだ。よくわかり、役に立つ本である。
 著者の主張に100%同感ではないが、私は少なくとも、新聞記事が強姦という言葉を言い換えないようになることを願うものの一人である。

 ある友人(女)が、「自分の子供をちゃんと育てなくて悪い子になったら、それは自分のせい。ちゃんと育てたのに悪い子になったら、それは社会のせい」と言った。私は爆笑したが、彼女はなにがおかしいのかわからないようだった。
 こういう人々が子供を育てても、世界はそれなりに続いていくのだから、人間というのはなかなか捨てたものではない。

9月22日

 ひょんなことから知ったのだが、アフガニスタンにいた頃の知り合いの一人が、いま日本に出稼ぎにきているらしい。パスポートはパキスタン人のものだという。
 彼は難民のはずだが、日本に来る金はどこからひねり出したのだろう。地主か大商人でもないかぎり、どうやっても出せる額ではない。

9月21日

 サッカーのセリエAの、中田が出たらしい試合をTVでちらっと見たら、伝送経路でMPEGらしき圧縮が使われていた。
 画面に動きがないあいだはまったく問題ないが、動きがあると、デジタル圧縮特有のモザイク模様がかなり目立った。どれくらいのビットレートだったのだろう。もしあれが4Mbpsだったら私は悲しい。

 昔、Windows95が出た当時、「Windows95にしてなにかいいことがあるか」と人に問われて「ロングファイルネーム」と答えたら、相手はなんと、「あんなもんいらんよ」と答えた。MS嫌いもここまでくれば立派なものだ。と、当時は思っていたが、どうやらアンチMSという連中はみんな平気でこれくらいのことは言うらしい。
 しかし、いらないといえば確かにいらない。DOS時代にはちゃんと8・3で用が足りていたのだから、ロングファイルネームなしでも人は死なないのだ。そのかわりDOSは死んだかもしれないが。

 上野千鶴子「ナショナリズムとジェンダー」を読み始めた。いろいろな流れがよくつかめるので役に立ちそうである。

9月20日

 マチダを散歩した。
 メディアバレーというパソコン屋をうろついてみたら、両面5.2GBのDVD-RAMメディアが4000円というのを見つけた。DVD-RAMドライブがまだあまり普及していないわりには安い。もしかすると、よく言えば戦略的な価格付け、悪く言えばダンピングなのかもしれない。
 それでもやはりまだ高い。CD-Rに比べると容量が8倍、価格が20倍である。半分の2000円まで下がればDVD-RAMに分がありそうだが。

 USBを入れたついでにIRQをいじって遊んでいたら、BIOS設定でsecondary IDE controllerをdisableにするとIRQ 15が空くことに気がついた。たしか前は空かなかったような気がする。MBのBIOSを3.05に上げたせいだろうか。
 IRQ 15が空いたので、ビデオカード(Millenium)のIRQをそこに当ててみた。別にどうということもないが、微妙に速くなったような気がする。IRQの番号が大きいほど割り込みの優先順位が高いらしいので、そのせいかもしれない。

 さる事情により、さる女子校の学園祭に行った。
 生徒がみなあまりにも若く見えるので驚いた。中学生と小学生があまり違わないように見えるのである。私も歳を取ったものだ。
 かくいう私が、あの連中のようなのを主人公にして小説を書くわけだから、考えてみればすごい話だ。もっとも、私の書くような小説を、あの連中のようなのが書いても、それはそれですごい話ではある。

 若さといえば先日、「どれくらいまで若くても恋愛対象としてOKか」という話をしたとき、「頭の中身が鷲羽なら、外見が砂沙美でも全然OKだよね」と発言したら、誰も賛同してくれなかった。なぜだ。

9月19日

 かつて中国には、裏庭煉鋼炉というものがあった。「大躍進政策」の象徴だ。
 これがなにをするものかといえば、伐採した木を燃やし、鍋・やかん・農機具などを溶かして、まったく使い道のない屑鉄を作るものである。この屑鉄を鉄鋼生産として計上すると、魔法のような経済成長のできあがり、という仕組みだ。こうして中国は毛沢東の指導のもとに「大躍進」し、人類史上最大の飢餓を引き起こした。
 しかし考えてみれば、GDPやGNPという数字も、裏庭煉鋼炉からそう遠くないところで作られる、と感じるのは私だけだろうか。たとえばバブル時代、建てたばかりのビルを壊して新しいビルを建てる、ということがよく行われた。まさに裏庭煉鋼炉だ。

9月18日

 私はその昔、といってもほんの数年前のことだが、朝日新聞夕刊の題字下の欄を毎日楽しみにしていた。現在は「素粒子」という、愚にもつかないものが載っている部分である。
 そのころのタイトルは「きょう」だったか「あした」だったか、たしか「あした」だったと思う。その日付けに起きた過去の出来事に題材を取って、適当なことを書く欄だった。
 なぜそんなものを楽しみにしていたかといえば、これが実に頻繁にホモネタを出したからである。確か二週間に一度くらいは必ずホモネタを出していた。またそれ以外の日も、なんというか、微笑ましくかわいらしい文章がいつも載っていた。新聞屋の書くコラムなど、たいていはどうでもいいものにしかならないが、これはどうでもいいなりにかわいさがあった。
 書いているのはいったい何者かと思って署名に注目していたら、河谷史夫という人物だった。その後、朝日新聞の編集委員として名前が出ているのを見ると、おそらく五十歳くらいの人だろう。現在も読書欄の書評をほぼ毎週書いており、これもまたいつもかわいい。
 男が五十歳にもなって、かわいいのが芸風というのもなんだが、それで全国紙の編集委員になれるのだから、それはそれでいいのかもしれない。私は真似したくないが。

 アキバでUSBのコネクタを買った。MBにはピンが出ているけれど、コネクタは同梱していない、という場合に必要になるあれである。ちなみに私が使っているのはP55T2P4、かつてバスクロック83MHzで有名になったMBである。去年、さる親切な人からもらったものだ。
 コネクタを買ったといっても、今すぐにUSBデバイスをつなぐわけではない。いずれジョイスティックとマウスをつなぐ予定だが、当面は空いたままだ。なのになぜ今買ったかというと、USBデバイスを買うまで待っていると、このMB用のコネクタが店頭から消えてしまうのではないか、と懸念したのだ。こういう小物は、いったん見かけなくなると探すのが難しい。
 ジョイスティックはともかく、USBマウスは早く買いたい。理由は話すと長くなるので省略するが、私はISAバスが憎い、とだけ言っておこう。

9月17日

 今日、援蒋ルートを通じて森奈津子のホームページの存在を知った(一部嘘)。さっそくリンクに追加しておいた。セクシュアリティに関するところは一読の価値がある。
 そういえば、香織派はセクシュアリティの問題にはあえて触れていない。私はセクシュアリティという言葉が嫌いなのだ。この言葉は、政治の匂いがする。政治は社会だが、生命ではない。
 ケン・ブラマーの「セクシュアル・ストーリーの時代」という本が、このへんの違和感をいくらか伝えてくれる。セクシュアリティについて考える人にはぜひ読んでいただきたい。

 以前、720MBのCD-Rがあると書いてしまったが、私の思い違いだった。720MBではなく690MBだった。
 CD-Rよりもバイト単価の安いメディアをちょっと探してみたが、ドライブとメディアのどちらかが冗談のように高いものしか見当たらない。外付けで20連装くらいのCD-Rドライブを個人向けに作れば売れるかもしれない。

9月16日

 短篇を9割方書き終えた。
 私の書くお姉様キャラは、お姉様が主人公でない場合はたいてい悪党のマキャベリストなのだが、今回は比較的いい人になっている(あくまで「比較的」)。小説道場に送るときには、投稿用紙のテーマの欄には「性格のいいお姉様」と書こう。
 現代のお姉様たるものマキャベリストでなければならない、と思うのは私だけだろうか。マッチョ的に強くある必要は微塵もない。肺結核にかかっていてサナトリウムで療養中でもいいし、笹川良一のごとくうさんくさいまでに偽善的でもいい。が、マキャベリ的に弱いのはいただけない。社会という枠組みに頭のてっぺんまで漬かった、社会の提供するロールモデルどおりの恋愛物でさえ、原理原則どおりの綺麗ごとだけで押し通すには無理がある。枠組みもロールモデルも乏しい女性同性愛ならなおさらだ。
 日本ではどういうわけかマキャベリストの主人公はあまり人気がないようなので、主人公をマキャベリストにするのはあまりいい方策ではない。そのかわりに、マキャベリ的強さはすべてお姉様に任せて、主人公はのほほんと泣いたり笑ったりするというわけだ。
 こうしてみるとお姉様というのは損な役回りだ。よほど主人公がかわいくなければ割にあうまい。私としては、せいぜい頑張って主人公をかわいく書くこととしよう。
 といいつつ、この短篇の主人公はあまりかわいくない。書いている途中に感じた駄作感の原因はこれか、と今ごろになってやっと気がついた私である。カラミで多少かわいくなったので、駄作感はやや薄れたが。

 それにしても、駄作感は一応まぬがれたものの、「知人には読まれたくない感」はかなり高くなってしまった。
 私の書く小説はおよそ三種類に分類できる。大駄作、知人には読まれたくない作品、受けの悪い作品である。具体的にどれがどれとは言わないが、読んだ人にはわかるのではないかと思う。この三種類のなかでどれが一番受けるかといえば、言うまでもなく、知人には読まれたくない作品である。恐るべき事実だ。
 知人には読まれたくない作品でも、知らない人に読まれるぶんには別にどうでもいいのだから、不思議といえば不思議だ。知らない人だからどうでもいい、と思っているわけではない。森奈津子の「耽美なわしら」で彩子が抱いていたような、作者に対するとんでもない理想的イメージを持たれないようにと、いろいろ気を使っているのだ。この日記はそういう活動の一環でもある。なにしろ小説がああなので、なにもせずにいると誤解者が大量発生しそうで恐い。知らない人だからどうでもいいと思えるなら、わざと誤解を招くのも楽しそうなのだが。

 宮川匡代の「ONE」を読み終えた。
 疾走するアキオ・カーを横から見ているような気分だった。アクセルべた踏みである。止マレ止マレ止マレと地面にペイントしてあるのが見えないのだろうか。
 ただ、「すぐ泣く」というような非難はあまり妥当でないと思う。主人公が泣いたからといってどうという話ではない。主人公がさっぱり成長しないのも、現実はこんなもんだから、と思って読める。困るのは、水戸黄門の印籠のごとくに毎回欠かさず泣くシーンが出てくることで、これは感心しなかった。「アクセルべた踏み」と表現した所以である。
 たぶん、単行本で読む話ではないのだろう。連載で読めばずいぶん印象が違ったはずだ。

9月15日

 「これ、なんか読んだことあるような気がするなあ」と思いつつ宮川匡代の「ONE」を読んでいたら、主人公の誕生日が私と同じ9月25日である。これで思い出した。確かに昔、読んだことがある。この主人公のことだから、二日違いで乙女座にならなかったとかいってまた変なことを考えるに違いない、と予想したことも思い出した。
 9月は23日まで乙女座なので、誕生日を人に教えたときはよく「乙女座?」と訊かれる。だったらどうだというのだろう。世の中には乙女座のヤクザもいるのだ。

 9月7日の日記に書いた、コーラと間違えて氷入り醤油を出した店が訴えられた話には、ちょっとした続きがある。
 原告は、醤油を一気に飲んでしまい、それで健康を害したとして損害賠償を求めた。それに対して店の店長は、自分で醤油をコップ一杯飲み、「このとおりなんともない」と主張したという。
 一応それなりに筋は通っているので、新聞で読んだときにはどうとも思わなかったが、この話を人にしたところ受けがよかったのでここにも書いておく。
 それにしても、健康を害するほど大量に飲んでしまう前に、醤油だとわからなかったのだろうか。店は起訴事実では争わなかったようなので、店が氷入り醤油を出したことも、それを客が大量に飲んでしまったことも事実らしい。氷入り醤油を出す店も珍しいが、こういう客も珍しい。まさに盲亀の浮木だ。

9月14日

 私は司法の方面にはあまり明るくないのでうろ覚えなのだが、昔、殺人事件の重大な証拠となった写真に写っていたバッグの模様が、実物とは少しだけ違っていた、ということがあったような気がする。また政治がらみの事件ではいろいろと噂を聞く。
 こういうことを調べあげた本があれば読んでみたいのだが、見当たらない。殺人や自殺の本よりはるかに有益だろうに。

 最近、毒入り飲料事件を自作自演する輩が多い。
 連中の動機は何なのだろう。こんなことをしても、警察の取り調べを受けるだけで、なんの得にもならないとしか思えない。それとも、もしかして実はこの世には、警察の取り調べを受けるのがなによりも楽しい、取り調べマニアとでもいうべき人々がいるのだろうか。不思議だ。

 「霧島診療室の午後」は、どうやら問診のときに質問を選ぶ順番がポイントらしい。3択で10回だから5万通り以上の組み合わせがあることになり、調べ尽くすのは無理だ。攻略本を読むしかない。

9月13日

 Yahoo!掲示板の某コーナーで、宮川匡代の「ONE」が話題になっている。話を見るかぎりではどうやら「BOYS BE…」に比肩しうるほどいかれたまんがらしい。これはぜひ読まねばなるまい。
 宮川匡代といえば昔、「上級生」というのを全巻セットで買ったところ、読んでもさっぱり意味がわからなかったので1巻で放り出した、という経験がある。惜しいことをした。ちゃんと理解しようと努力していれば、さぞ面白いものが読めただろうに。

 「霧島診療室の午後」というエロゲーをやった。なかなか愉快な小品である。
 しかしCGの達成率(エロゲー特有の概念で、用意してある裸のCGをどれくらいまで見たか、という値)を上げるのが難しい。病院をサボるのがポイントなのかもしれない。今までやったかぎりでは、サボってもなにも起きなかったが。

 Daytona USA 2、43秒の壁を破るための手がかりをつかんだ。
 私と同じくDaytona USA 2を攻略している某氏によれば、シフトで減速するのがコツらしい。それも、4速から3速に落とすのではなく、一気に2速まで落とす。さらにそこから3速を経由せずに4速に戻すのだという。
 明日からさっそくこの走法に切り替えねばなるまい。私はあくまでコースレコードを目指すのである。

9月12日

 長年パソコンを使っていると、不思議な勘が働くようになる。トラブルが接近する気配を感じ取れるようになるのだ。これまで一度もHDDのクラッシュにあわずにいるのは、この勘のおかげだと自分では思っている。
 ちょうど昨日、その気配を感じた。そこで私は、重要なファイル(つまり作品)をログアウト時に自動的にバックアップするようにした。昔も同じようなことをしていたが、ずいぶん前にWindowsを再インストールしたあと、設定するのが面倒でなにもせず放ってあった。
 私の勘は当たった。ただし、トラブルが起きたのはメインのパソコンではなく、モバイルギアIIのほうだった。
 勘を当てることはできても、役に立てるのは難しい。

 モバイルギアIIのRAMが飛んだ。WindowsCEではRAMにファイルシステムを置くので、これは普通のパソコンでHDDが飛んだということに等しい。
 これまで五ヶ月ほど使ったうちに二回RAMが飛んだ。どうやらWindowsCEというのは、CFカードなしで使うものではないらしい。

 パソコンには一つの鉄則がある。「要素の数を減らせ」だ。
 要素の最たるものはパソコン自体である。二台のパソコンは、一台のパソコンにくらべて倍の数のトラブルをもたらす。トラブルを楽しむのでなければ、使用するパソコンの数は可能なかぎり減らしたほうがいい。
 これはソフトにも言えるし、HDDにも言える。使うHDDが多いほど、HDDのクラッシュに見舞われることも多くなる。HDDのクラッシュというのは、ある日エラーを返して黙りこむ、というような性質のいいものばかりではない。ユーザの時間と神経を削りとりながら、何週間もかけて壊れてゆくこともある。ソフトのトラブルならなおさらだ。
 しかしこの鉄則は、鉄則の常として、厳密に実行するのは不可能に近い。かくいう私も、モバイルギアIIとThinkPad220とミニタワーの三台を使っている。どれも使わざるを得ない理由があってのことだが、鉄則に反していることには疑問の余地がない。
 いつか、手帳のように小さなマシン一台ですべてが済むようになればいいのだが。日本語の手書き認識、音声入力とキー操作と視線入力を統合したインターフェイス、高解像度で小型軽量のヘッドマウントディスプレイ。どれも、すぐに手が届きそうでいて、なかなか遠い。

9月11日

 ソニーの新しいマイクロタワー型VAIOのスペックを見たら、喉から手、目からビーム、鼻からエクトプラズムが出そうになった。なんと、MPEG2リアルタイムエンコーダボードつきである。
 私はビデオテープがあまり好きではない。巻き戻すのにも時間がかかるし、編集も難しい。昔、ほんの一時期、CMをカットして録画することに熱中したが、あまりにも難しいのですぐにやめた。
 相手がHDD上のファイルならすべて解決する。巻き戻しも早送りもない。フレーム単位でCMをカットすることもお茶の子さいさいだ。
 そして、デジタルである。デジタル録画、なんという甘美な響きだろうか。将来、10GBクラスの安価なメディアが登場したら、TVアニメの1クールが一枚のメディアに収まるようになる。わざわざメディアに入れなくても、1GBやそこらのファイルを簡単に送れる世の中になるかもしれない。こう考えると、さっそくこの秋のクールから、将来マニア的に価値の出る番組(そんなものがあるかどうかはともかく)を録画してCD-Rに保存しておきたくなる。
 …と、こういうことを数秒のうちに連鎖反応的に考えさせて、猛烈な購買衝動をかきたてるのがソニーの手なのである。
 たまにならともかく、いつもこの手にかかってはいられないので、なんとか対抗しなければならない。たとえばこんな具合だ。
 現実問題を考えると、まずエンコーダの性能が怪しい。MPEG2の仕様を詳しくは知らないのではっきりしたことは言えないが、第二、第三世代のエンコーダに比べて画質の面で劣っている可能性がある。
 それに、エンコーダの載ったボードはTVチューナーを内蔵しているのだが、このTVチューナーがどんなものかわからない。どうやらゴースト除去チューナーではないらしい。いったんデジタル変換したあと、アナログに一度も戻すことなくエンコーダに渡すようになっているかどうかも微妙だ。
 また、ファイルのままメディアに保存しておこうとすると面倒が多い。エンコーダの仕様で4Mbpsが最低のビットレートになっていて、これが狙いすましたような嫌な値だ。CD-Rの容量は650MBなので、4Mbpsなら一枚に21.6分入る。民放の30分番組が、CMをカットしたあとの状態(24分ほど)でぎりぎり入らない長さだ。複数のメディアに分割するのは面倒なことこの上ない。
 さらに、ちょっと調べてみたところ、4Mbps時の解像度は480×480となっている。これは明らかにVHSより上だが、問題なしとするにはためらわれる。
 かくして私はソニーの術中を脱し、「ミラーリングでHDDの高速化を」や「NTとデュアルCeleronAでマルチタスク時の反応速度向上を」といった、もっと堅実な考えかたを取り戻したのだった。

9月10日

 山田南平の「紅茶王子」を4巻まで読んだ。百合はないものの、百合気分は満点である。百合ストなら要チェックだ。

 紅茶にはいろいろと思い出がある。
 私はかつて、紅茶はTWININGSのプリンス・オブ・ウェールズ(キーマン)と決めていた。あるとき、人といっしょに紅茶中心の喫茶店に入ったとき、私はプリンス・オブ・ウェールズを勧めた。一口飲むとその人は「変な味」とぬかした。それが他の人ならともかく、趣味のよさでは私の知人友人のなかでナンバーワンという人だったので、私は少なからずショックを受けたのだった。それから一年ほどして、飲む紅茶をF&Mのブレックファスト(セイロンその他)に変えたのは、このときの影響かもしれない。
 まずい紅茶といえばブルックボンドの安いパックだ。これは、まったくいいところのない、完全無欠のまずさを誇っている。そうと知らずにティーバッグを買って飲んだ知人も、あまりのまずさに驚いていた。もっとも、安い紅茶がまずいのはブルックボンドにかぎらないだろうが。
 今まで飲んだなかで一番おいしい紅茶は、メーカは忘れたがダージリンだった。天国的な香りがした。ただ、どういうものかダージリンをおいしく淹れるのは難しいらしく、200g以上飲んだうちにほんの二、三度しかあの味は出せなかった。まずいときのダージリンは精神衛生に悪い。
 昔は一時期、ペーパードリップのコーヒーも飲んでいたが、おいしく淹れるのがあまりにも難しいのでやめてしまった。あれは本当に難しい。

9月9日

 A・M・ホームズの「セラピー・デイト」を読んだ。百合らしいという評判を聞いていたが、ほとんど百合ではない。没。

 今週のCCさくらを見た。李苺鈴は苦しい。ビデオを早送りせずにはいられないほど苦しい。特にキャラデザインがどうしようもない。あんなかわいくないキャラデザインはCLAMP的に許されない。大川七瀬はなにを考えてあんなキャラを出したのだろう。すぐに消えてくれることを祈る。
 それにしてもアニメのCCさくらには、めまいがするほど才能のない人材がよく関わっている。いったい何度、どうしようもない絵コンテのせいで絶望的な気分にさせられたことか。TVアニメの本数が増えて、いい人材が確保できないのかもしれない。
 なお、めまいがするほど才能のない人材がどんな仕事をするかは、たとえばジオブリーダーズのOAVを見るとわかるらしい。私は見たことがないのだが、私よりはるかにアニメに詳しいさる通人が、監督の才能のなさを徹底的に貶していた。

 イランのタリバーン・アフガニスタン侵攻をアメリカが牽制した。
 やはりアメリカとタリバーンは見かけほど深刻な対立状態にはない、と見るべきだろう。ラディン氏を敵に回してもどうということもないが、タリバーンまでまとめて敵に回すとなにかと嫌味だ。アメリカのミサイルが目標に命中しなかったという情報は、かなり深い意味があるものかもしれない。そういえば、アメリカがアフガニスタンでの戦果を確認したという報道は、私が見逃しただけかもしれないが、まだ聞かない。

9月8日

 マイクロソフトの商法はヤクザまがいだと、難癖をつける向きが最近多い。事実そのとおりである。が、それはマイクロソフトに限らない。パソコン界そのものが、香具師とヤクザが大手を振ってまかりとおる世界なのだ。
 嘘だと思ったら、そのへんのパソコン屋に行って、大手パソコンメーカの展示品を見てみるといい。モニタがCRTの、ハイエンドではない機種が、今回のターゲットだ。もちろん一目見ただけではそんなにひどいものとは思われない。が、次のようにすると化けの皮がはがれる。
 画面のプロパティから、壁紙を「なし」にし、デザインでデスクトップの色を黒にする。メモ帳を起動し、いったん最大化して、最小化する。ほかのソフトは全部終了するか最小化する。そして最後に、タスクバーでメモ帳をクリックする。
 安いCRTなら、画面全体のサイズが揺らぐのがはっきり見える。ある程度高級なCRTなら、ほんのわずかしか揺らがない。大手パソコンメーカのハイエンドでないパソコンについているCRTは、たいていひどく揺らぐ。
 この差は金額にしてわずか数万円だが、精神衛生の差として強烈に跳ね返ってくる。もしパソコンを、性能でなく価値で考えるなら、パソコン本体のなにかを削ってでもよいCRTをつけるべきだ。少し速いけれど1時間使ったら疲れるパソコンと、少し遅いけれど4時間使っても疲れないパソコンの、どちらがよいパソコンだろうか。見てくれだけ良くて中身はひどいものを、それと知りながら売るのだからまさに香具師の手口である。
 なぜこんな香具師の手口がまかりとおるのかというと、それはもちろん、ユーザの多くがこの手口に騙されてちゃんとしたパソコンを買わないからだ。
 こんな世界でマイクロソフトにだけ難癖をつければ、それは自分の利益のためか、でなければ「出る杭は打て」式の嫉みかのどちらかだ、と見られても仕方ないだろう。

 参考までにもう一つ書いておくと、少し前に話題になった800ドルパソコンや600ドルパソコンというのは、この香具師の手口を徹底的に使っている。こういうパソコンはハイエンドのパソコンと比べて、そんなに遅いわけではない。問題は速さではなく、精神衛生やメンテナンス性である。訳もなく高いものはいくらでもあるが、訳もなく安いものはめったにない。

 しかしパソコンのCRTがいかにひどくても、TVにはかなわない。
 はっきり宣言しておくが、なんの疑問も持たずにワイドTVを買う人を、私は絶対に尊敬しない。あれは日本の恥だ。あんなものが売れている国に住んでいるかと思うと、いたたまれなさのあまり気絶しそうになる。あんなふざけたものが売れるのだから消費不況になるのも当たり前だ。いいものと偽物の違いがわからなければ、なにも買わなくて平気なのも道理である。
 とはいえ、TVが怪しいのは、ワイドTVに始まったことではない。
 まず、色の復調が怪しい。カラーCRTの原理というのはいわゆる光の三原色だが、伝送の過程も三原色なわけではない。「明るさ」と「色合い」の二つで情報が送られる。TVはそれを三原色に復調してCRTに渡す。
 普通のTVは復調のとき、色を歪める。どう歪めるのかというと、肌色に近い色を肌色にひきずりこむ。こうすると出荷時の微調整の手間がかなり省けて、大きなコストダウンになる。人間の目は、肌色以外の色がおかしくても、あまり気がつかないものなのだ。
 次に、明るさが怪しい。全体が明るい画面のときは、暗い部分が黒く潰れる。理屈は省略するが、これもコストダウンのためだ。それと、ゴーストが目立たなくなって店頭で見栄えするという理由もある。
 最後に、画面のサイズが怪しい。エヴァのサブタイトルの文字が画面の端で少し切れていた、という体験をした人は多いだろう。普通のTVは画面の端を、TVの規格よりもかなり内側で切っている。理由は不明だが、店頭での見栄えの問題ではないかと思う。また、よく注意して見ていると、明るさによって画面が大きくなったり小さくなったりするのがわかる。パソコンの安いCRTと同じ原理だ。
 こういう怪しさをかなり取り除いたTVもある。そういうTVは大きさのわりに高い。20インチで10万円ほどする。しかしこれもS-VHSデッキと同じく、数万円の差額だけの価値はある。
 さらに、こういう怪しさをほぼ完璧に取り除いたTVもある。16インチで20万円ほどする。ここまでくると、10万円以上の差額の価値があるとは、なかなか断言できない。

9月7日

 コーラやアイスコーヒーと間違えて氷入り醤油を出すファミレスは案外多いらしい。
 しかし、そんなファミレスがあるものだろうか、と誰しも思う。だいたい、コーラを出す機械やアイスコーヒーの入っているパックと、醤油が入っている容器の、どこがどう似ているのだろう。間違えるわけがない。いわゆる都市伝説の一種ではないか。
 と、私も昔は思っていた。が、醤油を飲んでしまった客が裁判を起こしたという新聞記事を見ては、そういうファミレスがあるらしい、と思わないわけにはいかない。どうやって間違えるのか見当もつかないが、バイトが店に嫌がらせするために意図的にやるのではないか、と今では考えている。
 さらにそのあと、サークルの先輩が、「東屋」というファミレスで氷入り醤油を出された、と話すのを聞いては、案外そういうファミレスは多いのかもしれない、と考えざるをえない。
 しょぼくれたファミレスでコーラやアイスコーヒーを飲むときには要注意である。

 ひどい目といえば最近、鳥の糞の至近弾を二発たてつづけに食らっている。足元の右と左に一発ずつである。次は直撃かもしれない。

 短篇は現在カラミを書いている。
 島本和彦の「燃えよペン」に、まんが家がキャラの顔を描くとき、そのキャラと同じ顔になる、という話がある。シルベスター・スタローンを描くときにはスタローンになり、アーノルド・シュワルツェネッガーを描くときにはシュワルツェネッガーになる、というわけだ。
 カラミを書くとき、私はどんな顔をしているのだろうか。

9月6日

 最近おかしなことに気がついた。
 私の知人友人を思い出してみると、男はやけに顔のいいのが多く、女はそうでもない。
 これはもしかして、私は顔の悪い男を無意識のうちに避けているのかもしれない。つくづく考えてみると、どうもそんな気がする。
 気がついたからといって、顔の悪い男を避けるのをやめるわけではないのだが。男なんてもののためにそんな努力をする義理も動機もないのである。

 短篇を、ペースだけは順調に書いている。ちなみに、セロテープは3Mに限るといった話は人から聞いたものではなく、私の独創である。と書いてもなにがなんだかわからないが、できあがった短篇を読むとわかるらしい。
 セロテープは3Mに限るといえば、鉛筆は三菱鉛筆のUNI、消しゴムはトンボのMONOに限る。少なくとも私の体験では、トンボの鉛筆はひどいものだったし、トンボ以外の消しゴムもろくなものではなかった。

9月5日

 今日明日にもイランがタリバーン・アフガニスタンに侵攻する、という情報がある。イランの主張する戦争目的は「タリバーンへの懲罰」になるだろうが、実際はマスード派への支援を含んでいると見て間違いない。国際世論の風向きからいって、絶対に受け入れられないような和解条件をつきつけても懲罰として通る、というのがイランの読みだろう。
 報道を見るかぎりでは、タリバーンはイランをわざと挑発したのではないかと思える節がある。勝算があるのだろうか。イラン軍がアフガニスタン北部に限定して行動するなら、イランに分がありそうだが。
 パキスタンの出方が気になる。単なる懲罰と見なして静観するか、マスード派への支援と見なして対抗して正規軍を投入するか。おそらく遅かれ早かれ投入することになるだろうが、そのタイミングは。

 どこかの国が人工衛星だかミサイルだかを実験したというので、その筋は大騒ぎらしい。おかげで日本はTMDというヨタ話に金を使うことになりそうだ。
 このヨタ話は、要するにミサイルでミサイルを撃墜するという話だが、重大な問題が二つある。
1.いつまでたっても敵のミサイルに当たるようにならない。
 当てる能力を上げるよりも、避ける能力を上げるほうがはるかにたやすい。
2.たとえいつか多少は当たるようになっても、100パーセントは当たらない。
 世の中なにがあるかわからないので、永久に不可能とまでは言わないが、今後200年以内に達成できるとは思えない。
 つまり、いつ完成するかわからないうえ、心理的な脅威はほとんど減らない。SDIよりふざけたヨタだ。

9月4日

 昨日のことが少し悔しいので、新宿将棋センターに行った。結果は冴えない。

 その帰りに、ビーパパスへのインタビュー本「薔薇の容貌」を発見、見即買を実行した。今日はほかにも「真・運命のタロット」の最新刊と「輝夜姫」の12巻を買ったので大散財である。こんなことなら将棋に行くのではなかった。
 「コンテマン=デュエリスト」の話に、少し心動かされた。そういえば私も、「輝くもの」「永遠のもの」「奇跡の力」を探している。

 私はよほど変わった顔をしているらしく、人から「××に似てる」と言われるときは、たいてい××にはとんでもない名前が入っている。本当にとんでもない名前が多く、人が聞けば笑い死ぬような名前も少なくない。まともな名前を聞いたのは一回だけだ。その一回がなんという名前かは忘れてしまったが、たしか、あまり有名でない芸能人だった。
 とんでもない名前リストのなかに、幾原監督の名前もある。顔が長いところ以外いったいどこがどう似ているのかと思っていたが、「薔薇の容貌」に載っている幾原監督の写真を見て、わかった。ポイントは目の下のクマだ。
 読者がもし幾原監督のコスプレをするなら、目の下にクマを作ることを忘れてはいけない。これだけでかなり似て見えるはずだ。

9月3日

 今日は新宿将棋センターに行くはずだったのに、ヤボ用で行けなくなった。ヤボ用のおかげで、今日は書くこととてない。

 この世には不思議なことがたくさんある。アップスキャンコンバータやラインダブラーのこともその一つだ。
 アップスキャンコンバータやラインダブラーというのは、NTSC(日本のTVの信号)をVGA(パソコン用ディスプレイの信号)に変換する装置である。同じことをする機械にどうして二つの名前があるのかというと、用途と値段が違う。アップスキャンコンバータはパソコン用ディスプレイに表示するための、せいぜい数万円程度のものであり、ラインダブラーはAVプロジェクター用の、100万円以上するものである。
 仕組みは、ごく単純に言えば、NTSCをデジタル変換してバッファに保存し、これをVGAとして出力するだけだ。ちなみに現在のS-VHSデッキはたいてい似たようなことをしている。3次元デジタルY/C分離というもので、これを組み込んだS-VHSデッキは8万円くらいで売っている。
 しかるに、現在入手できるアップスキャンコンバータは、普通にTVとして視聴するにも辛いほど画質が悪い。そしてラインダブラーは、すべて100万円以上する。画質は知らないが、悪いはずはない。
 不思議だ。

9月2日

 新宿将棋センターの連勝券の期限がくるので、明日には行かなければならない。
 現在4連勝中。私はあまりたくさん指さないので、これくらい続けて勝つとずいぶんプレッシャーがかかる。ここまで来たからには10連勝、というわけだ。プレッシャーがかかるので行かずにいたら、連勝券の期限がきてしまった。
 将棋でなにが嫌といって、定跡どおりに負かされるくらい嫌なものはない。
 知らない人にはわからないだろうが、将棋の定跡というのは時として恐るべき威力を発揮する。素人どころか60年前の名人でさえまさかと思うような局面で、すでに有利と不利が明白、ということがままある。名人ならぬ身の上には、「まさか」な局面はさらに多い。相手は定跡を知っていてこちらは知らない、という局面になっては、ほとんど負けに等しい。
 しかし私の場合、こういう局面になることが少なくない。もちろん定跡を知らない局面は避けるので、まったく知らないのではないが、うろ覚えなのだ。
 かくして私はうろ覚えの記憶のフラッシュバックつきで負かされるのである。フラッシュバックがあるのとないのとでは、無声映画とトーキーくらいの違いがある。知らずに負けるのはただの負けだが、うろ覚えで負けるのは、進歩しない自分を思い知らされつつ負けることなのだ。これは辛い。

9月1日

 短篇の続きを書いた。
 だらだら作戦はどうも精神衛生に悪い。脳天唐竹割りが体にしみついているので、「やはりツカミは一発ガツンと」とか「無駄は省いて一直線に」とか考えずにいられない。そこをぐっと押さえて、かったるく、だらだらと書いている。これで駄作になったら目も当てられないところだ。
 なのに、すでに駄作の気配が濃厚になりつつある。主人公のキャラが悪い。味はあるけれど、よくない味だ。味気なくても定型を外すべきではなかったかもしれない。きゅう。
 でも書く。私の辞書(三省堂国語辞典第二版)にはリセットの文字はないのだ。


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