「ヤンキー・ゴー・ホーム」(仮題(嘘))は決めゼリフを通過して現在55枚である。
思いきって男ばかりぞろぞろ出したら、実にホモくさい話になってしまった。早く女を投入しよう。それにしても集英社ノベル大賞に「おっさん、ナンパか? ここはハッテン場じゃねえぜ」はさすがにまずいだろうか。
とりあえず設定はだいたい説明しおえたし、ツカミはOKだ。50~150枚がいつもの射程距離なので、250枚は遠く感じる。経験がないわけではないのだが。
「あやかし忍伝くの一番」はかなり難しいパラメータゲームだということがわかってきた。
誰が最初に考えたのか知らないが、スリップストリームはたいしたアイデアである。パラメータが8つ、並走車が6つ、1ターンに22マス。最善手を求めるにはコンピュータが欲しい。
信頼すべき筋からの情報によれば、雑誌「美粋」が潰れるらしい。
レズビアン雑誌としては比較的長く続いたので、単純な売れ行き不振ばかりが原因ではないだろうが、ドル箱雑誌でなかったのは確かだろう。
状況がはっきりしないのに原因について語るのはどうかとも思うし、人が失敗したあとでその原因を賢しげに語るのは上品な振る舞いとは言えないが、以前掲示板で「美粋」の先の見通しに疑問を投げかけたという経緯もあるのでご勘弁願いたい。
今にして思えば、「美粋」のもっとも重要な間違いは、編集方針が右寄りだったことだと思う。
ここでいう右とは、いわゆる政治的な右翼のことではなく、過去の成功の延長線上に未来の成功を期待する傾向である。対する左とは、延長線ではなくまったく別の方向に期待する傾向である。
「美粋」はレディコミとレズビアン・コミュニティの方法論を採用していた。まんが雑誌を作る方法論はレディコミだけではないし、沈黙のなかにとどまっている感情を拾い上げる方法論はコミュニティだけではない。確かに、どちらも過去にある程度の成功を収め、現在まで有力な方法論として続いている。だが、それだけのことだ。これらの方法論を採用すべき必然性が「美粋」にあったとは、私には認められない。「レズビアン雑誌」だからレズビアン・コミュニティ、「成人女性向け」だからレディコミ、という、パブロフの犬式の条件反射が透けて見える。
「美粋」が成功するにはどうすればよかったか。少なくとも、より成功する見込みの高いプランがあるなら、それはどんなものか。私見ではそれは、左派少女まんが・左派美少女系エロまんがと非政治性・フィクション性、である。
具体的には、いわゆる文通欄を設けない。左派少女まんがを基調とし、左派美少女系エロまんがで色をつけ、オタク的にスタイリッシュなイメージ(「快楽天 星組」のような)を編集方針の柱とする。月刊や隔月刊では、スタイリッシュなイメージに必要な品質を保つことが難しいので、不定期刊もしくは季刊とする。
こんな雑誌を作れる編集者を確保することは難しいだろうが、もしかするとできるかもしれない、と思える出版社も二、三ある。あまり期待していないが、あきらめてもいない。私はいつまででも待てる。
ついに念願の「あやかし忍伝くの一番」をやり、クリアした。
この世にこれが存在すること自体が一種の奇跡であるような、最強に強まりきったゲームである。「あやかし」の前では、通常のゲームを語るスケールなど鼻糞以下だ。通常のゲームの強まり加減がホイミ・ベホイミ・ベホマのスケールで語られるとするなら、「あやかし」の強まりきりっぷりを語るスケールはベホマ・ベホマラー・ベホマズンだ。
この世にこれほど強まった物件が存在するなどとは、実際にやってみるまでは想像がつかない。断言するが、「あやかし」を知らない読者がどれほど想像力を働かせてみても、「あやかし」の強まりきりっぷりは必ずそれを越えている。百合という枠を越えて、誰しもこの強まりきりっぷりを見逃すべきではない。プレステがなければプレステを買い、TVがなければTVも買ってでもやるべきゲームだ。
翔泳社の関連各位、総監督の佐藤制氏、そして制作スタッフ一同に、心からの敬意と賞賛を捧げたい。
今回のエンディングは、ちゃぶ台返しのような派手なエンディングだった。月葉様は確実に落としたと思ったが、そうはいかなかった。主席エンドなら期待どおりの普通のエンディングになるのだろうか。
今回は月葉・桜華を中心に、授業も抜け出さずにたらたらとやってみた。次は抜け出しとスリップストリームを駆使して主席を目指したい。
「あやかし」の声は、量のわりに音質がいい。おとといの日記に書いた、「プレステのPCM音声は音が悪い」というのは間違いで、プレステは悪くない。悪いのはアンジェリークデュエットだ。光栄には、強まったゲームは望まないが、少なくとももっとちゃんとしたものを作ってほしい。
ドリームキャストのCD-ROMはただのCD-ROMではなく、CD-ROMの倍の1.2GB入る、GD-ROMなるものらしい。いずれにしろDVD-ROMよりずっと少ないわけだが。
アンジェリークデュエットについてもう少し。
ロザリアの声が三石琴乃で、もろにミサトと重なる。重なりぶりは(うる星の)おユキ―のび太以上だ。エンディングでは「第三次中間報告」なるセリフも飛び出す。これはヲタクいじめなのか、それともヲタク狙いなのか。
対するアンジェの声の白鳥由里はハマリ役だ。アンジェの魅力と憎たらしさをあますところなく表現している。
「ヤンキー・ゴー・ホーム」(仮題(嘘))は決めゼリフまであとわずかである。
電車の中で毎日、モバイルギアIIモノクロ版を片手で持ち、片手でタイプして書いている。我ながら二宮尊徳のようだと自己満足している今日このごろである。
新大久保駅そばの「松屋」の焼肉キムチ定食はうまい。
この一週間というもの、コミティアとアンジェリークデュエットとヤボ用で忙しく、日記が書けなかった。
アンジェリークデュエットの百合度は『友情』(二重カギカッコがポイント)どまり。
それにしてもプレステのPCM音声は音が悪い。声とデータ(ムービーまでつけて)を一枚につめこむのも悪いのだろうが。ドリームキャストのアキレスのかかとはCD-ROMドライブかもしれない。このタイミングでCD-ROMドライブはいかにもまずい。
ロジテックのUSBマウス(ホイールつき)を買った。一個三千円強のバルク品で、コードとマウスのつながりかたに設計ミス感が漂っている。つながっている部分がマウスパッドに近すぎて、コードがマウスパッドに擦れやすい。といってもこれくらいのことは、適当なもので固めてコードを上向きに固定してしまえばいいので、根本的な欠陥ではない。
USBマウスはシリアルマウスに比べて、マウスの動きをよく拾う。アクセサリのペイントで、ペンを使って曲線を描いてみても、シリアルマウスのときのようにカクカクしない。
ホイールは痛快である。しかしWord95はホイールに対応していないので、仕方なくWord98を調達してきた。Word95はWindowsCEとのデータ交換にも問題があったので、ちょうどいい機会である。
すぎ恵美子の「彼と彼女とガーターベルト」を読んだ。
自分がまだすぎ恵美子の影響から逃れていないことを思い知らされて、かなりへこんだ。おそらく一生抜けないだろう。きゅう。
今月の小Jの小説道場に、拙作「人生に必要な技術」のあらすじと評価が載っている。
予想どおり評価が(私としては)高い。この「予想どおり」を素直に喜べないのは、9月16日の日記に書いたとおりである。人生は厳しい。
風邪を引いたらしい。うう。
「ヤンキー・ゴー・ホーム」(仮題(嘘))のコーディングがいよいよ本番に入りつつある。例の決めゼリフの出番も近づいてきた。早くあれを書きたい。
「Papa told me」21巻と「紅茶王子」5巻と「花ざかりの君たちへ」6巻を読んだ。
「紅茶王子」5巻は百合感の機銃掃射である。いたるところ百合だ。
x86emのためにegcs-1.1bをいじった。
調べれば調べるほど、Cygwin専用のコードの多さがわかる。MIPS用が簡単に作れると思ったのは大きな誤解だったかもしれない。
かつてネットスケープは、ネスケ(コミュニケータ)のソースを公開すると発表し、数ヶ月後にネスケ5.0のソースを公開した。そのとき5.0は、まだアルファ版にさえなっていない、まったく未完成のバージョンだった。ほかのバージョンのソースはいまだに非公開である。
この顛末を見たとき、私はネットスケープの将来に大きな疑問を抱いた。なぜ4.0や4.5のソースを公開できないのか? 4.0はライセンス契約の絡みで制約があるのはわかるが、4.5には制約はなかった。本物の、いま動いているネスケのソースを見せないのは、見せると信用を失うような代物だからではないのか。
ネットスケープのソース管理には、それ以前から疑問があった。一度直したバグが次のバージョンでまた入るという失態を演じたのだ。ネスケのソース管理だけデタラメで、他の製品はしっかりしている、ということはありえないので(ネスケはネットスケープの看板だ)、他の製品の品質も疑わしい、ということになる。
ネットスケープはソース公開によって、疑問を打ち消すどころか強めてしまった。こんな企業を「オープンソース」のお神輿に乗せるようでは、オープンソースの将来は暗いだろう。
どうやらNCは潰れたらしい。
いつ潰れたのかは知らない。最初から潰れていたという気もする。
人間は、過去と自分をしか批判できないのではないか、現在を批判しているつもりの人間はすべて、現在の名を借りて過去や自分を批判しているのではないか、と思うことが時々ある。
神戸の首切り事件の犯行声明は、世にも卑しい文章だと私は思うが(卑しさを正直さと読みかえるのは私の趣味ではない)、少なくとも政治家の答弁のような無意味な文章ではないので、変わった視点から読めば変わったことが読み取れる。たとえば、文章の最後にいわば決めゼリフとして書かれている、「ボクには一人の人間を二度殺す能力がある」というフレーズに注目してみたい。
ここには、死の一回性がきわめて簡潔に要約されている。死の一回性を深く認識していなければ決して出てこないフレーズである。もし剽窃だったとしても、数ある決めゼリフのなかからこれを選んだことの意味は十分に重い。一人の人間が何度でも死ぬ可能性があるかもしれない、とほんのかりそめにでも考えられる人間は、このフレーズを深い衝撃をもって感じることはないし、決めゼリフに選ぶこともないだろう。
昨今、「テレビゲームの影響で子供たちは死の一回性を忘れた」という言説が流行している。だがこのフレーズは、テレビゲーム云々の耳障りのよい言説をまったく否定している。さらに言えば、私の知るかぎり、こうした指摘がマスメディアに流れたことはない。
もちろん、マスメディアは耳障りのよい言説だけを流す。最初からわかりきったことだ。だが私はここでもう一歩踏み込んでみたい。行き過ぎの危険は承知の上だ。
「死の一回性を忘れた」のは子供たちではない。忘れたのは、この言説で自慰している人々であり、それはかつて戦争という大量死をスローガンと幻想と相互監視で覆い隠した人々の末裔である。
いつも私には不思議でならない。「生命の大切さ」を唱える人々が、なぜ過去のあらゆる戦争についてなんの言い訳もしないのか、と。「奴らは生命の大切ささえもわからない劣等人種だから戦争などするのであって、私たちは真に選ばれたヤマト人種だからそんなことはない」とでも言ってくれれば、私は彼らの正気を疑いはしても、誠実さを疑うことはないだろう。
私の見るところ、彼らの頭脳は、戦争になるととたんにスイッチが切り替わって、一度しか死なないはずの人間が「××国民」「××主義者」になって何度でも死ぬことができるようになる、と考えはじめるようにできている。
「死の一回性を忘れた」という批判は、実は彼ら自身に向けられたものだ。彼らは幸運にもまだスイッチが切り替わらず、影の自分を影のままにとどめておくことができている。すべての人がするのと同じように、彼らは自分自身の影を踏みつけているのだ。
賢明な読者にはもうおわかりだろうが、この批判は自己言及的である。「すべての人がするのと同じように、彼らは自分自身の影を踏みつけているのだ」。この「すべての人」とはとりもなおさず「私」であることは言うまでもない。
「ヤンキー・ゴー・ホーム」(仮題(嘘))のコーディングに苦しんでいる。国際政治サスペンスを書く人の苦労が少しわかってきた。
政治情勢の設定は我ながらうっとりするほど完璧で、落合N彦でさえこの無茶苦茶な結論(××が×××に××する)に納得してしまうであろうほどなのだが、その説明だけで8枚もかかるとは思わなかった。うーむ。
とりあえずこれでノベル大賞の線は完全に消えたので、ロマン大賞で行くことにする。
アンジェリークデュエットのことを全文検索エンジンで調べてみると、ロザリアとは友情イベントしかなさそうな気配である。うーむ。ウテナとアンシーのような、二重カギカッコつきの『友情』であることを祈る。
あと、全体的にロザリアが大人気である。百合的には主役はロザリアだから当然といえる。
マチダのパソコン屋で、Combat Flight Simulator日本語版を少し触った。ジョイスティックはMS
FFProで、ちゃんとフォースフィードバックしていた。
FFProのフォースフィードバックはいかにもメカメカしくてあまり好きになれない。特に飛び物では、手応えが忍び寄ってくるようなのでないと気分が出ない。
「ヤンキー・ゴー・ホーム」(仮題(嘘))のコーディングを進めている。
設計段階で予想していたことながら、敬語が面倒かつ不安でたまらない。あと、政治情勢の説明が長くなって精神衛生に悪い。無茶苦茶な話なので徹底的にハッタリを効かせてみようと思ったが、裏目に出たか。設定から話を作るのはこれだから難しい。
今日、Internet Mailが落ちたときに、14日の午後3時~午後9時のあいだのメールが消失した可能性がある。お心当たりのあるかたには、お手数ながらメールの再送をお願いしたい。
人に貸していた「あやかし忍伝くの一番」が返ってきたので、PSEmuProで試してみたところ、さっぱり動かない。PSEmuの最終バージョンでは、遅いながらもかなり動いたのだが。
WindowsNTのセキュリティホールのことはアンチMSの手でよく喧伝されているが、FireWallなしでネットワークにつながっているマシンにLinuxやFreeBSDを入れると危ない、ということはあまり知られていない。
LinuxやFreeBSDは、運がよければ非常に簡単にインストールできるうえ、デフォルトでtelnetdも入っている。普通にインストールされたLinuxやFreeBSDにtelnetでアクセスすると、バージョン(Linuxならディストリビューションも)が表示される。バージョンがわかれば、そのバージョンを素のまま入れたときのセキュリティホールを突けばroot権限が一丁あがりだ。コンパイラが最初から入っているうえ、telnet越しに操作するには万事便利なようにできているから、侵入者にとってはまことに仕事のやりやすい環境である。
新興宗教のようなおかしな宣伝に惑わされて、「WindowsNTは弱い、UNIXは固い」などと馬鹿正直に信じていると、逆に侵入者の温床になる。管理者がよく気をつけてガードを固めていないとどちらも五十歩百歩だし、侵入者にとってはUNIXのほうがおいしいのだ。
コバルト・ノベル大賞、ではなかった、集英社ノベル大賞の応募作のコーディングを始めた。決めゼリフは「ブルシット! ヤンキー・ゴー・ホーム!」と「神様のケツの穴でもなめてろ」だ。
ただ、書いてみると長くなりそうなので、ロマン大賞への切り替えを検討している。
最近、どのパソコン雑誌でもRAIDの記事を載せている。そしてまた、申し合わせたように「RAID1(ミラーリング)では高速化はしない」と書いてある。
私が以前聞いた話では、WindowsNT4.0に組み込まれている機能でソフトウェア的にミラーリングすると、読み出しはストライピングと同じように行うので高速化するという。
RAIDカードのRAID1の実装が手抜きなことに気づかれないように、という雑誌側の配慮だろうか。それとも、RAID1のテストを手抜きしているのだろうか。いずれにしろ憂鬱な話だ。
くわっ! せっかく××を××したってのに、PSEmuProの野郎、アンジェリークデュエットをちゃんと動かさねえ! セリフのところがシマシマに白くなって潰れてやがる!
思わず口調がスタパ斎藤になってしまったが、気持ちを落ち着けて…いられん! 俺はアンジェリークデュエットがやりたいんだ! 違う、「やりたい」ではなく「やる」! なにがなんでも、やる! そしてロザリアを落とす!
gpuのpluginを変えてみようにも、Voodooがないので選択肢が狭い。D3Dはオープニングでこけた。Duddleも不可。Kazzuyaは上のとおりの症状である。Kazzuyaのバージョンを落としてみても症状は変わらない。もしかするとBIOSのせいかもしれない。くわっ! さっそくAltaVistaでサーチしてゲットだ!
駄目だよアニキ… 動かねえよ… 動かねえ… きゅう。
Windows98で、Internet Mailを立ち上げたままIEを使っていると、数十分のうちにほぼ必ずInternet Mailが落ちる。おそらくバグだ。
まだまだデアボリカの話を続ける。
このゲームの売り文句は「女性に楽しんでもらいたいゲーム」「18禁であっても美少女ゲームではない」だったという。そういえば発売当時、どこかでそんなことを読んだ記憶がある。読んだ瞬間、私の頭のなかに「絶対クソゲー黙示録」が鳴り響いたことも覚えている。言い訳が必要なゲームすなわちクソゲー、という条件反射が働いたのだ。実際やってみると、言い訳などではなく、純粋な事実だったのだが。
営業としては、こういうことをちゃんと表示していくべきだということもわかる。よくわかってはいるのだが、やはり言い訳じみた印象があるのは間違いない。言葉を使わず絵とデザインだけで表示していたら「絶対クソゲー黙示録」も鳴らなかったと思う。
カンボジアルートからの情報によれば、アンジェリークデュエットではロザリアが落とせるという。早速アキバでプレステ版を買い、人のパソコンでPSEmuProを使って動作を(オープニングだけ)確認し、喜び勇んで家に帰ってきた。
が、CD-ROMドライブが腐っているせいでまともに動作しない。このドライブは「腐ってるから」という理由で人からもらったもので、SCSIの二十四倍速、PIONEERのDR-U24Xである。どこがどう腐っているのかというと、SCSIのCD-ROMドライブのくせにRAWモードがまともに動作しない。完全にRAWモードがないのならまだしも一応あるのだからさらに始末が悪い。いわゆる地雷物件だ。
かくなる上はCD-ROMドライブを、といきたいが、SCSIのものは1万円以上する。プレステとそう変わらない値段である。仕方ないので××を××してしまおう。
それにしてもおあずけを食ったのは腹立たしい。金輪際PIONEERの製品だけは買うまい。
T-ZONEの経営が苦しいらしい。いったいどんな阿呆が仕入れを担当していたのか、ThinkPad220やPalmTop110を大量に不良在庫にかかえていたのが印象的だった。あれで儲かっていたら嘘だ。
全文検索エンジンにはかなり個性がある。同じ「デアボリカ」というキーワードでも、AltaVistaの日本語検索を使うとアンジェリーカーのページが比較的多くかかり、gooだと正統派エロゲー愛好家が比較的多くかかる。
ちなみに現在最高の日本語全文検索エンジンはAltaVistaの日本語検索だと思う。Advanced
searchで「and not」が好きなだけたくさん使えるので、たとえばまんが家の名前で検索するときに「コミック新刊ラインナップ」の類いのノイズをほとんど排除できる。
一番ひどいのはLycos Japanで、たとえば「松原香織」と入れて検索すると、「松原」と「香織」を独立した語と認識して、「松原久・大島香織」のような文をヒットさせる。
デアボリカについて書いてあるページをずいぶんたくさん見た。よい作品の特徴のひとつは、感想が面白いということで、デアボリカも例に漏れず感想が面白い。
脳に少女まんが回路がない男性はアズライトの性格でひっかかってしまうらしい。そういえば私も最初は、少女まんが回路発動の指令がはっきり出ていなかったせいであまり乗れなかった。メガネをかけたアズライトが発動指令になって加速度的にハマっていったのだ。
全体的に見て、脳に少女まんが回路のある男性は十分に多い、という結論が得られたのは幸いだった。少なくとも、脳にやおい回路のある女性と同じオーダーで存在すると思う。百合にとってはいい材料だ。
文章もずいぶん感想の対象になっており、内容は「ハッタリくさい」と「カッコいい」に二分されている。私は文章は別にどうとも思わなかったが、ルビのかわりに丸カッコを使っていたのが気になった。せっかくプログラム開発部門を自前で持っているのだから、ルビくらいなんとかならなかったものかと思う。あと「封鎖的な町」はかなり恥ずかしかった。腕の立つ校正・校閲係を雇ってほしい。
なお、デアボリカだけをやってこれがエロゲーだと思うのは、終わソンだけを読んでこれがJUNEだと思うのと同じくらい誤解である。だからといって変なものをやると誤解が解けすぎて「旅は人の心を狭くする」になってしまうので、とりあえず同じアリスソフトの「夢幻泡影」をやるとちょうどいい具合に解けると思う。
全文検索エンジンで、デアボリカのことを書いたページを探してみると、アンジェリーカーが多いような気がする。刺激する回路が同じ(少女まんが回路とやおい回路)だから当然といえば当然だが。
かくいう私は、アンジェとロザリアがなんともならないので(好感度のパラメータはあるというのに!)怒って放り出した人間だ。あれは今でも釈然としない、というよりも積極的に抗議したい気持ちがある。二人のツーショットの絵を見るたびに、百合は躍進のチャンスを一つ逃がした、と考えざるを得ない。
冬コミに落ちた。きゅう。
生まれて初めてホヤというものを食べた。正確には、口に入れた。
生命の危険を感じる味だった。これを食べられる人間が存在すること自体が大いなる驚異である。世の中には、私の哲学では想像もつかないことがあるものだ。
『セクシュアリティ』を読み終えた。
くだらん、と言ってしまうと語弊があるが、実際そう思ったのだから仕方ない。ただ正しいだけで、毒にも薬にもならない本である。こんなものを読む暇があったら、エロゲーの「Natural
~身も心も~」をやったほうがよほどためになる。
x86emに向けて作業を進めている。
やってみると、テリーの書いたコードのなかの不合理な部分と必要な部分がかなりはっきり見えてきた。やはり自分で書いたほうが話が早いように思える。
ジェフリー・ウィークス著『セクシュアリティ』という本を読んでいる。
この本はフーコーの影響を受けて書かれているらしい。私はフーコーが嫌いなので、坊主憎けりゃ袈裟まで憎しで、かなり批判的に読んでいる。
デアボリカがあまりに良かったので、まだ頭のなかでこだましている。
キャラの服装が素敵なことと、食事シーンの多いことが印象深い。後者については、氷室冴子のあるエッセイを思い出す。それは、ごくかいつまんで言えば、ご飯は一緒に食べよう、という話である。「夢の家で暮らすために」というタイトルで、『いっぱしの女』という本に収録されている。ぜひ一読されたい。
デアボリカを最後までやった。思わずハマってしまい、終わってみたら朝の7時である。
脳内のやおい回路と少女まんが回路を強力に刺激するエロゲーだった。逆にいえば、どちらの回路もない人にはこれほど面白くないかもしれない。
いつも思うことだが、時間ネタは凶器攻撃だと思う。オチがエルフ的でなければもっと良かった。
BFDは曲者だということがわかりかけてきた。*.hに実行コードを入れるとは天才を感じさせる大胆な設計だ。
昨日、i386-coff.cのなかに埋め込まれているPE用のコードを取り出して別ファイルにする必要がある、と書いたが、i860-coff.cがこのコードを使っている気配がある。これがBFDの流儀なら従うべきだろう。しかしi860がそんなに一般的に使われているCPUとは思えないので、i860-coff.cを書いた人間の構想と技術力がジミーより上と信じるべき理由もなく、そのへんがなんとも難しい。
CPUの問題とコンパイル・リンクの問題を分離して扱うために、x86emを利用するのがいいかもしれない、と思いついた。これならBFDを触る必要もなく、configure.inやそこらに追加するだけで作れる。サムはこれをやった節がない。
昔、なにかの雑誌で、多数の識者に1ページずつ「なぜ人を殺してはならないのか」を書かせる、という特集があった。
中身は見なかったのだが、この特集の目次を見たとき、西ドイツ軍の将兵に課されているという義務を思い出した。人道や国際法に反することをせよという命令を受けた場合は抗命しなければならない、という、いかにもドイツらしい話である。
こんな義務を、状況次第で不可避的に人を殺す組織の構成員に課すのだから、矛盾のようでもあり、当然のようでもある。たぶんその両方なのだろう。
binutilsのmakeが通った。
objdumpは、ライブラリは認識するが実行ファイルを認識しない。おそらく「これ違うよボブ」の部分だろう。あとemipspe.cは自動生成だった。
ずいぶんいろいろ調べたが、binutilsはほとんどCygwinの丸写しでいいような気がしてならない。もちろんいくつか解決すべき問題はある。たとえばこれはベンジャミンもやっていたが、i386-coff.cのなかに埋め込まれているPE用のコードを取り出して別ファイルにする必要がある。
ジャンヌ・ダルクの本を読んでいる。
偉大なジャンヌの運命はあのとおりだが、卑小なシャルル七世は百年戦争に勝利を収め、長生きしてベッドの上で死んだ。偉大な人間になるのはあまり楽しいことではなさそうだ。
今月の「りぼん」を見たら、長谷川潤「あぶないパラダイス」があっさりと最終回(=打ち切り)を迎えていた。りぼん編集部には物の道理というものがまったくわかっていないのだから、当然の結末といえる。なかよし編集部の爪のアカでも煎じて飲んだらどうか。
patch作りを順調に進めている。すでにconfigureは通った。あとはmakeが通ってobjdumpが動けばOK、と言いたいところだが、emipspe.cというのがどうも臭い。自動生成ではなさそうなのに、make distcleanすると消される。よく調べてみる必要があるかもしれない。さらに、pre-alphaの怪しいコードのなかに、どう考えてもあからさまにこれ違うよボブ、という部分があり、ここはオリジナルのbinutils-2.9.1のままにしてある。まだ一苦労ありそうだ。
そろそろコミティア用のペーパーに着手せねばならない。
今年は百合が振るわない年だったので、ペーパーの百合物件情報を書くのが辛い。有力なTVアニメも、OAVも、まんがの新連載もない。
とりあえず、コミケカタログのチェック結果の速報は載せたい。最終的には、サークルの無作為抽出からの乖離をどう評価すべきかの問題を解決し(やはりスキャナ+OCRしかないと思う)、きっちりしたものにまとめて「百合すと2」に載せる予定である。
なお、コミティアに参加しない読者のために、ここに速報を載せておく。
コミケ | 百合サークル数 | 総サークル数(単位:千) | 百合率 |
40 | 4 | 11 | .36 |
41 | 7 | 14 | .50 |
42 | 7 | 12 | .58 |
43 | 8 | 15 | .53 |
44 | 5 | 15 | .33 |
45 | 3 | 16 | .19 |
46 | 6 | 16 | .38 |
47 | 8 | 16 | .50 |
48 | 8 | 22 | .36 |
49 | 7 | 16 | .44 |
50 | 8 | 18 | .44 |
51 | 11 | 22 | .50 |
52 | 16 | 33 | .48 |
53 | 13 | 22 | .59 |
54 | 10 | 33 | .30 |
「百合サークル」の基準は以下のとおり。
1.
サークルカットに「百合」「♀♀」等の文字があること
2.
サークルカットに「レズビアン向け」を明示する文字がないこと
3. 男性向けでない創作系スペースにあること
この基準には以下のような問題点がある。
・レズビアン向けを標榜するサークルが常に2.に該当するとは限らない。MOREというサークルはコミケ43では2.に該当するが、コミケ42ではそうではなく、百合サークルとしてカウントされている。
・過去に1.に該当し、その後もコミケに参加して、百合本を頒布していたとみられるサークルがカウントされない。B5同盟というサークルはコミケ53では1.に該当し、コミケ54でも百合本を頒布していたが、コミケ54ではカウントされていない。
これらの問題点は、サークルの無作為抽出からの乖離の問題とあわせて解決したい。
書き忘れていたが、先月30日にCygwinのbeta 20が出た。GNU-WIN32、Cygwin32と来て次はCygwinに名称を変更したらしい。
GNU patchの2.5はやけにバギーのような気がするのは私だけだろうか。なにも変なことをさせなくてもコアを吐く。patchを作る人はご苦労さまである。
援蒋ルートで話題のデアボリカなるゲームを少しやった。
最初のうちは主人公が今一つだったが、第2章に入ってメガネをかけるようになったら見違えるほど良くなった。エロゲーは男が冴えないとつまらない。
韓国土産のキムチを食べた。
キムチといえば、少女小説で活躍していたころの久美沙織が雑誌コバルトのエッセイかなにかで「好きな食べ物はキムチです」と書いたら、編集部から「それはイメージを壊すからやめてくれ」と言われたという。
私は特に好きな食べ物というのはない。死刑前に何を食べるかと問われたら、「カップラーメン」と答えるつもりでいる。元ネタはもちろん新ルパン三世(TVアニメの)だ。
現在、binutils-2.9.1についてpatch作りを進めている。
やることは簡単でも、なかなか手間がかかる。それにしても見れば見るほどヤバそうな匂いが漂うコードである。コメントを書き掛けのまま放り出さないでくれないかいジェイコブ?
PE(Win32の実行ファイルのフォーマット)とMS
COFF(Win32のオブジェクトファイルの標準フォーマット。UNIX
COFFとどれくらい共通点があるのかは不明)についての情報を集めている。
PEはかなり抽象度の高いフォーマットのようなので、基本的にはx86やAlphaのPE用コードを持ってこられるように思える。例のpre-alphaはその割にずいぶんと書いているような気もするが、もっともMS
COFFのほうがまだわからないので、その関係かもしれない。
DOSでWindows用実行ファイルを実行してみると、「This
program cannot be run in DOS mode.」というような文章が出る。これはDOS
stubという小さなDOSプログラムがファイルの先頭に埋め込まれていて、そのプログラムが文章を出しているからで、よく見ると開発環境によってこのメッセージが違うことがある(メッセージが日本語で出るなど)。BeOS
for IntelはPEを採用しているらしいが、DOS stubもつけているのだろうか。
歳を取ると寛容になる、という噂は本当らしい。最近、ある種の嫌な作品に対して寛容な気持ちになってきた。
そのある種の作品というのは、悪意によって書かれた作品である。具体的には、古くは沼正三「家畜人ヤプー」、新しくは榎本ナリコ「センチメントの季節」がその部類に入る。かつては、こういう作品のことは口にもしたくないくらいだった。ただし、相手の宣伝になることを恐れずにここにタイトルを挙げるくらいなので、これらはもともと大したことのない作品だということを断っておく。真に強力な敵はほかにおり、彼らはあまりにも強力すぎて名指すことができない。
この二作品を読むと、悪意というのは、自分が今いる位置にとどまりつづけるためのエネルギーだということがよくわかる。「悪意はなにも生み出さない」のではなく、「なにも生み出させないために悪意をする」のである。