昨日につづいて例のpre-alphaを触っている。
じっくり見てみると、不安どころではなく明白にそりゃまずいよチャーリーという部分があるように思えるのは、私の至らなさのゆえだろうか。このpre-alphaは参考にする程度にとどめたほうがいいかもしれない。
昨日まで、この日記の10月27日のところが非常におかしなことになっていた。いっぺん直したのだが、今日見たらまたおかしくなっていた。どうやらFrontPage Expressのバグらしい。過去の日記にもバグの影響を受けている部分がありそうだが、面倒なので見ない。
香織派の活動についての告知をこちらに掲載した。見るのが面倒な読者のために要旨を書いておくと、「コミティア46(ビッグサイト11月23日)K04a」である。
環境がやっと整ったので、例のpre-alphaをちらっと触った。
diffを使わない、.coreや.oをソースファイルと混ぜる、Cygwin32上で開発しているらしい、やたらhackと言いたがる等々、コードを見る前から技術的にかなり不安を感じさせる作者だが、このあいだ作ったdiffを見ると、元のコードをちびちびと書き換えているのが窺える。#if
0を加えてコメントアウトしている部分があるし、ファイル名にi386と入っているファイルも書き換えている。ざっとチェックしただけでも不安な箇所が31ある。さらに不安が深まった。
それにしてもpecoff.htmlというのは何なのだろう。どう見てもただのテキストで、htmlではない。
中島梓先生の「タナトスの子供たち」を読んだ。
このJUNE・やおい論の枠組みは、男性向けショタに敷衍すると一切の説得力を失う。そういえば、「タナトスの子供たち」は饒舌な本だが、男性向けショタに関しては、まるで慎重に切り抜いたようにまったく触れられていない。ショタケットの一般参加者が女性ばかりだと思っている節さえある。もちろん事実はまったく逆で、男性ばかりである。
なぜJUNE・やおいの女性たちは「坑道のカナリア」たりえ、なぜ男性向けショタの男性たちは不可視の存在になるのだろうか。
念のために断っておくが、私はからかっているのではない。重要な認識の契機として指摘している。自分のことを「透明な存在」と呼んだのは誰だったか。
Linux(結局RedHatの5.1をftp経由で再インストールした)のセットアップがようやく終わった。VNCでWindows
NTからXを操作するように仕立てて、本体からはディスプレイを外してしまった。
噂には聞いていたが、VNCというのはなかなかすごい。とかく不安定と評判のMI/Xよりはるかに安定しているように見えるし、なによりXのフォント周りの面倒が一切ない。サーバ側の準備といえば、ファイルをちょっと/usr/local/binにコピーしてvncserverとタイプするだけである。クライアント側はインストールもなにもなく、ファイル一個を実行して接続先を指定すればもう画面にX
Windowのウィンドウが出る。Netscapeの日本語もなにもしなくても出る。さらにWindows
CEでもまったく同じことができるのだからまさに痛快きわまりない。
中島梓先生の「タナトスの子供たち」を読んでいる。
私は、アダルト・チルドレン(AC)とか癒しとかいう概念があまり好きではない。ACや癒しの存在を否定するというのではなく、そういうことに名前をつけて呼び、あまつさえそれを流行語のようにしてしまう心性に反発を覚える。たとえ本物の癒しであっても、それが癒しと呼ばれた瞬間からもうそれは本物の癒しではなくなるような気がする。ACも同じく。かといって、そういう言葉と概念なしではなにも説明できない。
もちろん、説明せずに沈黙することもできる。少し舞台裏をバラせば、百合の原動力についての香織派の公認イデオロギーが「一粒で二度おいしい」なのはそういう理由である。
Linuxでハマった。
最初は、お気に入りのRedHatの5.1をftp経由でインストールしようとしたが、ブートディスクがNIC(AMD
PCnet-PCIのOEM)を認識しない。仕方ないので本屋でCD-ROMを買おうとしたら、Linux
JapanのCD-ROMはあいにくSlackware3.5だった。仕方ないのでSlackwareで手を打ってインストールした。
再び、まるで当たり前のようにNICを認識しない。OS失格と言いたいところだが、フリーUNIXの世界ではすべてOSが正しく人間が間違っていることになっている(Windowsの世界では逆に、すべて人間が正しくOSが間違っていることになっている。気分よく使えるのはどちらだろうか)ので、ぐっと我慢する。
カーネルをコンパイルするために、WWWをたぐってドキュメントをたぐりよせ、じっくりと読む。一回目、失敗。認識しない。現在二回目のコンパイル中である。ちなみにこのマシン(Aptiva
Jモデル)ではコンパイルに一時間かかる。
動くはずのカードなので、人間がちゃんとしていれば動くのだろう。人間がちゃんとすることの難しさは、誰もがよく知っているとおりだが。
三回目のコンパイルでも失敗した。フリーUNIXの「対応ハード」とは、こういう「対応」なのだということは覚えておいたほうがいい。そう、悪いのは常に人間なのだ。
仕方ないので、古いISAのNE2000互換カードを家から持ってきて刺すことにした。今日は仕方ないことだらけである。
gccについていろいろと情報を集めてみると、ベースはgccよりもegcsのほうがよさそうだ。
それにしてもアイコンなどのリソースはどう扱うのだろう。私的にはアイコンがなくてもどうでもいいのだが。
BM98にハマっている。
キーアサインをいろいろ変えてみたが、やはりキーボードではやりにくい。専用コントローラが欲しい。
例のpre-alphaから、Cygwin32-B19のソースへのpatchを作った。ちゃんとできているかどうかはまだ確かめていない。もしちゃんとできていたら作者と連絡を取ってみたい。
なお、このpatchがどうしても今すぐ欲しいという方は、その旨メールをくだされば差し上げる。
「コードコンプリート」を読み終えた。
ビル・ゲイツが言ったという言葉、「本来よいプログラマであるものは最初の2・3年でよいプログラマになる」が耳に痛い。私が初めてプログラミング言語に触れてからはや14年、どうやら、よいプログラマと呼ばれる日は永遠に来そうにない。
噂のBM98というものをやってみた。
難しい。人間に可能とは思えないほど難しい。多くの曲で、キーの左右と音程の高低があまり一致していないので、頭が混乱する。
なお、BM98については、goo等の全文検索エンジンを使うと情報が得られる。
編集者の藤本由香里氏の講演会に行った。
氏については、私は勝手にPapa told meの北原さん的なイメージを抱いていたが、実際そういう印象を受けた。
市の図書館が主催した講演のせいか、聴衆が氏の専門分野とは無縁の人々ばかりで、編集者の仕事についての一般的な話がほとんどだった。しかし少女まんがに触れたほんの短いあいだだけでも、氏の少女まんがへの情熱がひしひしと伝わってきたのは、さすがと言おうかやはりと言おうか。
伊藤明弘の「ベル☆スタア強盗団」を読んだ。100点満点で140点くらいつけたいような、完璧以上の少年まんがである。
「100点満点で140点」で思い出したが、あるとき人と話していて、「ヤマトの『エネルギー120パーセント!』って一体?」と言ったら、「時代はもう400パーセントまで来てるからねえ」と返された。すると、次の時代は指数表現だろうか。
WindowsCEのPlatform SDKはなんとなく居心地が悪い。とりあえずstdio.hがないので(当たり前の話ではあるのだが)落ち着かない。そういえば、「C言語でしゃべる人は、朝の挨拶はやはり#include
<stdio.h>であろうか」という文章を昔読んだことがある。
とりあえず、ConsLIB(Eiichiroh Itoh氏作のConsoleのライブラリ)をもとにしてstdio.hとstdio.libを作れれば面白くなるだろう。しかしまずはgcc-2.8.1だ。
私は、心情的には常に永沢(さくらももこの『永沢君』)と八坂(フジミ)の味方である。なぜなら私は彼らだからだ。私にとって彼らは、生の理不尽さをともに分かち合う戦友であり、己の運命に打ちのめされて傷をなめあう負け犬仲間である。
永沢でも八坂でもない人には永遠に理解できないことだろう、私たちは望んでこのようであるわけではない、ということを。私たちの手の届かないところで、なにかが決定的にねじれ、失われた。そのねじれと欠落が私たちの運命となった。運命は仮借なく私たちを苛み、不可抗力への責任を負わせる。
待った――あなたがなにを言いたいかはよくわかっている。わからないはずがない。この運命は、私たちが生まれたときから私たちの上に存在していたのだ。この運命のことは、自分の顔よりもはるかによく知っている。あなたがなにを言いたいかなど、九九より前の初歩の初歩だ。
私は心情的には常に永沢と八坂の味方である。しかしこれは、私が実生活において連中の味方であることを意味するわけではない。
長らく連中とは縁なく過ごしてきたが、最近になって具体的な人物が一人、私の視界に障害物として入ってきた。それもセクハラ野郎である。
無論、連中とは一切接触を持つべきではないので、特に必要がないかぎり何もすべきではない。このあいだ、その「必要」の生じる機会があったのだが、あいにく私はその場におらず、機会を逃がしてしまった。次の機会には見敵必殺を期している。
「コードコンプリート」には人生の真理が載っている。
もし手元に本があれば、637ページのグラフを見てほしい。ほとんどの読者はそうはできないと思うので、わかりにくいながらも言葉で説明すると、これは、166人のプログラマに同じ仕様書を与えてそれぞれプログラムを書かせる、という実験の結果を示したもので、横軸が「プログラムを完成させるのにかかった時間(分)」、縦軸がエラー率の棒グラフである。
本文から引用する。「おもしろいことに、書き上げた時間が中央値であったプログラマ達のプログラムには最もたくさんのエラーが発見された。中央値より短い時間のプログラマも長い時間のプログラマも、はるかにエラーの少ないプログラムを書いた(DeMacro
and Lister 1985)。
長い時間をかけて書かれたプログラムに関してはどうでもいい。時間をかけたからエラーが少ない、当たり前だ。注目すべきは、短時間で書き上げられたプログラムもまたエラーがはるかに少ない、という事実である。
グラフを見ると、100~200分のグループは、300~400分のグループに比べて半分以下のエラーしか出していない。200~300分のグループのエラー率はちょうどその中間である。右のほうには、500分もかけて書いたのに、100~200分のグループよりもわずかに低いだけのエラー率を記録したグループがある。
このグラフをどう解釈するにしろ、ここには一つの真理があるように感じられる。
例のpre-alphaをgcc-2.8.1とbinutils-2.9.1へのパッチに仕立て直そうと思ったら、どうもCygwin32が不調でうまくいかない。
問題のブツは*.oや*.coreが散乱しているので、まずはこれを片付けねばならない。ゴミを掃除するには、srcでconfigureを走らせてMakefileを作り、make
realcleanをかければOK、という目論見のもとにsh
configureしてみたが、lstat /fがコケた、と言ってきた。いろいろ考えたあげく、Fドライブをルートの下にマウントして再度試したところ、今度は別のところでコケた。
そのときはもういい加減嫌になっていたので放り出してしまったが、今にしてよく考えてみると、環境変数と/bin/shが怪しい。SHELL=bashが必要か、/bin/shを置くのを忘れていたか、どちらかではないか。
フリーUNIXならすべて最初からセッティングしてあるところだが、Cygwin32ではそうはいかない。あと、Cygwin32はファイルアクセスが遅いのが辛い。これでgccをコンパイルするのかと考えると気が遠くなる。しかたないので、使われていないマシンにLinuxを入れて開発環境にする予定である。
http://hyperion.clc.cc.il.us/~arty/のpre-alphaを落としてみたら、50MBほどあった。もしかして作者は宗教的な理由でdiffが使えないのだろうか。ベースがCygwin32-B19というのも気に食わない。先行き不安な計画だ。
gccを調べてみたところ、targetのなかにwinntがあることを発見した。NTといってもNT3.5のことらしいが、それにしてもgccとNTの関連など聞いたことがない。もしかしてこれはInterixのことか。
WindowsCE(MIPS)用の開発環境を作っている人を発見した。情報とpre-alphaは
http://hyperion.clc.cc.il.us/~arty/
にある。どうやらgccをMSのコンパイラと同等のものにしようとしているらしい。壮大な計画である。おそらくあと1年は完成しないだろう。
壮大な計画はそれとして、小さな、シェルだけの環境をここから作れないものかと思う。たかがCUIとあなどれるものではない。とにかくシェルさえ安定して動いてしまえばこっちのものだ。
モバイルギアIIの赤外線ポートを、外付けモデムのつながっているCOMポートとして設定できることがわかった。具体的には、モバイルギアIIでは、レジストリのLocalMachineのExtModems\HayesCompatのPortをCOM3:に書き換えてリセットすると、赤外線ポートに外付けモデムがつながっていることになる。ちなみにCOM4:にすると内蔵モデムを外付けモデムとして使うようになる。
まだ動作は確認していない。とりあえず、赤外線ポートを目で見るかぎりでは(赤外線ポートといってもよく見ると可視光線も出している)作動している様子である。
しかし、ターミナルを使って接続相手なしで動作を試してみると、動作がとてつもなく遅い。キーボードを押してから、ローカルエコーで文字が表示されるまでに3秒かかる。もちろん内蔵モデムではそんなことはない。接続相手があれば変わるのだろうか。そう願いたい。
藤田貴美「雪の女王」(ソニー・マガジンズ・コミックス)を読んだ。百合ではないが、素晴らしく百合気分があふれている。読むべし。
WindowsCE(MIPS)用の簡単な開発環境をなんとか自前で作れないものかと考えている。無謀とは思いつつ、Cygwin32からコードを持ってこれれば案外簡単かもしれない、という考えを捨て切れない。
WindowsCE用の開発環境について調べたところ、PocketCというものが見つかった。
この言語は、Cの一種だと作者は主張しているが、まず、ポインタと構造体がない。マクロもない。多次元配列もない。つまり、Cではない。没。
以前、「WindowsCEの赤外線ポートはWinSockからしか叩けないので赤外線ISDN電話に接続するには専用のドライバがいりそう」と書いたが、これについてさらに調べてみたところ、COMポートとしても叩けるらしい。ということは、赤外線ポートをモデムとして定義することができれば、赤外線ISDN電話と接続できる可能性が高い。ドライバとデバイス定義ではずいぶん違う。もしかするとレジストリの変更だけで可能になるかもしれない。早速調べてみたい。
あまり言いたくないようなことだが、このごろ気になったので書いておくと、JUNE・やおい界における、気に食わない内輪への悪意は時としてすさまじい。
私は、悪意というのはたいてい非生産的な感情だと思うので、あまり関わらないようにしている。人の悪口を言うと得になるような世界には生きたくない。だが、JUNE・やおい界の一部の人々にとっては、そんなことはないらしい。気に食わない内輪に対して、あからさまに非生産的な悪意を抱き、それを品性下劣な悪口で表現する人々が少なくない。また驚くのは、それが言ったものの得になる場合の多いことだ。
私はかつて、JUNE・やおいのことを「革命」と表現したが、これはそのとき思った以上に適切な言葉だったかもしれない。革命は常に、悪意と嫉みと愚かしさが大手を振ってまかりとおる瞬間である。
宮台真司の「透明な存在の不透明な悪意」を読んだ。
これも例のごとくの宮台節だが、「片親の子には素敵な人が多い」という言いかたは気に障る。言っていること自体は確かに正しいと思う。だが、ろくでもない奴も片親の子に多い、というのが私の観察である。つまり、幅が広いのだ。平均値は双親の子と変わらないように思う。
この手の、嘘をつかない印象操作が宮台の手なので、よく気をつけながら読むことをお勧めする。読む価値は十二分にある。
多摩市の図書館から電話で、「コードコンプリート」が届いたとの連絡が入ったので行ってみたら、都立中央図書館からの借り物だった。町田市の図書館なら当然自前で持っているはずの本だ。やはり町田市の図書館の貸出カードが欲しい。
この本は、夏のプログラミングの予定に備えて5月にリクエストした。今ごろ持ってこられても仕方ない。といっても、自分で買う予定もないので読んでいる。
関数の最適な行数についての記述は衝撃的だった。統計によれば、150行の関数と20行の関数では、前者のほうが一行当たりのエラーが少ない、とある。私はかつて、関数は基本的に50行以内にすべきだと教わり、ずっとそう信じてきたというのに。
もっとも、考えてみれば、まともな設計の関数なら行数が多いほど一行当たりの複雑さは少ないはずであり、複雑さに比例してエラーが少ないのは当たり前とも言える。盲点だった。
人の家で、ももせたまみの「ももいろシスターズ」の3巻を読んだ。最初のうちは心がなごんだが、読むうちにだんだん辛くなった。不思議だ。
どういうわけか最近、なごみ系の作品に惹かれている。たとえば「まもって! 守護月天」のTVアニメはじつに心がなごむ。まるで水戸黄門を見てなごんでいる老人である。
WindowsCEの開発環境のC++には例外処理がない、という記事を読んだ。すごい話だ。
考えてみれば、MSにはMIPSやSHのコンパイラの経験がない。モバイルギアIIの動作を見ても、とてつもなく効率の悪いバイナリを吐いているような気がする。SDKは当然のごとくバグだらけらしい。MIPSのいいコンパイラを持っているところが、WindowsCE用の高品質な開発環境を作れば売れるかもしれない。
WindowsCE用のフリーの開発環境が出てくれないものか、とずっと思っている。Cygwin32のようなものがWindowsCEにあれば、いったいどれだけ便利になることか。
といっても、Cygwin32をそのままWindowsCEに移植するのは難しい。Cygwin32はUNIXライクな機能を実装するためにずいぶん汚い手を使っている。
「ディアボリックルーン」というエロゲーをやった。変な絵のIIではなく、無印のほうである。
絵が、心底素晴らしい。目からビームが出た。
このゲームのことをインターネットで検索してみると、褒めているページはただの一つも見当たらないが、私は褒める。絵だけですべてが許される。これはそういう絵だ。
さらに、レヴヴァーナというキャラが私の魂を痛打した。外見も態度もくらくらするほど素晴らしい上、「姫が望むなら」だよジョニー! すでに私の頭のなかではリムエラ×ヴァナが原稿用紙400枚くらい展開されている。
ただし、ゲームとしては驚くほどつまらない。これほどあからさまにつまらないゲームを売ろうと思う人間がいるとは、実物を見せられるまでは絶対に信じられないだろう。
9月4日の日記に、「私はよほど変わった顔をしているらしく、人から『××に似てる』と言われるときは、たいてい××にはとんでもない名前が入っている」「まともな名前を聞いたのは一回だけだ。その一回がなんという名前かは忘れてしまったが、たしか、あまり有名でない芸能人だった」と書いたが、その芸能人の名前を思い出したので書いておく。ジョニー大倉だ。
高校時代、同じクラスの人間からこんな話を聞いた。彼の姉が、私の写っている写真(遠足の班の写真だった)を見るなり、私を指差して「この人、変な人でしょう」と言ったという。
私はこういう体験をたくさんしているので、人は顔で判断できると思っている。
コンゴのカビラ大統領は「私は悪い独裁者です」、フィリピンのエストラダ大統領は「私はバカなチンピラです」とそれぞれ顔に書いてある。この二人の顔は一見に値する。ここまで完全無欠な「悪い独裁者顔」や「バカなチンピラ顔」があるのか、と驚くこと請け合いだ。
そして、いま話題になっているミキハウス女の顔も、上の二人と同じくらい完全無欠である。もし私が金正日で、彼女が北朝鮮の人民なら、私は彼女を主役にして映画を撮る。あの顔だけでカンヌが狙える。あれほどの顔はそうそういるものではない。
Intelが組み込み用のMMX Pentiumを発表した。これは消費電力が少なく、従って発熱も小さい。CPU冷却ファンなしでも高クロックで動くだろう。私の野望、完全無音PCがまた一歩近づいた。
私のいう完全無音PCとは、常時動いているモータのまったくない、さらに液晶のバックライトの音(ジーという音がする)の類いもないPCである。
現在のPCでは普通三つのモータが常時動いている。すなわち、CPU冷却ファン、電源冷却ファン、HDDである。
CPU冷却ファンを不要にするには、消費電力の少ないCPUを使えばいいが、これまでは一般のユーザが使える高性能なCPUがなかった。せいぜいMediaGXか、MMX
Pentiumを低クロックで使うくらいだった。
無音HDDは、UNIXならなくてもいい。たいていネットワークからブートできるからだ。しかしあいにくWindows98もNT日本語版もネットワークからブートできないので、ブートするHDDだけは必要になる。これにはSandiskが製造しているフラッシュメモリHDDか、フラッシュATAカードをIDEに変換する装置を使えばいい。ただしどちらでもきわめて高価(おそらく20万円程度)になる。
電源冷却ファンをなくすのがもっとも難しい。ケースの中の全体をこのファンで冷やしているようなものだからだ。発熱の小さいカードを選び、ケースに穴をあけて、空気対流だけで冷却が間に合うように全体をデザインする必要がある。
完全無音PCへの道はまだ険しい。
コミケカタログの百合サークル数動向チェックはすでに終了している。しかし、抽選が無作為でない(過去に参加しているサークルが優先される)ことの影響をどう扱うかが難しい。つまり、全体の20%が入れ替わった回と10%が入れ替わった回では、サークル数の値の意味が違う。スキャナとOCRを使って全サークル名を取り込んで、入れ替わりの動向を把握すべきか。
「エリーザベト・ニーチェ」のおかげで少女小説の構想が固まった。キーワードはパラグアイだ。
野良猫に餌をやるのは楽しい。夫婦とおぼしき二匹に餌をやるのは特に楽しい。
餌のパンを小さくちぎって投げるのだが、パンを投げるたびに飛びついて奪い合う。猫は、仲がいいからといって譲りあったりはしない。「先に取ったもの勝ち」の原則を忠実に実行する。ただし、先に取られたものを奪おうとはしない。猫の知恵もなかなか馬鹿にできない。
今日は、猫にも所有権の概念があるらしいことを発見した。経緯はこうだ。パンのかけらを猫Aが食べていると、近くを人間が通りがかったので、猫Aはパンを残してその場を退いた。人間が去って再び安全になったと見るや、猫Bが先にパンのところに行き、食べはじめた。
もし人間の接近による中断がなく、猫Bが最初からそのパンを食べているのなら、猫Aはなにもせずにいたはずだ。しかしこのとき猫Aは、パンのところに近づいて、猫Bからパンを奪おうとした。明らかに猫Aは、そのパンに対して所有権の一種を主張したのである。
この動きに対抗して猫Bは前足を行使し、威嚇によって猫Aを退けた。猫Aがあっさり退いたところをみると、猫の世界では、所有権という概念は本格的な戦闘の動機にはならないらしい。
グアムから帰った。深夜に空港に行き、昼に家に着いた。あとは寝倒した。おかげで特に書くことはない。
ベン・マッキンタイアー「エリーザベト・ニーチェ」(白水社)を読んだ。パラグアイは愉快な国だということがよくわかった。
グアムでのインターネット接続は、主に資金不足のために失敗した。というのも、パソコン雑誌の置いてありそうな書店がホテルの近くになく、タクシーで行こうにもタクシー代がなかった。
これからのホテルはインターネット接続くらいサービスしてほしい。もっとも、観光地の商売はなにもかも鈍重なので、グアムでは10年たっても望み薄だが。
「グアムの感想」など誰が書いても似たようなものだと思うので書かない。
この世には実際に、お嬢様と呼ばれるに値するような人種がいるらしい。
これは、某お嬢様学校に通うさる女子小学生の家庭教師をしていた友人から聞いた話である。その女子小学生は、「うちのパパ月収が200万円しかないのぉ」とのたまい、「マンションじゃ恥ずかしいから一軒屋に住みたぁい」とぬかしたという。彼女のクラスメートがどんな連中だかよくわかる。
さらに、その友人の言うには、同じ大学サークルのメンバーに「お付きの人」「送り迎えの車」つきの人がいるという。その人の名前は日本書紀のなかの、美しく悲劇的な物語(氷室冴子の「銀の海 金の大地」のあれである)から採られ、後ろに「姫」の字がつく。
現実は華雅学園(久美沙織「丘の家のミッキー」の)よりも凄いらしい。貧乏人には想像もつかない話だ。
これを書いている現在、東京の空の上である。飛行機はこれが初めてだ。
飛行機のなかでのモバイルは長年の夢だった。
日本に戻ったばかりの頃、新幹線のなかで、若い女性がFM-16πを使っているのを目撃した。実に素敵だった。その姿のどこがどう、というのではなく、ただとにかく素敵だった。コンセプトにやられた、とでも言おうか。それ以来、新幹線や飛行機のなかでのモバイルは私の憧れになった。
新幹線でのモバイルは去年達成した。原稿を書いたのである。この日記のように、優雅でどうでもいいことを書いたのならよかったのだが、あいにくと小説、それも時間に追われてやむなくモバイルしたのだった。マシンはThinkPad220で、その原稿のためにアルカリ電池を12本使ってしまった。夢の実現というには情けない体験だった。
などと書いたところで機内食がやってきたので食べた。噂どおりの奇怪な食べ物であった。
ところで、この便は9時45分発のはずだったが、実際に成田を発ったのは14時30分である。5時間遅れて払い戻しもないのだから航空会社というのはいい商売だ。
私は明日からグアムである。ノースウェストの060便なので、もし落ちたら、アルジャーノンの墓に花束を捧げてほしい(一部嘘)。
「サハラの砂、オーレスの石」という、アルジェリア戦争の本を9割方読んだ。
BANANA FISHの番外編に、昔のブランカとアッシュの話があり、そのなかに、FLN対フランスの戦闘の兵棋演習を行うシーンがあった。しかしこの本を読むかぎりでは、FLNは大規模な正規戦は一度もやらなかったように見える。
あと、ピエ・ノワールが自動車の警笛で鳴らしたというリズム、「アル=ジェ=リ・フラーン=セーズ!」(フランスのアルジェリア、という意味)はどういうリズムだったのか知りたい。今度レンタルビデオでアルジェリア戦争物を探してこよう。
グアムでインターネット接続するにはどうすればいいかを検討している。
AOLが雑誌につけてばらまいているという噂の無料アカウントを使いたいところだが、マシンがWindowsCEなので、使えるかどうかわからない。ああいうものは専用のソフトを使うものと相場が決まっている。日本のQ2プロバイダに相当するものがあればいいのだが。
といっても、このご時世にグアムでインターネット接続できないはずがないので、現地に着いてから少し調べればなんとかなるに違いない。
さる読者からのメールを読んで思い出したが、JUNE小説では、女性キャラが自然にあしらわれることが少ない。人物造形に不純物の混じっているような違和感を覚えることが実に多いし、その運命も、作者の感情がそのまま反映されてしまったような不自然なものであることが多い。私の印象に残っている例を挙げれば、たとえばフジミの第一話の川島さんにはまさに「不純物の混じっているような違和感」を覚える。運命については終わソンの奈々を思い出す(奈々にもやはり不純物を感じるが、これは栗本薫先生の作品一般の個性でもあるので例として適当でない)。
このことに説明をつけるのは簡単だ。簡単すぎると言ってもいい。どれくらい簡単かというと、ちょっと考えただけで5通りの説明が思いつくくらいである。一週間も考えれば10通り以上は思いつけるだろう。
よって、この件に関しては私は沈黙すべきだと判断した。この問題はきっと、JUNE小説の消滅に至るまで、万人に受け入れられる解答を得られないのではないかと思う。
「Oh! X」といえば、シャープのメビウスとザウルスは、MebiusとZaurusの頭文字を二つ並べて「MZ」になるように名づけられた、という噂がある。事実だろうか。
たまには少女小説を書いてみようと思い、コバルト・ノベル大賞、ではなく集英社ノベル大賞に投稿する予定で話を練っている。百合でない話を考えるのはいったい何年ぶりか。
三人称で書くことと道具立てが決まっているだけで、あとはなにも考えつかない。道具立てに頼って話を練るのはまずいのだが、道具立てがないと勝手に百合になってしまうのだから仕方ない。
大学の文芸サークルの先輩が、「Oh! X」に記事を書いている。先輩というのは「めがねコミュニケーション宣言」のはいぼく氏である。
彼の文章を読むと、彼がしゃべっているのが聞こえる。「読むと、見える。」ならぬ「読むと、聞こえる。」だ。彼の話し方を知らない人間がどう感じるかは知らないが、知っている人間にとってはあれは極めて高度な言文一致なのだ。なにしろ文を読むと言が再生されるのだから、言文一致どころか言文同一である。
同じサークルの先輩にはもう一人、言文同一の人がいる。この二人はどちらも、口から言葉が出てくるときに、すでに文章と同じくらい完成されている。昔の馬鹿な国語教師が言ったというセリフ、「しゃべるように書け」を実践してもなんの不都合もないのである。あれはうらやましい。私はどうしようもなくがたがたな話し方しかできないので、しゃべるように書いたら日本語の文章にならない。
(ちなみに「読むと、見える。」は、講談社X文庫(無印)のコピーである。コピーライターは花井愛子)
中条比紗也の「花ざかりの君たちへ」を4巻まで読んだ。女の子が男のふりをして男子校に潜り込む、という話である。
イラクとアフガニスタンと男子校にそれぞれ6年間いた人間に言わせれば、とてつもなく無理のある話である。男子校の生徒はみな男についてはちょっとした専門家だ。なにしろ周囲には男しかいないので、自ずから男に対する観察眼が鋭くなる。あの主人公が、この観察眼をくぐりぬけられるとはとても思えない。
体育の授業や声のことはなんとか忘れるとしても、高校2年という年齢は無視しがたい。ぱっと見ならともかく、学校生活をしていて性別をごまかせるのは中学3年が限界だと思う。高校2年ならリアリティのレベルをもうちょっと下げてほしい。
あと、あまり思いつかないことのようだが、髪は多少長いほうが男に見せかけやすい。頬や首筋を隠せるからだ。
性別で思い出した。以前、「一という名前はどう見ても男名前」と書いたが、渡辺多恵子の「はじめちゃんが一番!」の主人公、岡野はじめというのがいた。
もっとも、私の知るかぎりではこれが唯一の例外なので(篠原一という作家はいるがペンネームのはず)、あまり問題ない。
この世には、敵としか呼べない作家が幾人かいる。敵を名指すことはできない。よって非難することもできない。なぜなら、公の場で敵を名指せば敵の宣伝になり、敵を利するからだ。
今日ほどこのジレンマを痛烈につきつけられたことはかつてない。敵の憎むべき同盟者は巨大な影響力をふるっているというのに、私は自分の持っているごく小さな影響力さえも使えない。現在の言論の自由とは、過去の政治的妥協の産物であり、非時間的で絶対的な人間倫理(そんなものがあるとして)の反映ではないということを思い知らされる。
注意深くまた幸運な読者なら、私が思い描いている敵の名を推測することができるだろう。そう、奴は私の敵である。
名指すことのできない敵の話をしても仕方がない。名のない、敵というには卑小な存在をやっつけて、憂さを晴らすとしよう。
「オタク的なるもの」のシンボルを、自分の都合のいいように捏造して、それを貶めてみせる種類の言説がある。無論これをやるのはオタクと決まっている。自虐のつもりか、それとも「自分はオタクじゃない」と主張したいのかは知らないが、どちらにしろ見苦しい。
醜い者の自虐はただ見苦しいだけで、人を納得させるところがまるでない。この種の無意味な見苦しさを無自覚にふりまくのがオタクのメンタリティと言えばそれまでだが。スケープゴートを捏造して「自分はオタクじゃない」と主張することの見苦しさについては論をまたない。
この種の言説が非難されることはあまりない。少なくとも私は見たことがない。それはおそらく、その非難自体が、非難の対象であるところの「『オタク的なるもの』のシンボルを、自分の都合のいいように捏造して、それを貶めてみせる種類の言説」でないことを保証できないからだ。まさにジレンマである。
だが、今日の私はジレンマはもうたくさんだ。読者は好きなように受け取るがいい。私は傍若無人に書くのみである。
古本屋を回ったら、赤石路代の「P.A.」が見事になくなっていた。やはりTVの力はすごい。
椎名桜子はTVの力を借りても売れなかったのだから、作品がよほどつまらなかったのだろう。彼女が監督したという映画をいっぺん見てみたいものだ。
少し前の朝日新聞に、有馬文部大臣が小学生向けの核物理の実験を実演しているという記事で、古い目覚し時計を手に持っている写真が載っていた。
実に気分がへこむ話である。いまどき、核物理の実験に使えるような夜光塗料を使った目覚し時計はどこにもない。いま夜光塗料は、高価な腕時計にほんの少しだけ使われている程度で、あとはみな蓄光塗料だ。
「彼氏彼女の事情」のTVアニメが始まった。
宮沢と有馬といえば、大蔵大臣と文部大臣を思い出すのは私だけではあるまい。二人ともいいタイミングで大臣になったものだ。
私がアンチ・アンチMSなのは、MSに痛い目にあわされたことがないからだ、と考えている読者もいるかもしれない。
MSに痛い目にあわされたからといってすぐにアンチMSになるのも愚かな話だと思うが、それは措くとしても、MSに痛い目にあわされたことがないわけではない。
読者はWindows Printing Systemというものをご記憶だろうか。Windows3.1時代にMSが作った、プリンタの規格である。プリンタ内蔵のコンピュータがやるような処理をパソコンにやらせることで、プリンタ内蔵のコンピュータを省いて安価に、しかし高度にインテリジェントな機能を持つプリンタが作れる、という触れこみだった。
これは規格倒れにはならず、実際の製品がかなり多く登場した。私の周囲でも一台使っている。初期のことは知らないが、現在では問題なく動作している。(規格倒れとは、規格を決定したものの、ほとんど製品が出ずに終わることを指す。たとえば最近ではPC98が規格倒れに終わった)
ここまではいい。問題はこのあとだ。
MSは実質的にWindows Printing Systemを放棄した。なにしろ、WindowsNTでは使えない。ドライバがないのだ。おかげで私の周囲ではプリンタのネットワーク共有ができず(そこではWindowsはほとんどがNT)、大いに不便を被っている。仮にもWindowsの名を冠したプリンタがWindowsで使えないのだから、世間の常識からはずいぶん外れている。
NT用ドライバがないのには一応の理由があるらしいが、知ったことではない。問題は結果だ。こんなに早く放棄されるような規格は近視眼的としか言いようがない。それにダーティーな設計はMSのお家芸である。どうしても絶対にNT用ドライバが作れない、とはとても信じられない。作るのが大変だから作らないだけだ、と私は考えている。
来週の土曜からグアムに行く予定である。積極的に行きたくて行くのではなく、つきあいである。行きたくないわけではないのだが。
それにしても海外旅行というのは面倒なものだ。行く前からこれほど面倒なのだから、行くとさらに面倒なのだろう。きゅう。
このところ日経平均株価が下げている。
しかし為替は円が上げている。単純に考えると、日本に資金が流入しつつ、株式市場から資金が流出している、ということになる。不思議だ。
近々タリバーンがマスード派に対して大規模な攻勢を仕掛けるらしい。
イラン軍と正面から戦えばタリバーンは吹っ飛んでしまう。といってイランに鼻面を引き回されればタリバーンは面子を失う。マスード派を取り除いて、イラン内のハト派を勢いづけるのが一番いい方法である。それはわかりきったことだが、あいにく今はもう冬が近い。今から攻めても、攻め切れるとは思えない。勝って勢いのあるうちにやってみよう、という判断か。
PC EXPOの記事を見た。
ハギワラシスコムという会社が、愚劣さのあまり卒倒しそうなほど馬鹿げた製品を発表していた。ストレージにスマートメディアを使った偽mpmanである。しかもフォーマットはmp3ではなく、「不正なデータが流通できないようなデータフォーマットや流通形式を検討している」だという。
どう考えても本家より売れるわけがない偽物、しかもβ道まっしぐらのスマートメディア。正気だろうか。私は決してハギラワシスコムの製品を買わない。こんな馬鹿げたことを考える会社にビタ一文でも渡すくらいなら、WAC○M(一部伏せ字)のタブレットやTRONキーボードを買って文鮮明への万物復帰に協力したほうがまだマシというものだ。
(β道のβとは、ビデオデッキのβ。「技術的には優れてる」「販売で負けた」等々の繰り言をかかえながら、ゆっくりと死に絶えてゆく規格とその運命を指す)
恩田陸「六番目の小夜子」がハードカバーになって再刊されたらしい。
昔、文庫版で読んだことがあるが、そのときは別にどうとも思わなかった。きれいな寄せ木細工のようによくできているとは思ったものの、それだけだ。つまらないとも面白いとも思わなかった。つまらなかろうと面白かろうと、どちらでも別にまったく問題ないような、実にどうでもいい作品だった。「湯けむり温泉の連続殺人」流のTVドラマをぐっと上質にしただけ、とでも言おうか。
しかし、この作品を大いに買っている人が、世の中にはかなりいるらしい。私の周囲にも一人いる。日本ファンタジーノベル大賞の選考過程でも、若手の編集者の支持を集めたらしい。だからこれは私にとっては大きな謎である。
文庫版で読んだときから、私はいつかこの謎と対決する運命にある、という気がしている。こうして再刊されたのを見ても、意外な感じはまったくなく、それどころか「やはり」と思う。次には何が起こるのか、それとも起こらないのか、楽しみである。