やはり正統性の力は大きい、と痛感させられる日々が再び来た。
「ブレイブ・ハート」という映画で、国王が反乱軍を指して「羊だ、羊の群れにすぎん。羊飼いがいなくなれば散り散りになる」と叫ぶシーンがある。なるほど確かに、世の人の大半は羊だ。羊飼いの命令だけを聞き、羊飼いがどう判断すべきかは考えようとしない。
柘植久慶の小説を久しぶりに読んだ。少しは変化があるかと思ったが、相変わらずカクテルパーティーの武勇談である。
とだけ書くと、柘植久慶に悪い印象だけを与えてしまうので付け加えておくと、この人は「ツェッペリン飛行船」のようないい本も出している。これは飛行船の写真集で、おそらく日本で出版されたなかではもっとも充実した本だ。こういう本の企画を作って通せる人は、なかなかいない。
最近、セラムンSをビデオで見ている。
現在のギャル理論の分析対象としては、あまり面白みのある作品ではない。うさぎ以外の内惑星の4人はあくまで平等に扱われていて主力と下位打線の区別がないし、みちはるが主力という扱いでもない。
しかしこのことは、現在のギャル理論にまだ欠けているものを示してくれる。ギャルの魅力とギャル間の関係性についての理論だ。
ギャルの魅力とギャル間の関係性は、互いに密接な関連がある。優れたギャル作品を目指すなら、ギャル間の関係性をおろそかにすることはできない。この関連を、簡潔に説明できる理論を作りたい。
「ルパン三世 カリオストロの城」をTVで見た。
いったい何回見たかわからない。セリフもシーンも全部頭に入っている。しかし、見るたびに目が離せなくなる。
こんなにも完成された作品を作ってしまったクリエイターというのは、どんな風に思うものなのだろうか。知りたいような知りたくないような、微妙な気持ちだ。
昔、なにかの有名な論争を、「神学者が無神論者と議論しても勝てない」と評した言葉があった。
これを読んだときにはあまりピンとこなかったが、今、なるほどと思う。論争するとき、自分の立場についてフリーハンドを得ることのアドバンテージは大きい。相手の立場を見抜き、それを利用することで得られるアドバンテージはさらに大きい。
ギャル作品に関する知見を深めようと思い、「シャーマニック・プリンセス」の1巻と「AIka」の6巻を見た。
まずは「シャーマニック・プリンセス」について。
絵コンテに感心した。しかし脚本が悪い。脚本があれではコンテマンがかわいそうだ。
まずギャルがよくない。主力2・下位打線0で30分ならもっとやれる。視聴者を突き放した、わりと不親切な作風がコンセプトらしいので、思い切ってとんでもない性格にしてみたらどうだっただろうか。
また、主力2なら二人は三番・四番であり、方向性の違いをはっきりと打ち出すべきだが、それがあまり見えなかった。三番ファン・四番ファンはそれぞれ、いったいどちらのファンになればいいのかわからなくて困る。
ついでに会話がまずい。もともと多人数が会話するシーンというのは不自然になりがちなので、下位打線1~2を用意して、主力と下位打線の一対一の会話だけで説明を進めるのがうまい手だ。
とはいえ絵づくりは丁寧だし、絵コンテがいいので、見ても損はないと思う。
全人類唖然、それが「AIka」だ。
この企画を立てた人は偉い。ファーザーかJかそれともエド・ウッドか、というくらいに偉い。ただしOAVの「聖ミカエラ学園漂流記」にはトラウマ的に負けるが。
ギャル的には、藍華が四番、りおんが五番で、三番打者なしの構成をとっているあたりが面白い。主力2なら三番・四番、というのは私の間違いで、四番・五番が正解なのかもしれない。「三番・四番」対「四番・五番」は、野球理論上の対立点として使えそうだ。
最近デジカメが欲しくなっている。
100万画素のデジカメなら解像度も十分で、印刷物をメモするかわりとして使える。それに銀塩カメラのように、一回シャッターを押すごとに確実に何円か飛ぶ、ということがないのがいい。好きなだけシャッターを押して、気に食わなければ消せばいい。気楽だ。
今まで私がなぜカメラと無縁だったかと考えると、ひとつにはカメラが「一回いくら」というものだったことだと思う。私は「一回いくら」が嫌いだ。使用頻度を考えれば一回いくらで払ったほうが得になる場合でも、定額料金で使い放題したい。「これをやるとまた×円飛ぶのか…」という精神的負担は、少しくらいの金には代えられない。
デジカメが欲しくなったので、私はいくつかの条件を満たす機種を探した。
・原色フィルタ
・100万画素以上
・記録媒体はCF
・できるだけ待たされずに撮れる
・ポケットに入るサイズ
あれだけたくさんの種類があるのだから、これくらいの条件を満たすのは簡単だろうと思ったら、そうではなかった。どう探してみても、1年も前に出た一機種だけしか見当たらず、しかも原色フィルタではなかった。
これくらいの条件も満たされないとは、と腐っていると、なんと、私の注文をきいてあつらえたかのごとき機種が出た。カシオのQV-5500SXである。
スペックを見て、さすがはQV-10のカシオ、と唸った。
200万画素が流行のなかで131万画素だし、USB接続も光学ズームもない。カシオのことなので、光学系にもあまり期待できないだろう。売り物はたった一つ、0.5秒間隔で撮影できることらしい。
だが、コンセプト的に見事である。どこがどう、とは言えない。これは調和なのだ。全体として眺め、感じてほしい。
ネットをまわってみたところでは、いまだにK6-IIIは出回っていない気配である。
スケジュールがずれこんだ上、正式発表がすぎても出回らないのだから、生産能力に不安が囁かれるのも無理はない。K7待ちやSlot
1-Socket 370シフトの影響もあって、K6-IIIはかなりの珍品になるかもしれない。パソコン的に強まった人ならますます買いだ。
人によって常識というのはずいぶん違う。
私も、それくらいのことは前から知っていた。しかし「パソコンにOSをプリインストールする必然性はない」という主張を見かけたときには、こんなにも違うものなのかと驚いた。
たしかに、「必然性はある」という主張と「ない」という主張が対立すれば水掛け論になるだろうし、水掛け論になるということは議論の余地があるということだが。
以前、新宿将棋センターで、「藤田和子」という人と指したことがある。そう、小学館の有名な少女まんが家と同じ名前だ。
40歳くらいの人で、まんが家のようには見えなかった。それに藤田和子は、私の知るかぎり、将棋盤ひとつまんがに描いたことがない。ただの同姓同名だと思って訊くこともしなかったが、今日ふと単行本の略歴を見ると、1977年デビューとある。とすると今は40歳前後のはずだ。
あのとき、訊くだけ訊いておけばよかった、と少し後悔している。
明日あたり、そろそろアキバにK6-IIIが出回るだろうか。
以前、「同クロックならK6-IIIよりDixonのほうが速いはず」と書いたが、間違いだった。2MBの三次キャッシュがAMDの必殺技である。これはマシンの反応速度のクリティカルな部分に対して劇的な性能向上をもたらすだろう。
反応速度のクリティカルな部分というのはたとえば、二次キャッシュなしのPentium
166MHzよりも二次キャッシュ512KBのPentium 90MHzのほうが速く感じる、ということである。部分的には前者のほうが速いのだろうが、クリティカルな部分(フォルダを開く速度、プルダウンメニューが出てくる速度など)は後者のほうが速い。
というわけで、パソコン的に強まった人ならK6-III(と、三次キャッシュ2MBのマザーボード)は買いである。
ただし、K7が三次キャッシュを採用した場合にはK6-IIIは負けるので、そのへんを見極めてからでも遅くないかもしれない。K7はAlphaのバスと似たものを使うらしいので、Alphaから三次キャッシュを引き継ぐ可能性は高い。
つまらない計算をしてみた。
世界じゅうのすべての人間(50億人と仮定)が、一日に6.0×104バイト(およそ原稿用紙百枚)の文章を書くとすると、その合計量は3.0×1015バイトになる。一年分では1.1×1018バイトになる。仮に人類の文明が10億年続くとすると、そのあいだに1.1×1027バイトの文字が書かれることになる。
もちろん普通の人間は、どれほど頑張っても一日に6.0×104バイトもの文章を書くことはできないし(24時間書きつづけるとして一秒1.4文字だ)、全人類が24時間365日ずっと机にかじりついて文章を書きつづけるわけがない。そのへんのことは人口の変動や文明の続く期間と相殺するとして、とりあえず、どう考えても人類は1.1×1027バイト以上の文章を書けないということは確かだと思う。
現在、数万円で売られているHDDは8.0×109バイトほどの容量がある。10年前には、数万円では8.0×107バイトかそこらがいいところだった。10年で1.0×102倍に増えたわけだ。もしこのペースでHDDの容量が増えていくなら、100年もしないうちに数万円のHDDの容量は1.1×1027バイトを超える。
この計算が妥当であるかどうかはともかく、人類の歴史をすべて作文に費やしても埋めきれないほどの記憶容量は、確実にコンピュータ技術の射程内にあるといえる。ましてや、地上に存在するすべての文章を収められる記憶容量(1.0×1014~1.0×1018バイト程度か?)など、もう目と鼻の先だ。
ヤボ用で、t分布の乱数(擬似乱数)を作るコードを探した。しかし見つからない。やはりC言語というあたりが無理なのだろうか。
しかたないのでシグマ分布の乱数を作るコードを探したら、引数がintのものしか見つからなかった。一応doubleに書きなおしたが、大丈夫だろうか。確認用に、乱数列から確率密度のグラフを出すコードを探したほうがいいかもしれない。
まったく、コードを書かずに済ますのも楽ではない。
「電脳映像世界の探検」という本を読んだ。1993年の本である。
一読、「夜明け前」という印象を受けた。当時の私はDOS/Vにかまけてコンピュータサイエンスには無関心だったが、1993年というのはこんなにも暗い年だったのだろうか。
この本に登場するコンピュータサイエンス関係者のうち、誰一人としてインターネットに言及していないところが面白い。「放送と通信に境界がなくなる」と言いはしても、「放送」と距離は切り離せないし、インターネット以前の有線の「通信」は距離に応じて課金される。
小林拓己「麗人な女性」という本を読んだ。雑誌「美粋」に載っていた作品の単行本である。
一ページ読むたびに頭が痛くなるような、とてつもないまんがだった。しかも、(変な意味でも)面白くない。戦略や方針以前に、こんな原稿しか集まらなければ雑誌が潰れるのも道理だ。
こんな作品にツッコミを入れるのも空しいが一応入れておくと、久美沙織「丘の家のミッキー」によれば、ミシェルというのは男名前のはずだ。さらに言えばこれはフランスの名前のはずで、アンダーソンという姓にはつながらない。
(ちなみにミシェルというのは「丘の家のミッキー」の主人公のかつての愛称。主人公のお姉様はレミという名前で、これも男名前ではなかったかと思う(たしか「家なき子」の主人公がレミだった)。このへんの百合的な意味深さが「丘の家のミッキー」の読みどころ)
次なる短篇の構想が固まった。キーワードは「定番」だ。
問題はタイトルで、難航している。大昔、作品よりもタイトルに力を入れるアーティストが主役の話を書いたことがあるが、その呪いが今になって降りかかってきたような気がする。うーむ。
「ヤンキー・ゴー・ホーム」(仮題(嘘))について反省してみた。
今から考えてみると、やはり設定が悪かった。もちろん、あの設定でまともに書ける人もいるのだろうが、Jはそうではない。一応、設定に問題があることには最初から気がついていたのだが、パラグアイをキーワードにすればなんとかなると考えてしまった。見込みが甘かった。
Jの場合、ストーリーというのは砲弾のようなもので、射ったあとから軌道修正するわけにはいかない。射つ前の照準がすべてだ。
…しかし考えてみると、Jなら、どんなに決まりきったストーリーでも必ず(変な意味で)面白くしてしまうような気もする。うーむ。
今日の朝日新聞夕刊によれば、アメリカでカルバン・クラインの広告が「幼児ポルノを思わせる」として問題になり、宣伝を中止することになったという。
幼児ポルノ業者はこれを聞いて、手を叩いて喜んだことだろう。「ポルノ」でないものに金を出す客はいない。「ポルノ」の範囲が広がれば広がるほど、商売道具の値打ちが上がるというものだ。
きっと次は映画「ホーム・アローン」のビデオが全米のレンタルビデオ屋から撤去されるにちがいない。そしてインターネットの裏の世界では、通信販売で「ホーム・アローン」のビデオが売られるようになるのだ。
MS対司法省の裁判の一審は、どうやら司法省が勝ちそうな勢いである。MSの株価を調べてみたところ、2月1日からこのかた下げつづけている。
が、株価の動きをよく見ると、不思議な点がある。この3ヶ月で50%ほども上げているのだ。いかに好況のアメリカ、そのなかでもバブルと噂のハイテク株とはいえ、独禁法で裁判中のMSの株が3ヶ月で50%上がるというのはいかにも不思議だ。投資というのは常識では計れないものらしい。
李泰「南部軍 知られざる朝鮮戦争」という本を読んでいる。
「敵進我退、敵止我擾、敵避我撃、敵退我進」というのは毛沢東の名言だが、これは「毛沢東の16文字戦法」というものらしい。「敵進我退」だと微妙に情けない印象があるが、「毛沢東の16文字戦法に則って退却」だと微妙に格好がつく。いつか使いたい。
帝政ロシア時代の小銃や、弾が二発しか入っていない小銃が使われていたというのを読んで、アフガニスタンから脱出したときのことを思い出した。警察の拳銃取締りでは、拳銃そのものと同じくらい弾薬が重視されるという。戦争映画だと弾薬は無尽蔵にあることになっているが、まともな補給のないところでは弾薬はかなりの貴重品なのだ。
読者諸氏が軽武装のゲリラに襲われたときには、落ち着いて遮蔽物の陰に隠れ、反撃してみることをお勧めする。たとえ相手の頭数は多くても、持っている小銃の大半が弾切れだったり動作しなかったりするかもしれない。
「ヤンキー・ゴー・ホーム」(仮題(嘘))のことを思い返してみると、どうやら途中からJ(コミックマスターJ)が書いていたらしいとわかった。Jめ、一体いつの間に。
Jの書くものは(変な意味で)面白い。はっきりいって「ムトゥ 踊るマハラジャ」よりも上、「神聖モテモテ王国」のファーザー作品と並ぶ。ファーザーの描く変なまんががあるが、あれにちょろちょろとテクニックをまぶしたもの、といえばわかりやすい。あれくらい(変な意味で)面白い本を見つけたら、私だったら即買いだ。下読みの人がファーザーのような人であることを祈る。
IEEE1394のライセンス料に関する事情が最近キナ臭い。「1ポート1ドル」の評判が悪かったために、特許コンソーシアムなるものを設けるという話に変わったが、この話にCompaq・東芝・ソニーが乗った。メンバーといいタイミングといい、Intelから主導権を奪おうとする最近の動きと微妙に符合している。これは、ジョブズの腕力がまたしても発揮された、ということだろうか。
今日はコミュニケーション・ノートにたくさん書いたので、こちらは省略。
「主人公への自己同一化の第一層・第二層」における干渉層のことを書くのを忘れていた。
第一層と第二層とのあいだには、最適化の障害となる「干渉層」が存在する。このことは、「主人公と読者の心理的距離」という概念を導入することで説明される。
A.心理的距離が十分に遠い場合、第一層は働かず、第二層のみが作用する。
B.心理的距離が十分に近い場合、第一層が主に作用する。
C.心理的距離が二つの中間である場合、第一層と第二層が両方とも作用する。このためパターンA・パターンBにくらべて、自己同一化を生じさせるために満たすべき条件が増え、自由度が著しく低下する。
具体例として、男性向けショタを想起していただきたい。自己同一化の対象たる主人公の少年は、年齢と世界観によって、読者との心理的距離が十分に遠く保たれている。つまりパターンAである。ここで、もし主人公の年齢が上がったら、どうなるだろうか。年齢が上がるほど、読者と主人公の心理的距離は接近し、パターンCに近づいてゆく。それと平行して、主人公への自己同一化への抵抗は増してゆく。男性向けショタの主人公の性質が第一層には適さないためだ。
パターンCは、自由度が低いというだけで、原理的に自己同一化が困難であるということはない。とはいえ最適化の観点からは、自由度を犠牲にするにはそれなりの理由が必要とされる。パターンCに近い状態を選ぶときには、心理的距離を確保するための妥当な手段がないかどうかを十分に検討するべきだろう。
百合にとって良いニュースだけを伝えているのでは、いわゆる大本営発表になってしまう。私は百合の将来が明るいことを確信しており、そのため、目先の悪いニュースなどなにほどのこともないと考えている。
トーハンのホームページ内に、文庫の週間ベストセラーリストが載っていることをご存じだろうか。これは日販の調べであるため、「まんがの森調べ」などとは比較にならないほど信用できる(なお私の「まんがの森調べ」への信用はドクター中松へのそれと同レベルだ)。そしてこのほど、2月発売のコバルト文庫が登場した週のベストセラーリストが発表になった。
今野緒雪の「マリア様がみてる 黄薔薇革命」は、20位以内に入っていなかった。
これと同時発売のコバルト文庫は、あさぎり夕の「卒業までの二人」が6位、須賀しのぶの「来たれ、壊滅の夜よ キル・ゾーン」が13位、花衣沙久羅の「蒼のラプソディ」が14位、倉本由布の「きっと信じてる 安土夢紀行」が17位、橘香いくのの「王国、売ります!有閑探偵コラリーとフェリックスの冒険」が19位に、それぞれランクインしている。同時発売のコバルト文庫は10点であり、「黄薔薇革命」は上位5位までに入れなかったということになる。
残念なことだが、悲観するにはあたらない。私の観察では、「黄薔薇革命」の配本の格付けは低かった。どういう仕組みで格付けをしているのかは知らないが、ともかく、格付けの低い本はあまり行き渡らない仕組みになっており、このため格付けが低いと週間ベストセラーリストでは絶対に上位に食い込めない。
なによりもまず、「マリア様がみてる」シリーズの格付けを向上させることが必要である。読者諸氏もぜひ「黄薔薇革命」を購入されたい。
野球理論というのは、「一番・二番、クリーンナップ、下位打線というようにギャルを区分して配置することが最適化を容易にする」という話である。出塁率の高い一番、試合を演出する二番、オールラウンドの三番、破壊力の強い四番、ハゲタカ打ちの五番、地道に得点する下位打線、というわけだ。読者諸氏も、手近なギャル作品を野球理論によって解釈してみられるとよい。
野球理論を通してギャル作品を見ると、よく最適化された作品は下位打線がしっかりしていることがわかる。野球でも、下位打線が弱いチームは、どれほど上位打線が充実していても試合に勝てない。これは、CCさくらがイチロー(さくら)とバース(知世)をかかえながらギャル的な総合力では今一つ、という事実とよく合致している。
マルチギャル構造と最適化理論、自己同一化の第一層・第二層、そして野球理論。おべどこ理論以来ずっと沈滞を続けていたギャル理論が、このところ大きく進歩しつつある。
こうした動きを受けて、これらの理論の実践となるような長篇を構想している。もちろん目指すは「21世紀のスタンダード百合」だ。
長さ400枚、マルチギャル構造を採用、という線を検討している。投入可能な資源を考えると、最適なギャル配置は主力4・下位打線5~7といったところか。「女性という性が無色であるような世界観」という条件からして、ファンタジー世界もしくは(空想的な)女子校が舞台として最適である。
(空想的な)女子校という舞台は、「女性という性が無色であるような世界観」の実例として、百合の重要な知的資源である。しかし新たな舞台を開発することは百合の発展に欠かせない。「21世紀」というからには、ここは志を高く、ファンタジー世界を舞台にしてみたい。
しかし本格的に構想に着手する前に、短篇を一本書く予定である。短篇が書きあがるまでには、さらなる理論的発展がみられることだろう。
今日の結論:「野球理論――木之本さくらはギャル界のイチローだ」
ちなみに大道寺知世はバースで、利佳ちゃんが選手生活末期の原。
以下延々と議論が続くので、議論に興味のない向きは、最後の「今日の結論」まで読み飛ばされるとよい。
友人との討論の結果、最適化理論はかなりの成功をおさめた。
この討論で、「主人公への自己同一化の第一層・第二層」という興味深い概念が生まれた。女性がハーレクインを読むときは第一層、ボーイズラブを読むときは第二層、という話である。そして、「天地無用」において、読者・視聴者は第二層の自己同一化をしている、と考えられる。
第一層の自己同一化に適したキャラがどんなものかは、ヤクザ映画やハーレクインに見られるとおりだ。第二層の自己同一化に適したキャラとは、「無特性」「受動的」「受」である。具体的には、「天地無用」類のアニメ・まんがや長篇ボーイズラブ小説をご覧いただきたい。
受動的というのは「天地無用」類に、受というのは長篇ボーイズラブ小説に、それぞれ濃厚に見られる特徴である。この両者に、無特性という特徴が橋をかける。「天地無用」類の主人公の最大の特徴は、これといった個性や特徴がないということ、つまり無特性ということだ。ボーイズラブ小説の基盤のひとつが、男性という性を無特性(=原則・デフォルト)にしている現代社会(=男社会)、というのはよく指摘されるところである。
かくして、ここでも「天地無用」類と百合が結びつく。ボーイズラブ小説や美少女系エロまんがに見られるとおり、第二層の自己同一化には、読者と主人公の性別が同じである必要はない。むしろ違うほうが適している、というのが私の見解である。また、受という特徴を持たせるには、女性キャラのほうが向いている。(ボーイズラブ小説における男性キャラの受は、やおい・ボーイズラブという知的資源の精華であり、「天地無用」類に移植することは容易ではない)
しかし、この議論を展開している最中に、ひとつの重大な指摘を受けた。現代社会では女性という性は無特性ではない、という指摘である。
これは痛撃だった。受という特徴よりも、男性という無特性のほうが最適化に役立つことは明白だ。
しかしこの指摘は同時に、「百合という知的資源のコストパフォーマンスを向上させる」ための具体的な行動目標を示してくれた。すなわち、女性という性が無特性であるような世界観を構築して、百合という知的資源に加えることだ。これは、ボーイズラブの受に相当するような、百合にとって中心的な資源になるだろう。
今日の結論:
「女性という性が無色であるような世界観を作り、広めよう」
「二十歳のころ」という本をちらっと立ち読みしたところ、ポール・ボウルズの「シェルタリング・スカイ」は全世界で四千部しか売れていないと書いてあった。
いくらなんでも一桁間違っているとしか思えない。なんといっても映画化されたし、日本でも劇場公開された。映画のCMもTVで流れた。全世界で四千部というのは映画化される前の話ではないだろうか。
同じ本によれは、「AV女優」という本は四万部売れたらしい。
私は「AV女優」は3ページだけ読んで放り投げた。私の嫌いな本だったからだ。嫌いな本は3ページ読めばわかる。
こう書くと傲慢に聞こえるかもしれないが、私は、真に無力な者の言葉には耳を貸さない。真に無力な者の語る言葉はすべて、権力への追従にすぎないからだ。私の見たかぎり、「AV女優」という本は追従の塊である。
追従とわかっていて読むという趣味もあるだろう。それに本当の追従は、権力のありかを鋭く指し示す。だが私は追従の卑しさに耐えられない。
「喧嘩屋マルクス」(富士書房)という本を読んだ。誤字が気になる本だった。やはり校正・校閲というのはありがたいものである。
ソフトウェア開発では労働者が生産手段を持つので、労働力は商品化されず、そのためストック・オプションがなければ人材がよりつかない。これはマルクス経済学からごく簡単に導き出される結論だが、このことを指摘した文章を目にした覚えがない。マル経は遠い日の花火になってしまった、ということだろうか。
たいていの理屈は、一定の範囲内では有効である。またどんな理屈も、一定の範囲の外では無効になる。マルクスの思想とその歴史は、理屈の有効な範囲について多くのことを教えてくれる。
そろそろ、日本全国の書店に、今野緒雪「マリア様がみてる 黄薔薇革命」(コバルト文庫)が出回った頃だと思う。
私は今まで、この作品を褒める文章をあえて発表せずにいた。あまりに素晴らしい作品なので、この素晴らしさをインターネット上で伝えてしまうと、配本の遅い地方にお住まいの読者諸氏に不愉快な苛立ちを味あわせてしまうのではないかと恐れたのだ。
というわけで、以下は「マリア様がみてる 黄薔薇革命」の紹介文である。
…と思ったが、まずは前作「マリア様がみてる」の紹介文から。なお、これは新月お茶の会の同人誌『月猫通り』からの転載(一部訂正)である。
ソロリティだよ兄さん! 紅薔薇さまだよジョニー! 「私の妹になりなさい」だよミシェール!
もーまともに紹介する必要もない素っ晴らしい作品です。なぜ紹介する必要がないかって? それは、あなたが自分で読むからです!
え、読まない? あんたバカァ?
お姉様がカッコよくてかわいくてとにかく愛(またの名を煩悩)が詰まってるのです。愛っていうのは作者の愛と読者の愛。もちろん読者のなかにはあなたも入ってます。OK?
それで劇をやるのです。もちろんソロリティ(なんか呼び方違ったかも?)の出し物として。題目は「シンデレラ」で、お姉様はシンデレラ役。
そうそう、お姉様はすごい男嫌いなのです! わかりきってますけど!
で、お姉様はシンデレラ役を逃れようとして(シンデレラは王子様と踊るので)、たまたま目の前に出くわした主人公を妹にしようとするのです。とかいっても脈絡がわかんないですがそんなのはどうでもよくて、姉妹のしるしとしてロザリオを交換するのです。ああ頭クラクラ。
主人公はもちろんお姉様に首ったけなのに、行きがかり上意固地になってなかなか「はい」と言えないのです。それでお姉様は、主人公に愛を伝えようと奮闘努力の毎日です。
どうやって愛を伝えるのかは書きませんが、大丈夫です! あなたはこの本を読むんですから!
あそうそう、お姉様は当然ナイスバディで、主人公はお子様体型です。劇なので衣装合わせがあって、主人公はお姉様のナイスバディぶりを肌で思い知るのです。
というわけでもうインターネットなんかしてる場合じゃありません、今すぐに本屋へ行くのです! 命令! ていうか大宇宙の法則! 決定済み! 「オレの予定は、決定だ」(ばーいシャルル・ドゥ・アルディ)
次は「黄薔薇革命」。
ジョニー、こいつは本物だ。
いいか、ジョニー、本物なんだ。俺の言うことがわかるか? 本物だぞ。本物ってのがどういう意味か、わかってるな?
即ゲットってことさ!
もちろん、そんなことは今さら俺が言うまでもない。最初っから、それこそ本が出る前から、わかりきってたことだ。こいつはなにせ、『マリア様がみてる』の続編なんだからな!
そうさ、『マリア様がみてる』は本物だった。二十一世紀ももうすぐっていうこのご時世にも、学園百合がちゃんと成立するってことを証明してくれた。思い出すぜ… 一人で弾くピアノ曲を、ふたり肩をよせあって連弾するんだ。ああ、たまんねえ。
つまり、こいつが本物かどうかなんか、問題じゃなかった。本物にきまってたんだ。問題は、どれくらい本物かってことだった。
……ジョニー、よく聞け。俺はいま、心の底からお前に伝えてえんだ。ほら見ろよ、俺の手を。震えてるだろ? 俺の魂が震えてるんだ。
いいか、ジョニー、こいつはな、こいつは――最高の本物だ! わかるかジョニー、ああ、わかるだろう? 最高なんだよ! 『マリア様がみてる』以上に最高なんだ。つまり最高に最高なんだ。
今回のメインは、剣道部員の美少年系(『輝夜姫』の晶の系統)と、病弱でおとなしい奴(藤本由香里いうところの「砂糖菓子」)だ。二人は従姉妹同士で、小さいころから相思相愛の、少女まんがみたいなカップルだった。だがある日、砂糖菓子は美少年系にロザリオをつっ返しちまう。なぜかっていや、美少年系に庇護されっぱなしっていう関係を変えたくなったからだ。
だからストーリーは、まあよくある話だ。だがジョニー、こいつは本物なんだ。本物のインパクトが、バシッと、ガツンとラストに来るのさ!
砂糖菓子は、心臓の持病を治すための手術を受ける。手術のあと、美少年系と砂糖菓子は愛を確かめあうんだが、そのとき――ああ、だめだ、言えねえ。俺には言えねえ。こんなすげえ、最高に本物なシーンは言っちゃいけねえ。
要するにだ、ジョニー、こいつをゲットして読むんだ。俺が言いたいことはそれだけだ。
自分の文章にミスを見つけるたびに、まったく校正・校閲というのはありがたいものだと思う。
そういえば昔、コバルト文庫に、どう考えても校正・校閲なしとしか思えない本があった。まさに誤植の嵐だった。あんな原稿を直すのだから、校正・校閲というのも大変な仕事である。
最近頭のなかでこねくりまわしている理屈の効果を試してみるために、再販制度問題を考えてみた。
既得権を握っている人々の立場はいろいろあるのだろうが、あいにく香織派は再販制度にはどんな既得権も持っていない。香織派にとっての問題は、知的資源開発が加速されるのか滞るのか、である。
もちろん、それと意識して知的資源開発に投資する企業はどこにもない。見栄えのする看板になると思って「文化」に無駄金を費やす企業はいくらでもあるが、SFややおいや美少女系エロまんがに投資した企業がどこにあるだろうか。これらの知的資源がフィクション業界をどれほど潤したかを考えれば、業界全体としては、投資するだけの価値が十分あったにもかかわらず。
といっても、投資しないのにはそれなりの理由がある。SFややおいのような知的資源には所有権が存在しないので、投資することと、投資の見返りを得ることとのあいだに、まったく因果関係がない。投資の見返りを狙う競争者はあまりに多く、投資した金は無駄金に等しい。
このようなわけで、知的資源開発への企業の意欲、といったものは問題にならない。入手コスト・流通コスト・ユーザ数の関係だけが問題となる。私の考えている理屈にはぴったりの状況だ。
ちょっと考えてみたかぎりでは、再販制度廃止は知的資源開発を加速するように思える。特定の領域だけで商売が成り立てばいいので、流通コストを低く抑えられるからだ。
(なお、ここで言う「流通コスト」とは、著作物をユーザに体験させるために費やされるコスト全体である。取次や書店の運営費のみならず、宣伝費や、ユーザが書店に立ち寄って本棚を眺める手間までも含む)
こう言い換えることもできる。再販制度とは、本の流通コストを全ユーザができるだけ全国一律に負担するものである。再販制度が廃止されれば、負担の増えるユーザが生じるかわりに、負担の減るユーザも生じる。負担の減るユーザが生じれば、そこだけを狙った本を作る余地ができる。たとえばすでに現在、都市部の特定の書店にだけ置かれる同人誌が、商業的に成立している。「都市部の特定の書店」に行くことは、地方在住のユーザにとっては大変な負担だが、都市部在住のユーザにとってはそれほどでもない。もし一律に負担させようとすれば流通コストは跳ねあがり、ほとんどの同人誌は商業的に成立しなくなる。
なお、これは私の意見ではない。私の考えている理屈を応用すればこうなる、という話である。それに、おそらくあと10年もすればインターネット経由の著作物流通が普及して、再販制度の重要性は著しく薄れているだろう。百合にとってはあまり重要な問題ではない。
このところの反MS機運に対するMSの対応は、どうもおかしい。ハロウィン文書といい裁判といい、なにかわざとらしく、どこか芝居がかっている。ちょっとした陰謀論者なら誰しも、これはMSの真の狙いから目をそらさせるための大掛かりな欺瞞工作ではないか、と疑うことだろう。
私は陰謀論はあまり好きではないのだが、これは面白そうなので、しばらくのあいだ陰謀論者になってみることにしたい。
もし仮に「MSの真の狙い」というものがあるとしたら、それは何か。答えは一つ、IBMを叩きのめし、自分が真のナンバーワンになることだ。MSにとってはSunもオープンソース運動も、眼中にはあるだろうが標的ではない。
MSがどうやってIBMを叩きのめすつもりなのか、それは私にはわからない。私にわかるようなお粗末な狙いなら、IBMもしかるべく備えているはずで、それでは欺瞞工作の意味がない。
それとも、陰謀論者にこんな疑いを抱かせることがMSの真の狙いなのだろうか。1941年、スターリンがあくまでドイツ侵攻の可能性を否定し、軍を国境から遠ざけることさえしなかったのと同じく。
私が数年前からあたためている理屈に、最適化理論を導入することによって、フィクション市場の均衡状態をより一般的に記述できる見込みがついた。私は今まで、知的資源のパフォーマンスにばかり目がいっていたが、知的資源をコストと関係づけることが必要だったのだ。
この枠組みの言葉で香織派の目的と目標を定義するなら、こうなる――「百合という知的資源のコストパフォーマンスを向上させること」「真の最小値から離れたlocal
minimaに陥っている百合を、local minimaから脱出させ、真の最小値へと転がり落ちてゆく地点まで運ぶこと」。
後者は、一般の読者諸氏にはわかりにくいと思う。図を示せればぐっとわかりやすくなるのだが、あいにく作図ソフトのようなものは手元にない。機会があれば詳述したい。
戦車戦を描いた小説を少し探したところ、見つけられなかった。第二次大戦物といえば船と飛行機ばかりで、戦車はどこにもない。
これは、こと戦車では西側よりもドイツのほうがかなり強かったせいだろうか。主人公を不利な立場におくというのは物語の常道だが、どうも戦争物に関してはそうではないらしい。日本の第二次大戦物での、戦闘機と戦車の人気の差を見ればよくわかる。
しかし、強いと人気が出るのなら、ドイツやソ連には戦車物がはびこるはずである。それもないということは、戦車戦は小説になりにくいのかもしれない。私は戦車戦には疎いのでよくわからないのだが。
女性キャラのスペック問題について友人たちと討論したところ、「アベレージの優位は主に、資源の有限性からくるものである」との指摘を受けた。
作品の制作に投入できる資源は有限である。利用できる資源から最大の利益を引き出せる配置を求めた結果が「多数のアベレージ」であり、具体的にはアニメの「天地無用」なのだという。この説を仮に最適化理論と呼びたい。
キャラ一人当たりでは、スーパースペックがアベレージよりも多くの資源(人材・ページ数)を必要とすることは疑いようもない。資源が有限である場合、「スーパースペック対アベレージ」の構図は「少数のスーパースペック対多数のアベレージ」を意味する。少数のスーパースペックよりも多数のアベレージのほうがコストパフォーマンスに優ることは、思考実験によっても納得せざるをえない。たとえば、少数のキャラの魅力をいかんなく発揮する緊密なストーリーを作るより、多数のキャラに適当に役どころを割り当てる散漫なストーリーを作るほうがはるかにやさしい。
スーパースペックのために必要な資源がきわめて限られているケースと、ほぼ無限とみなせるケースとを比較することによって、この説を検証することができる。
資源がきわめて限られているケースには、おおかたのアニメ(TVアニメ・OAV)が挙げられる。アニメ界では、ストーリーメイキングの才能が極度に不足している。ストーリーメイキングに対する要求は最小限におさえなければならない。
資源がほぼ無限とみなせるケースには、長篇まんがが挙げられる。ページ数は事実上無限であり、たいていの作家はストーリーメイキングの才能に不自由しない。
まんがにおいては、「多数のアベレージ」と「少数のスーパースペック」のいずれもはっきりした優位を得ていない。アニメにおいては「多数のアベレージ」がかなりはっきりした優位を得ている。少なくとも、まんがとアニメを比較すれば、アニメにおいて「多数のアベレージ」が、まんがにおいて「少数のスーパースペック」がそれぞれ比較優位を得ていることは明白と思う。
このようなわけで、女性キャラのスペック問題では、スペックの性質による影響よりも経済学的な最適化の影響のほうがはるかに大きい、と考えるほうが妥当であると私は結論した。
読者諸氏に告ぐ。やまざき貴子の「っポイ!」13巻(花とゆめコミックス)を即ゲットすべし。
待っていたかいがあった… そう、3巻のときから私は信じていた、いつか必ずこの日がくると!
「美少女が、悪い国に拉致されて人体実験の材料にされて、美少年に変身させられたうえ洗脳されて悪い国の軍人になって、そしたら美少年ばっかり部下にして好き放題する話」の中里版を考えている。
考えてみると意外に難しい。
ファンタジー世界は私的に今ひとつなので歴史上の舞台にしたい。しかしヨーロッパでは、フランス革命以前の軍隊の将はみな貴族で、しかもあまり格好のいい働きはしない。傭兵がきわめて高くついたので、正面きって矛を交えることがめったになかったのだ。また中世は私の趣味ではない。
近代は近代で、いわゆる近代戦は面白くない。個人の大活躍を重要なものにすることが難しいし、きっちりした組織の中でごたごたやるのもつまらない。うーむ。
定跡どおりでつまらないが、やはり戦車&ナチスドイツで行くべきか。武装SSで、初期の西部戦線でデビューして、バルジの戦いで燃料切れでMIA、くらいだとちょうどドラマになる。西側の戦車が相手なら、主人公が反則のように強くてもOK、というのもおいしい。
日本の都市部に在住の読者諸氏は、すでに今野緒雪の新刊、「マリア様がみてる 黄薔薇革命」(コバルト文庫)を入手されていることと思う。
あとがきを読むと、「インターネットはじめました」の文字が。
あまり気にせず読み進めていくと、「インターネットの某ページに『マリア様がみてる』のことが記載されていて」の文字が。
「ソフトだけど完全に百合」… どこのページだろうか。私の知っている範囲には見当たらない。どこかの掲示板かもしれない。
しかし考えてみると、このKaoristics on WWWは各種の全文検索エンジンによく登録されているので、作家が自分のペンネームで全文検索をかけただけで、ここに到達できてしまうわけである。油断も隙もない。うーむ。
OAV「天空のエスカフローネ」が話題になったとき、エスカを見たことのない友人にあらすじを説明した。
「美少女が、悪い国に拉致されて人体実験の材料にされて、美少年に変身させられたうえ洗脳されて悪い国の軍人になって、そしたら美少年ばっかり部下にして好き放題する話」と説明したら、非常に興味を持ったようだった。
私的には、「美少年になったのは頭の中だけで、自分はもちろん部下の美少年も実は女の子」、という設定のほうがいいのだが、あいにくエスカはそうではない。しょうがないので、自分でそういう設定の話を書こうかとも考えている。
女性キャラのスペック問題について考えている。
スーパースペック対アベレージスペック、つまり「雲の上のスタア」対「隣のお姉さん」という対立の構図は昔からある。最近では、ときメモの藤崎詩織対その他が有名らしい。私の見るところ、一般に流通している言説ではアベレージスペック派が数的に優勢で、アベレージ派に言わせれば「藤崎などダミーにすぎない」らしい。
あいにく私はときメモをやったことがないので、藤崎対その他についてはなんとも言えないが、スペック問題一般についてははっきりしている。私はスーパースペック派だ。アベレージ派の数的優勢も、スペック問題を論じたがるのがアベレージ派ばかりという事情から生じる、見かけ上のものにすぎないのではないかと疑っている。
百合ではスーパースペックが主流を占める、と私は考える。根拠のひとつは、JUNEの主流がスーパースペックであることだ。さらに踏み込んで言うなら、百合・JUNEはスーパースペックに優位を与える装置として働く。
なぜアベレージスペックが魅力的なのか。私の理解によれば、アベレージスペック自体には特段の魅力はない。スーパースペックが「スーパー」であることによるネガティブな作用が、スペックによる優越よりも大きいために、スーパースペックとの比較ではアベレージスペックが優る、というにすぎない。
スーパースペックが「スーパー」であることによるネガティブな作用とは、「男にとってのスーパースペック」という構造である。真の問題は「スーパー」ではなく「スペック」にある、というわけだ。キャラのスペックに「男の視点」を見てしまい、なおかつそれを棚上げする器用さを持ち合わせない人は、視点の問題を消去できるアベレージスペックへと傾くわけである。
しかし百合では、このような視点の問題が存在しない。仮に女性キャラのスペックが「男にとってのスーパースペック」であっても、それはフィクションの構造外のことと見なされる。これはたとえば、50年前の近未来SFにGUIという発想がないのと同じようなものだ。今となっては、GUIという発想のない近未来SFは読者の微苦笑を誘うが、作品の構造内ではなんの問題にもならない。GUIという発想があってもなくても、傑作は傑作だし、駄作は駄作だ。
さらに百合は、女性キャラのスーパースペックを「男にとっての」という制約から解放する可能性を秘めている。百合においては、従来のスーパースペックが退屈きわまりないものにしか見えなくなるような広さを持つ、新次元のスーパースペックが成立するに違いないと私は確信している。
スペック問題については、さらに詳細に議論を固め、おべどこ理論と並ぶ百合のイデオロギーに仕上げたい。
マフィアから現金一億ドルかっさらう方法を考えている。
「やはりスーパーKとマネーロンダリングがらみか」「現金を管理している中ボスを三段ロケットで罠にはめて」「大ボスを宗教で洗脳」等々アイデアは出てきているが、これといった決定打がない。
一番難しいのは、現金というところだ。なにしろ一億ドルの現金はかさばる。そのへんのペンキ缶に隠す(映画「バウンド」)ようなわけにはいかない。うーむ。
「Monty Python's Frying Circus」のビデオを少し見た。
なかなか印象深い作品だったので、この中里一日記に、「今月の標語」なるものを設けることにした。読者諸氏をへこましつつ励ますような標語を選ぶつもりだが、どうなることか。