ギャル理論の枠組みについて考えてみる。
「ギャル理論とはなにか」という問いへの答は、実はギャ会内部でも完全な一致をみているわけではない。ギャル中心の認識、ギャル作品中心の認識、果ては80年代を憎みつつ愛するためのツールという認識(これは私の邪推だが)まである。私の認識はギャル作品中心であり、最適化原理をその基礎としている。ギャル作品の最適化がギャル理論の目的、という認識である。
また、「ギャル」「ギャル作品」の定義は厳密ではない。厳密でないどころか、そのような定義は事実上存在していない。もちろんギャ会内部では一定の共通認識があるし、ギャル・ギャル作品に関する記述は多くあるが、それは定義を与えない。
ギャル理論の基礎のあやふやさに驚かれただろうか。が、私はこのあやふやさに悩まされることはない。ギャル理論はいかなる意味でも科学ではないし、科学を称することもないだろう。
ところで突然だが、読者諸氏は将棋をご存じだろうか。あまり知らないという向きが大半と思うが、書く側の特権を濫用し、読者諸氏はみな将棋をご存じであると仮定して話を進める。
将棋には「底歩」という概念がある。これは科学的な概念だろうか。おそらく応用数学を駆使すれば、底歩を科学的な概念として定義できるだろう。が、底歩という概念を発明した人は応用数学の達人ではないだろうし、底歩の科学的研究がなされたという話も聞かない。では底歩という概念は無用かつ無益なのかといえば、もちろんそんなことはない。
底歩という概念は、対局者が中・終盤戦を戦っているとき、「気をつけろ、底歩があるぞ!」という警戒の声をあげる。この警戒の声が、一見して無意味に思える突き捨てに注意を促し、一見して有効そうに思える叩きに再考を迫る。この声なしに中・終盤戦で悪手を避けつづけることは不可能ではないものの、それにはきわめて多くのコスト(時間・精神力・才能・訓練)を要するだろう。
将棋にはこの種の概念が数多くある。歴史の試練に耐えた、実戦に頻出する、小さくまとまった、理解しやすい、役に立つ、しかし科学的でない概念。人間の思考形式の弱点を補い利点を引き出すがゆえに意味のある概念。どれほど進歩し洗練されても「必勝手順」を産み出すことがない概念。ギャル理論が目指すのも、このような概念の一揃いである。
私がこのように科学と無縁の有益性を主張できるのも、19世紀のヨーロッパ人が科学にかぶれていたからだ。反面教師というわけだ。
ジョミニは科学に、クラウゼヴィッツは哲学にかぶれており、科学にかぶれた人はありきたりすぎたのでクラウゼヴィッツが残った。ソーシャル・ダーウィニズムは19世紀的な妄想だった。
20世紀には科学は時代遅れになり、性にかぶれるのが流行った。21世紀は、なににかぶれる時代になるのだろう。
今日の志保ちゃん情報:
「女子高校生のルーズソックスブームは、元をたどれば吾妻ひでお」
「ガングロのルーツはナディア」
「10年後か20年後には包帯・赤いカラーコンタクト・内巻きショート」
歴史の偽造は楽しい。
今月26日の日記に「女性が読んで辛いもの(ギャル作品)は男性が読んでも辛い」という説を書いたが、これには明白な例外があることに気がついた。感情移入システムのミスマッチングからくる辛さは、男性読者と女性読者では違う場合があるのだ。
自己同一化の第一層・第二層は読者と主人公の心理的距離に左右される。男性読者向けにチューニングされたギャル作品において、女性読者が主人公やギャルに予期せぬ第一層の自己同一化を起こし、辛さを感じる可能性がある。というより、男性読者にとって辛くない男性向けギャル作品を読むときに女性読者が感じる辛さは、たいていこれが原因のような気が。
この問題を解決する現実的な手段はないような気がする。女性読者の読み方をトレースし、生じる辛さを回避することは不可能ではないが、一般的にはコストがかかりすぎる。目指すべきはやはり「反発の意思を奪う圧倒的な破壊力」だ。
松原香織のサイン本を手に入れた。ふふふ。
サインのしてあるページに煙草らしき匂いがする。煙草を吸う人なのかもしれない。少し意外だ。
昨日のギャ会の討論で、「少女まんがのふりをする」というテーマで話していたとき、「血のつながらない妹との仲を邪魔しにくる幼なじみ(女)」というパターンを発見した。よくありそうなパターンなのに実例を思いつかない。これは使える、と思ったが、主人公が女性だと成立しないので私には使えないのだった。うーむ。
ギャ会の討論において、「女性でも読める男性向けギャル作品」が話題になった。
「少女まんがのふりをする」「幼なじみ(吉原理恵子のではなく神岸あかりのほう)は少女まんが的だから使える」等、守りに入った意見が出されるなか、私は「反発の意思を奪う圧倒的な破壊力」と「女性が読んで辛いものは男性が読んでも辛い」という説を主張した。
ことに前者については強く主張したい。読者からの反発を嫌って守りに入るのは愚かだ。新聞の4コマ漫画ならいざ知らず、ギャル作品において、「悪くない」「読める」のような評価は悪罵より悪い。圧倒的な破壊力、反発することなど思いつけなくなるような破壊力をこそ目指すべきである。
私の二つの説を裏付けうる材料として、「スクール水着エプロン」がある。「スクール水着+裸エプロン」という合わせ技だ。スクール水着も裸エプロンも単独では辛い。が、二つが一つになることで、刷り込み(先月17日の日記を参照)に対して自覚的な視点を得るため、辛さが消える。たとえまだ辛さが残っているとしても、圧倒的な破壊力がある。反発は、あるとしても無視できるほど小さいはずだ。
この討論では、ギャル設計の原則というテーマも話題になった。
古典的な正規戦における兵力集中原則のようなごく基本的な原則が、ギャル設計にもあるのではないか、という論である。最適化原理に沿ってスペックを配置しただけでは、それはキャラとはいえない。たとえばマルチは、「緑の髪」「背が低い」「人間離れして純真」「ロボット」「がんばり屋」という要素以上のものだ。スペックとキャラのあいだをつなぐのが、ギャル設計である。
これに関して私は、「ギャルの視点から見た世界」を提唱した。まずギャル作品以前のこととして、ギャルの視点から見た世界が存在しなければならない。自分自身の視点で世界を見ていない(としか思えない)キャラはキャラとして成立していない。次に、ギャルの視点から見た世界は、なんらかの条件を満たすべきだと私は感じた。
討論の場ではこの感覚には根拠がなく、ただの直感だった。また、「なんらかの条件」とはなんなのかを示すこともできなかった。そこで、いまその条件と根拠を考えてみる。
ギャルの視点から見た世界が満たすべき条件とは、主人公を必要なもの、よいものとして位置づけることである。その根拠は、ギャルの視点だけが主人公の存在を正当化できるからだ。
これは第二層の自己同一化ともからむ問題だ。読者が主人公の行動を肯定する第一層では、読者が主人公の存在を正当であると認める。第二層ではそのような承認はないため、ほかのところで正当化されねばならない。
ギャルの視点から見た世界に、主人公を必要なもの、よいものとして位置づける。この位置づけに必然性と説得力を付与すること。必然性と説得力は大きければ大きいほどいい。これがギャル設計の原則である、と私は提唱する。
ギャ会で発表して意見を集めたいが、複雑な理論なので口では説明しにくい。パンフレットを書かねば。
TINAMIXの「砂と東のこれが答えですか?」第1回に出てくる「キャラ萌え」対「キャラ立ち」論は、ギャ会ではきわめて評判が悪い。
私は最適化原理の立場から「キャラ立ちがダメなのはコストパフォーマンスが悪いから。ノスタルジーに理屈をつけるのでは老人の暇つぶし」と一蹴したが、ギャ会の面々は「理解不能」だの「評価不能」だので論外扱いだ。
なお、この対談は全体に意味不明だが、どうやら意味不明上等な人々らしいので、それはそれで問題ないと思う。
映画ウテナのまんが版を読んだ。
こう… なんというか、こう… やるせない気持ちが。そうか、君(さいとうちほ)はそんなに冬芽が好きで百合が嫌いなのか、と言うほかない。
どうせなら全然違う話にして、ウテナと冬芽の過去をメインに――って、ウテナは実は中学2年生で14歳、ということは2年前には小学生! 小学生のベッドシーン… それは確かに「プチコミック」でも載せられんわ、と勝手に納得(嘘)。
マスード派は膠着状態を作り出すことに成功したらしい。
いったん膠着してしまうと内線有利が生きるので、よほどの大技が決まらないかぎりマスード派は潰れない。ジョミニが見たら泣いて喜びそうなシチュエーションだ。
介錯がウルトラジャンプに連載中の話(タイトル失念)が百合だった。今まで見逃していた。不覚。
「With You」というエロゲーを始めた。
このゲーム、これでもかというくらい次から次へとギャルが出てくるが、攻略可能なのはわずか二人だという。この話を聞いたときには驚いたが、実際にやってみると、ギャル理論でいうところの含み戦略らしいことがわかってきた。
いくつか苦情を述べておくと、やけに力の入ったシステムで、綺麗な絵で、DirectXなのに、背景とキャラのあいだが半透明アンチエイリアシングされていない。あとゲーム終了時に、ディスプレイのリフレッシュレートが「アダプタの既定値」になってしまうのが困る。
…それにしても、攻略可能ギャルの片方がなぜにミャンマー帰り? と、自称アフガン帰りの私は問うのだった。
モバイルギアIIのRAMが飛んだ。
しかもレストアに部分的に失敗し、最近4日分くらいの喪失で済むところを、約10日分を喪失した。きゅうううう。
「リトル・ウィッチ パルフェ」のフローレEDを見た。百合的にはごくおとなしい。やはりレネットEDを見なければだめか。
東海大学平和戦略国際研究所編の「テロリズム」という本を読んでいる。
100ページ、「非力のユダヤ人は英雄的な闘いを展開、ヨルダン川東岸一帯を確保し(第一次中東戦争)」が愉快だ。東海大学平和戦略国際研究所教授・榎彰氏は、どうやらパレスチナの地図を見たことがないらしい。
パレスチナは西から、地中海、テルアビブ、エルサレム、ヨルダン川西岸地区、ヨルダン川、ヨルダン(旧称トランスヨルダン)と並んでいる。いったいどういう間違いを犯せば、第1次中東戦争でイスラエルが「ヨルダン川東岸」を確保した、と誤解することができるのか、少し考えてみよう。
まず、イスラエルの首都エルサレムは「ヨルダン川東岸」になければならない。とするとヨルダン川はエルサレムの西へと移動する。そして「ヨルダン川西岸」は第1次中東戦争ではアラブ側の手に落ちたことになっている。とするとイスラエル軍への補給は、「ヨルダン川西岸」の敵中を突破して地中海から行われたか、それとも空路だけだったことになる。
そこで、ヨルダン川はイスラエル北部で途切れていて、そこから北ではイスラエルが地中海海岸を押さえたと考えよう。こうするとガザ地区がうまいこと「ヨルダン川西岸」に一致する。ガリラヤ湖がエルサレムの西に位置し、そこから流れるヨルダン川がガザ地区とイスラエルの境界線をなしている、という寸法である。しかしこの場合、隣国の「ヨルダン」という国名はどこに由来するのか、という疑問が生じる。
きりがないのでもうやめるが、ここまで地図を書き換えなければ「ヨルダン川東岸」という誤解はできない。東海大学平和戦略国際研究所教授というのは、強力な誤解力が必要とされるポストなのだろうか。あと、この本を校閲した人物もかなりのものだと思う。
東芝問題の情勢が面白くなってきた。週刊文春の記事は赤新聞の記事としてもレベルが低いが、その波及効果は大きい。
あの記事を読んでまず気がつくことは、「結局のところ、欠陥があったのかなかったのか、記者は確認していない」という点だ。状況証拠からいって欠陥はあるものと私は確信しているが(もし欠陥がないのなら必ずどこかのマスコミがその検証実験を記事にしている)、東芝側は現在に至るまで「欠陥はなかった」という地点を守りつづけている。これはもちろん広告のスポンサーとしての影響力に加えて、暴言問題を封じた効果でもある。東芝側の狙いはこのまま事件を風化させることだったはずだ。この狙いは9割方うまくいっていた。
だが、週刊文春の記事が事態を悪化させた。マスコミが個人を一方的にやっつけるだけでは面白くならない。ぜひとも反撃が必要で、どこかのマスコミがその機会を提供することは間違いない(これを完全に封じられるほど裏工作が進んでいるのならその手並みには敬意を表そう)。反撃材料はもちろん欠陥問題だ。大手雑誌に検証実験の記事が載り、反証が提出されなければ、東芝側にはもはや守るべきものがなくなる。というわけで、東芝の担当者はいまごろ真っ青になっていることだろう。
それにしても、東芝の肩を持つと見せかけながら奈落の底に突き落とす週刊文春の手口には感服した。週刊文春には最大級の敬意を込めて「ごろつき雑誌」の称号を贈ろう。
「リトル・ウィッチ パルフェ」は進むにつれてだんだん百合密度が増してゆく。ココット12歳… 「この年で」なのか、「この年だから」なのか。うーむ。
とりあえず、ゲームの表の目標・借金を返すことのほうは、SFC版アンジェリークで女王になるよりも簡単だ。レベルと評判が上がれば日に1万5千G程度入るようになる。月に30万G、4ヶ月で目標に到達する。このゲームもアンジェリーク同様、裏の目標・ギャルを落とすことのほうが実は本命なのだろう。
「普通の女はこんなゲームやらんべー」と割り切って男性キャラが二人しか出てこない潔さがナイス。しかも片方は落とせないというあたりがさらにグッド。ギャル理論的にはスペック分散に隙がある(12歳×1・14歳×2と年齢が固まりすぎ)が、これも潔さの現れと思えば悪くない。
読者諸氏はすでに映画のウテナをご覧になったことと思う。
まだ、という向きはこんな日記なんざ読んでる場合じゃねえんだよ早くチケット取るんだよ早くナニ近所に上映してる映画館がないからとか寝言ぬかしてるあいだに心臓発作でくたばっちまったらどうすんだ貴様生き返ってこれるのかオラ近所になけりゃ遠くまで行くんだよ早く飛行機の予約するんだよ金がなきゃバールでATMの金庫こじあけるんだよああわかったか貴様、と申し上げておく。
「リトル・ウィッチ パルフェ」をはじめた。
これは、クリアできないかもしれない。絶望的に時間がかかりすぎる。
悠長さといい細かさといい、どことなく洋ゲーの匂いがする。これだけ一回に時間をかけておいて、バッドエンドだったら二度と立ち直れないような気が。
映画のウテナを見た。
まず断言しておく。世界にとって喜ばしい、素晴らしいことが、そこでは起こっていた、と。
ある種の人は、この映画を見たとき、「こんなものは見たくなかった」と思うだろう。そういう人はあの城を目指していればいい。私は止めない。止める理由もなければ権利もない。
この映画に対する批判を、私は百でも千でも思いつける。にもかかわらず――ではない。『にもかかわらず』ではなく、真に素晴らしいことであるがゆえに、私はこの映画に対する批判を数限りなく並べ立てることができる。(同時上映のアキハバラ電脳組に、いったいどんな批判ができるのか)
この映画を人に勧めることは、ひどくためらわれる。その人が私の友ではないことを、間違えようもなくはっきりさせてしまうかもしれないからだ。
ただし百合感はゲージMAXのメーター振り切れのエネルギー120%のシンクロ率400%なので、読者諸氏にはたとえ死んでも生き返ってきて必ずご覧になるよう最強に強く強くお勧めしておく。もちろん、私が勧めるまでもなくご覧になる予定であると深く確信してはいるのだが念のため。
マチダのパソコン屋に行ったら、「リトル・ウィッチ パルフェ」の続編のチラシが置いてあった。今度はロザリア…ではなくレネットが主役らしい。…ということは、今度は姉と妹? くわッ!
それはともかく、続編が出るということは「パルフェ」はそれなりに売れたのだろう。やはりやらねばなるまいかと思い、とりあえず公式ガイドブックを読んだ。
…これ、なんだか、ちょっと、すごいかもしれないよジョニー… この話を作った人間は、自己同一化の第一層・第二層を会得しているにちがいない。世の中、強い人がいるものだ。
超ハ級長篇百合小説は現在290枚。残すところあと50枚。いまいったん手を戻しているところで、これが終われば目標のマルチ越えまで一直線である。ちなみに、細々した状況説明のことを私は「手を戻す」という。
最後まで手を戻さないのが理想だが、中休みの意味もあるので、なかなかそうもいかない。私は一人称で書くことが多いので、三人称で書くときには手を戻すのが怖い。
ところで過去の日記をチェックしてみると、6月9日には「現在185枚(中略)これからまだ100枚」、7月12日には「現在227枚。残すところあと80枚」と書いている。6月から7月までに20枚延び、7月から8月までに30枚延びている。ということは8月から9月までには40枚延びるのだろうか。
コミケに行った。きゅう。
今日手に入れたなかでの最重要物件といえば「プリズム愛蔵版」(竜の子太郎)。まさに見即買といえる。
一説によれば、コミケ会場では人間の思考力は平常時の20%まで減退するという。というわけで、家に帰ってから「サリーガーデンズに行った記憶がない」「エレホンに行った記憶がない」とおたおたするはめになる。コミティアに行ってチェックを補完すべきか。うーむ。
今日はV-J Dayである。
佐藤亜紀の「戦争の法」(新潮文庫)から引用しよう。216~217ページ。
「兎も角、いささか弁解じみるが、こうも平然と自分の悪行の数々を書き立ててきた理由は、別に戦争が好きだからではない。少なくともそう望んではいる。正直なところ幾らかぐらつく確信とともに宣言するが、当時はさておき、今の私は平和主義者である。それも体験に基づいた反戦平和主義者だ。反戦平和で平和は守れるか。もちろん守れると私は確信している。自分の心の平和位なら。武力による世界平和の維持など、どこか余所の戦争好きがやればいいことだ。どんぱちやりたくてうずうずしている愚か者と言うのは、何時でも何処でも、必ず一定数は存在する。その連中が山に入って何を始めようと、海を渡って余所にちょっかいを出そうと、生きようと死のうと、私が口を挟む事ではないが、感謝する謂れもなかろう。それは彼らの趣味なのだ。私の趣味ではない。次に占領されるようなことになったら、占領軍相手に何か上手い商売でもして大人しく解放を待とうと、私は心に誓っている。また何か馬鹿をしでかすのではないかと言う不安はあるが、そのときには心を励まさねばなるまい。賢明で堅固な利己主義者たれ。これが教訓だ。結局のところ恒久平和は個々人の利己主義の堅固さに掛かっているのだ。」
なお、占領軍相手に商売をするときは、よくよく考えて先を読み退路を確保しておかないと命が危ないので、私はあまりお勧めしない。カブールにいた頃、これこれこんな商売をしていた人物が腹を裂かれて川に捨てられていただの、後ろ手に縛られて頭を撃ち抜かれていただの、嘘か本当か知らないが噂だけはよく流れていた。たぶん、占領軍を利する商売をしている人物と、占領軍相手に商売をしていて抵抗運動に殺された人物は、どちらも実在した。ただし後者が常に前者であったかどうかはまた別の話だ。
ついでに今日の特別メニューということで、「今月の標語」が「今日の標語」になっている。
直前で悪しからずだが、コミケ3日目の要注意サークルリストである。注意というのはもちろん百合的にだ。
? | 東 | H | 59 | 突撃ウルフ |
中 | 東 | J | 7 | BERRIES |
? | 東 | J | 25 | 花子 |
大 | 東 | J | 40 | 桃色淑女 |
小 | 東 | M | 30 | ANGELION |
大 | 東 | M | 31 | 竜の子太郎 |
中 | 東 | N | 19 | C.H.COMPANY |
小 | 東 | N | 45 | サリーガーデンズ |
大 | 東 | O | 11 | エレホン |
? | 東 | O | 54 | レモナード |
小 | 東 | Q | 19 | MONO |
? | 東 | Q | 23 | 荒木企画室 |
大 | 東 | S | 60 | 戯欺。 |
? | 東 | ノ | 13 | 先天性爆弾娘 |
? | 東 | マ | 11 | half way |
大 | 東 | ム | 19 | BANNY ぽっぷ |
中 | 東 | ム | 24 | B5同盟 |
中 | 西 | よ | 5 | 雷おこし |
一番左のカラムは重要性を示している。多分に感覚的な評価なので信用しないことをお勧めする。
M IIの落ちっぷりに耐えかねて、440BXとCeleronを買うことを検討している。とにかくM
IIが落ちない日は珍しい。割合では8対2くらいか。
が、440BXには忌まわしくおぞましいISAバスがついている。たとえスロットはなくてもPCI-ISAブリッジとBIOSがあれば同じことだ。やはりここはぐっと耐えてi810eを待つべきだろうか。ううう。
というわけで冷却系に手を加えてみた。効果を定量的に計るために温度計も導入した。
結論:小細工で1℃下げるのは容易ではない
もともとそれほど悪い冷却系ではなかったこともあり、最善を尽くしても2℃しか下がらなかった。うーむ。
…それにしても、私のM IIの上限温度は一体? ヒートシンクにくくりつけた温度計が42℃を超えるとすぐに落ちる。
CD-ROM版のコミケカタログを買った。
えーやだァーなにこれェーなめんなよコラァーちょーふざけてるって感G?なんでサークルカットの文字が読めないのォー?ページをスキャンして取り込むってどういう神経ィー?画像形式がJPGなんてコレ俺様への挑戦状ォー?てゆうかcdataディレクトリのファイル以外全部ゴミィー?恐怖の大王ってもしかしてコレェー?
…と、これくらい書けば私の怒りの10%程度は伝わったと思う。以下は改善案。
・画像形式をGIF(2ビットモノクロ)にし、解像度を400dpi以上に(表示の際に縮小)
・ビューアの表示領域サイズに応じてサークルカットの並び方を変更可能に
・紙のカタログができたあとからCD-ROM版を作るのは時間的にも作業的にも愚策なので、バラバラの状態のサークルカットをスキャンし、黒枠を認識させて自動的に編集加工(サークル固有番号との関連づけ・水平合わせ・余白切り取り・解像度の切り下げなど)を行う
・容量が不足なら2枚組・3枚組も辞さず
最後のは特に重要である。とにかく、今の解像度ではとても紙のカタログと同等には扱えない。
ATOK Pocketを買った。
変換が早い。100MIPSの力が発揮されているだけなのだが、MS-IME97は犯罪的なまでに遅かった。
しかしキーボードから入力できる記号を読みに使えないのはどうかと思う。私が昔からATOKを避けてきたのは、一つにはこれのせいだ。
タリバーンがBagram空軍基地を再度制圧した。マスード派も崩れた様子はなく、整然と撤退した模様である。今年の夏の勝負どころはここらしい。
今月のぶ~けの松苗あけみ「もう学校へなんか行かない」は、百合ではないものの百合的にヒットだ。松苗あけみは時々こういうものを描くから見逃せない。
また別コミの水城せとな「アレグロ・アジタート」(このタイトルでフジミを思い出すのは私だけではないはずだ)はワキ筋で百合だが重い形。うまく捌けるかどうかが見所である。
それにしても、藤村真理の絵に多田かおるが入ってるのは何故?
「全世界を敵に回す」とはよく使われるレトリックだが、実際に全世界を敵に回すのはなかなか難しい。「敵の敵は味方」の理屈で、たいていのことには味方ができてしまう。ミロシェビッチの味方は少なくないのだ。
1999年8月現在、「全世界を敵に回す」にもっとも近い地点にいる人物は、アフガニスタンの前国防相にして伝説のムジャヒディン、アフメド・シャー・マスードだろう。
柔軟路線を強調するイランが、敗色濃厚なマスード派をいつまで支援するかは怪しい。タリバーンはサウジとUAEからの支援を受けている。アメリカとは対立しているように見えるが、あらかじめ改心の筋書きを仕組んである猿芝居にすぎない。タリバーンはロシア軍の関与が囁かれており、タジキスタン領内でのマスード派の行動の自由を奪うことでタリバーンを間接的に支援してもいる。アメリカとロシアとアラブを足せば世界の力の半分以上だ。
マスードは、自分をとりまくこの状況を、どんな思いで眺めているのだろう。自分の絶望的な戦いをどう考えているのだろう。世界の力の半分以上に支えられた軍と戦って、一時的にしろ勝利したときには、どんな気持ちがしたのだろう。
これから彼がどんな運命をたどるにしろ、その人生が20世紀の伝説になることは疑いえない。
今日は人生でベスト50に入ろうかというくらい不愉快なことがあったのだが、それはともかく、津原やすみの「夢の中のダンス」を読んだ。
この話にも1999年を待つ人が出てくる。もしかして「五月日記」が今年に当たるのだろうか。確かめてみたい。
君はウテナカーを見たか?
A'Xの記事を見たら、映画のウテナが楽しみすぎて怖くなってきた。楽しみにするのさえ一筋縄ではいかないとは、さすがは光の速さで歩くアニメだ。
北海道ではすでに劇場公開されているはずなので、探せば評が見つかるのだろう。もちろんウテナに評など無意味なので探さないが。
1999年を代表する勇気はジブリの山田くんで決まりかと思っていたら、ここにきて強力なライバルが現れた。SOTECのe-oneだ。
子供が見たら夜うなされそうな、あのグロテスクなまでにダサいデザインは一体なんなのだろう。どう考えても「勇気アリ」以外の何者でもない。
AppleのiBookが勇気アリとの説が一部で囁かれているが、e-oneを見たあとではプチブル的臆病さの塊にしか見えなくなる。iBookを選ぶことはなにひとつ表明しないことに等しいが、e-oneを選ぶことはトロツキズムと悪魔崇拝と幼児性愛をまとめて表明するがごとき振る舞いだ。
報道によれば、タリバーンはマスード派の反攻を受け、攻勢開始前の線まで押し戻されたという。Bagram空軍基地も奪回された模様だ。
おそらくマスード派は、奪われた地域を「奪回できた」のではなく「奪回せざるをえなかった」。つまり反攻は敵の主導権のもとに行われた、いわば強いられたものだ。だとすると今のマスード派の戦線はきわめて危険な状態にある。もしタリバーンにもう一押しする力があれば、マスード派を窮地に追い込めるだろう。
しかし私のカンでは、タリバーンの作戦構想はマスード派に見抜かれているような気がするので、たぶん二の矢はない。タリバーンがこんなヘマをやっているようでは、マスード派は来年どころか21世紀まで生き延びるかもしれない。
現在の日本でもっとも禁じられている種類の言説といえば、小児性愛についてのものだと思う。
「なぜ人を殺してはいけないのか」というセリフは気の利いた小学生なら挨拶がわりに言えることだが、「なぜ小児性愛はいけないのか」という問いをためらいなく発するには、非常な鈍感さと勇気と自己顕示欲、もしくは多少の知性が必要とされるだろう。
もちろん私は日和見主義を信奉するプチブル的人間なので、こんな問いを発したりはしない。しかしプチブル的保身と無縁の勇気ある読者は、ぜひこの問いを試されたい。中世ヨーロッパにおける無神論のごとき絶対悪の観念を、人類史上もっとも非宗教的な社会であるはずの現代日本に見出せるかもしれない。
素人がアナログ回路に手を出すものではないらしい。
私は今、フォトダイオードの光電流を5kHz8ビットでパソコンに取り込む装置を作っている。8ビットと幅が狭いので対数で取り込もうと思い、ログアンプのIC(温度補償が難しいので素人はディスクリートでは絶対に組めない)を探したところ、ほかの石が見つからないので仕方なくTIのTL441を買ったら、TIのサイトにデータシートがなかった。TI死すべし。
OKAMAの「スクール」について考えをめぐらせている。
「主人公が次から次へとギャルをゲット」という、エロゲーを皮肉ったようなストーリーを大真面目に展開している。これはもしかして、ギャル作品の脱構築でポモ(ポストモダン)なのだろうか(意味不明)。
もしポモだとするとなにも言えなくなってしまうが、とりあえずギャル理論に従って分析してみると、感情移入システムに問題がある。主人公と男性読者(掲載誌の性質上、読者には男性を仮定する)の心理的距離が、第二層にしては近すぎ、第一層にしては遠すぎる。どのへんが近すぎるのかといえば主人公の性別(男)と年齢(10代後半)と境遇(現代の中流家庭)であり、どのへんが遠すぎるのかといえば主人公がカヲル君のように心も顔もいい奴ということである。
第一層は論外として(この主人公に第一層の自己同一化ができる人には会いたくない)、第二層で読めば、かなりちゃんとしたギャル作品として読める。感情移入システムの問題は、第二層に必要な心理的距離を確保しそこなっているのが原因と考えていい。
そこで改良案としては、
・主人公を女性にする
・SF・超自然なマクガフィンによって主人公に特別な背景を与える(老人がなぜか若返った・元は女性、など)
・ギャルを全員男性にする
などが考えられる。このなかでもっとも容易に実行できるのは2番目の案だが、私的には当然1番目を推す。
失敗の原因、すなわち心理的距離感を見誤った原因は、「作者が女性(絵柄等からの推測)であるために男性読者よりも大きな心理的距離を男性キャラに感じること」とすると落ち着きはいいが、どうも嘘くさい。やはりポモなのだと考えることにしよう。
ログアンプが見つからない。HarrisのICL8048が。
というわけでトラ技を見たら、タイミングよくログアンプが記事に出ていた。しかしこの石(BBのLOG100JP)も広告等には見当たらない。うーむ。取り扱い店のことも記事に書いとけである。
そして私はメルヘンメイズに再会したのだった。
この「そして」の前には長い物語があり、また読者諸氏の大半が「メルヘンメイズ」とはなにかを知らないのだろうが、それを説明することは諸々の事情から憚られる。悪しからず。
ただ、メルヘンメイズをご存じの読者諸氏のために言っておくと、今なら比較的容易にメルヘンメイズにたどりつくことができる。キーワードはMarchen
Mazeだ。
大塚ぽてとの「ハート型時限爆弾」を読んでいる。
強い。世界最強かもしれない。それも、強まるまでもなく素のまま強い。これは「天然」のなせる技なのだろうか。
アメリカ東海岸時間で12時57分現在、ダウ・ジョーンズ平均株価は下落中。終値は今日まで4日連続で下げている。NASDAQも失速中。当たれ当たれ、などと不謹慎なことを念じてみる。
そういえば昔、1990年の東京を放射能テロが狙う、という話を考えたことがある。炸薬にプルトニウムを混ぜた砲弾(時限信管つき)を用意し、都心の数カ所に砲を隠して、銀座などの地価の高い一帯に照準を合わせる、という筋書きである。
砲弾が高度数十メートルで炸裂することにより、周囲一帯がプルトニウムで汚染されて、異常に高騰していた地価が暴落する。1990年における突然の地価暴落は、日本経済を雪崩式に破壊し、世界経済に深刻な影響を及ぼしただろう。千人やそこらを無差別に殺されても、国としての正味の損害はさしたることもないが、これなら国家レベルでの大損害を与えられる。テロリストの要求を飲むという、アメリカ・ルールでは禁じ手のはずの行動を取らせるだけの圧力たりえたはずだ。
が、この筋書きも、バブルのツケをぼちぼちと払っている現在の日本を見てしまった今となっては、あまり迫力がない。戦隊物の悪役が幼稚園のバスを狙うのは、それが現実には決して起こり得ないことだからだ。
季節柄、新聞には原爆議論が載っている。
我々を見つめる目であったあの帝国はすでになく、我々を「見る」ような無礼者はもう世界のどこにもいない。また我々は、歴史修正主義者たちの馬鹿騒ぎを目の当たりにしたはずだ。
もうそろそろ、正当化ゲームはやめるべき時ではないかと思う。現在の我々は、どんな物事でも正当化しうることを知っている。ただ、その難しさの程度に大小があるにすぎない。
一般的にいって、戦争の勝利者は、自分の行動をたやすく正当化できる。もしナチスドイツが勝利していたなら、ユダヤ人問題の「最終解決」は今に至るまで正当化され、支持されているだろう。少なくとも、日本への戦略爆撃問題(私的には原爆問題よりもこちらのほうがはるかに興味深い)と同様、あまり問題にはされないはずだ。
正当化ゲームにはそれなりの面白さがある。原爆問題で正当化ゲームを楽しむことが悪いとも思わない。善悪の問題ではなく、格好いいか悪いかの問題として、もう今となってはそれは格好悪いと私は思う。
タリバーンが制圧したというBagram空軍基地はマスード派の補給路だという。アフガニスタン北西部の陥落以来、マスード派はいったいどうやって武器弾薬を補給しているのかと不思議だったが、空輸とは思わなかった。
もし太い補給路がほかにないとすると、特に派手な展開がなくてもマスード派は今年中に投降するかもしれない。
アメリカ東海岸時間で9時58分現在、ダウ・ジョーンズ平均株価は上昇中である。あと一月くらい様子を見ないことにはわからないが、どうやら私の7月危機説は外れたらしい。
例の予言は、売りに転じる材料としては悪くないと思うのだが、やはりあちらでは人気がないのだろうか。
報道によれば、マスード派の指揮官2人・兵900人が寝返ったという。
これがタリバーンの用意した仕掛けというわけだろうか。タイミングといい規模といい、ちぐはぐな印象が拭えない。
昨日の日記で、きのした黎の「平成にんふらばぁ」は男性向けショタよりも理解しがたいと書いた。しかしその後の検討で、理解しがたいのはこの作品の感情移入システムの問題によるもので、小児性愛自体が理解を絶するためではない、という結論が出た。
「平成にんふらばぁ」は感情移入システムに第一層の自己同一化を採用している。子供に性的虐待を試みる主人公の行動を肯定できない読者には、「平成にんふらばぁ」の感情移入システムは機能しない。一方、男性向けショタは第二層だ。行動の肯定にまつわる問題は回避されている。この差が理解の差として現れた、というのが現在の結論である。
ここで思い出したのが、新月ギャルの会(通称ギャ会)総帥・魔氏の書いたギャル小説「可愛くて、大切な。」(『月猫通り』
2085 (1999) 211-246)に対する某氏の感想、「小説アリスに載ってそう」である。この感想を述べた某氏は、シチュエーション(血のつながらない妹(複数)と同居)やストーリーの類似だけでなく、感情移入システムに共通するものを感じたのではあるまいか。
この一件を通じて私は、ギャル作品における第二層の優位をますます確信するに至った。今後とも、第二層の優位を実証的に裏付ける努力を続けたい。